小さな恋の物語

青空 吹

第1話 ある曇りの日

 カップの中に映る自分自身に視線を落とした。

 冴えない地味な顔が映っている。

 隣のテーブルでは、艶やかなドレスに煌めく装飾品に身を包んだ一番候補と言われているオリビア・オーティス侯爵令嬢が楽しそうに、取り巻き達と談笑している。

 来年の春、ここに集まる女性達の中から王太子妃が選ばれる。

 だから、それまでに王太子殿下に見初められなければならない。

 お互いが皆、ライバルなのだ。

 でも、私は。

 私は王太子妃になるつもりはない。

 なれるはずもない、のだけれど。


 私は、ナディア・ミラベル。

 レノー・ミラベル子爵の娘として、ここに来た。

 私の母は、ミラベル家のメイドとして働いていた。

 そこで、子爵に言い寄られ関係を持ってしまったという、どこにでもある話だ。

 そういう生い立ちから、子供の頃からずっと、子爵夫人とその息子達に虐められてきた。

 掃除した廊下をわざと汚い靴で歩いて、綺麗になっていなかったと言いがかりをつけられたり、洗濯物をわざと汚して、きちんと洗濯しろと罵倒されたり、謝っても許してもらえない時は食事を抜かれたり、折檻されたりした。

 どんな些細なことでも虐めのネタにされ、本当に散々な日々だった。

 けれど、ある日突然に子爵に認知され、マナーや教養を教えられるようになった。

 この国の王族の結婚は、国民の模範的夫婦であれ、という風習から離婚が認められていない。

 その為、王子、王女が自分の相手を探す為に、幾人もの候補の人材を集めて、その中から自分の伴侶を選ぶことが習わしとなっている。

 子爵はそこに私を加えようと思いついたのだった。

 でも、候補は名だたる良家のお嬢様方だ。

 その中で、私の低賤で貧小な私のような者が選ばれるはずがない。

 それなのに、躍起になって、もう自分が国祖父になったつもりで、昨日も手紙を送ってきていた。

 いつも内容は同じ。

 王太子殿下との関係はどうか、という。


 この後宮に来てから、3ヶ月が経つけれど、私には友と呼べる人はいない。

 けれど、それも仕方のないことだと思っている。

 彼女達は、ここで自分にとってメリットのある人間関係を作ろうとするからだ。

 結局のところ、王太子妃に選ばれるのは1人なのだから、その繋がりを重要視するのは当然だろう。

 でも私は、母はメイドで、半分だけ子爵の血を持つ半端者。

 誰も私を必要としていない。

 カップをソーサーに戻し、フッと小さく息を吐いて、席を立った。

 もうお茶会は半ば、私が消えても誰も気づかない。


 庭園を抜けて、住居として当てがわれている奥の間へ進むところで、男性が1人立っていた。

 会釈を私によこした。

 ということは、私を待っていたということだろうか。


「お疲れ様です、ナディア様。どうぞ、お部屋までお送り致します」


 どうぞと言われて、断る言葉も見つからず、そのまま付いて歩く。

 でも、部屋までと言われても、その距離は庭園からそれ程離れていない。

 これまでだって1人でなんども通っているのだから。

 少し前を歩く、少し長めの銀髪に灰色の瞳の長身男性、彼を見たことがある。

 王太子殿下の護衛の1人だ。

 殿下の家臣や側近となれば、皆、良家の子息だ。

 妃候補として集められた女性達の中には、そんな彼らと恋に落ち、結婚に至るというシンデレラストーリーもあると聞く。

 でも私は身分、見た目から考えても、それはまずない。

 ならば、彼は私にどんな用があるというのだろう。

 時折、こちらを気遣う彼と目が合った。

 不躾に見過ぎたと思い、目線を足元へ移す。


「先日、貴方の侍女から話を聞きました。ナディア様は刺繡がとてもお上手だそうですね」


 あぁ、そういうことか。

 彼の一言から、彼の目的は侍女ルアナだと思った。

 ルアナは唯一、ミラベル家から私について来てくれた、まだ16歳になったばかりの年若く可愛らしい女性で、誰もが知っている豪商、バーレー商会の娘なのだ。

 一般的に、階級社会に生きる貴族が、平民と付き合うことなどあり得ないだろうが、相手があのバーレー商会の娘となれば話は別だろう。

 心の内で思索しながらも、表面上は普通を装う。


「そんなことはありません。たしなみ程度ですので」

「小さな花をモチーフにした刺繡が多く、素晴らしい出来栄えだと聞きました」


 知っているなら聞かなくても、そう思ったけれど、これは、いわゆる雑談なのだろう。


「バラやユリといった大きな花は刺さないのですか」


 ジリッと胸の中に苦い思いが広がった。

 何気ない言葉。

 だけど、私にとっては、とても嫌な言葉だ。

 何故、そんなことを言われなければいけないのだろう。

 私は、例えるなら、小さな花だ。

 それも、暗い森の中で誰に見られることもなくひっそりと咲くような小さな花。

 大輪の花は、後宮の庭園で沢山咲いている。

 こんな私が、小さくても花に例えていい存在ではないだろうけど、でも、突然訪れた、このささやかな今の時間を、小さな花に例えて刺繡に込めて何がいけないのだろう。

 ここを去った後の自分の末路を思えば、もう、こんな穏やかな時間を過ごすことはないだろうから。


「ナディア様?」


 物思いに沈み過ぎて、立ち止まっていた。

 名を呼ばれ、ハッと顔を上げると彼が私を見下ろしていた。

 夕日に照らされ影になった顔に、灰色の瞳だけが冴え冴えと光を帯びて私を見ていた。

『殴られるっ』

 瞬間そう思い、グッと目を瞑り、歯を食いしばった。

 衝撃の代わりに、彼の声が近くで聞こえた。


「色々とお喋りが過ぎました。申し訳ございません」


 目を開けると、彼が目の前で頭を下げていた。


「い、いえ、私の方こそ」

「さぁ、行きましょう」


 ゆっくりと歩みを進める彼に、ドキドキと胸を打つ鼓動を落ち着かせながら、ついて歩いた。

 部屋にはすぐについた。


「送って頂き、ありがとうございます。あの、」


 お礼を言って相手の名を言おうとしたけれど、名前を知らなかった。

 初めに名のらなかったということは、この方の名前をこちらが知っていて当然ということなのだろうか。

 他の候補者達は、皆、知っているのか、それすらも分からず口ごもってしまった。


「お恥ずかしながら、名のりそびれておりました。私は、アルバン・ケストナーです」


 優美な所作でお辞儀をした彼を驚きの眼で見た。

 ケストナーといえば、侯爵家の中でも名門と呼ばれる名家だ。

 そんな格式高い人が私にお辞儀をするなんて、あってはならないことだ。


「ケストナー侯爵様とは知らず、大変なご無礼を致しました。お許しくださいませ」


 深く頭を下げた。


「いえ、今は殿下の護衛の任についている者。出来れば、家名ではなく、名前で呼んで下さい」

「・・・は、い・・・」


 返事はしたものの、名前で呼ぶなど恐れ多くて出来そうにない。


「さぁ、顔を上げて下さい」


 そう言われ、おずおずと顔を上げた。

 でも、気分を悪くされ、さぞ怒っておられるだろうと思うと、直視できない。

 と、部屋のドアの開く音がした。


「それでは、また。ナディア様」


 耳に響く優しい声音に顔を上げると、目を細め優しい笑みを浮かべた侯爵と目が合った。

 彼はすぐに踵を返し、もと来た道を颯爽と戻っていった。

 その後ろ姿を、呆然と見送った。

『怒って、おられない?』

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