第150話 絶望の淵。

 ボクらが廊下を出た瞬間の違和感と言えば、凄まじかった。

 先ほどまで研究室と思しきこの建物の廊下は、研究職の白衣を着た人や看護師などがたくさん行き交っていた。

 しかし、ボクらが外に顔を覗かした時には、全くと言っていいほど誰もいなかったのである。


「ねえねえ、優一……。今までもこんな感じの場所だったの?」

「いや、もっと人がいた……。明らかに怪しい……」

「てことは、きっと、罠だろうねぇ……」

「まあ、十中八九そうだろうな……」

「で、どうするの、お兄ちゃん?」

「罠だとしても、ちぃちゃんが攫われたのは間違いのない事実。彼女を助けることを最優先で考えようと思ってるよ」

「おお~、さすが、優一だね。ついに千尋に対して、本気で愛そうと思うようになったんだ……」


 ボクは無言でコクリと頷く。

 麻友には嫉妬されてしまうかもしれないけれど、千尋さんのことが心の奥底から好きだ。

 その気持ちは嘘ではないし、自分にも正直になりたい。


「そっかぁ~。いいなぁ……。あたしの方が先に優一とは、付き合いを始めたのになぁ……」

「まあ、幼馴染ってやつだからな」

「あ! そうやって否定する……。あ、でもさぁ、今の協定はそのまま残るんだよね?」


 協定というのは、ボクの精力の分配に関する協定のことだろう。

 彼女は子どものころから、ボクの精力を得ることで、他の人間から搾取することなく、生きているのである。


「ま、まあ、それは残るんじゃないかな……。ちぃちゃんがダメって言わなければ……」

「えー、それじゃあ心許ないよ! 優一がビシッと認めてくれないとね。きっと千尋は我が侭でありながらも、アンタに対しては甘えるだろうから、この戦いが終わった後は離してくれないかもね」

「………え。それって搾り取られるってこと?」

「まあ、その前にアンタが堕としにかかるんだろうけどさ……」


 人をケモノのように言わないで欲しい……。

 あくまでも合意の上でのエッチなんだから!


「それよりも、麻友ちゃんもお兄ちゃんもどうするんですか? 明らかに千尋お姉さまの匂いに関しては、この廊下の先に続いているようですね」

「やっぱり匂いで分かるの?」


 麻友が少しゲンナリとした表情で、美優に尋ねると、


「当然です! お姉さまの匂いは凄いんです!」

「絶対に、本人の前では言っちゃダメよ……。間違いなく、凹んじゃうだろうから……」

「えー、そうですか? いい匂いだからいいと思うんですけど……」

「でも、言い方が問題だからね……」

「じゃあ、美優、こっちに行けばいいんだね?」

「あ、何なら、あたしが先導するよ、お兄ちゃん!」

「気をつけろよ」

「任せて!」


 と、スカートの裾から、ハンドガンを一丁取り出す。

 て、何でこの子、こんなもの持ってるの!?

 そして、そのまま意気揚々と美優はボクらを案内してくれた。

 気をつけろといったものの、途中に変わった様子はなく、誰とも出会うことはなかった。

 きっと各区域に設置された防犯カメラで追跡されているのだから、最終地点に向かってくれれば良いのだろう。


「この扉の中だよ」


 美優は犬のようにクンクンと扉を匂う。

 その様子はあまりよろしいものとは言えないようなものになっている。

 それにしても、厳重なカギに閉ざされている研究室ラボのような雰囲気だ。

 電子画面上には「LOCK」と書かれている。

 が、ピピッ! と音がして、「OPEN」の表記に変更される。

 と、同時にゴゴン! と鈍い解錠音が響き渡り、横開きのドアがゆっくりと開く。

 ボクの視界に飛び込んできたものに、ボクは戦慄が走り、同時に怒りを覚える。


「お、お姉さま………」

「ち、千尋……」

「——————!?」


 ボクはきっと怒り震えていたのだろう。

 何も言えなかった。と、同時に両手を握りしめて、怒りを噛み殺していたのだと思う。

 部屋の中央部の台座には、一本の柱に拘束された千尋さんの姿があった。

 連れ去られたときの姿のまま。一糸まとわぬ姿で………。

 千尋さんの絹のような白い肌が惜しげもなくさらされている。

 それに対する怒りなのだろうか……。


「どうしたのです? 彼女を助けないのですか?」

「あれ? 一馬じゃん!」

「どうして、あんたがここにいるんだ? それに、俺の方が年上なんだから、敬えよ!」

「いや、普通に兄妹で敬うとかないない……。それにあたしのほうが学力も高いし」


 なにやら、軽い兄妹ケンカが始まろうとしている。

 まあ、もともと、ここの二人は仲が良くなかったしな……。


「てかさ、あんた、千代さんの方に付いたの?」

「そうだ。未来がある方を俺は選ぶ」

「本当に未来があんの?」

「麻友にはそれが見えないのか? この素晴らしい施設! そして、素晴らしい研究者たち……。そして、素晴らしい材料が先ほど手に入った」


 材料?

 訊いていて、何だか、嗚咽を伴う怒りを覚えるのは、こいつの喋り方の問題なのか、それとも、内容の問題なのか……。


「この女のことだよ!」


 そう言うと、千尋さんの方に指をさす。

 千尋さんのことを「材料」だと!?


「この女の血液には、魔力量が多く、それを体内に取り込むことによって、忌むべき存在である魔族になれるのだ! そして、魔力強化、肉体強化、さらには精神強化とこの上なく最強の個体を生み出すことができる!」

「あんたねぇ……。千尋の血を勝手にそういうのに、使おうっていうの?」

「ああ、そうだよ。麻友にはさすがに分からないだろうな。この素晴らしい血液を……。そして、絶望に追いやられた彼女はひとつの提案に乗ってくれたよ」

「提案?」


 ボクが問うと、一馬はニヤニヤとボクの方を見て、


「優一くん……。君と別れて、ボクの女になることを選んだよ」

「—————!?」


 この男は何を言っているんだ!?

 そもそも千尋さんが裏切るだと? いや、彼女はボクのことを好きだったんじゃないのか!?

 だから、ボクに助けてほしいと願ってきたのではないのか!?

 それをどうして裏切るかのように、この男の女になるだなんて……。

 ボクは頭の中で理解できずに結論を見いだせずにいた。

 すると、一馬は拘束している千尋さんに近づき、そっと抱き寄せるようにする。

 ぷるんっと抱き寄せた手が胸にかかると、彼女は「んふっ♡」と声を出して、目を開ける。

 その目は絶望に満ちて、ハイライトの消えた、瘴気を失った目だった。


「ほら、元カレが見てくれているぞ?」

「…………………」


 彼女の瞳がボクの方を見てくる。が、ニチャア……と口元が微笑むと、そのまま、一馬と唇を合わせる。

 舌を絡めるキス。

 クチュクチュと唾液が絡むキスをしている。

 陶酔したような微笑みを浮かべながら……。

 ボクの精神的な何かがブチブチと音を立てて切れる。

 ダメだ……。自分の彼女が自ら進んであのようなことをするなんて……!

 耐えられなかった。

 刹那。ボクは地面を蹴った——————!!

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