第13話 逮捕譚(両性愛者と法律解釈の妙について)

 三角関係というのは、一般的に対立の構図である。

 1人の恋人を取り合って、2人のライバルが対立する。

 異性愛者の場合、2人のライバルは同性で、1人の異性を取り合う。

 LGBTの三角関係は、必ずしも対立の構図になるわけじゃないし、異性を取り合うわけでもない。とりわけ、バイセクシャル……沖田のようなポリガミーバイの場合は、複雑怪奇な恋愛模様になる。


 本家・花束の会から追放された後、トランスグループの原弥生が、沖田たちバイグループへの移籍を希望した話は、既に紹介したと思う。

 バイセクグループと言っても、花束の会在籍時から、全く熱心でない幽霊会員たちと、沖田たち実務担当者と、くっきり別れていたグループだった。原弥生は、実質、沖田たちカルテット交際の遊び友達になったようなものだった。かつての花束の会トランスグループは結構な高齢化が進んでいた。沖田はともかく、カルテットの他の三人は、せいぜいがアラサーだ。原弥生は、共通する話題が豊富というだけで、嬉しがっていた。

 原弥生の本業は、バーテンダーという夜の仕事である。

 しかも、仙台在住だ。石巻住まいの沖田たちに直接会いに来るのには、時間と金と労力がいる。一緒に遊ぶにしても、電話でダベるだけにしても、時間帯がなかなか合わない。原弥生は、石巻に連絡をくれるたび、この生活サイクルの違いについて、恐縮していた。4人も5人も同じこと、原弥生抜きでも、時間を合せるのは大変だった……と沖田は鷹揚に慰めた。

 写真屋の沖田・マサキ、そして看護師管理職の瀬川は、比較的時間に融通が利く。高校教師で昼間の拘束時間が決まっている杉田だけが、そうはいかない。杉田のために、他の3人が時間を合せる、というのが、今までの沖田たちのデートパターンだった。原弥生の場合は、仕事の時間帯が、杉田とは全くの逆である。昼はたいてい睡眠中だ。杉田と時間を過ごそうとすると、原弥生と遊ぶのが難しくなる。原弥生をかまってやろうとすれば、杉田との交流を犠牲にすることになる。


 沖田は、瀬川姉弟を誘って、週に一度、仙台に酒を飲みに行くことにした。お目当てはもちろん、原弥生のバーで、週末等、翌日授業がないときには、杉田も連れていった。

 東北一の繁華街、仙台国分町の裏通り、稲荷小路の雑居ビル二階で、原弥生のバーはこじんまりと営業をしている。カウンターだけのお店ではあるけれど、鰻の寝床というのか、とにかく細長い店構えのせいで、席だけはある。原弥生を入れて3人のバーテンダーが、時には1人で、時には3人同時に出勤して、店を切り回しているという。腰までの背もたれしかないスツールが並んでいる外には、本当にないもない。コンクリート打ちっぱなしの殺風景な内装のバーなのだった。場所がら、そして、このバーのそっけなさから見当がつくと思うけれど、客のほとんどは、他の居酒屋等で出来上がってきた客だ。シメのラーメンを食べたい酔客のために、豚骨がうまい店を案内はするが、JRや仙台市地下鉄の終電時間は教えないのだ、と原弥生は笑っていった。

 各種リキュールから日本酒、ワインまで、カクテルと、そのベースになる酒は豊富に置いてあるが、ツマミのたぐいはほとんどない。食事をしてから来なよ、とバーテンター本人からアドバイスをもらい、沖田たちは国分町でのB級グルメ巡りを楽しんだ。 

 バーテンダーという仕事がらか、原弥生の座持ちはうまかった。普段は当然女装で店に出ているけれど、月にだいたい2度、満月の日と新月の日に合わせて「男装」するイベントデーを設けているという。「男装目当てで、その日だけくる女性客もいる」と聞いて、さもありなん、と沖田は納得したりもした。

 ほろ酔いしている時間は、楽しかった。

 気がつくと、仙石線の終電に間に合わないことが、多々あった。最初は仙台駅近くのビジネスホテルやカプセルホテルを利用した。この手の夜明かしといえば、ネットカフェのナイトパックだったマサキは「豪遊だ」と浮かれていた。けれど、杉田は逆に「壁が薄くて落ち着かない」と不満たらたらだった。「せっかく4人で泊まるなら、今まで泊まったことのない場所で……」という瀬川の強引で怪しげな提案で、一度ラブホテルに泊まった。3人以上利用可、なんていうホテルもちゃんとあり「なんて悪い世の中だ」と沖田はコメカミを揉んだ。「アンタがそういうか」と瀬川は大阪の漫才師ばりにツッコミを入れてくれた。沖田はラブホテルの雰囲気を楽しんだあと、ただ寝るだけのつもりだった。大抵は、ホテルにたどりつくまで、イイ感じに酔っ払っていたからだ。けれど、瀬川が最初のチョイスにSMプレイもできますよ……というルームを選んで、目論見は外れた。拘束椅子だのハリツケ台だのを見て、杉田が興奮してしまったのだ。かくして、マゾ男2人、朝までノリノリの杉田女王様とプレイをすることになってしまったのである。味を覚えたのか、それから、仙台に飲みにくるたび、沖田たちはラブホテルを利用することになった。沖田がスキンヘッドというだけでも目立つのに、毎度4人でSMルームを利用するものだから、フロントスタッフにすっかり顔を覚えられてしまった……。


 性愛的な意味で・恋愛的な意味で、原弥生が好き……と言い切ったのは、マサキが最初だった。

 思えば初対面のときから、マサキはそんなことを言っていた。ただし、その初対面の時、マサキは原弥生を完全に女性と間違えていたのだけど。トランスグループ所属と知って、一度はがっかりしたはずのマサキは、いつしか、仙台に行くたびに、原弥生を口説くようになっていた。

 マサキはもともと、ノンケの異性愛者だった。

 まあ、性的嗜好については、かなりいい加減でダラしないタイプだったけれど。

 姉に「可愛ければ、チンチンついててもいいの?」とからかわれると、マサキは開き直って言った。「その通り。かわいいは正義だ」

 我が弟ながら、ドヤ顔を正視できなかった……と瀬川は、弟をからかった翌日、ため息ついて沖田に愚痴ったものだ。「女性」を口説く時にはマメなマサキは、朝晩、原弥生が電話してきてもいいと言ってくれた時間を狙って、律儀に欠かさず連絡を入れていた。そんなに毎日電話をして、よくもまあ話題が尽きないものだ、と沖田は感心した。仕事のことを話すにせよ、趣味のことを語るにせよ、情報はいつか枯渇するものだ。

 仙台への、いつものバー通いの翌日、早速長電話するマサキに、「女性を口説くコツを教えてくれ」と沖田は問うてみた。まあ、沖田には既にステディが2人もいるわけで、必要ないと言えば、必要ない。ただ、話のネタに聞いておこうと思ったのだ。トーク術の自慢話か、はたまた長々とハウツーをレクチャーするのかなと思い気や、マサキの答えはシンプルだった。

「相手が聞きたい話を、すればいいだけの話ッスよ」

「それはそうだろうけど」なんだか、答えになってない。「具体的には、どーいう?」

「シノ姉ちゃんの話っス」

 マサキが原弥生のアプローチしているのと同じくらい熱心に、原弥生が杉田のことを気にかけているという事実を、沖田はこのとき初めて知った。

「ひょっとして、原くんもマゾなのか?」

 カルテットには既にマゾ男が2人もいるのだ。これ以上、被虐趣味のヘンタイ男なんぞ、いるか?

「弥生ちゃんは、男じゃなくって、シーメールですよ」

「弥生ちゃんって、いつの間にそんな呼び方になった?」

「いや、トキオ兄ちゃん。ツッコムところ、そこじゃないでしょ」

 確かに原弥生は生粋の「男性」とは言い難い。しばらく前から、女性ホルモンを使っていて、さらに豊胸手術もやった、と言っていたっけ。

「それにですよ、トキオ兄ちゃん。マゾが増えるのに、なんか問題でもあるンスか? シノ姉ちゃん、大喜びだと思いますけど」

「いや、まあなあ。そんなふうに正論で返されると、返答に窮すけど」

 実際には、原弥生はマゾでも何でもなく、杉田が高校教師であるというところに、惹かれているらしい。

「うーん。ゲイにも、警察官だの自衛官だのが好きっていう、職業萌えタイプがいるから、分からないでもないけど……学生時代に、何かあったのかな。先生と交際したことがあるとか、下駄箱にラブレターを入れました、とか」

「さあ。でも、シノ姉ちゃんの、いかにも高校教師っぽいところが好きって、言ってたっす。弥生ちゃんのバーにも、学校のセンセイをやってるっていう人、ちらほら来たりするけど、あんまり教師っぽくない人ばっかりで、ガッカリって言ってたっス。ステレオタイプな恰好をしてなけりゃ、せっかく教職についたメリット、ないだろうって」

「いや。まあ、うん。独特な見方だな」

「ツッコミが甘いっス」

 マサキの言う……いや原弥生の言う「女教師っぽさ」というのは、野暮ったいスーツを着て、黒のパンストをはいて、キツネ型の眼鏡をつける……という三点セットが必須らしい。

「マニア?」

「たぶん。で……その、エッチな自覚はないけれど、じゅうぶんエッチな女教師に、叱ったり教えてもらったりするっていうシチュエーションに憧れるとか」

「ふーん。シノ本人は、嫌がるような気がするなあ。自分の仕事には、プライドあるタイプだし、第一生真面目だし」

 下世話な話で一通り盛り上がったところで、肝心な点をついてみる。

「原くん、ひょっとして、単なる遊び友達にとどまらず、カルテット交際に混ざりたい人、なのかな?」

「さあ。シノ姉ちゃんとだけなら、恋人同士になりたいって思ってるかも」

「シノのほうは、どうかな?」

 バイセクシャルでもビアンより……と言っている杉田なら、男の子はムリでも、シーメールはイケるんじゃなかろうか。

「シノ姉ちゃんの情報を弥生ちゃんに教えるときに、聞きましたよ、それ。セックスはできても、恋人としてつきあえるかどうかは、別って言ってたなあ」

「なんだよ、それ」

「でも、そう言ってたっす」

「自分から見れば、原くんはじゅうぶんに女の子に見えるけど。生粋の女子に比べれば、股間にニョキニョキ生えてはいるけれど、それでも、じゅうぶん女の子だ。シノは、そもでも拒否反応を起こすわけか。ても、シーメールまで嫌いっていうのなら、どんな男なら、いいんだろ。あ。スキンヘッドか。シノ、自分となら寝ることのできる女だもんな……」

「なに、一人合点してンすか」

「ガールフレンドの……恋人の深淵を覗こうとしてるんだ」

 ビアンでなくバイセクシャルと言い張るなら、好きな男のタイプがあると思うのだ。

「……シノ姉ちゃん、多分、今は、ロリショタ好きっス」

「根拠は?」

 現状、杉田の相手をしている唯一の男だれど、沖田自身は童顔でも何でもない。

「いや……トキオ兄ちゃんのことじゃなくって、オレのことッス」


 牡蠣が解禁になり、沖田は杉田を万石浦のオイスターバーに誘った。

 瀬川はあいにくと病院勤務日。そしてマサキは生牡蠣に当たったことがあり、身震いして沖田のお誘いを断ったのである。くだんの店は、どことなく、苺栽培をしているビニールハウスを思わせる牡蠣小屋で、道路を挟んで石巻湾漁協の牡蠣剝き場がある。鮮度は折紙付き、もちろん味も折紙付き。店内どころか、隣のファミリーマートで買物をしていても、牡蠣の匂いがプーンと漂ってくる。「でも、デートで来るなら、もう少し雰囲気が欲しいね」と杉田はニコニコして言った。

 海のない県出身の杉田に、海産物をたらふく楽しんでもらう。

 沖田が2人っきりでも杉田を連れてきたのは、これが第一の理由だけれど、他にも、ちょっと気になる質問がしたかった。

「シノ。このスキンヘッド、かわいいと思う?」

「なに、トキオくん。藪から棒に」

「シノは、可愛い男の子が好きだって、マサキに聞いたからさ。自分、可愛くないだろ。シノ、タエコにつきあって、無理して自分の彼氏でいてくれてるのかなって」

 それとも、最初は蛸入道でもOKだったけれど、交際し出してから、宗旨替えしたとか?

「何言ってんの。タエちゃん抜きでも、私、トキオくんのこと、好きよ」

「おおっ」

「それに、初めて新宿2丁目のゲイバーで会ったときから、かわいいって思ってたわよ」

「そんな。気を使わなくても、いいよ」

「つかってない」

「初めて会ったときって、ペンギンに騙されて、醜態を晒した、あのときだよね。それとも、トイレにパンツとか届けてもらったとき?」

「うん。かわいかった」

「シノの、かわいいの定義が分からんよ」

「トキオくん。ペンギンさんにイジメられて、照れていたのが、可愛かったのよ」

「ほほう」

 衆人環視でオモチャにされていたとき、沖田が真正マゾなら、大喜びしていただろう。逆に、マゾでないなら、怒ったり泣いたりしていたはずだ。けれど、沖田はどちらでもなかった。恥ずかしがって、やたら、照れていたのだ。

「そうだったかな……」

「そうなのよ」

 これでは、沖田がマゾか非マゾか分からない。

 実際に、杉田が女王様になって、沖田を鞭打つまで、判然としない。

「で。私は、そういう状態のトキオくんを、シュレーディンガーのマゾ、と名づけることにしたの」

「トホホ、だね。今ごろ、物理学の泰斗も、草葉の陰で泣いてるよ」

「でも、実際にSMプレイしてみて、分かったかな。トキオくんが、どっちでもないって」

「そりゃ、まあ、バイセクシャルだから」

「ううん。なんか、ペットっぽいって思ったの」

 自覚のないまま、折檻されようが何をされようが、女王様に依存する、その懐き方が、ペットに他ならない、と杉田は言った。

「一度、その手のこと、考えたことがあるよ。自分が、ゲイか、バイセクシャルか、はたまた重度マゾのノンケに過ぎないのか……」

「それは、トキオくんの心の中の問題でしょ。いわば、トキオくん自身の問題。そうじゃなくて、私にとってのトキオくんの、話」

「うん」

「ついでに言えば、自分が可愛くないって思い悩んでいるトキオくんも、可愛いわよ」

「ははは。今日は、褒められてばかりだな」

「トキオくんが話したいのは、自分のスキンヘッドのことじゃなく、マサキと私の話だったんじゃないの」

「まあね。下心なく、牡蠣食べ放題をチャレンジさせたかったって言えば、ウソになるかな。久しぶりに2人っきりでの食事になったから、聞いてみたいことを、聞いてみた」

「私も、言いたいことを、ぜんぶ言ってみたい。でも、もう少し待って。もう少しだけ」

「分かってるよ、シノ」

 アルコールが一滴も入ってない状態で話すことじゃないもんな、と沖田は話をしめくくった。車でくれば、酒は飲めないけれど、そのぶん牡蠣バリエーションを余計に堪能できるな、と沖田はズボンのベルトを緩めるのだった。


 マサキがカルテット交際に混じる時に、「ビアンよりのバイセクシャル」だからと言って、杉田は性的関係をやんわり断った。結果、浮気を避けつつ女性関係を満足させるために、マサキは実姉と寝るようになったのだった。杉田は、このときの「生理的拒否」をいたく反省して、マサキを好きになるように、日日努力してきたのだ、という。

「好きになるための努力って……好かれるための努力、とか言うなら分かるけど」

「オレとしては、嬉しいの一言だったっす」

「そりゃそうだろ」

 杉田が自分自身の同性愛傾向を内省したところ、とにかく小さいもの、可愛いもの、従順でおとなしいものが好き、と分かった。

「それでロリショタかよ」

 姉の衣装を借りてきて、女装をさせられたこともある、とマサキは言う。

 けれど、マサキの可愛さは、女の子の可愛さとはち一味違う何かだ。気づいた杉田は、マサキに猫耳のカチューシャを与えたという。

「ねこ?」

「ペットっすね」

「少年っていうより、愛玩用男子ってことか」

「時々、シノ姉ちゃんのマンションに単独で呼び出されて、かわいがってもらってたっす」

 猫耳の他に鈴のついた首輪、尻穴でホールドする尻尾も装着させられていた、というから念がいっている。

「可愛がってもらったって……したの?」

「手コキまでッスよ」

「そんなことになってるなんて、知らなかったよ」

「普通のポリガミーバイ、できるようになってから、トキオ兄ちゃんに打ち明けようねって、約束させられてたっす」

「なんだか……ラブラブだなあ」

「一方的、とまではいかないッスけど、シノ姉ちゃんの愛が重いっす」

「贅沢もの」

 というわけで、マサキは原弥生が好きで、原弥生は杉田を気に入り、杉田はマサキに懸想している、という「三角関係」ができあがっていた。

「なんか、平和な三角関係?」

「うーん。どーすかねえ。対立とか取り合いとかはないけど、嫉妬はあるッスよ」

「矢印が反対方向でもOKになる可能性は、ないのかな」

「というと?」

 原弥生がマサキのことを気に入り、杉田が原弥生に好意を持ち、マサキが杉田を好きになる……というパターンだ。

「オレ、シノ姉ちゃんのこと、好きっすよ」

「おおっ」

「でも、嫌いでもあるッス」

「どーゆーこと?」

「ビアンよりのバイセクシャルだった言って、ベッドインを断られたこと、まだ根に持ってるっス」

「器が小さいなあ。既に手コキまでしてもらってる仲だろ」

「それとこれとは別……というか、今のオレは、シノ姉ちゃんに満足してるけど、相手にされなくてスネてた昔のオレが、心の片隅でいじけてるっす」

「厄介だなあ」

「弥生ちゃんに、オレのことを好きなってもらうほうが、難易度低いかも」

「ほほう」

「女の子の恰好をして、女性ホルモンまで入れている人が、女の子の心を持ってないほうが不思議っす。弥生ちゃん、男子のことを好きになって当たり前な感じ、しませんか。なんでシノ姉ちゃんなのか、逆に不思議っていうか」

「女装好き、イコール、同性愛者とは限らないよ」

「女性ホルモンを入れて、身体改造までしても?」

「誰かが好き、そんなんじゃなくて、ただ単に、自分のことが好きなだけかもしれない。ナルシストの女の子なんて、珍しくもない。だったら、ナルシストの女装者だって、いてもおかしくない」

「そうかなあ」

「とりあえず、原くんの興味を引きたいなら、教師の恰好をすればいい。とっかかりがあるだけ、マシじゃないか」

 杉田に協力してもらって、マサキは早速高校教師のコスプレにとりかかった。上下の揃っていないジャケットにスラックス、水玉模様の青茶のネクタイ。少し無精ひげを伸ばし、頭を七三に分けて、完成だ。こうして、同僚教師に混じっても見劣りしない……と杉田が太鼓判を推すレベルに、化けた。

 変装が成功した勢いで、マサキは1人で仙台に行ったのだけれど、「色気がない」と一蹴されてしまう。

 その日、仙台駅前のカプセルホテルに泊まるから、と言っていたマサキは、仙石線の終電を待たずに早々に帰宅して、沖田に泣きついたのだった。

「色気……学校の先生の色気って、なんだーっ」

 叱られたり指導されたり、いわば上から目線されるのが原弥生のお気に入りなのだから、おどおどと気弱そうなイモ教師のコスプレは逆効果、ということだったのかもしれない。

「脳筋の体育教師みたいなのだったら、良かったのかもね」

 そーいうのは、たとえ原弥生に気に入られるとしてもゴメンだ、とマサキは恨めし気に言った。

「やれやれ。ニベなく断られても、原くんに未練、あるんだね」

「ある」とマサキは力強く答えたのだった。


 努力は、いつか報われる。

 マサキはその後も、杉田たちのアドバイスを聞き、あの手この手の「コスプレ」をしてバーに通った。「男の色気」なるものが必要と言われてから、どこから調達してきたのか、自衛官や警察官の「制服」……なんちゃって、の制服ではあるけれど……を着用して行った。一度、偶然、黒のベストに蝶ネクタイを合せていったら、原弥生が着ていたバーテンダーの衣装と、かぶってしまった。イヤな顔をされるかと思い気や、原弥生は珍しく上機嫌だった。

 そう、原弥生が一番気に入っている男子は、おそらく「男装」中の自分なのだ。

 ナルシスト、恐るべし。

 マサキは考えた。

 女装している時の原弥生のマネはできないけれど、時折する男装なら、マネできる。マサキはその後、原弥生の「コスプレ」をしてバーに通い詰めた。服装だけでなく、仕草から声色から、原自身の真似をしてみせた。

 マサキは、努力の成果あって、とうとう原弥生にデートに誘われることになった。

「一度、女の自分のまま、男の自分とデートしてみたかった」というのが、「彼女」の誘い文句だったという。

 マサキは床屋に行って、わざわざ髪型まで原弥生に似せ、デートに臨んだ。

 スーツを着てこい、ただしネクタイはいらない……とオーダーされ、マサキはわざわざこの日のデートのためにカジュアルなのを新調した。コーディネートしたところを見たい、と「彼女」にリクエストされ、マサキはスマホで映像を送った。フランネルのグレイのスーツに、黒のシンプルなカットソーを合せた。当日、その恰好で仙台駅ステンドグラス前に行くと、同じグレイのミモレ丈スカート、黒いタートルネックセーターを着た原弥生が待っていた。

 最初の目的地は、原弥生が女装衣装を買う洋服屋さんだった。いや、なにもマサキを女装させるためじゃない。マサキを、その洋服屋の店長に紹介するためだった。どれくらい似ているのかと聞き、遠目だと見分けがつかないくらいだ、と言われて、原弥生は上機嫌になった。その後も、ペットショップ、ゲームセンター、デパート地下商店街と、原弥生の懇意な知人のいるところに、連れていかれた。

 ペットショップの店長さんは「この男の子、彼氏?」と原弥生に尋ねた。マサキは色よい返事を期待したけれど、原弥生は笑ってごまかした。逆に、デパ地下商店街のコロッケ屋のオバチャンには、聞かれる前に、それとなくほのめかしたりしていた。

 ほうぼうに知合いいるんですね、とマサキが感心すると、「みんなボクのこと、女装者だって知ってる人だよ」と言い、さらにマサキを驚かした。

 総じて、原弥生はデートを楽しんでいた。


 マサキが写真館に戻ってくるタイミングで、瀬川が遊びに来ていた。

 早々スエットに着替えようとする弟を呼び止め、姉のほうはしげしげと、スーツのコーディネートを観察した。「なんだか、自分の弟じゃないみたい」。そんなに恰好いいか、とマサキが自虐風に尋ねると、瀬川は「男装した弥生ちゃんって、そんな感じだっけ?」と首を傾げた。

 原弥生は、確かに女装しても不審がられない、背の低さである。

「雰囲気と顔は、似てたんじゃないかな」とマサキはデートコースで紹介された人たちの反応を語った。瀬川は、気もそぞろだった。姉はどうやら、弟の「想い」にブレーキをかけたいらしい。

「弥生ちゃんの、自分自身が好きッていうのは、分からなくもないけど、それで彼氏を自分そっくりに変装させてデートするなんて……ヤバ過ぎない?」

「そんなの、最初から分かってたことだよ、姉ちゃん」

 LGBTグループに所属しているとマヒするけれど、原弥生はれっきとした女装者からシーメールになった人であって、世間一般の基準からすれば、もともと「ヘン」な人物なのだ、とマサキは続ける。

「……あんたのことが心配なのよ。マサキ」

「姉として?」

「うん。姉として。たぶん、恋人としても。ねえ、マサキ。弥生ちゃんと、男と女の仲になりたいの?」

「違うよ、姉ちゃん。それを言うなら、男と男の仲……いや、男とシーメールの仲だよ」

「まぜっかえさないで。恋人になりたいって、弥生ちゃんが言い出したら、アタシだけ仲間外れにならない?」

 原弥生は、杉田のことをマサキ以上に気に入っているから、恋人の輪に混ざりたい……と杉田が言い出したら、大歓迎だろう。そして沖田は、花束の会で、同じグループ統轄という幹部同士だったわけで、こちらも元々懇意な関係だ。

「アタシだけ、弥生ちゃんとは親しくない」

「そうかな」

 姉弟が視線を飛ばしながら黙ってしまったので、沖田は2人に梅昆布茶を振る舞った。クエン酸と塩気が2人の緊張を和らげてくれることを期待してだけれど、姉弟はやっぱり黙ったままなのだった。スーツが皺になるから……とマサキを屋根裏部屋に追っ払う。瀬川は、原弥生が弟と恋人同士なった場合、自分がカルテットからはじかれる、という不安を払拭できないらしい。シャワーを浴びて対戦ゲームをしに応接室に戻ってきたマサキ相手に、原弥生の「女性に対する好み」を根掘り葉掘り尋ねるのだった。

「もしよ……弥生ちゃんが、マサキとつきあってもいいけれど、マサキのお姉ちゃんは全然好みのタイプじゃないから交際できない……なんて言ったら、あんた、どーすんの?」

「そりゃ、まあ……弥生ちゃんを選ぶ、かな」

「はくじょーものー」

「うんうん」

「何、納得してんのよ、トキオくん」

「いや、マサキと知合ったばかりのころは、何につけ、タエコの言いなりだったけれど、ここにきて、自分の意思を押し通そうとするなんて。成長したなあ」

「そう?」

「お姉さんなら、弟の恋愛、見守らなきゃ」

 瀬川は少し考え込んでいたが、やがて別の条件を持ち出す。

「シーちゃんは、どこまでも私の味方をしてくれる人だから、シーちゃんに絶対に浮気しないように、言いくるめる。弥生ちゃんは、マサキと交際しても、それ以上は進展しない……て、なったら、どう? マサキだけが、弥生ちゃんと関係を持つようになったら、それは、カルテットの他の三人に対する、浮気」

「そういうふうになったら、潔く、みんなと別れる……関係解消するよ、姉ちゃん」

「大きく出たわね」

「トキオ兄ちゃんが、困ると思うけどね」

「は?」

「もともと、カルテットに男子成分が足りなくて、トキオ兄ちゃんが困っているからって姉ちゃんに言われて、始めた交際だし」

 そういえば、そうだった。

「姉ちゃんたちやトキオ兄ちゃんを嫌いになったわけじゃないけど、もともと三人での恋愛っていうのがあって、オレは最初、換えの効くパーツみたいな扱いだったわけで」

「ふむふむ」

「ちょっとトキオくん、説得されないでよ」

「まあまあ」

「で。そういうオマケというかペット的な立ち位置なら、弥生ちゃんと真実の愛に目覚めたほうがいいなかって」

「はくじょーものー」


 マサキに続いて、杉田も、カルテットから離れるかもれしない、と言い出した。

 きっかけは、花束の会……幡野女史と、名和氏だ。

 原弥生が、マサキ以外の三人も気に入るようになれば、原弥生だけがマサキと交際する……つまり、マサキの浮気という状況は避けられる。

 仙台のバーに飲み行く打合せで、珍しく四人が写真館に集った日のこと。マサキから、こんな「画期的」な提案があったのだ。

「だから、みんなで、弥生ちゃんのコスプレをしましょう」

「何が、だから、だよ。単に、原くんのご機嫌をとるためだろ」

 それに、彼の「コスプレ」をするためには、沖田はわざわざカツラをかぶらねばならない。

「めんどうくさい」

 しかし杉田が、惚れた弱みかマサキの提案を飲み込んでしまい、男性陣は原弥生の「男装」、女性陣は原弥生の「女装」をすることになった。サプライズとしては大成功で、原弥生は「自分のおごりだ」と高そうなカクテルを何種類も作ってくれたのだった。例によって仙石線の終電には間に合わず、沖田たちは、いつものラブホテルに向かった。杉田がフロントで手続きするのを待っていると、入れ違いに見知った顔の2人が、出てきたのである。

 そう、幡野代議士と、名和氏だ。

 バケットハットを目深にかぶり、サングラスにマスクまでして、幡野代議士は顔を隠そうとしていた。けれど、その努力空しく、名和氏のほうが沖田のスキンヘッドを見て、反応してしまったのだ。

「あ」とか「う」とか、声を上げる名和氏の襟首を、幡野代議士は強引に引っ張って、黙らせようとした。

「幡野センセイ、デブ専だったのね」と瀬川はありきたりなことを言い、それに対してマサキは「名和さんは年増好きか。さすが十歳も年上の嫁がいる人は違うな」と妙に感心していた。

「……2人とも、冷静だね」

「単に、アルコールを飲み過ぎただけっすよ、トキオ兄ちゃん」

 まあ、問題は、そういうことじゃない。

 沖田は当然、見て見ぬふりをしていたわけだけれど、沖田たちが気づいたことに、幡野代議士たちも気づいたらしいのだ。沖田たちは花束の会を辞めた人間だし、他の団体でLGBT擁護運動をやっているわけじゃない。どんなスキャンダルがあろうが、我関せず、と無視を決め込むつもりだったのに、どうやら、幡野女史たちは、思いっきり沖田たちを意識してしまったらしいのだ。

 沖田たちの連絡先は変わっていないわけで、醜聞を内緒にして欲しいのなら、その旨、伝えてくれたらいいのに、問答無用の力づくで、彼らは沖田たちの口封じにかかってきたのである。

 第一弾は、杉田がターゲットになった。

 同性の恋人がいることが、埼玉の両親にバレてしまったのである。


 杉田の両親は、LGBTに偏見がある人たちだつた。

 もっと正確に言えば、本人たちは偏見があるくせして、それを認めようとしない人たちだった。あるいは、こう言えるかもしれない。一般人として、自分にかかわりのない他人が同性愛者になろうが女装しようが無関心だけれど、自分の身内がLGBTであることは、決して認めようとしない人たちなのだ。

 杉田が両親とどんなつき合い方をしているかは知らないけれど、最初は母親のみから、電話がかかってきた。「心配はしているけど、怒ってはいない」というのが、両親の言い分だ。話の合間に、この「キャッチコピー」を何度も繰り返しては、杉田に電話を切らせないようにするのだ。

「なんだか、刑事に逆探知を食らっているテレビドラマの誘拐犯になった気分」

 杉田はのち、沖田にこんなふうにこぼしたけれど、実際、ずいぶんと辟易したらしい。

 母親は、埼玉の実家に一度戻って来て、と繰り返した。話なら電話だけでもできる……と杉田はそのたび、うんざり返事を返した。あまりにもしつこいので、杉田が帰省せねばならない理由を問うと、母親はゴニョゴニョ言ってごまかすのである。一時間以上に及ぶ長電話の最後には、痺れを切らしたらしい父親が出てきて「お前、悪い男に騙されてないか」とせっぱづまった感じで、詰問してくる。

 今まで、実家からの電話と言えば、中身のない世間話ばかりだったのに、いきなり深刻に帰省を促すようになったのは、なぜか? と逆に尋ねると「県会議員から、問い合わせがあった」という返事。

 県議と言っても、幡野代議士じゃなく、地元埼玉の議員だそう。どこまで手を回してるんだ……と杉田は呆れたそう。

 曰く。

 杉田紫乃さんは、学校教師奉職してすぐに、LGBT団体に加入して、新進気鋭の活動員になり、そしてすぐに中堅幹部に出世して頑張っていたのに、近頃何か事情があって辞めたと聞いた。真偽不明の噂ではあるむけれど、悪い男に騙されて、二股をかけられているようだ……地元の友人たちやご両親等、事情を知ってないかと思って問い合わせた……という電話を、母親は受けたばかりだと言う。

「写真ももらったのよ。ツルっパゲのガラの悪そうな男が、紫乃と、もう1人、可愛らしいお嬢さんを左右に侍らせて、ウイスキーか何かを飲んでいる写真」

 娘がキャバクラ嬢のような扱いを受けているのを見て、杉田父は、たいそうご立腹、という話だ。

 誰にも騙されてなんかない……と杉田は返事した。

 母親は、即座に反駁した。

「騙されている人は、みんな、そう言うのよ」。

 そのスキンヘッドの男は、たぶん今現在お付き合いしている男性で、れっきとしたカタギの人だ、とも杉田は返事した。父親のほうは、まだ疑っていたが、母親のほうは安堵して言った。「あなたが同性愛者だっていう噂が流れて、心配してたのよ。その彼氏さん、帰省する時に一緒に連れてきて、お母さんを安心させてちょうだい」。

 母親の誤解を、誤解のまんまにしておくことも、できただろう。

 けれど、花束の会に入退会して、他のLGBTのゴタゴタに巻き込まれるようになってから、自分を押し通すことの大切さを、杉田は学ぶようになっていたのだ。杉田は自分が両性愛者であることを母親に打ち明け、そのスキンヘッドの男のみならず、たぶん並んで一緒に写真に映っていただろう小柄な女性とも、交際しているのだ、と打ち明けた。

 母親からいきなり受話器を取りあげたらしく、短い悲鳴と諍いのあと、父親がボリュームマックスで、怒鳴る声がした。

「お前は騙されているんだっ」

 音量最大のまま、父親は杉田に向かってガナリ立てていた。

 杉田は、そっと通話終了ボタンを押し、ついでに着信拒否設定をした。二時間後、両親がどんなふうに手を回したのか、高校時代のクラスメートが連絡をよこした。開口一番「紫乃、レズビアンになったんだって?」

 学校の成績はよく、人前で猫をかぶることが上手で、親世代のウケ抜群の同級生だった。そう、ただの同級生であって、友人でもなんでもない。高校在学中は陰湿なイジメをするので有名だった。幸い、杉田はターゲットになったことはないけれど、自殺未遂をして高校中退した子がいたことを、杉田は知っていた。

 用件だけ聞いて、杉田は電話を切るつもりだった……けれど、単なる好奇心か、それとも何か意趣があってか、元いじめっ子は杉田の近況を根ほり葉ほり聞こうとする。プライベートですから……と杉田がかたくなにしゃべるまいとすると、元イジメっ子は自分の現在を話して懐柔しようとしたり、「親友として心配してあげてんのよ」と上から目線で説教をかましてきたりした。

 杉田のうんざりした様子は、電話越しでもありありと伝わっていたのだろう。サヨナラも言わずに、いきなり電話は切れた。失礼極まりない同級生に、LGBTをバカにしたような物言いをされ、杉田は腹を立てた。何より、あの性悪女が、現在はIT社長の夫を捕まえて、鎌倉で裕福な専業主婦に収まっているという事実が受け入れがたかった。自殺未遂で高校中退したイジメられっ子も、浮かばれないだろう。

 世の中は理不尽にできている。

 それから毎日のように、母親から様子伺いの電話があった。

 相変わらず杉田の近況を探る電話だ。なんでも、例の県議の秘書さんが、小出しに沖田の情報をくれると言う。

「葬儀屋さんなんでしょ。そんな縁起悪そうな男、辞めなさい」。葬儀屋そのものではなく、遺影専門の写真屋さんだし、そもそも縁起悪いだなんて職業差別だ……と杉田は母親と言い争った。喧嘩別れした次の日も、母親はしつこく電話を入れてくる。ノイローゼになりそう……と杉田に泣きつかれ、沖田は直接、お母さんと話をしようとかと、提案した。イキナリだと、また非常識な男とからかわれかねないから、一度、母親に予告する……と言った矢先、緊急の連絡があった。

「お父さんが、倒れた」

 心労のせいだ。

 悪い男に騙されて、遅れてきた反抗期がきた娘のせい……と、ご母堂は、あからさまなイヤミを言ってきたそうな。意識はあるけれど、緊急入院したとの追加情報を得て、杉田は急遽、春日部の自宅に戻った。玄関口には、血色のよい顔をした父親が、待ち構えていて、残忍な笑みを浮かべていた。

「よう。やっと帰ってきたな。親不孝娘」

 リビングに通されるや否や、杉田は見合いの釣り書きを突きつけられた。帰省した翌日の午後には、高輪のホテルに連れてられて、相手男性に挨拶するハメになっていた。仕事があるのに……と抗議する杉田に、母親は「もうすでに休職届を出した」と涼しい顔で言ってのけた。

 待合せラウンジは、珈琲一杯二千円もするような高級店だった。スタバでドヤ顔をしている沖田なら、腰を抜かすかもしれない……と杉田は思い出し笑いをしてしまった。

 相手男性も相手の母親も、杉田父と懇意なようで、杉田そっちのけで世間話をしている。なんだか、自分だけがカヤの外である。横から耳をそばだてていると、彼氏は父親の教え子で一番の出世頭、厚生省のエリート官僚らしい。そう言えば、石巻に逃げ帰ることばかり考えて、釣り書きをちゃんと読んでなかったな、と杉田は自分の失礼を反省する。お相手は、ホリの深いバタくさい顔のハンサムさんで、人当たりがいい。海外旅行が趣味で、デートの第一弾として、エジプトのピラミッドを見に行きませんか、と豪快に、冗談とも本気とも取れないことを言ってくる人だった。第一印象は悪くない、どころか、首都圏住まいの一般的な女性なら、喜んで交際スタートさせるような「優良物件」だ。けれど、杉田は断った。相手はLGBTにも理解があり、杉田の現在の交際も知っている、という触れ込みだった。けれど、本当の意味でバイセクシャル女性のことを知っている人ではなかったのだ。杉田に女性パートナーがいて、別れがたいというなら、一緒に「可愛がってあげるよ」と、このハンサム男は言った。彼の頭の中には、女性2人の相手をする自分……小ハーレムが思い浮かんでいたかもしれない。でも、この反応は、杉田がバイセク女性だと表明した時に、異性愛者男たちから向けられるステレオタイプな反応……うんざりするぐらい、見せられてきた反応だ。

 杉田は試しに、カマをかけてみる。

「私が……私たちが、一緒に暮らしたいからって、第三の女性……ビアン女性を連れてきたら、どーする?」

 ハンサムさんは、何の躊躇もなく、答えた。

「だから、一緒に可愛がってあげますって」

 この一言で、ハンサムさんは杉田の「テスト」に失格した。加わる第三の女性がバイセクシャル女性なら、ハンサムさんの答えも、一理あるだろう。けれど、ビアン女性なら、男に対して拒否反応があるわけで、事情を承知しているなら「一緒に可愛がってあげる」なんていう答えになるわけがないのだ。杉田的な正解は、こうである。

 ビアン女性を尊重して、たとえ杉田と懇意にしていても……肉体関係があったしても、指一本触れない……と答えて欲しかったのだ。

 そもそも、第三の女性がバイセクシャルだったとしても、ハンサムさんの言い方は、うまくない。カルテット交際で、杉田は、沖田とは肉体関係を持ちながら、マサキを拒否していた時期があった。複数交際に混じれば、そのメンバー全員と即性交、なんていうのはエロ漫画を読み過ぎた男の発想なのだ。バイセクシャル女性にもえり好みする権利はある。パートナー女性を愛しているからと言って、そのパートナー女性が愛している男を、バイセクシャル女性が愛さねばならない、なんていう法はない。ハンサムさんのような、短絡的かつデリカシーに配慮ない言い方をされると、つきあう前から不安になってしまうのだ。

 長々と事前に理屈を説明してやれば、異性愛者男性も、このへんは理解してくれるだろう。けれど、そもそも、いちいち説明を要するという段階で、杉田は疲れてしまうのだ。異性愛者男性が試されるであろうディテールは他にも多々あり、頭脳明晰な異性愛者男性なら次々クリアするかもしれない。けど、そういう「テスト」に合格することと、愛してくれることとは、全くの別物だろう、とも杉田は思う。

 だからこそ、男性成分が枯渇すると、女性とセックスできなくなるとまで言う沖田は、杉田にとって貴重な存在である。

 両性愛者女性を、両性愛者「女性」ではなく、「両性愛者」女性として扱ってくれるところから、「両性愛者女性」との交際が始まるのだ。


 最初の見合いが失敗に終わったあと、杉田は荷物をまとめて石巻に戻るつもりだった。 父親は、一ダースもの見合いの釣り書きを持ってきて、誰でもいいから交際スタートさせるまで家から出さん……と息巻いた。けれど、杉田は釣り書きの相手に連絡して、「父が暴走してごめんなさい。彼氏がいるから見合いは受けれません」と丁重にお断りしていったそうな。

 両親には強く出た杉田だったけれど、中学高校時代の友人たち相手には、そうはいかなった。冷やかし半分の元イジメっ子や、下心丸出しのナンパ男は軽くあしらってお断りしたけれど、中には、真摯に杉田のことを心配してくれる親友もいたからだ。

 同級生たちが問題にしたのは、やはり、杉田が瀬川とともに1人の男性と交際しているという事実だった。瀬川の弟もいるから一夫多妻じゃない……と言っても、当のマサキが杉田とは関係を持ってないと白状すると、数のうちには入れてもらえない。

 皆、モノガミーという常識に囚われ過ぎだ。

 杉田は、かつての沖田のように言ってみたけれど、ここのところのニュアンス、なかなか理解できないようだった。沖田が槍玉に上がっていたのはもちろんだけれど、それだけじゃない。そもそも一夫多妻を許容している時点で瀬川も同罪だ。埼玉の友人たちは、こんなふうに言って、杉田の石巻での交遊を全否定してみせるのである。

 花束の会の情報を仕入てきた旧友もいた。「県会議員さんがいるなら、相談したらいいのに」とか「なんで、そのナンチャラ会辞めちゃったの?」とか、話を蒸し返してくる人もいる。

 沖田を春日部に呼んで「ちゃんと説明」しようとしても、袋叩きにあうだけだろう。けれど、瀬川なら、耳を傾けてくれるひとも、いるかもしれない。「電話口でより、酒でも飲みながら口説いたほうが、誤解は解けると思う」と瀬川が言ったので、休日を利用して、埼玉まで来てもらうことにした。

「女ならよくて、男はダメだというのは、逆差別だ」と沖田からクレームが入った。

「はいはい。トキオくんが、もう少し人相良かったら、呼んだんだけどね」と杉田はなだめた。杉田はそれ以上言わなかったけれど「ハゲに対する弾圧だーっ」と沖田は不満たらたらだった……。


 しかし。

 ミイラ取りがミイラになる、という話もある。

 春日部で杉田に再開してすぐに、瀬川は彼女の「友人」と称する人たちに、次々に会っていった。髪を茶色に染めていたり厚化粧してたりする人は、年相応に見えるけれど、顔をたいして「いじってない」人は、本当に若く見える。彼女たちの皮膚の張りをまざまざ見せつけられると、東京にはいい化粧品があるのか、それとも苦労のない生活で年を取らないのか、と瀬川はいぶかってしまう。

 ある人とは居酒屋で、ある人とはスタバで、そして中には初対面だというのに自宅に招待してくれた人もいた。杉田の旧友ネットワークは、東北の田舎町以上の伝播力があるらしい。1人目との会話内容は2人目に筒抜けで、3人目との話は、その反駁から始まったリするのだ。

 総じて分かったことがある。

 杉田をバイセクシャル女性だと知っていた旧友は皆無なこと。

 杉田の杞憂をよそに、みんなその事実を受け入れているということ。

 けれど、バイセクシャルの意味が、イマイチよく分かっていなさそうだということ。

 都会の住人は皆人間関係希薄で、誰が誰とつきあおうが無関心だと思っていたのに、杉田に関しては熱心な「おせっかい」が多いこと。

 そして、強固なモノガミー信者が多いこと。

 瀬川は、カルテット交際で、杉田が騙されていないことを、懸命に説明しようとしたけれど、なぜか、瀬川も騙されいるんだ、という話になっていた。

 東北の田舎、イコール、農家脳、イコール、昔ながらの一夫多妻みたいな先入観が、あるのかもしれない。

 杉田が紹介してくれた旧友たち、皆がみんな、自己紹介もそぞろに、悪徳スキンヘッド男の悪口を言うのである。世にいう結婚適齢期……いや、既に結婚している人たちもいた……年頃の女子なら、もう少し男を見る目を養ったらどうだ、と瀬川は説教しそうになった。石巻界隈の瀬川の知人たちに比べて、なんだか考え方が保守的というか、幼いというか、シビアでないというか。一昔前のトレンディドラマに出てくるような男女関係だけが、男女関係の全てじゃないだろう……と瀬川は口を酸っぱくして反論した。すると、オバさん臭いと笑われてしまうのである。

 これで何度目だろう、と瀬川は口説かれるたびに天を仰いだ。そして「彼氏」のことを徹底的に擁護した。複数交際という「受け入れがたい事実」を盾に、モラルや法律の話をする人たちを論破するのは、簡単だった。

 童心たっぷりに素朴な疑問を呈するような人たちが、かえって厄介だった。

「それで。瀬川さんは、紫乃さんとスキンヘッドさん、どちらか選べって言われたら、どちらを選ぶの?」

 どちらも大事だから選べない、と答えると、それは答えになっていない、と返される。

「少女漫画じゃないんだから、最終的にどちらかを選ぶっていうのはない」と瀬川が返事すると「じゃあ、少年漫画みたいなハーレムエンドがいいのね」「いや、ハーレムじゃないんだけどね」……といった具合だ。


 父親が本当に危篤になろうが、石巻に戻る……と息巻いていた杉田を強力に引き留める人が出てきた。

 母親に、あることないこと吹き込んできた、例の県会議員である。

 杉田が石巻に戻るなら、勤務先の高校に、杉田の交際のことをばらす、というのである。差別問題がやかましくなってきた昨今だから、杉田がLGBTの人であることがバレても、公的には何も変わらないだろう。けれど、ポリガミー交際のほうは、そうはいかない。同僚教師たちが慇懃無礼に敬遠しても、生徒たちが陰湿なイジメ・セクハラ・パワハラをしてきても、杉田は耐える自信があった。けれど、PTAあたりから、ふしだらな男女交際をしていると突き上げられた場合、言い訳するのは、難しいかもしれない。ポリガミーのほうは、LGBTほどメジャーでもなければ、擁護すべき価値ある性的マイノリティにも、なり切れていない……。

 帰る場所、居場所をなくしてやろう、という県議の戦略は、確かに、杉田には大打撃だ。

 石巻に戻ってくるにしても、タイムリミットがある。

 勤務先高校への休職届は、父親が入院してしまって……というのが、口実だったらしい。そのウソの「病気」が、快癒するにせよ、逆に悪化して亡くなってしまうにせよ、いつかは終りにせねばならないことなのだ。

 円満に復職できるか? それとも、このまま両親の引き留め策に破れて、退職してしまうのか?

 ……以上の報告を、沖田は瀬川から聞いた。

「万が一、シーちゃんが春日部に残ることになったら、私も沖田君と別れて、こっちに移住しちゃうかもしれない」

 瀬川の、冗談とも本気とともとれる「別れ話」で、カルテット交際崩壊が迫っていることを、沖田はようやく悟ったのだった。


 敵は、はっきりしている。

 幡野代議士と、名和町議、本家・花束の会の最高幹部たちである。

 けれど、味方が誰なのかは、判然としていない。

 沖田はまず、当たり障りのないところで、元ゲイグループ統轄、片桐氏に相談を持ちかけた。電話口では「忙しい」を繰り返すだけ、埒が開かないので、直接、カルチャーセンターを訪ねる。訪問回数はそう多くないはずだけれど、受付嬢が沖田のスキンヘッドをしっかり覚えてくれていたお陰で、主のいない講師控室で待たせてもらえる。

 天野さん・里見さんの偽装結婚・代理母騒動の時には親身にアドバイスをくれた片桐氏も、今回は露骨にイヤがった。

「沖田君。僕はもう、そういうのに金輪際関わりたくないんだ」

 自慢のお手製ケーキ(今回は、葡萄とアロエのゼリースペシャル)は、供してくれたけれど、一緒にお茶を出さないというのが、このカルチャーセンター講師なりの、せめてもの抵抗らしい。

 沖田は、幡野代議士と名和氏の不倫を、まず告げた。そして、自分たちの恋愛模様……カルテット交際がバラバラになりかけている窮状を、訴えた。

 渋い顔で、目線を伏せている片桐氏に、沖田は畳みかける。

「一つだけ、アドバイスを下さい。誰が、味方になってくれそうか」

「それは、他人に聞かずとも、君自身の心に聞けば、分かることでは?」

「あなたの口から聞きたいんですよ、片桐さん」

「……じゃあ、言おう。その前に、ひとつ。ちゃんと事実確認、すべきだ」

「?」

 ラブホテルで幡野代議士に会ったそうだけれど、それは2人がたまたま偶然居合わせた可能性を、否定できない。春日部での杉田への嫌がらせも、幡野代議士が本当に手を回した結果か、分からない。

「そこから、ですか」

「思い込みは、禁物だ」

 敵・味方の識別で、セオリー通り行かないことも多いはずだ、とも片桐氏はアドバイスしてくれる。

「例えば、ビアングループの森下さん。不倫の話が本当なら、彼女は幡野センセイの敵に回ると思う。男が憎いだけでなく、案外潔癖症なところがあるから。基本、男に媚びる女は、嫌いな女性なんだよ。けれど、幡野センセイの敵になったとして、沖田くんの味方になってくれるとは、限らない。というか、かなり怪しい。花束の会最高幹部のプライベートを暴いて、会の名誉を傷つけた、とか言い出す可能性さえある」

「……味方につけても、主導権争いとかして、攪乱しそうですしね」

「現在のゲイ統轄、中岡大輔がどんな出方をするのかは、皆目見当がつかない。アイツは、LGBTの価値を守ることが世界で一番大事な男だ。同時に、花束の会に滅私奉公というのを、絶対の行動原理にして動いている。不倫した幡野センセイを、会の面汚しとして糾弾するかもしれないし、さっきの森下さんのケースのように、わざわざプライベートうんぬんと言い立てて、君らに敵対するかもしれない」

「……なんか、かもしれない、だらけですね」

「第三者の、やる気のないアドバイスって、そういうもんだろう、沖田くん」

 片桐氏がウインクする。

 沖田は、苦笑した。

「中岡大輔さんが、たとえ味方につくって言ってくれたとしても、味方にはしたくないですね」

「同感だ。でも、そうすると、花束の会からの内部告発は全く期待できなくなる。というか、沖田くんたちが反乱グループとコンタクトする足がかり、全くなくなる。花束の会がリニューアルされてから、つまり僕や沖田君が追放されてから、入会してきた新人さんも、今やバカにできない数になっている。つまり、沖田君と面識がない会員が、かなりいる。彼ら新人さんは、不倫が事実だとしても、もう部外者になった沖田君たちに、口を出して欲しくはないだろう」

「……不倫の件を、たとえばマスコミ等で暴露したら、どうでしょうか」

「それは最後の手段だろうね。沖田くんは、幡野センセイの不倫を、花束の会やLGBTからしか眺めていないけど、それは彼女の政治活動のほんの一部に過ぎない。中岡大輔が、盗撮騒ぎを起こしたときに、縁もゆかりもなかった隣町の浜茶屋組合に泣きつかれたこと、覚えているかい? 君が、杉田くん・瀬川くんとつき合い出して、一夫多妻交際をスタートさせたとき、ほうぼうの団体から抗議を受けたこともあっただろう? 県議のスキャンダルによって、実に多方面の政治団体が動き出すことになる。たぶん、一番喜ぶのは、県議選のライバル、細井・元県議と、そのご一統だろうな」

「はあ」

「幡野センセイが、どんなにスキャンダルまみれになっても、彼女のことを新興宗教の教祖のように、崇め奉る人たちだって、いるさ。君はそんな信者さんたちの目の敵にされて、攻撃の的になる……社会的に、そして、ひょっとしたら、身体的に」

「テロの標的にされる、とか、そういうことですか?」

「可能性の話だよ。敵の敵は味方っていうことで、細井陣営が君に近づいてくる。彼らは、君を利用するだろうけれど、どれくらい君自身の目的のために手助けしてくれるか、分かったもんじゃない。利用するだけ利用して、ポイ捨て、なんてことだって、考えられる。それから、昨日までは味方だった人たちから向けられる愛憎も苦しいだろうね。人間、孤立無援で長い間闘い続けるのは、難しいものだよ」

「あんまり、脅さないで下さいよ」

「それから、もう一つ。不倫の暴露が、決定的に不味いかもしれないケースがある」

「と、いうと?」

「幡野センセイ自身が、沖田くんと同じ、ポリガミー派の人だった場合さ」

 LGBTの人でなくとも、ポリガミー交際の実践者にはなれる。具体的に言えば、幡野代議士の旦那さんと、名和氏の奥さんたちが、この交際のことを知っていて、公認している場合だ。

「そんな可能性、ありますかねえ」

「確率は低いだろう。けれど、本当に幡野代議士がポリガミー交際の実践者で、配偶者にも配慮の上だったら、君は、貴重な仲間を売り、失うことになるんじゃないかな」

「……でも、幡野センセイが、そんな実践をしているなんて話、聞いたこともない」

「誰もが、ポリガミー実践者だと名乗って交際するわけじゃ、ないさ。というか、周囲の周知させるように人は、圧倒的な少数派だと思う。沖田くん、君たちは例外中の例外なんだよ。そもそも君の友達付き合いの範囲が、LGBTの人やその理解者、その他政治的に関わりがある人たち、ばかりだろう? 普通の人は、性的マイノリティに理解がある人たちだけで、交遊を完結させるなんて、できやしない。それができてるから、君はポリガミーしてますよ、と公にできているわけだ。告白しやすく、告白しても人間関係が変化しない、特殊な人間関係の目の中に、君たちはいる」

「はあ」

「……あんまり、ありそうもないケースを検討し過ぎたかな。ともかく。人を呪わば穴二つ、という言い方もある。幡野センセイが不倫している……と君が大声で触れ回れば、暴露した君自身にも反動がいくよ。良い暴露なら大丈夫で、悪い暴露なら狙われる、そういうことじゃなくて、暴露すること、そのものが引き起こすんだ。沖田くん、君は幡野センセイと差し違える覚悟があるのかい? LGBTの未来のために、偽善者県議を最高幹部の地位から引きずり落としたいとか、崇高な理念でもあるとか?」

 沖田は首を横に振った。

「全然」

「君は筋金入りの政治嫌いで、そもそも幡野センセイたちを敬遠している人だった。違ったかな?」

「違いませんよ。今回のも、とにかく、かかった火の粉を振り払いたい、だけです。自分は、カルテット交際を、こんなことでダメにしたくない。それだけです」

「じゃあ、まず、やることは一つだよね」

「?」

「探偵ごっこ、だよ」


 不倫調査は、本物の興信所を頼むことにした。

 浮気専門、この道20年、弁護士事務所とも提携している……という「ニコニコ興信所」なる探偵さんだ。塩釜の北西の町外れ、産廃埋め立て場に行く道々、大根畑の真ん中にその掘立小屋は立っていた。狭い靴脱ぎの先には、沖田写真館をもっと古くしたような、年代物のソファと長机の応接室だ。人の好さそうなお爺さんオバサンが、達磨ストーブのある、その居間に通してくれる。1ダースを超えるだろう猫が沖田の足元に近づいてきて、餌をねだる。可愛い猫ちゃんたちですね……と沖田が褒めると、所長と名乗るオバサンは上機嫌になって用向きを聞いてくれた。どれくらい壁が薄いのか、埋め立て場に通うダンプやらゴミ収集車やらのエンジン音がモロに聞こえてくる。というか、ビリビリと壁を振動させている。JR通過時には、踏切の警笛も聞こえるんだ、とお爺さんは頭かいた。

 お茶菓子は菊花小皿いっぱいのカリントウだった。やたら甘くて、口に粘る。

 沖田が県議の名前を出すと、すぐにオバサンの顔が曇った。

 いや、浮気調査は得意なんですけどね。

 たいていの依頼主は、サレちゃった奥さんや旦那さん、まれに他の親族さんで……全くの他人の調査、それも県議なんていう有名人権力者っていうのは、やったことがないもんで……。

「県議とは、全くの他人でも、ないんですけどね」

 沖田が言い訳しようとするのを、今度はお爺さんが口を開いた。

 そりゃ、ウチのような零細が警戒するのは、当たり前でしょう。どこぞの得たいのしれない写真屋が来て、県議の不倫を調べろ、とか。スキャンダルをネタに、県議を強請る恐喝屋かもしれない。下手したら、犯罪の片棒を担がせられるかもしれない。あ。それとも、なんですか。写真屋さんっていうくらいだし、赤新聞みたいな、どこぞのマスコミと知合いで、記事にするためとか?

「違います。そう、ポンポン話を進めないでください」

 沖田は、花束の会在籍中からの、県議との腐れ縁を延々と語った。自分の特異な男女交際のことも話し、不審なら県議の調査をする前に、自分のことを調べてくれ、とも言った。

 言う事だけを言って、きっぱりとお爺さんの目を見る。

「まあ、引き受けましょう」

 宮城県内での調べものなら大丈夫だけれど、埼玉までは手が回らない、とお爺さんは言った。また、政治のドロドロした部分……例えば、幡野代議士と春日部の代議士との間に、怪しいパイプがある、なんていう部分は調査しないし、触れそうになったら即撤退する、とも言うのだった。

 沖田は条件を飲んだ。


 杉田・瀬川の春日部組も、じゅうぶんに心配ではあったけれど、沖田には他にも心配りせねばならない人たちがいる。

 そう、マサキと原弥生だ。

 写真屋の助手としての仕事は、プライベートがどうであれ、キチンとこなしている。いや、むしろ、原弥生のところに通い詰めるようになってから、仕事熱心になったとも言える。事業主としては、頼もしい限りだが、恋人としては、あまり嬉しくない状況だ。杉田を追って埼玉にいった瀬川同様、マサキも、原弥生が誘ってくれるなら、仙台移住しそうな勢いなのだ。

 手に職をつけないと、弥生ちゃんに迷惑ですし。

 そのためには、写真屋として、独立できるくらい、スキルアップしないと。

 ……マサキが臆面もなく、そういうことを言うのを聞くと、沖田は悲しくなってしまう。

 ピロートーク……セックスの合間にする話も、最近は原弥生のことばかりである。

 沖田は、時折、ふと悲しくなる。

 それならベッドをともにせねばいいようなものだけれど、ベッド以外でもマサキはノロケ話を垂れ流すのだ。

 そもそも「ピロートーク」「寝物語」と言っても、沖田とマサキ2人きりの場合、ベッドの上でと限定してコトを致すわけじゃない。というか、逆に、ベッドを利用するほうが、少ないかもしれない。ソファで並んでテレビを見ながら、お互いのチンポをいじる。キッチンで料理をしながら、お互いの尻を撫でまわす。仕事帰り、人気のない駐車場に車を停めて、お互いにフェラチオしあう……そういうことだ。

 最近マサキは、スカートからカツラから女装用具を一式買ってきて、姿見の前で熱心にオシャレするようになった。誰の目から見ても明らかな女装なのだけれど、マサキ自身、女装なんてしてない、とキッパリ否定する。自分がやっているのは、男装でも女装でもなく、「弥生」装なのだ、と。原弥生そっくりの化粧をして、仕草や声色まで真似、仕草や声色まで真似て、沖田とデートしたり、セックスしたがる。最初のうちは「騙されなかった」沖田も、瀬川が杉田を追いかけて埼玉に行くころには、感覚が曖昧になっていた。

 あれ? 今、自分が尻を掘っている相手は、マサキだったか、原弥生か?

 それはまぎれもなくマサキで、沖田は一方的に錯覚しているだけなのだけれど、間違って「原くん」と声をかけようものなら、マサキは大喜びする。缶チューハイ片手に一服をするとき、沖田は、このドッペルゲンガーぶりをしばしば心配した。

「君まで、女性ホルモンを入れて、シーメール化するなんて、言わないよな」

「弥生ちゃん自身が望んでないから、しないっす」

 ここまでデレ、ここまで尽くしても、マサキは原弥生の「憧れの存在」のまんまだった。ベッドインどころか、ロクに手をつないでもらってもない、という。

「マサキ、やっぱり、嫌われてんじゃ」

「トキオ兄ちゃん。イヤなこと、言わないでよ」

「すまん。嫉妬だ」

「……2人っきりなら、ベッドインに応じてくれそうもないッスけど、シノ姉ちゃんと3人でなら、OK出してくれるかも」

「それ、悲しすぎない?」

「いいんっす。愛する人のために、他の女をあてがうって、純愛っす」

「純愛、ねえ」

「トキオ兄ちゃん。シノ姉ちゃんが石巻に帰ってくるの、いつになるっスかねえ」

「さあね。姉に電話しなよ」

 沖田には、原弥生に直接尋ねたいけれど、尋ねられない疑問……いや、確認事項があった。

「原くんが、マサキやシノと恋人関係になったとき、自分もまぜてくれるかな」

 お互いLGBT各グループ統轄として、原弥生と共有した時間は、マサキや杉田に勝ると思う。けれど、それは組織人として、同僚として、セクション責任者同士として、だ。原弥生個人と、沖田個人として、ではない。利府事務所からの帰り、何度か塩釜多賀城の居酒屋で2人っきりで飲んだこともあった。それなりに親密だった、でも……中間管理職の悲哀を舐めあったり、LGBTの行く末を語り合ったり……異性愛男性同士がするのと、同じ、単なる飲み会だ。色気のある話は、一切してこなかったのだ。

「トキオ兄ちゃん。弥生ちゃんのこと、好きッスか? その、同僚として、とかじゃなく、恋愛対象として」

「そういう感情抜きでつきあっていた時間が長いから、正直、恋愛感情があるのかどうか、自分でも分からないよ。自分とマサキが恋人関係にあって、マサキと原くんが恋人関係にあったところで、自分と原君がそういう関係になるかどうかは別っていう理屈、改めて言われなくとも、分かってる。それくらいの、分別、ある。でも、3人でデートすることがあったりとき、自分と原くんも、恋愛的に意味で親密なほうが、楽しくないか?」

 マサキは、沖田の胸に頭を預けて、言う。

「トキオ兄ちゃん。要するに、姉ちゃんとシノ姉ちゃんが帰って来ないから、寂しいんスね」

「分かってるなら、改めて口に出さなくとも、いいよ。タエコとシノだけじゃなく、マサキまで離れていったら、自分、独りぼっちだ」

「ふうん。弥生ちゃんがまざったら、男だけで3連結する練習、しなきゃッスね」

「それを言うなら、正確に言えば、男2人とシーメール、だけどな」

 頑張りましょう、と言ってマサキはそのまま、沖田の乳首を噛んだ

 実は丸一日、瀬川から経過報告が来なくて不安だった沖田だけれど、マサキが馬乗りになって尻を振ってくれたお陰で、射精だけはしっかりした。


「味方増えて、嬉しいだろ、トキオ」

「わざわざ頼んだ覚えはない。どこで情報、仕入れた」

「地獄耳だからさ」

「答えになってないぞ」

 聞き覚えのない……いや、久々だから、すっかり忘れていた女性の声が横から補足してくれる。

「カルチャーセンターの片桐さんから、教えてもらいました。て、いうか、頼まれました。沖田さん、今、花束の会とトラブってるから、助けてやってくれって。カボチャさんとは、直接関係のない話だけれど、聞いてみて……ううん、首を突っ込んでみて損はない話って、言われたんですけど」

「そもそも、宮坂さん、アナタ、片桐さんと面識ある人なんですか?」

「あら。私、彼の製菓教室の生徒ですよ」

 通称カボチャさん、本名・宮坂千春は、花束の会県北支部開設のときに知合った妙齢の女性である。無農薬野菜に興味を持って登米に移住、そこで紹介された中岡大輔の婚約者になった。中岡大輔は真正ゲイで、宮坂さんを騙す形になったわけで、破局した。県北支部開設のとき、まだ中岡大輔に恨みが残っていた宮坂さんは、花束の会に陰湿なイヤがらせをするも、返り討ちにあう。不倫を暴露されて、登米にいられなくなった。

 そんな彼女を引き取ったのが、彼女の学生時代の家庭教師にして、中岡大輔に彼女を紹介した江川俊介である。

 今2人は、テレビ電話でいきなり沖田にコンタクトをとってきたのだった。夜の十時過ぎ、モニターの向こうにいる2人は、ジャージ姿の、やたらリラックスした恰好だ。

 幸いにして、マサキはいない。高校時代の友人がダーツのコンテストに出るとかで、応援に行っているのだ。

 こうやって連絡をとっていることを、あまり、知られたくはなかった。

 沖田にとって、江川俊介は、かつての同志であり、現在は不倶戴天の敵、のはずだった。

 しかし、こう、助けの手を差し伸べられると、掴んでしまいそうな自分がいる。

「テレビ電話のチャンネルを残したまんまの男が、何を言ってる」

 沖田は江川のツッコミを無視して、宮坂さんに話しかけた。

「片桐さんから聞いてると思いますけど、自分、もう花束の会は辞めました。今回の件も、中岡大輔とは、直接関係のない話なんですが」

「そうじゃないでしょう、沖田さん」

「君らは、どこまで知ってるんです?」

「何にも、知らないわよ」

 江川が、すかさず口を挟む。

「というか、片桐さんから、詳細は君に聞けと言われた。肝心な点はボカす癖があるからなあって、言ってたぞ」

 沖田は渋々、幡野代議士と名和町議の不倫疑惑から、説明した。

「不倫。それで片桐さん、私も巻き込もうとしたのか」

「イヤなことを思い出させて、申し訳ない、宮坂さん」

「リベンジのいい機会だわ。沖田さんも、花束の会から追放されたんだし、復讐したいでしょ?」

「いや。まあ、ねえ」

 1人で盛り上がる宮坂さんに、いったん落ち着いてもらうため、彼女の近況を聞く。

「桃生の牧場に就職したよ。あの時は無農薬のキュウリうんぬんって言ってたけど、結局ウシを育ててます」

「俊介の就職斡旋が、失敗したから?」

「そういうのじゃなくて……自分から辞めたの。農場の上のほうが、東京の大手スーパーとつながりがあって……管理がやかましくなって、ウンザリして」

 近々、遺伝子改良されたキュウリを扱う、という話も出ていた、という。確かに無農薬ではあるけれど、消費者の求める安全という点では、詐欺みたいな感じがしたし、ちょうど潮時ではあった、という。

「それで、ウシ」

「石巻には、牛ちゃんファームっていう、県内最大の畜産業者がいるし」

 昨今の牧場は、一か所で出産から肥育まで手がけるわけじゃなく、繁殖は繁殖、肥育は肥育と分業しているそうな。宮坂さんが就職したのは繁殖農家のほうで、出産取り扱いがメイン、お母さんウシが何頭もひしめいているのよ、という。赤ん坊ウシは既に何回か取り上げたけれど、それでも出産に立ち会うのは格別だ、と顔を輝かして、言う。

「それで。昔、カボチャ娘。今、サンバさんっていうニックネームよ」

「サンバさん?」

 産婆、と字面を教えられて、沖田は納得する。

「ウシの世話だけじゃなく……自分の世話も、ちゃんとしてる」

「?」

「俊介センセイと、婚約しました」

 宮坂さんは、目を伏せて、言う。

「それは……おめでとう」

 宮坂さんは、沖田の祝福を受けて、言う。

 最初から、中岡大輔を紹介されるずっと以前から、家庭教師と生徒だった時から、実は江川のことが好きだったのかもしれない……と。

「ずいぶん、回り道しちゃった」

 でも、そういう幸せの絶頂にいる人なら、余計、泥沼の不倫騒動暴露には、巻き込まないほうがいいのかもしれない。

 沖田が顎に手を当てて考え始めると、今度は江川がドスの利いた声で言う。

「いいから。構わず話を続けろ」

 沖田は、幡野代議士と直接ぶつかり合う気はなく、カルテット交際を取り戻したいだけだ、と肩をすくめた。

「塩釜の探偵を雇ったところまでは、分かった。こちらも、埼玉の県議との繋がり、調べようがないなあ」

「俊介。シノの両親を口説き落として、2人を石巻に連れ戻すっていう仕事はどうだ? それなら、不倫騒動のドロドロに関わらなくとも、済む」

「まっぴらごめんだ。そもそも、僕らが首をツッコむ気になったのは、花束の会への恨みつらみを少しでも晴らすためだ。泥沼に足をツッコむ、上等じゃないか。僕らは僕らの目的のために動く。トキオの交際がどうなろうが、知ったこっちゃない」

「薄情だな」

「僕らは宿敵同士じゃなかったか、トキオ」

「そうだな」

「共通の敵に当たるための、一時的な同盟だ。そもそも、僕のフィアンセは花束の会に……中岡大輔に不倫を暴露されて、町や職場を追われた人間だぞ。どんなふうに暴露されたら最もダメージを受けるか知っている。それに、不倫そのものの隠し方のノウハウもある。逆に言えば、どこをどう調査すれば暴けるか、よく知ってるってことさ」

「おい俊介。デリカシーがないな。宮坂さん、泣きそうになってるぞ」

「あ」

 江川が婚約者をなだめる10分のインターバルを挟んで、ビデオ通話は終りになる。

「トキオ。お前の心配は、もっともだと思う。まあ、僕に対する心配じゃなく、千春に対する心配なんだろうけど。幡野御大に対する調査を本職探偵に頼んだってなら、こちらは、もっと安全なほうを攻めるさ」

「安全なほう?」

「名和事務局のほうさ」


 名和氏の義実家一族は、宮城郡……利府・松島両町を根城にする有力農家だ。江川俊介のような一介のサラリーマンが仕事の片手間に調査したとして、その「次期当主」の秘密……尻尾を掴ませるようなことはしないだろう。

 名和氏その人も、温厚を絵に描いたような外見に騙されやすいけれど、抜け目のないタイプだ。長年、少なからぬ敵のいるLGBT互助会を切り盛りしてきた。偽装結婚斡旋では、ノンケ異性愛者たちに情報漏れせぬように、さんざん秘密保持に尽くしてきたのだ。公人であるがゆえにパパラッチに寛容だった幡野代議士よりも、手強い相手である可能性は、ある。

 江川は自信マンマンではあったけれど、名和氏にあっさり返り討ちにされる未来しか、思い浮かばない。江川本人がどうなろうが知ったこっちゃないけれど、さんざんLGBTにイヤな思いをさせられてきた宮坂さんだけは守りたい、と沖田は思った。

 それで、名和氏に直接交渉を申し込んだのである。

 沖田が花束の会放逐されて以来、何度電話を入れても、連絡がつかない。町議選応援のとき、電話番号だけ教えてもらった豪傑奥さんのほうに、おそるおそる電話してみる。

 恐妻家のせいか、はたまた不倫ばれを心配してか、名和氏は今度は即座に会う約束をしてくれた。沖田が指名した待合せ場所は、利府イオン、初めて顔合わせした喫茶店だ。最近新作パンケーキが出たそうで、一緒にどうですか……という、どっかの女子会みたいな口実で誘う。特に意味を持たせて、初めて会った場所を指名したわけじゃない。けれど、交渉決裂で名和氏に二度と話し合う機会がなくなるなら、最初に出会った店を最後にするのも一興だ、と思ったまでである。

 久しぶりの名和氏は、記憶の中より、さらにでっぷりと肥えていた。

「貫禄がつきましたね、名和さん」

「沖田くんこそ、相変わらず、ピカピカだ」

 珈琲でもお茶でも、寒くなると熱い一杯がうまくなるねえ……などと四方山話をする。最近では、お茶を淹れるよりも、淹れてもらえる身分らしい。ああ、この人は町議になったんだ……と実感しながら、沖田はメニューを広げた。

「……沖田くん、この間のラブホテルの件で、きたんだよね」

「ええ。でも、恐喝とか、そういう理由で呼び出したわけじゃ、ありません。幡野センセイが手を回しているせいだと思うんですけど、杉田紫乃が、春日部の実家に引き留められていて……」

「ああ。知ってますよ。ていうか、幡野センセイの指示で、私が工作した」

「ひどいなあ。なんでまた、そんなことを……」

「あの時、ラブホテルで出くわした四人のうちで、唯一、しゃべりそうなタイプだから、だそうです」

 沖田が、筋金入りの政治嫌いであることを、当然、幡野代議士は熟知している。

 花束の会をとうに辞めた今、わざわざ自分から、また、政治に巻き込まれそうなスキャンダルを吹聴してまわることは、ないだろう。

 瀬川姉弟は、そのちゃらんぽらんな性格と、凄まじい成育歴から、やはり他人に漏らす可能性はないだろう。ソープランド嬢の娘・息子として育ってきた2人にとって、身内の性的スキャンダルを噂される苦痛は骨の髄まで染みてるだろうし、不倫なんて些細な悪徳、悪徳の範疇に入らないのでは、と勘案する。

「とんでもない偏見だ」

「幡野センセイの性格、沖田君だって知ってるでしょう」

「で。シノだけが、口封じが必要な常識人だ、と」

「まあ、常識人というか、非常識人というか。……彼女、他人のプライバシーを、たとえ不倫でも、ちゃんと尊重するくらいの常識は、確かにあるでしょう。けれど、自分や恋人をの身を守るためなら、他人の秘密を、あっさり赤の他人に売り渡す人です」

「断言しましたね」

「幡野センセイだけでなく、私も同意見なんですよ、沖田くん」

「え……」

「ちょうど今、私ら、初めて顔合わせした喫茶店に来てるわけですが。あの時のこと、ちゃんと思い出してください」

「ええっと……ウチのほうは、シノとタエコと自分、そして名和さんのほうは森下さんを連れて……」

「沖田くん。君は杉田さんの友達として来ていました。つい、この間、出会ったばかりの友達として。ところが、あなたは森下さんと杉田さんのドロドロの交際、瀬川さんを交えての三角関係について、詳しすぎるほど、詳しく知っていた」

「それは、シノと初めてあった、新宿二丁目のゲイバーで……」

 思い出した。

 あの時、沖田が石巻在住のバイセクシャルだと知った杉田は、沖田が止めるのもかまわず、出会ったばかり赤の他人である沖田に、自分の交際のこと……なかんずく、森下さんのプライバシーについて、ベラベラしゃべり散らしたのだった。

「ね。彼女、杉田さんは、自分が助かるためには、全くの見ず知らずの他人にだって、知人の大切なプライバシーをぶちまける人なんです。その、暴露された被害者が、かつての恋人とか、お構いなしに。だったら、今後、どこかで杉田さんがピンチに陥ったとき、幡野センセイの秘密をベラベラしゃべらないとも、限らない」

「それは……」

「反論があるなら、どーぞ」

「名和さん。幡野センセイと不倫したこと、認めるんですね」

 名和氏は、珈琲とパンケーキの追加注文をすることで、沖田の質問をかわした。

「沖田くん。バイセクシャルでポリガミーっていうのは、都合のいいポジションだねえ」

「何を言いたいんです?」

「同じ、決まった配偶者以外と性行為をしようと、一方は不倫になり、一方は複数婚になる」

「名和さん。あなた、長年LGBT互助会の事務局を勤めておきながら、まだそんなことを言ってるんですか」

 沖田たちは、複数の男女と性交していたとしても、他のパートナーの認証を得たうえでだし、また、他のパートナーが違うパートナーと性交するのも、認めている。

「そもそも、配偶者以外と性行為をして……という考え方が、間違ってます。自分らポリガミーだって、配偶者以外の人と性行為はしないですよ。それが単に1人か複数人かの違いで、浮気不倫といった裏切りはしていない」

「そう、ハッキリ言われると痛いね」

「名和さんが信奉している倫理と、自分らが信奉している倫理は違うものです。そして、自分たちは自分たちなりの倫理をキチンと守って、生きている。名和さんの倫理の観点から、自分らの倫理が異端だからと言って、それを裁く根拠はなんでしょう。もちろん、2つの倫理を調停する裁判所なんてものは存在しない。名和さんのほうが圧倒的多数派だから、というのでは納得する人なんていない」

「ははは……私も、沖田君側に宗旨替えしたいよ」

「いばらの道ですよ。とにかく、敵が多すぎます」

 杉田に関する「牽制」は、結局解除してもらえなかった。

「秘密を守ってくれるっていう、確約がなければ、幡野センセイは首を縦にふらんでしょう」

 沖田は、ダメ元で反論してみた。

「ヤケになった自分が、破滅覚悟で、大々的にバラすっていう可能性も、ありますよ」

 名和氏は、どんな返答をすべきか、迷っているようだった。

 沖田は、彼が言いそうな台詞を、代わりに言ってやることにした。

「そんなことをしたら、全面戦争だぞ……ですか、名和さん?」

「いやいや。沖田さん。彼女……杉田さんは、君が人生を棒に振ってまで助けたい相手なの?」


 ニコニコ興信所から、最初の中間報告が上がってきた。

 曰く。

 もう、手を引きます。

 簡易書留で送付されてきたレポートによると、調査に入った段階で、既に県議の行動に不審なところはなくなっていたそう。

 まあ、ほとぼりが冷めるまで自粛しておこうか……というところだろうけれど、とにかく、写真その他決定的証拠を掴むチャンスはなくなったわけだ。

 ニコニコ興信所は、それでも諦めなかった。

 張り込みの代わりに、地道に聞き込みとか、したそうな。

 町議が県議の子分で、一緒に行動する機会が多いの当たり前。不審な行動をするヒマもなさそうだけれど、2人が自宅を出てから自宅に帰るまで、文字通り一日中尾行もした、という。

 聞き込みでもっとも力を入れたのは、例の沖田たちが県議と遭遇したラブホテルである。けれど、どうやら2人がそこを利用したのは初めてだったらしく、顔どころか存在を覚えているスタッフは皆目いなかったらしい。まあ、県議はバケットハットでしっかり顔を隠していたし、フロントは曇りガラスで顔を見られない仕様ではあるし、何より、この手の客商売ならではの守秘義務っていうのも、ある。どこの馬の骨か分からない探偵風情に本当のことを話す人も、いるまい。そもそも、県議が毎度ホテルを替えているなら、この手の聞き込みは無意味な努力である。仙台やその周辺のラブホテルの数を考えれば、二度と利用しないでも、やり過ごせるのだから。

 沖田は後日、この中間報告片手に、ニコニコ興信所に連絡を入れた。

 なにより「もう手を引く」という投げやりな言葉が、気になったのだ。

 挨拶もそこそこに、ニコニコ社長は捲し立てた。

 おじいさん……ニコニコ興信所唯一の所員が、暴漢に襲われて入院したのだ、という。

「幡野センセイについているボディガードとか、そういう人たちですか?」

「違います。県議を尾行していたときじゃなくて、潜入捜査の時」

「潜入? 県議の事務所にですか?」

「違いますよ。花束の会、事務所ですよ」

 名和町議は自宅で仕事をする人なので、特別にオフィスをかまえたりは、していない。幡野県議は、JR利府駅裏、不動産屋さんの二階を格安で借りて事務所にしている。半ダースほどいる秘書さんたちが、たぶん政治以外のなんやかやの仕事で常に出入りしていて、本気で家探ししようと思ったら、泥棒のマネゴトをするしかない。そもそも、県議にせよ町議にせよ、政治家本業の仕事場に、不倫の証拠を隠すようなマヌケはしてないだろう。

「で。一番ありそうなのが、花束の会本部かな、と」

 名和氏が当選した後、専業の事務局が新しく決まったわけではなく、相変わらず、ここの主は名和氏のままだそうだ。

 事務所キャビネットに保管してある書類は、偽装結婚がらみ等、秘密保持が必要となるのがほとんどなので、会員が来訪したとして、むやみに触ったりはしない。

 そして前述の通り、事務作業は名和氏が一手に引受ているわけで、普段から書類に触れるのは、いまだ、彼一人ということだ。

 木を隠すのには、森の中。

 不倫書類を隠すのは、偽装結婚書類の中、というわけだ。

 同じ事務所といっても、ここなら幡野代議士と名和氏が2人っきりでも、怪しまれない。予告なしに、他のメンバーが出入りする危険もない。

「不倫の証拠を隠すのには、好都合過ぎる場所でしょう」

「なるほど……素朴な疑問、いいですか、ニコニコ所長。わざわざ自分の不利になるような不倫関係書類、保管しておく意味、あるんでしょうかね」

「保険ですよ」

「保険?」

「名和センセイが、幡野センセイを裏切る可能性がないとでも? 逆に、県議が町議をトカゲの尻尾切り、する場合もあるでしょうしね」

 使い道はいくらでも、とニコニコ所長は言う。

「なるほど」

 ニコニコ興信所では、片桐氏の紹介を得、新会員として花束の会に潜入した。

「喧嘩別れみたいに放逐された沖田さんより、円満退会した片桐さんに紹介者になってもらったほうが、怪しまれないだろうという配慮でした。依頼者をないがしろにした感じで、ごめんなさい」

「いえ。気を遣わなくとも、結構ですよ。結果さえ出ればいいんですから。で? そこで暴行を受けた、とか」

「ええ。多分、名和さんの差し金かな、と」

 町議になった名和氏が、以前のように丸一日事務局に詰めているわけではないのは、知っていた。15時に面会の約束をしておき、ニコニコ興信所の老探偵さんは、13時半に事務所に行った。そう、一時間半、たっぷり家探しする算段だ。もし、他会員や名和氏がきた場合には、もの珍しいのであちこち見学していた……と頭を下げる。これで、家探しがバレても、怪しまれない……いや、少なくともペナルティは課せられない。14時半、少し早めに名和氏が来る。後ろには、中岡大輔はじめ、ゲイ会員をぞろぞろ引き連れていた。

 老探偵さんは、一応、証拠の確保には成功していた。ラブホテルの領収書だ。すべてクレジットカードで払ったらしく、名前がしっかり確認できる。これだけでも沖田の用にはじゅうぶんだろうけれど、老探偵さんは、さらに頑張ろうとしていた。スナップ写真等、画像その他決定的証拠の探索だ。

「そういうのは、スマートフォンとかの、中でしょう」

「私もそう思います、沖田さん」

 老探偵さんも、同じ考えだった。

 だから、「トシのせいで電話の使い方がイマイチ分からない」と、耄碌したふりして、相手のスマートフォンの中を覗こうとした。うまく連絡先直接交換まで持込、スパイアプリ等を送り込めないか、やってみた、という。

 しかし……ようやく名和氏が携帯電話を出した矢先、中岡大輔がしゃしゃり出てくる。

「リクエスト通り、お友達になりたいっていうゲイ会員の皆さん、連れてきましたよ」

 そうだった。

 家探し待合せの口実は、「なりたてホヤホヤのゲイなので、同性愛者の友人がいない。ついては、いい人を紹介してくれ」だったのだ。老探偵さんは、名和氏とじっくり話す間もなく、仙台国分町のゲイバー廻りに連れていかれた。まだ夕方4時だというのに、1軒目からヘベレケになるほど飲んだ。2軒目でカラオケに行ったところまでは、なんとか覚えているという。老探偵さんは、いつの間にか、半ダースのゲイたちと、ラブホテルに来ていた。全員が全裸で……いや、中岡大輔だけが、なぜか絞り鉢巻にフンドシ姿である。

「フケ専のお友達、これだけ集めるのに、苦労しましたよ……と、中岡さんが、薄気味悪い笑い声を上げたとか。閻魔殿の鬼を思い出して、背筋が寒くなった、ですって」

「おお」

 中岡大輔は、老探偵さんの尻穴に、ワセリンベッタリの指を突っ込んでいったそうな。

「実はノンケで……」と打ち明ける老探偵さん。「おお。ノンケ。実は僕らも、そういう設定、シチュエーションプレイ、すんごく好きですよ」とクマみたいな大男が、顔を近づけていく。逃げようと思ったときには、もう、遅かった。無精ひげまみれの唇が、老探偵さんの口を強引に開かせた。舌を突っ込まれて、嘔吐しそうになったところから、老探偵さんの地獄は始まった……。

「彼、ノンケですよね」

「当たり前です」

「いきなり、それで、6人の男か」

「中岡さん入れて、7人ですよ。結果、肛門裂傷。括約筋がズタズタになったとか。私、怒り狂いましてね、お爺さんのために、アイツらを訴えるつもりだったんですけど。当のお爺さんが、恥ずかしいから、やめてくれって……」

 最初の紹介者、片桐氏も、警察への被害届提出には、否定的だったという。

「そもそもが、潜入捜査のため。さらに、真正ゲイで、この手の友達が欲しいって、自己申告していたわけです。中岡さんたちにしてみれば、歓迎の飲み会をして、老人では相手してくれる人がいないだろうから、わざわざフケ専なんていう特殊性癖の人まで探し出してきてくれて。親切心からやっている上に、実際に真正ゲイなら、大喜びするだろう、と。肛門裂傷っ言ったって、この場合、二重の意味で騙していたニコニコ興信所のほうが悪いだろう、と」

「はあ」

「極めつけに……ラブホテルにまで行って全裸になって、セックスする気が全くなかったっていうのは、警察だろうが裁判所だろうが、通用しないんじゃないか、と」

「はあ」

 所長は、それからグチグチと依頼人である沖田をなじったり、傍若無人の中岡大輔を非難していたりしたけれど、やがて、ため息をついて、言った。

「ごめんなさい。八つ当たりです」

「心中、お察しします」

「政治家相手の調査っていうのは、やっぱり、鬼門ですわねえ」

 今回、老探偵さんが「被害」にあったのは、多分、政治家どうのこうのとは違うと思う。けれど、所長さんの所感が変わることは、なさそうだった。

「相手は、警察でも何でも動かせる県民の代表。お爺さんが乗り気だったから、引き受けちゃったけれど、これに懲りて、もう政治家うんぬんを調査することは、ないでしょう。沖田さんも、長いものには巻かれたほうが、いいですよ」

 料金は大幅サービスしておくし、これで調査から下ろさせてくれ……と、ニコニコ所長から申し出があった。沖田は、老探偵さんへのお見舞金を上乗せして払うことにし、労いの言葉を述べた。

「今後は、政治家相手だけじゃなく、LGBT方面も、気をつけたほうがいいですよ」


 失敗に終わった結果を、もう一組の「探偵」、江川俊介たちに話す。

 例によってビデオ通話で、今回はマサキも立ち会った。

 お互い、名前はよく知っていたけれど、江川とマサキが直接話すのは、初めてである。江川は、ニコニコ興信所の調査結果をより詳しく知りたがり、マサキは過去の、江川と沖田の関係を知りたがった。

 それを宮坂さんが、一言も発せず、見守っている。

 彼女は風呂上りだそうで、緑の縦縞パジャマに真っ赤なドテラを羽織っていた。目の下にくっきりとクマをつけ、あくびが止まらない。なんだかすごくお疲れのようである。

「昨日、難産に立ち会ったのよ。産気づいてから18時間経っても産まれなくて、結局獣医さんを呼んでね……」

 最後まで言い終わらないうちに、また、大きなあくび。

「俊介。話は、2人だけでも、できるぞ」

 沖田は、オブザーバー2人に配慮したつもりだったけれど、宮坂さんもマサキも、最後まで聞く、と譲らなかった。

「……ラブホテルの領収書のコピー。しかもクレジットカード使用の名前入り。ばっちりじゃないか」

「交渉材料には、しずらいよ。名和さんが来る前に家探しして入手したものだ。逆に、君たちを家宅侵入罪で訴えるって脅されたら、反論できない。配偶者間でなら合法になる証拠集めも、自分らには適応されないんだ。浮気調査専門の興信所の限界かな。まあ、これ以上の嫌がらせをされた時に、対抗できるカードにしか、ならない」

「しかし、トキオ。幡野センセイたちは、お前にホテルを出るところを押さえられて以来、浮気自粛中、なんだろ? 非合法でない証拠っていうなら、現行犯を押さえるしかないんだろうけど、それこそ無理じゃないのか」

「そうなんだよなあ……」

 考え込んでしまった沖田に、宮坂さんがアドバイスをくれる。

「集めた証拠が合法になるように、さらに味方を増やせばいいじゃないの?」

「というと?」

「コロンブスの卵よ。幡野センセイの旦那さんと、名和さんの奥さん。浮気されてる当事者を、こっちの味方につける。そして、サレてるお二人に、さらになる調査をお願いするってわけ。スマホの中身とか、私たちでは触るのも難しそうだけれど、夫婦ならチャンスはいくらでもあるじゃない」

「あ。盲点だったな。さすが、不倫経験者」

 マサキの余計な一言で、宮坂さんがへそを曲げてしまう。ご機嫌取りにいささか時間を使ったあと、沖田は「問題を蒸し返すようだけれど……」と切り出した。

 浮気されている当事者に打ち明けるというのは、王道中の王道だろうけれど、事が大きくなるのは避けられない。県議たちからの反動というか、とばっちりというか、下手をするば、今まで以上に嫌がらせされるような状況は、避けたい。

「トキオ。それでは堂々巡りだ」

「分かってるよ、分かってる。でも……宮坂さん?」

「それは、浮気された人たちへの、打ち明け方次第、よね」

 情報源を黙っててもらう、というのが一番オーソドックスなやり方だけれど、そもそも、幡野代議士にせよ、名和町議にせよ、沖田たちが不倫ことを知っている、ということを知っている。

 誰が告げ口したのかは、火を見るより明らかだ。

「……だからこそ、情報の提供と、説得を同時に行うようなテクニックが、いります」

「具体的には、宮坂さん?」

「具体的には……配偶者さんたちの性格に合せて、作戦を立てます」

 町議の手伝いをしたときに、名和氏奥さんの人となりは、だいたい理解できたと思う。さらに、江川と宮坂さんが、探偵のマネゴトをして集めた情報もあった。

「僕らは、名和氏のほうが組みやすしと思って、そちらの調査専一でやってきたからね」

 ちなみに、沖田は幡野代議士に旦那さんという人に、直接会ったことはない。

「自宅に伺ったことはある。歯医者さんで、儲かってそうな大邸宅だった。果たしてやり手のオッサンか、はたまたロマンスグレーの紳士か……」

「トキオ。君が会ったことがないなら、僕らなんて、なおさら、情報ない」

「そうだよな」

 落ち込む沖田に、宮坂さんが声を励まして、言う。

「そちらの調査をしてから、動きましょうか。担当は、マサキくん、お願いできるかな」

「え。なんで、オレ……」

「沖田さんに聞いたわよ。超、がつくくらいの、甘党なんでしょ。虫歯の有る無しはともかくとして、食生活を考えたら、一度、ちゃんと歯医者さんに診てもらうの、悪くないんじゃない?」


 調査に継ぐ、調査。

 沖田は……自分たちにとばっちりが来ないように、慎重に行動していたつもりだった。

 でも、甘かった。

 マサキが、原弥生のバー通いをしているうちに、この浮気暴露作戦をベラベラしゃべってしまったのである。

「ベラベラなんて、しゃべってませんよ」

 紫乃ちゃんは、最近どうしてる? ウチのバーに来てくれないけど……と聞かれ、問われるまま、知っていることを教えた、ということらしい。

「ていうか。トキオ兄ちゃん、紫乃姉ちゃんの件、弥生ちゃんに秘密にしておけって、口止めしなかったよね」

 まあ、確かにそうだ。

 杉田を春日部に足止めしている工作員が名和氏で、沖田がパンケーキを食いながら交渉し、結局は失敗に終わったことも、原弥生は知ってしまった。

「つまり、幡野センセイに直談判しない限り、紫乃姉ちゃんは帰って来ないって、弥生ちゃんは結論したわけです」

 ラスボスがはっきりした今、勇者・原弥生は、紫乃姫を奪還すべく、魔王城……利府しらかし台の幡野邸に乗り込んだのである。

「原くん、なんて男らしいんだ」

「シーメールっスけどね」

 沖田は、一度は止めた。

 もう赤の他人になった人の不倫騒動なんて興味ないし、杉田さえ帰ってくればいいので、藪蛇なことは止めてくれ、と拝み倒した。不倫当事者を直接責めなければ気が収まらない……というなら、せめて、名和氏のほうにしてくれ、とも頼み込んだ。

 けれど、原弥生の決意は固かった。

 バイセクシャルグループの人たちとは違う交渉術があるよ、と言われれば、止めにくくもある。

 夕方、稲荷小路のバーの開店時間に合せ、沖田はマサキとともに、原弥生の話を聞くべく、駆けつけた。

 バーテンダーの仕事のときは、男装しようが女装しようが、きちんとスーツを着て蝶ネクタイ姿なのに、珍しく革ジャンに迷彩柄のチノパン姿である。腰にはチャラチャラとゴールドのチェーンをつけている。普段の上品そうな雰囲気は、どっかに吹っ飛んでしまったかのようだ。

「今日は、仕事をしに来たわけじゃなく、マサキくんたちと同じで、バーの客として来たから」と原弥生は言い訳して、沖田たちの隣の席についた。

「弥生ちゃん。首尾は、どーだったの?」

 マサキが恐る恐る聞くと、原弥生はしかめっ面で、答えた。

「失敗した」

「えーっ」

 思わず、沖田のほうが、声をあげる。

「それって、浮気バレを開き直った反動、あるかもしれないってこと?」

「ああ。幡野センセイから、報復があろうがなかろうが、それは成功失敗とは、関係ないでしょ。問題は、紫乃ちゃんが、石巻に戻ってくるかどうかで」

「いや、まあ、理屈ではそうだけど」

「実は、幡野センセイの旦那さんとは、かなり前から顔見知りです。花束の会とは、全く無関係な筋からの紹介で。世間は狭いもんですよね。実は、趣味を同じくする仲間なんです」

「趣味?」

「軽音です。バンドですね。プロを目指して、どーのこーのっていうのではなくて、各人、トランペットでも和太鼓でも、好きな楽器を持ち寄って、セッションしようっていう」

「ほほう」

「旦那さんの学生時代のサークル活動が母体の集まりですから。ほとんどが初老のオッサンです。たまたま、このバーのお得意さんが、その輪の中に入ってる人でした。転勤族でジャカルタに単身赴任して、もう既にセッションからは抜けちゃった人ですけど、その人の紹介で僕も加入しました。ギター、ベース、ドラム、そう、軽音につきもののありきたりな楽器の奏者は揃ってたけれど、もうちょっと毛色の変わった音色が欲しいねって言われて。僕、シンセサイザーを扱えるからって、お手伝いすることになったんです。サークルのリーダーっていう人が、長町に私設の音楽スタジオを持っていて、日曜祝日、皆で集まって二時間くらいセッションするんです。ガシャガシャ音を出した後は、ウイスキーで飲み会。女子禁制の会だから、気を遣わなくていいし、音楽抜きでも、すごく面白いですよ」

「それで?」

「ラブホテルの領収書のコピーを借りて、この恰好で幡野センセイに会ってきました。証拠はちゃんと握ってるぞ、紫乃ちゃんにチョッカイを出すのを辞めないなら、このあと旦那さんたちとセッションがあるから、あることないこと、バラすぞ……て」

「いや、ないことはバラしちゃ、ダメでしょ」

「幡野センセイ、ニッコリ笑っていました。それ、沖田くんの差し金? て」

 沖田は、県議を真似た原弥生の口調に、背筋が寒くなる。

「領収書を振りかざしての欲求が、紫乃姉ちゃんがらみですからね。ウソを言っても仕方ないと思って肯定しました」

「いやいや、ウソでしょ、それ」

「もちろん、沖田さんの譲歩案……紫乃ちゃんの石巻帰還さえ約束してくれれば、スキャンダルをおおっぴらにするつもりはない……ていうのも、ちゃんと伝えましたよ。幡野センセイは、名和さんと同じことを言いました。紫乃ちゃんの口の軽さをどうにかできるなら、約束を果たせるけどねって」

「堂々巡り。名和さんとの交渉から、進展してないじゃん」

「ちょっとだけ、条件を引き出すところまでは、いきました。紫乃ちゃんの軽口どうのこうのっていうけれど、今さら本人の性格は変えられないって言ったら、じゃあ、何か彼女の弱みを握れないかしらって……。醜聞をバラしたら、こちらもバラすって脅す材料があれば、それが抑止力になるって言うんです」

「まあ、理屈の上では、あってるか?」

「紫乃ちゃんにしたら、迷惑なだけの話ですよね。悪いのは幡野センセイのほうなのに、何が悲しくて自分の弱点をさらけ出さなくちゃならないのかって」

「まあ、そうだ」

「こんな一方的な言い分、飲む人なんていませんよ……て抗議したんですけど、いいから沖田君のところに持ち寄ってって言われて……旦那さんとのセッションは、この交渉条件のことで頭がいっぱいで、興が乗りませんでした。自分がダウナーだったせいで、飲み会の時間を待たずに、早々と解散になっちゃいました。どこか具合が悪いのかって、心配してもらいました」

「それはそれは……で、どーするかな」

 マサキが間髪入れずに言う。

「紫乃姉ちゃんに、とりあえず連絡する。これ一択でしょ」

 酔っ払う前に、条件のことを伝えましょう……とせかされて、沖田は電話をとった。

 杉田はちょうど入浴中だった。「ビデオ通話で、裸が見えちゃうーっていうお約束、する?」と聞かれたけれど、そんな気分じゃないと沖田は返事した。お茶目な声色が、一瞬で真面目に変わった。

「で? トキオくん」

 杉田は、沖田とマサキが交互にしゃべるのを黙って聞いていた。けれど、そのうち、拍子抜け、という感じで言った。

「なあんだ。そんなことなの。それなら既に、幡野センセイたち、私の弱点、把握済みじゃない」

「どーゆーこと?」

「学校にカルテット交際のこと、バラすっていう脅しよ。ていうか、脅迫材料にした名和さん、気づかないもんかしらね」

 石巻に戻ってきたら、学校にLGBTであることをバラすぞ、というのが名和氏の脅しだった。でもそれなら、石巻に……ではなく、不倫のことをしゃべったら……というので、OKでは? と杉田は言う。

「言われてみれば、すごく簡単だ」

 一応、納得はした沖田だけれど、すごく違和感があった。

 違和感の正体がはっきりしないうちに、原弥生が幡野代議士に、その場ですぐに電話を入れた。ツッケンドンな反応が返ってきたらしく、原弥生は珍しく終始男口調だった。

 20分後、ゲンナリした顔を隠そうともせず、原弥生はウイスキーのストレートをダブルで頼んだ。グラスが来るとすぐにグイっと飲み干して、少しむせ、そして言った。

「紫乃ちゃん、帰ってきますよ」


 杉田が石巻に戻ってきたことで、思い出したことが3つある。

 一つ目は、草加市が埼玉県にあったということ。

 二つ目は、瀬川も埼玉に行っていたということ。

 三つ目は、杉田が生粋の女王様体質だったということ。


 杉田がお土産に持ってきた草加せんべいは、その日のうちに全部消費した。というか、酒の肴になった。沖田の写真館で「杉田紫乃・石巻凱旋パーティー」なる宴会をし、夜明けまでどんちゃん騒ぎをしたせいである。杉田解放の一番の功労者として、当然、原弥生も招待した。杉田にいいところを見せたいから……と原弥生は目いっぱいのおしゃれをしてきた。タカラヅカの男役を思わせる、フリルフリフリのスーツである。けれど杉田本人には不評……とまでは言わないけれど、「どーせなら女装のほうが良かった」と言われてしまう。「あり合わせのモノで悪いけれど」とマサキが急いでメイド服をもってきて、原弥生を着替えさせてくれた。リボンをつけ伊達メガネを装着すると、女性用の化粧なんかしてないのに、あら不思議、絵に描いたような「美少女」のできあがりである。「女性ホルモン入れてるって聞いてたけれど、即興で、これくらい化けられるっていうのは、尊敬する」と杉田は感嘆した。

「ここって、沖田さんとマサキ君の住まいだよね。なんでメイド服なんておいてあるの?」

「それはね。私もここに時々泊まっていくからよ」

 メイド服の本来の持ち主、瀬川がふくれっ面で、弟の頬をつねる。

「なにさ。私が何着ても手放しでは褒めてくれないくせに」

 涙は全く出てはいないのだけれど、瀬川は泣くふりもした。

「紫乃姉ちゃん、紫乃姉ちゃんって。私も埼玉にずっといっぱなしだったのに。私のことなんて全く忘れてたんでしょ。そうでしょ。マサキのイケズーっ。トキオくんのバカーっ」

 沖田はマサキを誘って土下座したけれど、瀬川の機嫌は良くならず、不貞腐れた彼女に変わって、杉田が男どもの後頭部をむんずむんずと踏んずけていった。

 慌てて原弥生が女性陣を取りなす。缶チューハイをお酌しながら、「実のお姉ちゃんのことだから、いくら内心では可愛いと思っていても、照れくさくて口に出しては、言えないんですよ」とフォローを入れた。

「なにさ。姉と弟っていう前に、恋人同士でしょ」

 酔いがまわっていたのか、瀬川は弟とのことを暴露した。

「え。カルテット交際っていうのは、知っていたけれど、妙子さんとマサキくんまで?」

 知られてしまっては致し方ない……と瀬川は交際のそもそも始めから、中岡大輔の最初の盗撮の捕物騒ぎでの告白場面から……洗いざらい、しゃべった。

 まあ、酔ったふりはしていたけれど、本当は打ち明けたくて、ずっとウズウズしていたんだろう、と沖田はため息ついた。原弥生は、カルテット交際の大半を知ってはいたけれど、ビアングループ森下さんからの横やりや、沖田のアイデンティティクライシスの話だの、幾多の困難を乗り越えきたところまでは、知らなかった。沖田はヘソ天になって、杉田にキンタマを踏んずけられながら、原弥生に言った。

「だから、踏んづけられたり蹴られたりするのも、プレイのうちだから、心配しないで」

 酔った勢いもあるし、四人全員集まるのが久しぶりだったから……というせいもあったけれど、沖田たちは原弥生の存在を無視して……いや、恰好の観客だと意識して、いつものプレイを推し進めてしまった。原弥生は、途中までは見学をしていたけれど、「悪酔いしたみたいです」と応接室を退散した。「エロ過ぎて、ゴメン」と瀬川がすかさず声をかける。原弥生は首を横に振り「仲の良さに入っていけないな、と思っただけです」とつぶやいて、ドアを閉めた。

 閉まったドアに向かって、マサキが自分の部屋の場所を教える。

「マサキの部屋は屋根裏部屋で、ハシゴが危ないから、トキオくんのを使って」と瀬川が弟に馬乗りになりながら、さらに追い打ちの声をあげた。

 翌朝、すべてを忘れてしまったふりをしながら、顔を洗いに来た杉田に、原弥生は声をかけた。

「なんだか、LGBTの深淵を見ちゃった感じがします」

 杉田はTシャツの下に透けて見えるノーブラの胸は隠さないのに、化粧してないスッピンを晒すのはイヤなのか、そっぽを向いて言った。

「明日からは、その深淵にひそむ怪物を見せてあげる」

 杉田は、幡野代議士不倫疑惑を、大々的に告発した。


 アウティングは、LGBTにおける最悪の「犯罪」の一つである。

 大都市でなら、カムアウトという形で、自分の性癖を公表するLGBTもいる。そう、最先端の地に住まうLGBTにとって、自らのアイデンティティを公表する勇気を持たないのは、逆に罪の一種なのかもしれない。

 田舎では、自分の身を守るためにも、徹底的にLGBTであることを、隠さねばならない。江戸時代のキリシタン詮議そのままで、異端であることがバレたなら、本人に対して「社会的な死」が下る。いや、そればかりか、一族郎党が、その地にいられなくなる。

 日本に数あるLGBT組織は、たいてい、どちらかのポリシーを標榜しているものだ。本拠地が置かれている地理的事情に左右される。花束の会は、そんな「カミングアウト」ポリシーが、どちらかに偏らない稀有な会だった。いや、二つのポリシーが激しくぶつかりあっていた。東京に新幹線で一時間で直結する仙台という大都市と、日本有数のコメどころを抱える典型的な東北の田舎が隣り合わせであるという、摩訶不思議な地、だからだ。

 偽装結婚うんぬんについて、激しく論議を重ねられてきたのも、自分の住まう場、生き方を賭けて、主張を曲げない人が多かったからに、他ならない。

 だから、保身のために、簡単に「アウティング」を脅しに使おうとする幡野代議士を、杉田は許せない。

 自分の職を賭して、刺し違えても、幡野代議士を告発すると、杉田は実際に告発する前に、沖田に告げた。LGBTに無知無理解な人が、アウティングを脅しの手段として使うのは許せる……いや、許せはしないけれど、仕方ないとは思う。けれど、仮にもLGBT互助会トップにして、実際にLGBTでも何でもない人が、そういう悪行をするのは許せないし、許してはならない……と言うのだった。

「とばっちり、トキオくんのほうに行かないようにするから、安心してね」

「いいよ。紫乃が、そういう決心で全面的に闘うなら、自分も全面的に加勢する。一緒に闘う。一緒に傷も負うよ。一蓮托生だ」

 で?

 具体的に、どーする?

「宮城県内のマスコミだと、幡野センセイの息がかかった人が、いるかもしれない。だから、東京のメディアを利用するの。今度のことで同級生とあちこち連絡をとってみて分かったんだけれど、出版社だのラジオ局だのに就職した友達も、いるのよ」

 第一弾は、女性週刊誌に「地方議員のお盛んな下半身事情」なるスキャンダル特集記事として載った。

 石川県の町長、愛媛県の県議、北海道の市議など一緒に、「宮城県のH・H県議」が元秘書とダブル不倫をしている、と書きたてられてしまったのである。他の都道府県の醜聞政治家がどこまで身バレしてしまったかは分からないけれど、幡野代議士の場合、隠しようがなかった。イニシャルH・Hの県議は2人しかおらず、もう一人は男性県議だったからだ。宮城県内に、ローカルニュースや流行りの店の紹介などをするミニコミ誌・地方紙はあれど、この手のスキャンダルを積極的に取りあげるメディアはない。

 ゆえに県議不倫の噂は、ソーシャルメディアで……SNSやらネットの匿名掲示板などで、さざ波のように広がっていった。パソコンやネットに詳しいマサキが中心になって、この「スキャンダル記事」を拡散すべく、あちらこちらに「噂」の書き込みする。短期決戦するために、本業の写真屋もサボらせてくれ……と頼まれ、沖田は了承した。パソコン作業のためとはいえ、ずっと椅子に座りっぱなしだと痔にならない? と沖田は心配した。「トキオ兄ちゃんのハードなピストン運動にも耐えたお尻ッス。大丈夫大丈夫」とマサキに返答され、沖田は柄にもなく赤面してしまった。

 マサキ曰く、情報の広がり方から見るに、カルテット交際メンバー以外にも、有力な情報拡散グループがいるみたいだ、と。

「やたら県政に詳しいところを見ると、細井さんとか言う、幡野センセイのライバル元県議じゃないッスかね」

「やれやれ。まあ、幡野センセイ側にしてみれば、分かりやすい敵で良かったってことかもね」

「うーん。その、細井さんだけじゃなく、今回は分かりにくい敵も多いッスよ。元秘書だけでなく、他にも男をとっかえひっかえっていう、デマを流しているヤツもいるっス」

「それ、本当にデマ?」

「さあ。でも、本当に男をとっかえひっかえしてたなら、とうの昔にバレてると思うッス」

「まあ、そうか」

「それに、この書き込みしている粘着野郎、幡野センセイ以外の有名人にも、あちこち噛みついてるみたいッス。今が旬のアイドルとかタレントとか、しかもウソ八百がバレると逆ギレして。確信犯のほら吹き、かつ愉快犯、かつ根暗な無職ってプロファイリングしてみるっす」

 まあ、地元のミニコミ誌が報じただけでは、ここまでの野次馬はでないか。

「……さすが、東京のメディア発信ってとこだねえ」

「不思議なことに、敵だけはいっぱいいるのに、今回、幡野センセイの味方が全然出てきてないっス。本家・花束の会の人たちの反応、どーっすか? あの人たち、幡野センセイの一番の味方でしょう」

 森下女史も中岡大輔も、様子見というか、沈黙を守っているようだ。

 普段なら真っ先に「こんな醜聞は真っ赤なウソだ。幡野センセイに対する個人攻撃だ」だの騒ぐところなのに、確かに、不思議な事ではある。ひょっとしたら、森下さんたちで独自に情報を持っていて、県議を疑っているのだろうか?


「キャンペーン第二弾、いくわよ」と杉田が勇んで写真館に来た日、このへんの疑問をぶつけてみた。

「紫乃。まだ、森下さんと、やりとりあるんでしょ?」

「うーん。そうね。中岡大輔のほうは知らないけど、有香のほうは……森下さんのほうは、ちょっぴり心当たり、あるかも。私、幡野センセイにアウティングするぞって脅された件、彼女に教えたの」

 不倫情報の件は笑い飛ばした森下さんだけれど、アウティングの話をすると、考えこんでしまったそう。ビアンとして身につまされるところがあるのか、それとも別に何か思うところがあったのか。

「それより、もっと耳よりな情報、あるよ」

 県議会において、とうとう、幡野代議士は不品行の噂について、正式に質問されてしまったそうな。

「辞職、待ったナシよね」

 杉田が勝ち誇ったこの日の夜、名和氏から久々の連絡があった。

「沖田くん。パンケーキ、もういっちょう、どうかな?」


 場所は例によって、利府イオン内の喫茶店である。

 沖田はいつも通りワリカンでも良かったのだけれど、なぜか名和氏は奢ると言って、きかない。せっかくだからと勧められるまま、沖田は一番高いのを注文した。

 この日は正調・伊達スペシャルと称する、食数限定特別製があった。胡桃入りの生地にずんだ餡をトッピングした和風……いや仙台風パンケーキに、お替り自由の黒豆茶。きなこねじりを添えたセットメニューだ。子どもや若い女性だったら、少し渋いチョイスかなとも思うが、地元大好きな生粋のオッサン2人には、ちょうどいい。

 いつもはもったいつけて、他のスイーツの話をしたり、天気の話をしたりするのに、この日は愚痴から話題がスタートした。

 曰く。

 東京のマスコミに対する愚痴。花束の会のワガママメンバーに対する愚痴。聞き分けのない女房子ども舅に対する愚痴。杉田に対する愚痴。そして、幡野代議士に対する愚痴……。

「自分に対する愚痴も、あるんでしょう?」

「沖田くんに対する愚痴、か。よしときましょう。これから、色々とお願いする立場ですし」

 セットメニューは瞬く間に食べ尽くし、それから2人で珈琲を一杯ずつ飲み干しはしたけれど、「なんだか香りもコクも分からない」と名和氏は目を白黒されていた。体調は万全なんだけど、とハンカチで額の汗を拭う名和氏を、沖田はちょっとからかってみる。

「苦い、甘いは分かるんですよね?」

「ええ。特に、苦いのはよく分かりますよ、沖田くん」

 メタファーのつもりか何だか、分からない言い方ではあった。

 名和氏が話を切り出すのに先だって、沖田のほうは確認したいことがあった。

「世間に不倫バレしたのは、幡野センセイのほうだけであって、名和さんのほうはバレてない。そうなんですよね?」

「その通り。お陰で立場が悪くなってますよ」

 現状、一番困っているのは、幡野代議士その人から、忠誠心というか愛情というか、「尽くす心」を疑われていることだと言う。

「杉田さんと、何か取引して……私の名前が出ないように、裏工作したんじゃないかって、疑われてるんですよ」

「なに、誤解を解くのは簡単だ。ふたごころありません、その証拠に不倫の相手は私だと公表します……って、幡野センセイに言えばいいんですよ」

「バカ言っちゃいけません。でも……そのバカな提案をしてきた人がいますよ。中岡大輔くんです。同じゲイなのに、片桐さんと比べて、どーしてこう、常識ないんだろうって思います」

「中岡さんは、なんと?」

「公表して……幡野センセイを誘惑した私が全部悪いんですって、トバっちりを全部ひっかぶって、腹を切れって、詰め寄られました。彼としては、花束の会を守る、イコール、トップの幡野センセイを守る、イコール、事務局の名和は切り捨てていい……ていう思考らしい。ま、LGBTを守るためなら、なりふり構わず何でも犠牲にする中岡くんらしい発想かな。でもですよ。私、自分で言うのもなんだけど、こんな面白そうなデブっちょのオッサンなんですよ。センセイを誘惑して、しかも成功させただなんて、誰が信じますか」

「でも、実際に不倫しちゃったんでしょ?」

「……」

「ぶっちゃけ、本当はどっちから誘惑したんです? それとも、グデングデンに酔っ払って、気がつくと、いたしちゃってたパターンとか?」

「ノーコメントですよ、沖田くん」

「お二人とも、政治家なんかでなければ、ここまで大事にはならなかったでしょうに」

「一般人同士でも、私のほうは大事ですよ。妻と義父の気性、あなただってご存じでしょう」

「まあ、ねえ……で。そろそろ、本題に入りましょう。不倫騒動がらみっていうのは分かってますけど、今日は、一体なんです? 紫乃がこれ以上しゃべらないように、口にチャックさせてくれ、みたいなのは、不可能ですよ。というか、紫乃だけじゃなく、自分の恋人たち……瀬川姉弟も、みんな、腹をくくってます」

「そうですねえ。まず、お願いが三つあります」

「どうぞ」

「一つ目。幡野センセイの不倫相手……いや、不倫相手と目されている男が、私であるということを、これからも……少なくとも、この騒動が終わるまでは、秘密にしておいて欲しい」

「今さっき、バレなかったせいで、逆説的に困ってるんだっていう話、しませんでした? それを舌の根が乾かないうちに……」

「幡野センセイが失脚しないための方策に、どーしても必要不可欠な条件なんですよ。最後まで聞いてもらえれば、分かります。で、二つ目。幡野センセイたちへの演技指導、及びアリバイ作りです。図々しい話なんですが、できれば杉田さんその人に、稽古をつけて欲しい。センセイ窮地脱出のためのシナリオは、私のほうで書いてあります。でも、その演出というか監督というか……」

 そして名和氏は、テーブルに置いてあった紙ナプキンを一枚二枚取って、あちらこちら絵図を書きながら、説明してくれた。

「うーん。そんなうまくいくかなあ」

「沖田くん次第ですよ」

「で。三つ目の条件とは?」

「条件、じゃなくて、お願いですけどね……私の代理人として、沖田さん自身が、幡野センセイと一緒に、記者会見に臨んで欲しいんです。県内だけでなく、東京のプレスを集めますから、堂々釈明を」

「え? 名和さんの代理? 幡野センセイの元秘書ですって、ですか?」

「違います。花束の会事務局として、ですよ」

 記者会見がうまくいったら、旦那さんへの説明もお願いします、と名和氏は付け加えた。

「あれこれ、名和さんの言い分は分かりました。これ、もう、幡野センセイの了承済なんですか?」

「沖田くんが首を縦に振ってくれたら、事後報告の予定です」

「二つ目の、幡野センセイへの演技指導は、難しいでしょうね。紫乃は職を賭して、幡野センセイと対決してるんですよ。今の自分の立場全部を失ったってセンセイを追込みたいくらい、イヤになったからって。男のキライと違って、女子のキライっていう感情は、根が深いですよ」

「それですが……お願いを聞いていただいた報酬として、杉田さんには、首になった職場の代わりに、素敵な仕事をプレゼントしようと思うんです」

「高校教師の代わりの職か……生徒さんたちは擁護してくれるけれど、教職員に保護者、特に高校の管理職の面々と母親グループの声が大きくて、クビになりそう、と紫乃は言ってました。懲戒解雇でなく、自己都合退職という形になるにせよ、事情が事情だけに、もう宮城県内の公立で働くのはムリだって。当面の間は、学習塾の講師でもするかなって、転職情報誌を買い漁ってましたけど。スターバックスの店員とかなら、紫乃は遠慮すると思いますよ。オシャレなアメリカ風珈琲店で働くよりも、隙間風吹くボロボロの校舎でいいから、紫乃は教壇に立ちたい人なんです」

「分かってます。だから、杉田さんの希望通り、教育職で。幡野センセイの息がかかった学校の教授職です」

「え。教授職ですか? どっかの女子大だの、短大だのの? でも、紫乃、博士号とか、何かの研究実績とか、ある人じゃないですよ」

「いくら幡野センセイが世故長けた政治家だって、大学とか、その手のアカデミックなポストを用意できるほど、偉くはありません。教授職っていう言い方がうまくなかったかな? ぶっちゃけ、専門学校の先生の職です。でも、その専門学校では、先生を教授って呼んでるもんだから……」

「専門学校? 幡野センセイの影響大の? それって、まさか……」

「ええ。沖田さんの推測通り、仙台ビジュアル専門学校ですよ。花束の会のイラストレーター騒ぎのとき、一悶着あった、アート系の専門学校ですね。別段、実技科目を教えてくれって言ってるわけじゃないんです。なんでも、社会人としての一般教養を教える教授さんが、このたび、横浜に転勤になるとかで……ちょうど、ポストが空くから、と」

「幡野センセイには、事後報告なんですよね」

「ええ。まあ。でもすでに、専門学校の理事長は、了解済です」

「高校教師をクビになって、専門学校の講師か。確かに先生ではあるけれど、なんだかグレードダウンするような……」

「偏見ですよ、沖田くん。じゃ、もう一つ、いいことを教えましょう。仙台ビジュアル専門学校のほうでは、単なる教授というだけじゃなく、兼任で理事のポストも与えてくれる、ということです。8人いる理事のうち、秘書と個室がつくのは、理事長と専務理事の2人だけらしいですけど、杉田さんが望むなら、特任理事ということにして、秘書と個室もつけよう、と申し出てくれました」

「いたせりつくせりの、重役待遇だ」

「その通りです。さらに、給料自体も、今現在のサラリーの2倍以上になるはずですよ」

「しかし……」

「幡野センセイには、不倫バレしてテンパって、様々な無礼・嫌がらせをしてきたこと、ちゃんと杉田さんにお詫びしてもらいます。その上で、贖罪とお礼の意味を込めて、オイシイ仕事を提供しようってんです。沖田くんは、さっき、高校教師に比して、専門学校講師なんて、グレードが落ちる、なんてこと言いましたよね。それって、公務員ならクビになりにくいっていうニュアンスで言ったんですか? おそらく、仙台ビジュアル専門学校への奉職は、杉田さんにとって、高校教師以上に、固い職業になると思いますよ。幡野センセイを後ろ盾にした、理事長の保障があります。それに、この学校は芸術系で、それ特有の雰囲気がありますから。ほら、歌舞伎とか芸能界で昔っから言うでしょう、芸のためなら女房も泣かす、とか。女遊び等スキャンダルが芸の肥しと見なされる土壌があるんです。杉田さんのバイセクシャルやポリガミーも、けっこう大目に見る……いや、そもそも気にするなんて人、いないんじゃないかな」

 沖田は少し遠い目になった。

「どうしました、沖田くん?」

「いえ、ね。白川理恵さんのこと、ふと思い出しました。同じ高校教師で、女装バレして退職に追い込まれ、最後は組立工として一生を終えた……」

「それも人生、これも人生、です。LGBTバレしたあと、誰もが幸せな人生を送ってるわけじゃない」

「それが分かってるなら、紫乃に対してアウティングするなんていう脅しを……あ。名和さんに言うのは、お門違いですね」

「いいですよ。ご不満、私にぶつけてください」

「……紫乃の勤務地、石巻でなく、仙台になっちゃうんですね」

「あ。そこんとこは、考えておきましょう。あと。マサキくんにも、耳より情報、あります。彼、いずれは一人前の写真家として、沖田くんから独り立ちするのが、夢だと聞きました。仙台ビジュアル専門学校のほうで、そのお手伝いができますよ」

「ほう」

「具体的には、写真学科に特待生として……授業料免除で入学してもらって、勉強しませんか、と」

「ここまでいたせりつくせりだと、逆に、怖いなあ」

「私は、幡野センセイにどこまでも忠誠を誓う男ですから。センセイのためには、なりふり構わず、やることはやる男なんです」

 寒いと思ったら、雪が振ってきたらしい。店内はじゅうぶんに温かいが、窓の外から鈍色の雲を眺めているうちに、沖田は冷たさを感じた。話の山場は終わったと踏んで、沖田は少し戯言を言ってみる。

「自分には、何か、ないんですか? ご褒美、兼、謝罪のしるし」

「沖田くんにですか……正直、沖田くんが何を欲しがるのか、見当もつかなくて、ですね」

 頭をかきかき、それでも名和氏は想定外の提案をした。

 沖田は、感嘆した。

「いいとか悪いとか言う以前に……さすがは政治家の秘書さんだ。そんなアイデアを持ってくる人、他にはいないですね」

「沖田くん。私はもう、政治家秘書じゃなく、政治家そのものだ」

「ははは。そうでした」

「その人が何を好きか、何が嫌いかなんていうのは、その人となりを知る上で、基本中の基本です。そういう意味では、私、沖田くんという人を、本当の意味では、よく知らないかもしれません」

「それを言うなら、自分も、名和さんのこと、よくは知らないですよ。好きなものはパンケーキ。尊敬する人は幡野センセイ。怖いものは、奥さんと舅さん。嫌いなものは……ええっと、なんだろう」

 名和氏は、寂しく笑って言った。

「嫌いなものは……LGBT。私、実は、花束の会の活動も、大嫌いだったんですよ」


 沖田が名和氏と「秘密会合」を持った1週間後。

 約束通り、沖田は名和氏の代理として、花束の会事務局代理という肩書で、幡野センセイの釈明記者会見を付き添っていた。議会庁舎での記者会見だから、ちゃんとビジネスマンらしく見えるように……と名和氏にアドバイスされ、スーツにネクタイ着用である。当日朝、一番肝心なところを綺麗にしなきゃダメじゃない……と瀬川が、一時間もかけてスキンヘッドにカミソリをかけてくれた。付き添いとしてきてくれたマサキは、記者席で焚かれるフラッシュの多さに驚いていた。沖田のほうは、想定問答集を再度確認するのに忙しく、そんなのを見まわす余裕はなかった。

 幡野センセイ側のマネージャーとして、名和氏が来ていて「アドリブ、アドリブ」と沖田の背中を叩く。想定問答集通りに質疑応答が進んでいくなら、わざわざ沖田を頼まず、現・花束の会スタッフで会見を切り盛りしますよ、と名和氏は言った。

 そう、沖田が付き添いを頼まれたのは、名和氏にないものがあるからだ。

 バイセクシャルの立場をはっきりとさせた、ネゴシエーターとしての手腕。

 期せずして、沖田は花束の会と初めて接触したときと同じ役割……あの時は、杉田・瀬川のバイセク友人として、彼女たちをかばう役割だった……を担うことに、なったのだ。


 中央に幡野代議士。そして幡野代議士を挟んで左に沖田。右には代議士第一秘書の、初老の女性が控えている。

 幡野代議士は切り出した。

 たしかに私は浮気をしました。県民の皆様を裏切り、家族を裏切り、そして支持者の方々の信頼を裏切るような不徳を致しましたこと、深くお詫び申し上げます。と、同時に、この場を借りて、事情をご説明申し上げるとともに、私どものやむにやまれぬ性質についても、ご理解いただきたく、専門家の先生をお招きいたしました。簡単ですが、レクチャーそして質疑応答によって、少しでもLGBTに対する偏見が取り除かれれば、LGBT互助会主催者として、幸いに存じます。では、沖田先生、どうぞ」

「……ただいまご紹介に預かりました、沖田トキオと申します。宮城県内のLGBT差別への対処・啓蒙・救済等を目的とした公的団体・花束の会の事務局代理を勤めさせていただいております。マスコミの皆さまには、イラストレーター様とのトラブルの件で、ご存じの方も多いのではないでしょうか」

 沖田は、いったん言葉を切って、まわりを見まわす。

 真剣な表情でメモをとる記者、腕組みをしたままずっとヒナ壇を睨んでくる関係者等、沖田の次の言葉を待つ人ばかりだ。

「なぜ私がこの場に呼ばれたのかは、幡野センセイの不倫相手を紹介させていただければ、お分かりになると思います。幡野センセイを挟んで、私の反対側に並んでいる女性、第一秘書の寺崎和子さんです」

 バチバチバチ……と、一斉にフラッシュが焚かれた。


 そこからは、沖田の独壇場だった。

 一口にバイセクシャルと言っても、種類が色々あること。幡野代議士は確かに浮気をしたが、相手は女性であって、ある種のバイセクシャルの性質からは、やむにやまれぬものであること。「バイセクシャル」業界では、幡野代議士のような例は、珍しくもないこと。沖田はバイグループ統轄として、ケースバイケースで、様々に解決に当たってきたこと。

「……幡野センセイが、男性相手に普通のパターンで浮気をなさったというなら、これは百パーセント弁明の予知なく、糾弾されるべき不品行だと思います。けれど、このたびのケースは、どうでしょう。幡野センセイはバイセクシャル女性として、男性とばかり関係を持ち続ければ、次第に性行為そのものが苦痛になっていく性質なのです。私がこれまで取扱ってきたケースでは、バイセクシャル女性のパートナー男性で、この手の同性愛行為に寛容な方々が、少なからずおりました。LGBTが世に認知され、ゲイやレズビアンの方々の性質が理解され、単に異性と性行為できないという点だけでなく、そこから派生する様々な生活様式も受け入れられる世の中になってきてはおります。しかし、これが両性愛者のケースになると、同性愛者グループの陰に隠れて、じゅうぶんに知見が広がっていないのが現実です。

 幡野センセイにつきましても、ご本人がLGBT互助会トップという立場で、当然周囲の方が先生の性質を認知されていましても、互助会の外で、これをご存じの人は、いなかった。センセイが浮気……というか、同性愛関係を持たれる前に、配偶者の方に了承を得ていれば、こんな騒ぎ方には、ならなかったでしょう。カムアウトの方法が分からないと言うなら、一言、私に相談があったらな……と思うと、自分の力不足を嘆かずにはいられません。異性愛者の方々の倫理とは、いっぷう違った生き方をしているのだ、というが、決して言い訳にならないことは、承知しております。そのうえで、幡野センセイがセンセイなりに悩み、バイセクシャルの基準からすれば、致し方ない行為に至ったことに、寛容なご判断を頂きたいのです」

 質疑応答は、幡野代議士でなく、沖田でなく、寺崎和子さんに集中した。

 寺崎さんは、能面のような蒼白な顔で受け答えしていたが、やがて、耐え切れなくなったのか、泣いた。

 やってもいない不倫の罪悪を糾弾されて耐え切れなくなったのかというと、そういうことではないらしい。利用したホテルだの、初めはどっちから誘ったのか……だの、下衆な質問に耐えているうちに、ボロがでそうなったから、泣いてごまかしたのだ……とは、のち、寺崎さんご本人から聞いた。

 寺崎さんは、どこまでも幡野センセイに対するる忠誠心からスケープゴートを買って出たらしいけれど、会見の翌日から、給料は二倍になったという。失脚を防いだ功績として50%増し、今後の口止め料として50%増し、という内訳らしい。

 沖田は、そんな後日談より、もっとちゃんと聞いておきたいことがあった。

 実際のところ、あなたはLGBTの人なんですか? という点だ。

「異性愛者に決まっているでしょう」

 寺崎さんは、ニコヤカに断言した。

 当事者にLGBTが誰もいないことで、沖田は……花束の会という組織は、トコトン利用されただけと分かる。

「ケッタクソ悪い茶番ッスよねえ」

 マサキは会見終了後、帰途仙石線の車中ずっとボヤいていたが、沖田はそれを制した。

「ボヤきたい気持ちは分かるけれど、それは写真館に戻ってから、やってくれ」

「トキオ兄ちゃん、これ、ケッタクソ悪くないンすか?」

「ああ。ケッタクソ悪い。不愉快だ。何より、悔しいよ」


 名和氏に言わせると、この茶番会見は成功らしい。

 翌日から新聞雑誌、ラジオ等で、内容が繰り返し報道された。けれど、どのメディアでも記事の大半をLGBTの解説にあてていた。読者・視聴者の前提知識の想定がまちまちで、同性愛者……ゲイ・ビアンの解説で終わるのもあれば、両性愛者の性質について、踏み込んで解説したものもある。総じて、幡野代議士の不倫を糾弾するというより、この不倫を契機に、LGBTについてもう一度考えてみたい……というトーンのものが、多かった。

 名和氏は記事切り抜きをいちいちファックスで送ってきては、「触らぬ神に祟りなし」で、みんな、逃げ腰で書いている、と評した。

 不倫騒動は、幡野代議士だけでなく、他の都道府県の地方政治家も同時に槍玉に上がっていた。未成年に手を出していた……女子高生と援助交際していた大物市議など「もっと派手にやらかした」問題児がいたお陰もあり、幡野代議士に関する報道は、急激に減っていったのだった。


 世間では沈静化しても、幡野代議士周辺で、この不倫騒動が沈静化したわけじゃない。

 記者会見で擁護したことを、まず、杉田になじられた。

 お詫びと見返り……杉田の専門学校理事教授の件と、マサキの写真学科無料特待生の話を振ってみる。杉田の怒り……というか不満は、やはり収まらない。シラフでやれば、どこか落としどころまでたどりついたかもしれない。けれど、写真館で、いつもの四人で酒盛りをしながらでは、言いたいことを言って気持ちよく酔うことを優先してしまうのだ。

 夏、クーラーなしのせいでウダるような暑さだった応接室は、冬、壁の断熱材をどれぐらいケチっているのか、とにかく寒いのだった。焼酎やウイスキーのお湯割りが、身に染みて、うまい。マサキが調達してきたベルギーのチョコレート、片桐氏お手製のアップルパイとフレンチトースト、そして瀬川が看護師の後輩に伝授されてきたというレーズン・じゃがバター。超甘党のマサキ向けのツマミばかりが並ぶ。すぐに舌が痺れて飽きるかと思ったけれど、「本物の甘党のチョイスは、そんなに甘くないッス」と言うマサキの大言壮語の通り、酒もすすめば、肴もすすんだ。

 全員風呂上りで、瀬川と杉田は着る毛布を三枚重ねで着こんだ上に、シルク製だというナイトキャップをかぶっている。洋画でお婆ちゃんが寝るときにかぶってるのを見たことある……と沖田が言うと、毛布の下はお婆ちゃんどころかピチピチよお、と瀬川はふざける。糖分取り過ぎでテンション上がっているのか、マサキは灰色のスエット姿で、立ったり座ったり、やかましい。

「セックス、しないんスかーっ」

「近所迷惑になるから、もう少し静かに絶叫しなさい、マサキ」

 姉にヘッドロックを決められて、マサキは地べたに直に座り込んだ。ソファの後ろに手を突っ込むと、どこに隠していたのか、杏露酒とメープルシロップが出てくる。甘い酒を甘い割材で割るのは、いつものことだけれど、さらにツマミまで砂糖の親戚みたいな代物ばかりだ。「少し味見させて」と姉が弟から「マサキスペシャル」を分けてもらって、舐める。

「タエコ、おいしい?」

「アルコール分より、糖分で酔っ払いそう」

「トキオ兄ちゃんも、どースか?」

「遠慮しておく。姉弟して、陽気な酔い方をするから、いいよな。シノはその点、怒り上戸で」

「ちょっと、トキオくん。私、酔っ払ったから、怒ってるんじゃないわよ。怒ったから、酔うことにしたのっ」

 沖田にも、沖田なりの弁明があった。

「君の生活のことを考えて、苦渋の決断をしたんだ」

 高校教師をクビになった後のこと……白川理恵さんの、その後の苦しい生活が頭をよぎって……と沖田はしみじみ説明する。

「あら、トキオくん。仕事が決まらなかったら、トキオくんのところに、永久就職させてくれるんじゃないの?」

「シノ、ずいぶん酔っ払ってるな」

「私、酔っ払ってないわよ。怒ってるだけ」

 職が定まらず、アルバイトで食いつなぐような生活をしていれば、両親が春日部に連れ戻す、恰好の口実にもなる。

「一人娘でなければ、もっと簡単に子離れしてくれたのかしら」

 杉田はしみじみウイスキーを飲み干し、チェイサーとしてマサキにメープルシロップのお湯割りを要求した。

「トキオくんが籍を入れたくないっていうなら、マサキ、あんたがシーちゃんと結婚しなさいよ」

 姉に突っつかれて、弟は真っ赤になる。

 マサキは姉に答える前に、精いっぱいの真顔を作って、沖田に言った。

「トキオ兄ちゃん。今こそ複数婚、推進のときッスよ」

 杉田は遠い目でマサキを見つめると、言った。

「そうねえ。異性愛者のほうでも、複数婚OKなら、こんな問題起きなかったのにねえ」

 沖田は肩をすくめた。

「それはどうだかな」

 幡野代議士の本当の浮気相手の件は、結局、旦那さんにバレてしまっていた。沖田たちは不倫の片棒を担ぐハメになってしまったわけで、寝覚めが悪いとかそういうレベルでなく、不倫代議士と一蓮托生ということで、民事で訴えられる可能性もある。ちなみに、旦那さんにバラしたのは、ビアングループの森下さんだ。

「名和さん、森下さんにも、根回ししておけば良かったのに」

「ムリだよ。あの潔癖症女史のことなんだから、どんな買収を持ちかけられても、拒否したさ」

 沖田の弁明協力は、あくまでも幡野代議士の政治的生命を保つための方策で、旦那さんに浮気をごまかすために一肌脱いでもらったわけじゃない……と、名和氏は旦那さんに懺悔するつもりだ、と言っていた。

「今さら自首しても、もう遅いし、名和さんは名和さんで、自分のことで手一杯になっちゃうだろうし」

 瀬川がフレンチトーストをパクつきながら、言う。

「トキオくん、後悔してる?」

「……水に落ちた犬は叩け、なんていうことわざがあるけれど、ここ一番で非情になり切れない。たぶん、少年漫画を読み過ぎたんだな、と自分でも思うよ。でも誓って言う。幡野センセイを助けるなんていう気、毛頭なかった。理不尽な報復をかわすためと、紫乃の今後の生活を考えて、苦渋の決断をしたんだ」

 杉田が間髪入れず、言う。

「今後、こういうことがあっても、私のためにって言うなら、絶対やって欲しくない。LGBTに同情するふりだけの異性愛者なんて、嫌い」

「彼らもLGBTに対して、同じ気持ちでいるだろうよ。でも、お互い嫌いあっていても、取引交渉はできるさ」

「トキオくん、何が言いたいの?」

「今度の謝礼として、名和さんに、寺をもらうんだ」

「寺? 寺院?」

「東松島に、二年前に廃寺になった寺がある。小学校教師と兼任のパートタイム住職さんがいたんだけど、亘理に転勤になって、無住の寺になってしまったって。檀家さんが極端に少なくなったのが原因だけれど、お墓のたぐいは残っている。で、ボランティアで切り盛りしてくれる人を探してたんだそうだ。遺影専門の写真屋として、数多くの葬儀を見てきた身として、一度自分で仏様を弔ってみたい希望はあったし、LGBTの死にも、もっちゃんと向き合ってみたいとも、思ってた」

 杉田がすかさず反応する。

「白川理恵さんの……」

「ああ。花束の会がLGBTの結婚をサポートしているように、生きているLGBTの生活全般に関わろうとする意欲的な団体は少なからずあるさ。でも悲しいかな、終活……死に臨んでのゴタゴタ処理を手伝ってくれるところは、そう多くない。自分らしく死ぬことは、自分らしく生きることだ。それは異性愛者だろうが同性愛者だろうが両性愛者だろうが、変わらない」

「既存の檀家さん、拒否反応を起こすんじゃない?」

「檀家総代、実は、中岡大輔の盗撮騒ぎの時に世話になった浜茶屋組合の副組合長さんだそうだ。彼らのお仲間が護寺会の有力幹部になっているし、自分らがどういう人間か、もう知り過ぎるくらい知っている人たちなんだよ。そもそも、事実上廃寺になっているところに再興しようと名乗りを上げるわけだ。紹介してくれた名和氏も、この点は太鼓判を押してくれた。感謝こそすれ、文句を言う檀家さんはいないだろって。副組合長さんからも、好きにやりなさいって言質はとってある」

「でも、トキオくん。僧職の資格は……」

「このスキンヘッドをなんだと思ってるんだい。自分、遺影専門で食っていくと決めた時に、通信添削の講座で修業して、得度してるよ」

 出家はしてない。在家僧侶。

 マサキが呆れる。

「通信添削って……そんなにお手軽……」

「お手軽なもんか。結局一年半かかった。今なら、インターネット養成講座、とかかな」

「世も末だ」

「マサキは宗教を重く考え過ぎだよ」

 メイプルシロップでシャキっとした杉田が、ツッコミを入れてくる。

「東松島。確かに石巻圏内だけれど、車で片道30分はかかるわね」

「坊主に緊急の要件なんてなさそうだけれど、写真屋兼業なら、ダブルブッキングのたぐいはあるかもしれない。そう思って、元本職を頼んであるよ。花束の会の県北事務所解説の時に世話になった観音寺の妙恵尼さん、覚えているかい? 気仙沼のスナックで雇われママをして、その後、再び登米に戻ってきて、花束の会・県北支部長をしてもらってた女性だよ」

 みんな、覚えていると首を縦に振った。

「そうか。彼女、本職は有機野菜農場の職員をしていて、カボチャ作り生活も充実はしているけれど、僧職再びっていう気持ちもあるって言ってたんだ。でも、知っての通り、前にいたお寺には、既に新しい尼僧さんが赴任してきていた。奥松島でコレコレっていう話をしたら、俄然乗り気だった」

「でも、トキオくん、そのお寺、尼寺じゃないんでしょ?」

「そうだね。日本のお寺に、僧と尼僧が一緒にお勤めしているお寺がいくつあるか知らないけれど、こういう型破りなところが、あってもいいじゃないか、とは思う。いかにもLGBT向けみたいな感じがするしね。ただ、妙恵尼さん、お経を読んでいるだけじゃ、メシは食っていけないのも確かだから、何か彼女に向いてるアルバイト、探す必要あるけれどね」

 瀬川が唇を尖らせて、言う。

「私だけ、名和さんに何ももらってない。また仲間外れだーっ」

「拗ねない、拗ねない」

 沖田が慰めると、瀬川はコップの中の水面を見つめて、言った。

「……協力の対価としては、悪くない、か」

「お金を出せば、買えるってもんじゃないしね。檀家さん付のお寺。それに、これからLGBTの仏様を受け入れるつもりなら、花束の会と繋がってたほうが、何かと便利ではある」

「あの二人、これからも、花束の会、続けるのかしら」

「世間的には、続けていかなきゃ、変だろうね。なんせ幡野センセイのほうは、自らバイセクシャルと表明して、首の皮一枚繋がった人なんだから。でも、幹部連中は、追い出そうとするかも。森下さんはじめ、真相を知っている人たちは、裏切り者って腹が癒えないだろうね」

「でも、せっかくお寺を貰えるんだから、LGBTの仏様をまわしてもらうためにも、幡野センセイには花束の会トップでいてもらわないと、トキオくんが困る」

「そうだね」

「トキオくん、バイセクシャルのくせして、というかバイセクシャル代表やっていた人のくせして、LGBTの仇みたいな政治家の応援をするってことね。悪魔に魂を売ったファウストも、沖田くんみたいな顔してたのかしら」

「奈落の底に落ちても、ファウストは楽しかった時の思い出で、耐えていくかもしれない。自分には票田の心配ばかりするメフィストフェレスしか、地獄のお供はいないかな」

「それで? 幡野センセイの支持者へのお詫び行脚とかいうのにも、つきあうの?」

「いや。地獄に落ちかけたところで、ブレーキを踏んでハンドルを切ってやったんだから、これ以上は自分たちでやってくれって、とこ」

 沖田が瀬川と大人の話をしていると、マサキが半分ウトウトしながら、つぶやいた。

「やよいちゃーん」

「そういえば、彼女は?」

「原くんか……『沖田くんが、あまりにも現実主義者なのに幻滅した』って、言われた。紫乃を沖田くんには任せておけない、とも言われた」

「わ。それ、略奪愛宣言?」

「シノ?」

 杉田は、コップを目の間まで掲げて、ゆらゆら揺らすと、「自分に乾杯」と飲み干して、言った。

「求愛は、されたわよ。モテて困るって、実に不思議な気分。普通のお付き合いなら、弥生ちゃんとつきあうために、トキオくんと別れる、なんてことになるんでしょうけど。ウチは、全然そんなこと、ないからね。弥生ちゃんは好きだけれど、それでトキオくんと別れることはない、これがポリガミー的恋愛って、返事しておいたわ」

「で? 原くんは?」

「僕、振られたわけじゃ、ないんだねって」

「原くんのために、ポリガミー女性に対する求愛講座、開いたほうがいいかな」

「さあ。どうかしら。でも、本人が一番、自分の気持ちを自覚していると思うな。好きの反対は嫌いじゃなく、無関心だってこと、弥生ちゃんは、よく分かってた。ゲイフォビアな男性が実はゲイに関心ありまくりで、そんな自分がイヤになってゲイ嫌いを表明しているように、沖田さんフォビアな自分、実は沖田さんのこと、熱愛してるかもって」

 マサキが杉田に反対した。

「そんな。一番熱心にバー通いした僕じゃなくって、トキオ兄ちゃんだなんて」

「ビジネスライクなつき合いだけれど、原くんと顔を合せていた時間、一番長いからね。愛憎こもごもあるかもっていう原くんのスタンス、分かる気がするなあ」

「仲直りのデート、してみる?」

 何度も言うことだけれど、花束の会幹部同士という関係で、女装姿の原弥生と、あちらこちらデートまがいの「お出かけ」をしたことは、幾度となくあるのだ。性愛恋愛的な意味での「お出かけ」というなら、今までとは違うオプションが必要だろうな、と沖田は思う。

「スカート姿、ノーパンで、ていう条件、つけさせてもらおう」

「トキオ兄ちゃん、そんなことだから弥生ちゃんに嫌われるんだ」

「しかし、じゃあ、デートと、デートでないお出かけの境界はどこにある? 最後に、彼女をラブホテルとかに連れ込んだら、デートとか?」

「絶対ダメだよ、トキオ兄ちゃん」

「だとしたら、やっぱり、この手のアブノーマルかつ、恋人関係以外の人がやらないような条件を、つけないと。原くん自身は、どこで線引きするんだろ」

 杉田に電話を入れてもらったけれど、原弥生は、車の運転中か留守電だった。

 沖田は改めて、自分でメールを入れた。

 ウイスキーの瓶も焼酎の瓶も空っぽになったころ、ようやく原弥生から返信があった。

『沖田くんのヘンタイ。鬼。悪魔。サディスト。でも、デート自体はOKです』

 沖田は目をつぶって横になり、つぶやいた。

「サンキュー。ツンデレ娘」


 スカートをはけ、と命令したけれど、ミニスカートにしろ、とは言ってない。

 沖田としては、原弥生が常日頃の外出とし違い「ちょっぴりスリルとエロチックな」気分を味わってもらえれば、それで良かったのだ。けれど、どーも意図を曲解しているようなのだ。

 真冬である。

 エロというより寒い、という形容が良く似合っているミニスカだった。

 原弥生は黒いレザーのタイトスカートにオーバーニーソックス、上にはヒョウ柄のフェィクファーのコートを羽織っていた。なんだが、化粧まで場末のホステスみたいだ。

「沖田さん。私をみんなに、見せびらかしてね」

「参ったね。あんまり外を出歩かなくともいいように、ドライブするつもりだったのに」

 助手席も悪くないが、運転するのも好きだ、と原弥生から返事がかえってきた。

 車は、沖田が贔屓にしてもらっている葬儀屋の息子から拝借したもの。BMWのハイパワー車だ。一日借りる対価として、合コンの人数合わせとして付き合え、と厳命されている。そのタコ頭で場を盛り上げてくれよな、とも言われたから、たぶん道化の役割を期待して、なんだろう。杉田や瀬川にどう言い訳しようと、沖田はキーを手のひらに落とされたときから、憂鬱になったものだ。そう、車を借りる条件は、まだあった。煙草は吸わないし、車中でお菓子を食べる趣味はないから、シートカバーの下からウエハースのカスがポロポロ出てくる、なんてハメにも、ならないだろう。ただ「煙草の匂いだけじゃなく、男と女の匂いもつけるなよ」とも、クギを刺された。こちらのほうは、条件を守るのが、厳しいかもしれない。シートベルトをするなり、原弥生はオズオズと自らスカートをまくりあげて見せた。

「証拠」

「自己申告でいいんだよ、原くん」

「ウソ。沖田さん、嬉しいくせに」

「そりゃ、命令したのは自分だけど」

「ボク、もう、こんなんなってるんだよ」

 半勃起したものを見られて、原弥生はニヤニヤ顔を赤らめていたものだ。

 デートコースには、白石中心に仙南を選ぶ。川崎町で釜房湖周辺を周り、白石で温麺を食べ、蔵王キツネ村でモフモフ毛皮のキツネと遊んでくる。時間が許せばさらに亘理町でホッキ飯を食べてくる、という贅沢コースだ。ただ、蔵王キツネ村は、野外の散歩になる。毛糸のパンツをはいていても、底冷えしてくるような寒さであって、中はフルチンの原弥生にとっては、ちと苦しいかもしれない。

「縮こまってきたら、沖田さんがマッサージしてくれるんでしょ」

 原弥生は、目を潤ませて、訴えてくる。

 可愛いから、やめなさい……と沖田はこの男の娘のスカートの裾をおさえた。マサキにお預けを食らっているので、エッチはナシで、と沖田は説明する。

「デートじゃなかったの?」と原弥生は、いたずらっぽく微笑んだ。

 食べたり飲んだり見学したり、は男と女のデートだろうが、男と女装子のデートだろうが、かわりはしない。バーテンダーで培ってきた技術なのか、原弥生の座持ちはうまい。相手が自分のことを嫌っているということを、沖田は忘れそうになってしまう。

 ドライブデートのいい点は、相手の目を見て話さなくていいことだ、と沖田は思う。

 ダムの水がゆっくり流れ落ちるのから視線を離さず、沖田は言った。

「君とLGBTの話以外で盛り上がるのは、これが初めてかもな」

「ボク、男のツボは心得てるから。カラダのほうだけじゃなく、心のほうもね」

 食事をしたり写真を撮ったり、観光してクルマに戻ってくるなり、原弥生は「足が寒い」と沖田に訴えた。エンジン全開ヒーター全開にする前に、やることがあるでしょ……とこの「美少女」は言う。

「足を、さすってよ」

「それって、三本目の足?」

「沖田さん、どーして、そう、下品なの」

 オッサン臭い、と沖田をとっちめる原弥生だが、彼女のほうでも期待はしていた。スカートと靴下の隙間「絶対領域」すぐ上で、半勃起したものが待ち構えているのだ。沖田は原弥生に手首を掴まれるまま、そこがカチンコチンに固くなるまで、さすった。

 彼女の声は、色っぽかった。

 再三言うけどマサキに止められてるんだよ……。

 沖田が射精寸前で手を離すと、「イケズ」と原弥生は恨めし気な目を沖田に向けてくる。

 女の子とデートする場合と、女装子とデートする場合の最大の違いはここにあるのかな、と沖田は思う。なに、ついている性器が男のものか女のものか、ということじゃない。性欲というか、セックスに至るまでのハードルの低さというか、デートに占めるエッチの割合というか……そう、女性を相手にしている場合と比して、即物的な「おつきあい」の割合が大きいのだ。何のためにデートしているのか、という点から見れば健全で、でもある種の情緒やトキメキが薄く、そして何より、男の立場からすると、ずーっと気が楽なのだ。

「女性とのデートより、男友達と遊ぶのを優先させる男が少なからずいる理由だよね。セックスの相手は女だけれど、恋愛相手は男っていうヤツ」

「自分、恋愛相手に男を選ぶときは、ちゃんとセックスの相手としても、男を選ぶけれどね」

「そんなの知ってるよ、沖田くん」

「原君自身は、どーなのかな。カルテットと一緒に遊びたいって、聞いたときに、バイ趣味、ありますよ、とは聞いた。女装して、こうして男である自分とデートしているんだから、男と恋愛を楽しめる人なんだとは思う。紫乃にご執心だそうだから、女性とセックスできる人でもあるんだろう。でも、恋愛対象とセックス対象を一致させる誠実さは?」

「沖田くん。それを言うなら、逆。僕は、沖田くんのことを、恋愛的に大嫌いでも、セックスだけはできる人です」

「肉欲だけのつながりって、なんだか悲しいね」

「ビジネスパートナーとしても、沖田くんのことは、すこぶる好きでした」

「じゃあ。恋愛的な感情だけがスッポリ抜け落ちているっていうのは、どういう状況なんだろう。ある意味、不自然じゃない?」

「杉田さんを独占したいけれど、できない……沖田くんという存在があるから。恋愛ライバルを恋愛対象にするのは、ほとんど不可能です」

「紫乃は、そんなのは違うって、君に言ったろ」

「僕がポリガミーを理解できる日が来るとは思わないなあ」

「じゃあ、ちょっと考えてみて、原くん。君が、旦那様と死別した寡婦を好きになったとする。彼女の心の中には、ずっと旦那様が残っていて、君のほうを向いてはくれない。君は亡くなった旦那さんを恨み、彼女の固い貞操を憎む。でも、ある時、気がつくんだ。今の、君の好きな彼女を形作ったのは、その当の旦那様で、彼女が独身のまんまだったら、こんなに恋焦がれる対象になってないって。そこで君はコペルニクス的転回をする。彼女を、心の中の旦那様ごと愛すのが、彼女との恋愛の正解なんだって」

「結局、好きになったのは、その女性1人でしょう」

「違うよ。恋愛の対象として、彼女を好きになり、同時にその旦那様も好きになったのさ。もっとも、セックスの対象は彼女だけ、なんだろうけど。原君の現実に立ち返れば、彼女の中の旦那様は、幽霊のくせに、君にノーパンデートを要求して、君を試そうとする。そして君は、未亡人の中の旦那様にするように、愛憎入り混じった感情を、こちらに向けるわけだ」

「やっぱり、うまく丸め込まれているような」

「そもそも、紫乃が自分とつきあってなきゃ、君になんか見向きもしなかったんじゃないかな。彼女はもともとビアン女性……森下さんと交際していたビアンよりのバイセクシャルだったんだ。タエコが2人のビアン交際に自分を混ぜてくれなきゃ、未だに紫乃は同性愛交際していたさ」

「でも……」

「カルテット交際は、今でこそ、皆の心が通い合っていると言えはするけれど、もともとはムラのある、お付き合いだった。紫乃とマサキは、つい最近まで全く性的関係がなかった。タエコとマサキはどこまでいっても姉弟で、恋人っぽい雰囲気になるのは、逆説的だけど、紫乃や自分が、一緒にいる時だけだよ」

「でも……」

「大嫌いな恋がたきでも、ちゃんとチンポは反応するんだろう? 自分、そういう男の子をネチネチと可愛がりたいと思ってたんだ。紫乃相手に性奴隷やバター犬の役をするのも、もちろん大好きなんだけれど、嗜虐趣味にも目覚めつつある、みたいな?」

「具体的には……」

「紫乃女王様に命ぜられて、大嫌いな男にも召使として奉仕する男の子。そう、この大嫌いなのに……てのが、たまらなくいい」

「沖田くん、歪んでるなあ」

「ずーっと、1人の人を愛し続けのは、難しいものさ。でも、ずーっと1人の人を憎み続けるのは、そんなに難しくない。それにね……大嫌いな男に、自分の命令でイヤイヤご奉仕するってほうが、紫乃のサディスト魂を刺激するんじゃないかな」

「杉田さんと交際したかったら、マゾのほうが望みがある?」

「うーん。既に、マサキと自分と、2人も犬がいるからね。3人目の志願者がいるっていうなら、これまでとは趣向の違う性奴隷が欲しくなる……かな?」

「奉仕って、具体的に、どんなことをすりゃ、いいのかな?」

「トキオって呼んでくれよ、弥生」

「トキオ君でも、トキオさんでも、トキオ兄ちゃんでもなく?」

「君は、目の前にいる男を嫌っている設定なんだぞ」

「設定って……トキオ、で、具体的には?」

「手始めに、君のミルクを飲ませてくれ」

 射精寸前で何度も止められていた原弥生にとって、これは願ったり叶ったりの命令だった。真性のサディスト……紫乃なら、こんな命令は下さない。ここいらへんが、被虐趣味をあわせもつ、バイセクシャルの限界なのかもしれない。BMWの持ち主に釘を刺されていたこともあったので、急遽、釜房湖から白石市内に移動して、ラブホテルに入る。沖田は安楽椅子に腰を掛けて、原弥生に命令した。

「ひじ掛けのところに両脚を乗せて、立って。こっちの頭にも触らない。自分自身のチンポにも触らない。純粋に腰の動きだけで、射精するまで、イラマチオして」

 中腰姿勢がキツくなってきた原弥生のために、床の上に仰向けになって、さらに同じことを要求する。

「奉仕される奴隷っていうのは、形容矛盾だけれど、沖田くんを……いや、トキオを見てると、こんな感じかなって、しみじみ思うよ」

 射精する時には、カルテットの他メンバーに対しての思いを、叫ばせた。

「1人1人、名前を呼んでね」

「下の名前……なんか、恥ずい。苗字で呼んじゃ、ダメかな」

「だめ」

「タエコちゃん、愛してる。マサキ、大好き。紫乃女王様、いじめて下さい」

「それから?」

「それから……トキオ、大大、大嫌いっ」


 翌日のこと。

 デートのお土産は、亘理のホッキ飯だったので、カルテットメンバー女性陣も写真館に呼んで、振る舞った。

 女性陣は舌の至福を堪能していたけれど、マサキは沖田たちの様子が気になるようで、色鮮やかな貝を目で堪能することなく、黙々と箸を口に運んでいる。

「それで? 仲直りはしたの?」

 瀬川に聞かれ、沖田は黙ってうなずく。

「弥生ちゃん?」

「恋人にはしたくない人だなーって、再確認した」

「でも、紫乃ちゃんや私やマサキの恋人には、なりたいのよね」

「お二人とも、素敵な方だと思います」

 杉田が、思わず……という感じで、口を出す。

「私たちは4人で1セットなのよ、弥生ちゃん」

「自分のことを大嫌いだからこそ、歓迎すると、トキオに言われました。そういう人が、1人ぐらいいたほうが、ポリガミー交際は、楽しくなるって」

「呆れた」と瀬川。

「いかにも、トキオくんらしい。天邪鬼よね」と杉田。

「で。結局、弥生ちゃん、トキオ兄ちゃんと、やっちゃったの」とマサキ。

 瀬川が、なんだか気まずい雰囲気を打破しようとしてか、弟に笑いかける。

「さっきから、弥生ちゃん、恋人としては、トキオくんのこと、好きじゃないって、言ってるじゃない」

 原弥生は、おずおずと瀬川のフォローを否定した。

「あ。いえ、あの、恋人とするのは大嫌いなだけで……下半身の事情は別で」

「えー」

 マサキが半べそかいて、なぜか沖田でなく姉に文句を言う。

「約束が違う」

「もともと仲直りのためのデートだったのよ。トキオくんと弥生ちゃんの間のわだかまりが解けたっていうなら、それでいいじゃない。それともマサキ、弥生ちゃんを独占したいの?」

「僕が、弥生ちゃんに向けている気持ちが、ストレートにかえってこないのが、悔しいんだ」

「恋愛って、みんな、そんなものよ。相思相愛が都市伝説だ、なんてことは言わないけれど、世の中が浮気も横恋慕も三角関係もない、予定調和な完璧カップルばっかりになったら、退屈で仕方ないでしょーが。アンタも、同じようなホラー映画ばっかり見てないで、昼下がりに専業主婦向けのドロドロ不倫ドラマとか見て、少しは勉強しなさいな」


 エロイベントはいくらでもできるけど、ムーディなのは、未だ難しい。

 ポリガミー恋愛……このあまり燃え上がらない恋愛……いや、燃え上がっても低い温度のまんまの恋愛感を、モノガミー主義者に伝えるのは、さらに難しい。

 クリスマスの夜、ラブホテルの順番待ちで、寒空の夜に行列するカップルみたいな感じで、カルテット・プラス・ワンは、仙台のラブホテルに向かった。交際歴の長い恋人たちなら、恋人っぽいムードのない形でのラブホテル利用も「あり」なのだろう。けれど、プラス・ワン……原弥生を加えての今回は、初めてなのだ。沖田のクリスマスカップルの例えは、もちろん原弥生に対するエクスキューズなのだけれど、そんな沖田の配慮を、彼女は「異性愛者女性に対する言い訳みたい」とイヤがった。

 写真館で、家呑みしたあと、まったりと……という選択肢も、もちろんありはした。けれど、「せっかくだから、トキオたちらしいセックスを堪能したい」と原弥生が言い出し、瀬川がそれに答える形で「じゃ、SMプレイ用ルームの利用を」と仙台での御用達ラブホテルを指名したのだ。

「弥生くんを最下層奴隷に。マサキと自分が奴隷なら、彼女を奴隷の奴隷にしたい」と沖田はリクエストした。

「とうとう、念願の弥生ちゃんとエッチできる」とマサキはニヤニヤ顔が止まらない。

「シーメールっていう、男でもあり、女でもある裸体をリアルで観察するのは、初めて。エッチの対象ってだけでなく、純粋に医学的に興味はあるかな」と瀬川ははしゃいだ。

 杉田だけが、1人浮かれていなかった。

「バイセクシャルっていうだけで、イジメ方のバリエーションが大幅に減るマゾ君たちを相手にしてるのに。さらに、シーメールの責め方って言われても、分かんない」

 頭を抱える杉田を、沖田は慰めた。

「だからこそ、弥生くんが、恋人としては自分を嫌ってるっていう事実を、最大限に利用してくれ」。

 マサキも、一丁前の口ぶりで、釘をさす。

「シノ姉ちゃん。トキオ兄ちゃんの口車に乗せられて、弥生ちゃんを兄ちゃんだけに、一方的に絡ませるのは、やめてよね」

 稲荷小路雑居ビルの、原弥生がバーテンダーをやっている店は、カウンターだけの店である。4人……いや、5人がスズメのように横並びに座っても、語らうのは、しんどい。仙台市内のゲイバーでワイワイ飲んだあとに……という選択肢は、沖田自身が、新宿2丁目での事件を思い出してしまうので、却下してもらった。

「単にテーブル席につきたいなら、近くのおでん屋さん、どう?」という原弥生の提案で、一同、同じ稲荷小路のおでん屋さんに移動した。テレビでたびたび紹介されている名店だとかで、店内は満員御礼状態。昭和レトロな座敷席で地酒を呑むと、この半年の、目まぐるしい生活の変化が、走馬灯のように思い浮かんでくる。

「トキオ兄ちゃん。そんな年寄り臭いこと、言わないでよ」

「おでん屋で、煮汁がよく染みたダイコンだの餅巾着だの肴に晩酌すれば、懐かしい話の一つもしたくなるさ」

「もー。ジシイ趣味」

「今は、時々枯れたふりをしたくなるオッサンだけれど、こんな自分にも十代のころはあったさ。バイセクシャルな自覚もなければ、ポリガミーなんて嫌悪感を抱いていた、青臭い若僧だった。アホでエネルギーが有り余っていたぶん、自分自身がどんな人間か分からなくとも、純粋に恋愛を楽しめた。というか、憧れていられた。もちろん、女の子には全くモテなくて、いつまで経っても童貞のエロガキだったけれど。仮に、その若いうちにセックス経験を積めたとして、やはり自分の未熟を痛感するだけだったろうな。今は逆に、性について、というか自分自身の在り方について、じゅうぶん過ぎるくらい知ってしまっている。世間ではヘンタイのレッテルを貼られる行為が、自分自身にとっては自然過ぎるくらい自然なことだと、気づいてしまった。だからこそ。こうして、皆と一緒にベッドインしようという気分になっている。でも、じゃあ、ロマンチックな恋愛感情と性の深淵を知るというのは、トレードオフな関係なんだろうか。いや、万人に当てはまる質問でない以上、この問いは、まず、自分自身に向けるべき疑問だ。いや、そもそも、自分は情緒的な恋愛をしたことは、あっただろうか。ただ1人の人に恋焦がれるというパターンでもいいし、2人の候補者の間で揺れ、どちらにするのか迷いに迷って悩む、なんていう記憶はあっただろうか。女の子に、たとえモテていたとしても、この手の形而上学的な質問をうっちゃってしまう、トーヘンボクなクソガキだったような気がする。だとすれば、自分は、性を意識し出した小学生とかの時分から、まるで成長していないのかもしれない」

「酔っ払い」

「ひどいなあ、タエコ」

「結局何が言いたいのさ、トキオ兄ちゃん」

 杉田が、コンニャクだのシラタキだのばかりツマミながら、言う。

「……完全にオッサンっていう年になれば、私たち若い女の子相手に、説教をかます、とかになるんでしょうけど。そこまでジジむさくなれないっていう理性というか矜持があって、代わりに自分自身に説教してるのよ」

 原弥生が、呆れていう。

「何か、哲学的に難しいことを考えてるのかと、思った」

「そりゃあ、ある種の哲学でしょうよ。人間……というか、オッサンていうのは、中途半端に酔っ払うと、存在や認識について語りたくなるものなの」

「ホントかなあ」

 沖田は、真剣に首をかしげるマサキに、慌てていう。

「おい、マサキ、真に受けちゃダメだ」

 杉田のクスクス笑いが止まらない。

「あら。本当のことなのに。ねえ、タエちゃん」

「そうそう、シーちゃんの言う通りなのよ、マサキ。ま。何を言ってるのか分かんないって点では、酔っ払いの説教のほうが、哲学談義よりマシなわけだけれど」

「う。う。う。マーサーキー」

「ちょっと、トキオ兄ちゃん、大丈夫。姉ちゃん、介抱してあげてよ」

「ほっときなさい。かまってもらいたい、だけなんだから」

「姉ちゃん」

「可愛い、可愛い。マサキも可愛いけど、グデングデンのタコは、もっと可愛いわ」

「酔っ払ってるのは、姉ちゃんたちのほうだな、これ」

「あら。私たち、トキオくんを褒めているだけなのよ。背中からオッサン臭い哀愁が感じられて、何か、カッコイイ。渋くはないしダンディでもないけど、ダメ男特有の魅力があるっていうか」

「それ。全然褒めてないよ、姉ちゃん。どうしてウチの姉たちは、こんなんなんだ」

 原弥生が、ダメ押しに言う。

「うん。僕も、こんなトキオ、カッコイイと思うよ」

「はー。弥生ちゃんまで」

 沖田は、少し酔いから醒めて、マサキの肩につかまった。

「いいんだ。マサキ。自分、みんなを愛してるから。ウソでもカラカイでも冗談でも、褒められると、嬉しい」

 興の乗った沖田が、女の子たち……原弥生にチュッチュっとキスし出したところで、ラブホテルに移動することになった。


「SMルームに入ったのは初めてだから、ドキドキするよ」

 原弥生は、好奇心丸出しで、三角木馬だのⅩ十字架だのの什器のたぐいをベタベタ触ったり、自分のカラダをあてがったりしていた。ニコニコ顔で、杉田がそれらの使い方を教えている。瀬川は、どこから持ってきたのか大型ボストンバックを持ち込んで、皆の衣裳を取り出していた。

「女性陣は色々と大変だけれど、男どもは、犬耳付カチューシャに首輪・リード、尻穴に突っ込んで使う尻尾だけだから、楽ちん」

 原弥生が「へー」とボストンバッグの中を覗き込む。

「シーちゃんがタイヘンなのよ。ほら、奴隷どもが普通の異性愛者なら、加虐の一環として、イヤがる男どもをセックスさせるとか、できるでしょ。でも、トキオくんとマサキには、全然そういうの通じないから。マサキと私を近親相姦させて、辱めるとかも、もちろんダメで。ぶっちゃけ、抵抗なく喜んでしちゃうから」

「知ってるよ、瀬川さん…タエコさん」

「なんでもアリ、だからこそ性的なプレイの幅が狭まるって、矛盾よね」

 杉田・瀬川が原弥生と話しているうちに、沖田はトイレに行った。どんなに酔っ払っていても、自分の呼気やオシッコがアルコール臭い、と分かるのは不思議な気分である。酒の限度を超えると、勃起しなくなると言うけれど、沖田の場合は逆にビンビンになってしまうのも、また、不思議だった。ラチもないことを考えていると「さっさと出て欲しいッス、トキオ兄ちゃん」とマサキが股間を押さえてモジモジしながら、待っていた。トイレから出ると、瀬川が駆け寄ってきて、「トキオくん、ズボンとパンツは?」と聞く。どうやらトイレに脱ぎっぱなしにしてきたらしい。

「もー。シャキッとしなさいよ。あ。オチンチンだけは、やたらシャキッとしてるみたいだけれど。シャワー浴びて、脳みそのほうも、シャキッとさせなさい。マサキ、ついてって」

「ヘイヘイ」

「シャワー浴びながら、2人でおっぱじめたりしたら、ダメよ。次は私とシーちゃんが入るから、電気はつけっぱなしでいいからね」

「弥生ちゃんは?」

「彼女は今日の主役だもの。真打は一番最後に登場するもんでしょうが。今、シノ女王様と打合せ。NGなプレイはないか、過度に興奮したら、生命に関わる病気なんか、持ってないか」

「女王様っていうより、ナースとか、学校のセンセみたい」

「そうよ。ナースであり、学校の先生でしょ、私たち」

 沖田はマサキに手を引かれて、シャワーを浴びにいった。ガラス張りで浴室の外……プレイルームが丸見えという光景は、なかなか慣れなくて、いつも不思議な感じがする。

 この日は、その非現実感に、さらに現実的でない一コマが加わった。

 カーキ色のトレンチコートを着た白髪の男を先頭に、スーツ姿の一団が、沖田たちのプレイルームになだれ込んできたのである。一行の中には、オロオロ顔のラブホテル従業員・支配人も混じっていた。

 フルチンのまま沖田がバスルームを飛び出すと、一番偉そうな白髪男が、沖田に近づいてきて、なにやらかざした……警察手帳だ。

 マサキが茫然とする沖田の腰に張り付き、フェイスタオルで局部だけは何とか隠す。

「主催者の沖田さんですね。沖田トキオさん」

 何が何だか分からないけれど、呼ばれた名前だけは合っていたので、イエスと答える。

「公然わいせつ罪で、逮捕します」

「公然って……外から見える状況で、セックスしようとしているわけじゃない」

「でも、沖田さん、あなた、この乱交パーティの主催者なんでしょう?」

「正確に言えば、乱交パーティでもなんでないです。でも、どういうことですか」

 公然わいせつ罪の「公然」は、不特定多数の人々という意味で、建物の外という意味でない……ということを、沖田は教えてもらった。実際に、過去、この罪状で逮捕されて乱交パーティ主催者も存在する、ということも、教えてもらった。

 婦警さんに事情聴取されていた瀬川が、鋭く指摘する。

「そもそも私たち、不特定じゃ、ないです」

 そうなのだ。

 半年に及ぶ交際歴がある。

 デートの時のスナップショットやら、写真館における半同棲……通い妻? の実態もある。お互い面識がない人間同士が一同に会して、というなら「不特定」だろうけれど、恋人同士がラブホテルで普通にセックスするのを「不特定」とは言わないのでは……。

「トキオ兄ちゃん。その論理だと、弥生ちゃんの存在が……」

 そうだった。

 でも、新たに恋人に加わろうとする人間にも、公然わいせつ罪が適用されるというなら、ポリガミーバイは恋愛交際ができなくなってしまう。

 何やかや、言い分けをする沖田の肩を、原弥生が叩いて止めた。

「ムリだよ、トキオ。そもそも、日本の性愛関係の法律は、モノガミー異性愛者という圧倒的マジョリティのためにあるんだ。ポリティカリィ・コレクトネスな観点から非難された場合の、言い訳じみた条文はあっても、本気で性的マイノリティに配慮したものはない。LGBTそのものに対するモノも、こんな状況なのに、さらにマイナーなポリガミーに配慮した法律なんて、ない」

 パンツをはきながら、ゴタゴタとしゃべる沖田を、警官のほうはイライラしながら待っていたけれど、やがて、「21時40分確保」と手錠をかけた。

 連行されて部屋から連れ出される際に、支配人がわざとこけたふりをして、沖田の肩につかまり、小声で告げ口をしてきた。

「チクッた人がいます」

 そして、手のひらで覆うようにして、紙切れをギュッと沖田の手に握らせてきた。沖田たちが、SMルームの大のお得意さんだからこそ、支配人はここまでの親切をしてくれたのかもしれない。お陰で沖田は、積年の宿敵と、最後の対決をすることになる。


「どうだい、トキオ。臭いメシはうまかったかい」

「警察での取り調べは受けたけれど、刑務所に入ったわけじゃない。最終的には、あっさりと不起訴だった。だから、そういうふうに聞くなら、カツドンはうまかったかい? とでも質問すべきだったな」

「トキオは皮肉が分からない男だな」

 写真館でのテレビ電話で、沖田は、密告の相手を問い詰めていた。

 時に敵対し、時には共闘する相手……江川俊介だ。

「攻撃したりされたり、はお互い様だけれど、ここまではやらないっていう線引きというか、暗黙の了解はあったような気がするんだが。自分に対する密告のたぐいは、どんなにドギツクとも甘んじて受け入れるつもりだった。けれど、なんで、紫乃やタエコたちまで、巻き込んだんだ」

 幡野代議士の記者会見で顔を売っていた沖田は、自分でも知らないうちに、ちょっとした有名人になっていた。好色な無名人のやったことなら、ローカル紙の三面に三行くらい書かれて終りになったことだろう。けれど、今回のはちょっとしたベタ記事くらいの分量で報道されていた。

「もちろん、警察の勇み足だ。けれど、ネットであっという間に紫乃やタエコが特定されて、びっくりした。出身地から勤務先から詳細に割れてしまって」

「そりゃそうだ。なんせ、ネットに情報を流したのは、僕だから」

「俊介。なんで、そんなことを」

「君たちが、宿敵だから」

「自分は宿敵かもしれないけど、紫乃たちは違うだろう」

「違わない。皆で花束の会を……幡野代議士を守る側に回ったからだ」

「……言い訳を聞く気はあるか、俊介」

「コウモリ男の言葉の軽さは、自分自身よく知ってるよ、トキオ。僕も節操なしのバイセクシャルの一人だからな。保身できる可能性があれば、逃げる。そんなしぶとさが嫌いじゃない。でも、今度ばかりは、意地を貫いてあげたい女性がいたんだ」

「宮坂さんか」

「虹色のコウモリが、どうして四方八方から嫌われるか、考えたことはあるか、トキオ。それは、自分自身が嫌われる理由を誤解しているからさ。虹色のコウモリは、自分たちが、たくましくも汚い生き方をしていることで、嫌われると思ってる。そんな自分自身を嫌いながらも、内心、どこかでは、そのたくましさを誇らしくも思ってる。でも、実際に嫌われている理由は、そんなんじゃない。裏切り。手ひどい裏切り。裏切ったことに全く罪悪感がなさそうな、裏切りが理由なのさ」

「節操のなさが嫌われる理由だってことは、よく知ってるよ。ああ。そうだ。バイセクシャルであるって自覚したその日から、よく知ってるさ」

「トキオ。自分自身にまで嘘をつくなよ。じゃ、質問を一つしよう。瀬川姉弟の近親相姦が大々的に世間にバレて、SNSでも何でも炎上したら、どうするつもりだい? 君は姉弟を食いモノにした極悪人で、本来ノンケ男子だったマサキ君を、手ゴメにして篭絡した、とかネット掲示板に書かれたら? 写真館は存続の危機に陥り、瀬川姉弟から……いや、彼女たちの親戚保護者のたぐいから、訴えられたりしたら?」

「そんなことは、おこりえない」

「おこりえるさ……トキオが今、話している宿敵が、これをチャンスとばかりに、あえて焚きつけるっていう可能性も、あるだろう?」

 そう言って江川は、ひきつった笑みを浮かべた。精いっぱいの威嚇のつもりらしいが、醤油とソースを間違えて刺身に浸してしまったような、バツの悪い笑みにしか、見えない。

「俊介……お前ってやつは」

「自分が善人でも何でもないことを、イヤというほど自覚しろ、トキオ」

 それとも、コウモリ男には、コウモリ男なりの正義があるってか?

「正義、あるよ」

 沖田は、自分の言い分が誰にでも通用するとは思っていない。

 けれど、言わずにはいられない。

「認めよう。自分に甘い分、他人にも甘い。合気道の達人のように敵と友達になれそうもないけれど、敵を許し、過ちを犯した人を許す、緩さが、自分にはある。……不倫しようが、近親相姦しようが、緩く、受け入れる。誰かの正義の合間を縫うように生きる、それが自分の正義だ」

「千春に対するアテツケか?」

「アテツケてなんか、ない」

「それは正義なんかじゃないぞ、トキオ。単なる処世術だ」

「正義の反対が悪じゃなく、違う正義だっていう意味では、紛れもなく正義だよ。処世術と認めては、いつまで経ってもLGBT内の裏切り者扱いだ」

「開き直ったな、トキオ」

「成長したと言ってくれよ、俊介」

 新宿二丁目のバーの成り立ちをペンギンから聞いたあの晩、裏切り者扱いされたバイセクシャルの面々を、沖田はペンギンたちと一緒に非難したものだ。今なら、ゲイの正義でバイの正義を裁かないでくれ、と言えるかもしれない。徳川幕府に迫害され殉教したキリシタンの生き様を是とするような信者を、あの時の、バーAZTの真性ゲイたちは称揚するだろう。けれど、淡々とイコンを踏み、裏切り者と罵られながらも、隠れて信仰し続ける道だってあるではないか。

「だから……だから……俊介の告発も許す、というのが、自分的には、正しいスタイルかもしれない、と思う」

「だったら、僕は、トキオとは別の道を行くしかない」

「最初から、違う道を歩いてただろ。たまたま、何度か交差しただけだ」

「ああ。でも、もう交差することは、ないな。絶交だ、トキオ」

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