第12話 子供譚(両性愛者たちが、LGBTの子どもについて思いを馳せる話)

「ウチは、無期限停止中。相談らなら、本家・花束の会に」

「アタシ、あっちの会員じゃないから」

「それを言うなら、天野さん、こっちの会員でもないでしょうが。無印・花束の会を強制退会させられた人でしょう」

 元・花束の会会員、ビアンの天野さんからの相談は、切羽詰まっていた。

 実際に、タイムリミットがあったのだ。

「あと3週間で、決着を出さなきゃ……産むか、堕ろすか」

 イラストレーター事件ののち、天野さんは片桐氏の斡旋で、偽装結婚の相手をしていたはず。

「自分のことじゃ、ないの。パートナー彼女のお姉さんの話」

 電話だけでは話しきれない、当事者に会ってよ……という天野さんの再三の電話連絡に抗しきれず、会うだけなら……と沖田は相談に乗るはめになった。


 集合場所は、北上運河沿いの、いつものスターバックスである。

 松島事務所は円満のうちに引き払い、沖田は互助会幹部から、一介のバイに戻った。

 名和氏は、義実家の後押しが利いたのか、新生・花束の会の活躍が利いたのか、得票数二番という上位で、華々しく当選を決めた。沖田は、一応お祝いのショートメールを送ったけれど、返事は返ってこなかった。

 失礼だなと思いはしたけれど、これで、吹っ切れもした。

 もう、LGBTの問題解決に奔走する必要は、ない。

 だから、今回、天野さんの話を聞くのは、純粋に友人としての好意で、である。

 沖田は再三念を押し、「業務」としてやっているのではないことをハッキリさせるために、ワザワザ石巻まで、彼女たちを呼び出した。

 沖田たちのメッセージが、ちゃんと伝わっているか、心もとない。

 けれど、天野さんがどんな誤解で会いに来ようと、沖田は相談以上のことをするつもりは、なかった。


 相談内容が妊娠うんぬんという内容だけに、沖田は瀬川を連れていくことにした。さらに杉田も同伴すると言い出したけれど、これは季節限定の新作ラテが目当てらしい。

 沖田にとって天野さんは、話すのが苦手ではないけれど、とっつきにくい印象だったから、これはこれで良かったかもしれない。

 待合せの20分前に沖田たちはついたけれど、店内には既に天野さんたちが来ていた。自己紹介と言っても、天野さんが連れてきた女性以外は、皆顔見知りである。

「あ。天野さんと、おつきあいしているのは、私じゃありません。私の妹です」

「天野さんは、妊娠うんぬんって相談でしたけど……それだけでは、分からないんで、最初から説明を」

 彼女は里見ミドリと名乗った。

「妹の病状が悪化して、まとまったお金が必要になったってことは、聞いてるでしょうか」

「いえ」

「じゃあ、そこからですね。妹が女性同性愛であることをカミングアウトして、家から勘当されたのは、8年も前のことです。その後、両親は妹と和解する気になりました。遅ればせながら、私もビアンであることを公表したので……諦めの心境になったみたいです」

 沖田が驚きを声を上げる。

「お姉さんも、ビアンですか」

 杉田が、沖田をたしなめる。

「トキオくん。そこ、重要じゃないから。黙って、続き、聞こ」

 もう一つ、両親が娘さんと和解する気になったのは、老後の先行き不安のせいもあったかもしれない…と里見さんは言う。父親が定年退職、母親のほうが交通事故で入院した。娘たちが「不品行」で家出同然に連絡が取れなくなり、妻が病院で身動きがとれなくなったのを見て、お父さんのほうは、心の緊張が切れたらしい。

 サラ金に借金までしてて競馬三昧の生活をし、気がつけば、ローン半ばだった自宅も競売にかかってしまった。カネというカネがなくなり、困り果てた里見さん一家だったけれど、このドン底には、二番底があった。そう、天野さんの恋人、里見ミチルさんの病状悪化である。

「天野さん。偽装結婚して、その、仮の旦那さんに頼んで、パートナーさんの面倒を見てもらってたって、聞きましたけど」

「途中までは、あってる。偽装結婚自体は、したの。でも、相手は全然裕福じゃない人。タクシーの運転手さん。しかも、結構な高齢者」

「お手当目当ての偽装結婚なら、もっと相手を選べたんじゃ」

「ミチルを同居させてもいいっていう条件を飲んでくれたの、その人だけだった」

 旦那さんの住まいは、半世紀前に建てられた県営アパートで、隣の棟に、本当の彼氏さんがいた。彼氏さんと言っても、既に年金暮らしをしているお爺さんで、旦那さんは普段、そちらのほうで彼氏さんと同居生活をしていた。旦那さんは、若いころ、ご両親にゲイばれしてしまった人で、長い間家族とは疎遠にしていたそうな。母親が亡くなり、その葬儀の席で和解したけれど、父親という人は、やはりゲイ嫌いらしい。

 息子が嫁をもらったら、遺産継承者の1人にしてやる……と、遺言書に、既に書いてあるそう。で、父親が他界するまで、夫婦のふりを続ける……というのが、偽装の条件なのだそうだ。

「ゲイばれしたら、財産はすべてお姉さんのところに行くことになってる。お姉さんは、当然、不肖の弟に財産なんか渡したくないから、しょっちゅう様子を見に来る。舅さんのほうも、イマイチ息子を信じきれないって、毎日のように電話してきて」

 お姉さんの視察のときには、ミチルさんを例の彼氏のアパートのほうに移し、アリバイ工作。

「お父さんが亡くなって遺産が入ってきたときには、私たちにも、それなりの財産分けをするから、治療費の足しにしなさいって、言ってもらってるんだけどね」

 その、まとまったお金を得る前に、ミチルさんが入院してしまった、という。

「旦那さんたちは、大いに同情してくれたけど、金銭的援助は、ムリっぽい。彼氏さんは年金暮らしだし、旦那さんは、偽装結婚のお手当をくれるので、限界だし。旦那さんは、さらに、県営アパートの家賃を出してくれているわけで、これ以上はおねだりできない。私もパートの仕事は続けてるから、少しは生活が楽にはなっているんだけれど、それでもミチルの入院生活を支えるのは、かなり苦しい感じで……」

 最終手段ということで、天野さんは、ミチルさんの実家に連絡をとった。

 けれど、前述の通り、彼女の実家のほうも、貧困にあえいでいた、というわけだ。

「とにかく、まとまったお金が欲しかった……ミドリさんともサンザン話しあったけれど、2人とも知恵がなかった……接客だけなら、なんとかなるからって、キャバ嬢とかもやったけど、酔っ払ったオッサンの顔が近づくだけで、ダメだった……オッサンの顔に思いっきりゲロをはいて、3日でクビになった……」

 どんどん遠い目になって、ウツロに駐車場を眺める天野さんの肩を、ミドリさんが揺する。

「いすゞ」

「はっ。ごめん。とにかく、ニッチもサッチもいかないところまで、追い詰められたって、言いたかった。いっそのこと、無理心中も考えた。ミドリ姉さんと悪魔的な相談もした。そう、旦那さんのお父さんに早く死んでもらうには、どうしたらいいかって。探偵小説を何冊も読んで、アリバイとかも考えたけど、犯人バレしないような殺人って、やっぱり不可能かなあって……」

 杉田が、呆れて口を挟む。

「たとえ可能だって、普通の精神状態じゃ、そこまでしないでしょう」

「もちろん、冗談っていうか、空想よ。でも、ちょっと前までの私たちにとっては、結構リアリティのある空想だった。で、冗談半分に、そういう計画を立ててた矢先、中岡くんがオカネになる話をもってきてくれたの」

「え。中岡って、あの中岡大輔?」

「そう。花束の会ゲイグループの、中岡大輔くん」

 今度は、瀬川は口を挟む。

「あのLGBT狂信者とは、県北支部開設のとき、険悪になってなかったっけ」

「最初は、そうだった。今は、協力関係、かな」

「ホント、大丈夫? 騙されてるんじゃないの? 眉にツバつけて、話を聞かなきゃならないような相手よ」

 本家・花束の会へ、ゲイグループの大半を引っ張っていったのだから、世話役の手腕はあるのだろう。けれど、片桐氏を裏切ったような形になったのを、不審に思っている……という意味のことを、瀬川は言った。

「そうね。怪しくて非常識なのは確かだけれど、オカネになる話よ」

「天野さん、自分から進んでカモられにいったって、こと?」

「黙って、最後まで聞いて」

 結論から言うと、知り合いのゲイカップルが子どもを欲しがっていて、その母親になっている人を探している、という依頼だった。

「相手のゲイカップルっていうのは?」

「中岡くんが、盗撮騒ぎのときに世話になった弁護士さんらしいわ。腕ッコキでハンサムで、お金持ち。カップルの相手男性はお医者さんで、こちらもお金持ち」

 養子ではなく、実子が欲しいとかで、自分かパートナーか、どちらかの精子で人工授精して、子どもを産んでくれる女性を探している、という。

「……人工授精……」

「弁護士さんもお医者さんも、女性相手では全くダメっなんだって」

「ふーん」

「子どもは欲しいけれど、母親はいらない。ハッキリ、キッパリ、言われたわ。自分たちで育てたいからの申し出で、母親付なら、わざわざこんな依頼は出さないって」

 弁護士さんにしてもお医者さんにしても、モテてモテて仕方ない状況らしい。要するに、結婚して子どもを産んでもらうという、ありきたりな方法なら、候補者がゴマンといる、という話だ。

「ゲイだと分かってても、結婚したがるものなのかな、女の人って」

 瀬川が、いち看護師としての感想だけれど、と前置きして、言う。

「いっぱい、いると思うよ。特に、お医者さんのほうは」

「なんて悪い世の中だ」

「まあまあ、トキオくん。トキオくんだって、カッコいいよ」

「タエちゃんが口を挟むと、どーして、こう、話が脱線するんだろ」

 杉田がボヤいて、話を元に戻した。

 天野さんは、促されるまま、続きを話す。

「謝礼も、もちろん弾むって」

「金銭授受があったら、マズい案件みたいな感じがするんだけど」

 まあ、なくともマズイんだろうけど。

「要するに、卵子だけが欲しい、子宮をレンタルしたいって、ことよね」

「非常識っていうより、非合法って言うべきじゃ」

 バイ女性2人の意見に、ビアン女性2人が、交互に答える。

「依頼してきた、当の本人、法律家なもんだから、そこんところ、よく分かってた。で、そもそも論」

「そもそも?」

「そもそも、不妊治療の医学的進歩が法律に追いつかなくって、ゲイは、そのトバッチリを食らってるんだって、話」

「どーゆーこと?」

 長い話は苦手なのか、天野さんはミドリさんに話を促した。

「私も、完全に理解しているわけじゃないから、そのつもりで聞いてね。……現在の裁判所の判例だと、母親のお腹の中から出てきた子どもは、その母親の実子という扱いになるの。たとえば、A父とA母が精子と卵子を体外受精させて、Bの子宮で育てる。で、Bが分娩して産まれた子どもA子は、A父とA母の実子ではなく、B母の実子扱いになる。でも、これってヘンよね。遺伝的には、間違いなくA夫妻の子どもなわけだし、第一、不妊治療にさんざんオカネをかけて子どもを得たのに、実子が実子扱いされない、なんてのは。……以前、アメリカであったケースだと、B母がA子のことを自分の子どもだと言い張って、遺伝上の両親に渡すのを拒否したっていうのが、あったらしいわ。日本の判例に照らし合わせれば、この場合、B母の言い分が正しいってことになって、A父A母は我が子を自分の子どもにすることができない」

「なるほど」

「さらに、ヤバい問題もある。A父とA母が離婚して、A父がA子と結婚する場合。合法なのよ。だって、A父とA子には親子関係がないってコトになってるから」

「なんか、問題だらけの法律なんだ」

「うん。でも、じゃあ、B母は腹を貸しただけで、A子には全く親子関係がない、の場合。これ、代理母ビジネスを容認するってことになる。昔風に言うと、腹を貸す、だろうけれど、正確に言えば、子宮という臓器を有料レンタルしてるってコトだよね。金銭でもって、買うか借りるかの違いだけで、臓器売買の一種じゃない? なんて言うこともできる。それから、もう一つ。さっきのA父とA子の結婚と反対のことが言える……たとえば、B母が産んだのが男の子A男くんの場合、B母とA男くんが、合法的に結婚できちゃうって、ことにならない?」

 沖田は、何がなんだ分からないまま、感想を述べてみた。

「そりゃあ……親子婚したいヘンタイさんにとっては、朗報だ」

「何言ってんの、トキオくん」

 杉田が、キッと目を三角して、テーブルの一同を見まわす。

「前置きはそれぐらいでいいから、とにかく本題に戻って。最初に、妊娠うんぬんって言ってたところを見ると、要するに、天野さんたち、その依頼を受けたってことよね」

「そうよ、杉田さん」

「で、実際に妊娠しちゃった、と」

「私じゃなく、ミドリ姉さんがね」

「いくらお金にせっぱづまってたって、そういうことを本当にする人がいるとは、思わなかった」

 ミドリさんは目を伏せた。天野さんは杉田を睨んだ。

「人、それぞれでしょ」

「そうね。人、それぞれね」

「恋人の話だし、ホントは、私自身で、やるはずだった」

 天野さんが偽装結婚していると知れると「ただでさえ面倒くさい法律関係を、さらに面倒くさくする必要はない」と候補から外された、という。

「ミドリ姉さん、今32歳で、正直に年を言ったら、少し考えてみるって言われたんだけど……他に候補はいないし、一応4大卒で頭もいいし、少し高齢でもいいかなって」

「うわあ。なにそれ。ウシやウマの繁殖じゃ、あるまいし」

「トキオくん、黙ってて。横道、そらさないで」

「……はい」

 沖田や瀬川が質問すると、いつまでたっても、相談内容にたどりつけない。杉田が、2人にラテを頼み「それ、飲んでなさい」と命ずる。

「……で。確か、堕ろすか、産むかって、言ってなかったっけ」

 天野さんが、どこかで見たような表情になった。

「金銭的な条件が、合わなかったの」

「え。じゃあ、最初に、代金いくらにするか決めないで、人工授精しちゃったの?」

「まさか。そもそも相手は弁護士さんよ。法律家よ。契約書はキチンと3通作って、お互い一部ずつ、そして契約立会人として、中岡君に一部ってことで……我ながら完璧な仕事って、弁護士さん、言ってたわ」

「ちなみに、お値段、どれぐらい?」

「経費……妊娠から産褥、入院その他は全額ゲイカップルさん側で負担。ついでに、ミチルの入院費までみてくれるって。報酬としては、純粋に三百万円。契約当初は、思った以上の大金だなあって、大満足だった。けれど、さっき言った不妊治療の例を教えてもらって、興味本意で、アメリカの事情とか、色々と調べてみた。そして、アメリカでの代理母ビジネスみたいなものがあって、相場を知ったの。で、自分たちの契約が不当に安いことに気づいたの。それで、つい先だって、直談判に行ったんだけれど、交渉決裂して……」

「契約をきちんと結んだあとなのに、後出しジャンケンみたいに値上げ要求したってこと? イラストレーター事件のときと同じだ。天野さん、懲りてないの?」

「騙して契約をさせた、先方ゲイカップルのほうが、悪いのよ。私たちは、悪くない。それに、私は私利私欲のために、値上げ交渉したわけじゃない。カラダをはっているミドリ姉さんのためだし、病気に苦しんでいるミチルのために、あえて悪者になったのよ」

「あえて悪者……契約再交渉で、困らせてるっていう自覚は、あるんだ」

 言っていることとは裏腹に、全く悪びれすにいるのが、天野さんらしい、と沖田は思う。杉田が、続きを促す。

「それで? 値上げ交渉って、いくら要求したの?」

「ゼロが一つ足りないんじゃないって、言ってやったわ」

「三千万円?」

「そう」

「ずいぶん、吹っ掛けたんだ」

「弁護士さんたちも、驚いてた。いくら金持ちだからって、無限にカネが湧いて出るんじゃないぞって、イヤミも言われた。でも、アメリカの代理母で、実際、そういう契約例があるって勉強したんだもん」

「ちなみに、日本での相場っていうのは、どれくらいの額なんだろうね」

「……ゼロ円じゃない」

「ゼロ円?」

「そもそも、金を積まれたってやる人、いないんじゃ。家族とか、そういう人たちが善意やらしがらみからでやるボラティアみたいなものであって」

「……ボランティア、ねえ」

 天野さんは、そこまで言って、なぜか黙ってしまう。

 なんか、気まずい。

 沖田は、おそるおそる、話を続けた。

「結局、契約、変更になったの? あ。変更になってないから、産むかどうか、迷ってるとか?」

「弁護士さんとお医者さんで、態度が百八十度違うの。弁護士の水野さんのほうは、契約変更、断固反対。ビタ一文だって、増額しないって。カネが惜しいんじゃなく、契約蒸し返しで再交渉っていうのが、何より気に入らないみたいで。ミドリ姉さんがおとなしいことをいいことに、妊娠中の当事者が何も言ってこないのに、なんでお前がカネをせびりに来るんだ、みたいなイヤミも言われた」

「うあわ。それで、真逆な反応ってことは、お医者さんのほうは、増額に応じてくれた?」

「ええ。言い値通りの三千万はムリでも、もう少し増額してやっても、いいんじゃないかって、感じで。で、弁護士さんを説得するのと同時に、私たちをたしなめもした。喧嘩両成敗的なノリだったのかな。……ミドリ姉さんのケアや、ミチルの入院等、直接、あなたがたにわたらないオカネの部分も、結構な金銭負担なんだよって、説得された」

「なるほど」

 沖田が思わず相槌すると、杉田が脇腹をドン、とつついてきた。

 沖田は、黙ってラテをすすった。

「お医者さんが、増額してもいいって言ってくれてるのに、堕ろすかどうか、迷ってるんだ? ゲイカップルさんたちの間で、話がまとまってない?」

 今度は、しゃべりまくっていた天野さんに変わって、ミドリさんが答えた。

「生まれてくる子どものことを考えたら、契約破棄したくなっちゃって」

「どーゆーこと?」

「教育方針。水野さんの、考え方」

 ゲイカップルが育てる子どもなんだから、当然ゲイになるように、育てるのだ、と言う。

「沖田さんは、LGBT互助会で幹部をやっていた人なんですから、危険思想……こういう言いかたはヘんですけど、よろしくない発想だって、分かりますよね」

「そもそも、その弁護士の水野さん……だったっけ、どーゆう人なの?」

 LGBTと言ったって、花束の会会員でない人が、じゃあLGBTに関してどう考えているかなんて、なかなか分からない。

「異端中の異端って聞いた。中岡君がシンパシーを感じているのが分かるような気がする……ていうのが、片桐さんの意見」

「片桐さん、どーして、そういう異端中の異端って分かっていながら、つきあってたのかな」

「そりゃ、LGBTを公表している弁護士なんて、希少価値だからでしょ」

「……異端中の異端っていう、その中身を教えてよ。子どもをゲイに育てあげる、以外ので」

「うーん。たとえば、さっきの代理母ビジネスの話。堂々と解禁すればいいんじゃないっていうのが、その、水野さんの意見よ」

 もうすでに精子バンクという形で精子は売買されているわけで、卵子も売り買いされるべき、子宮もレンタルされるべき……と主張しているらしい。

「うわあ。でも、本来、そういうことが禁止されたり、タブーになったりしてきたのは、人権や宗教観、その他、守るべき価値があるからで……」

「そういうのを、保守的っていう一言で、全部切って捨てるような人なのよ」

「はあ」

「人工授精にまつわる問題で、遺伝的に近親婚になったり、産科学的に近親婚になったり、そういう特殊ケースでも、無問題って言い張る人。ぶっちゃけ、民放における近親婚禁止規定を、とっぱらえっていう人なのよ」

「すごい極端だね。でも、色々と弊害があるから、禁止になってることなのに」

「煙草の箱に書かれた注意書きみたいに……役場の戸籍係で、『近親婚は、遺伝的にも人間交際的にも有害で』と警告すれば、いいっていう意見。愚行権って言ってたかな。人間は自分に有害と分かっていても、愚行する権利があるって言ってた」

「結婚っていうからには、本人たちだけが、その愚行のトバッチリを受けるわけじゃ、ないんでしょうに。子どもができて、それでイジメられたりしたら、どーするんだろ」

「……それはそれ。運命とともに甘受すべきであって、言ってたかなあ。今は、便利な言葉がある。親ガチャって言う。子どもは親を選べなくて、金持ちの親もいれば貧乏人の親もいる、そして犯罪者の親もいれば、そもそも、物心ついたときに親がいなかった子どもだって、いるだろう。親を恨んだり、運命を呪ったりするのは仕方ないけれど、いつまでもクヨクヨしてたって、仕方がない。人間だれしも、配られたカードで自分のゲームを始めなくちゃならないんだって」

「……最後の、スヌーピーだっけ」

 ミドリさんが、このアメリカの国民的漫画のファンとかで、少し、漫画の話で盛り上がる。

 水野弁護士の異端話を注意深く聞いていた瀬川が、「私、そのゲイ弁護士さんの言い分、少しは分かるかな」と言い足した。

「本人がリスクや不利を承知なら、近親婚だって、アリか……そーよね、そういう理屈も有りなのよね」

 姉と弟として、なし崩し的にそういう関係になっている瀬川には、何か思うところがある、ということか。

「そういう近親婚うんぬんに、拒否反応を起こす人だっているし、何でもありって堂々と主張できるのは、ある意味、強い」

「ご本人、何でもありじゃなく、今より少しだけ自由で、今より少しだけ人が賢い世界を想定してるんだって、言ってるけど」

 杉田か疲れた顔で、言った。

「そろそろ、相談内容、まとめて欲しいんだけど」

 ミドリさんのほうは、その、水野さんの育児方針が気に入らないから、子どもは産みたくない。

「そんなふうに言われると、また、少しニュアンスが違うような……とになく、産まれてくる子どもが可哀そうで……」

 グダグダというか、デモデモダッテというか、とにかく煮え切らない。

 瀬川がポツリと言う。

「産まれてこなかったら、こなかったで、もっと可哀そうでしょ。中絶って、要するに、産まれてくる前に殺さるってことだから」

 ミドリさんが、ここぞとばかり、猛烈に反論する。

「胎児は胎児であって、命があるわけじゃ、ないわ」

 アメリカでいうプロ・ライフとプロ・チョイス的な、喧々囂々の論議……罵りあいが、十分ばかり続く。隣のテーブルの中年カップルからも、露骨な視線を浴びせられた。

「……その、子どもの教育方針が気に入らないって言う話、弁護士さんにしたんですか」

 天野さんが、静かに返事する。

「してない。お金の話は、した。交渉決裂したら、中絶もありかなってほのめかしたら、損をするのは全面的に君らのほうだよ、とも言われた」

 天野さんは、まだまだ色々と言い足りないようだったけれど、それは直接、水野弁護士にぶつけるべきことだろう。

「疲れた。飽きた。時間も遅いし、お開きにしましょう」

 沖田は一方的に宣言し、皆のぶんの会計をしにいった。

 天野さんは粘りたかったようだけれど、沖田・瀬川が沖田に続くと、渋々と後についてきた。


 帰りの車中、天野さんたちについての感想を、女性2人に聞く。

「天野さん、お金のためなら、色々とかなぐり捨てられる人なのかなって、印象。森下さんが守銭奴ってアダナしていた意味、改めて分かった気分」

「ミドリさんは優柔不断で……たぶん、あんまりアタマもよくない人よね。勉強できるとかできないとかいう意味じゃなくって……オンナとしての知恵がない」

 トキオくんは、どんな感想?

「女性にとって、セックスがどういう意味を持つものか、多少は分かっていると思う。でも、あの二人を見ていると、女性について、妊娠出産がどんな意味を持っているのか、全然理解できない気分だよ」


 水野氏その人の話を聞きたくて、その後連絡を取ってもらった。

 指定された待合せ場所は、意外なところだった。天野さんのパートナー、ミチルさんが入院中の病院だ。

 見舞いがてら、来たらいい……という水野氏の誘いに他意はなく、「首をツッコむつもりなら、今回の契約の原点になった女性に、会っておくべき」という、配慮みたいなもの、らしい。

 どうやら利府の事務所で一度会ったことがある相手らしく、水野氏のほうは、やけにリラックスして、沖田に握手を求めるのだった。

「久しぶり。沖田くん、と呼んでいいかな。前に会ったとき、確か、そう呼んでくれ、と君に言われた気がする」

「呼び方は、お好きにどうぞ。医院長先生は、同席しないんです?」

「回診中だよ」

「……大病院ですね」

「うん。総合病院ってヤツだよ。僕のパートナーの、お爺さんの代から続いている。建物はつぎはぎで古いところもあるけれど、中身は最新鋭の設備を揃えてるそうだ」

「はー。大病院の三代目なら、大金持ちだ」

「僕自身はそうじゃないけどね。母子家庭で、県営アパート育ちだ。お陰で、天野さんたちの境遇もよく分かる。中岡くんの持ってきた話を、ただ黙って引受けたわけじゃなくてね。僕なりの視点で、吟味もしたんだよ」

「なるほど」

「僕は今、パートナーの家に同居中なんだ。ご両親が健在なんだけど、実にリベラルな人たちでね。公認のゲイ配偶者と、認めてもらっている。パートナーにはお姉さんが2人いるんだけど、どちらも嫁にいってる。病院の後継ぎ候補が、いない状態なのさ。僕らの子どもを産んでくれるビアンの話をしたら、ご両親も賛成してくれた。今回は僕の種だけれど、次の機会があれば、パートナーの種で、子どもを作りたいと思っている」

「はあ。背景説明はありがたいですけど、はあ、としか、反応のしようがないです」

「はは。まあ、そりゃそうか。で。沖田くん。天野さん言われて、交渉に来たの?」

 面談は、外来患者や見舞いの家族が利用するという「雑誌閲覧室」でだった。冷暖房完備、小学校の教室ほどのスペースで、普通の病院待合室と違うのは、面談用に背の低いパーテーションが幾つか置いてあるところだろうか。

 アルマーニのスーツを着こなした水野氏は、レスリング選手のような立派な体格で、ゲイのよくモテるような風貌だ。沖田は、ペンギンのことを思い出して身構えたけれど、彼はサディストでもなんでもない、という。

 ご本人は、前述の通り弁護士だけれど、パートナーがお医者さんだけあって病気うんぬんには詳しく、ミチルさんの容体等についても、説明してくれた。

 この病院内で彼女はVIP待遇だそうで、手厚い看護と最先端の治療を施されているのだ、と言う。

「大丈夫、絶対治りますよ」と水野氏は太鼓判を押してくれたけれど、沖田のほうは、そんなに患者さんに関心があるわけでは、なかった。

「せっかちだなあ。沖田さんは」

「交渉がうまくいかなかったら、天野さんも里見さん姉妹も不幸になると言ったのは、水野さん、あなたですよ」

「確かに。でも、不幸になるのは彼女たちだけじゃない。僕も含めて、皆が不幸になるんだ」

 金銭交渉のほうは、皮肉なことだけれど、天野さんがクチバシを挟まなければ、存外スムーズにまとまるような気がする。

「子どもをゲイしたいと言っていた件を、里見さんは問題にしていました。自分も、それは問題にしたいです。逆のパターン、ゲイを無理やりノンケにしようと無理強いするケースを、イヤという程知ってますんでね」

 水野氏は、沖田の質問に直接答える前に、言った。

「沖田さん。真正ゲイが実子を得るための方法、知ってますか」

「それは……女性とどうしても性交ができないというなら、人工授精という方法で……」

「そういう産科学的な意味じゃなく……そうですね、じゃあ、その人工授精を保障する法律制度について、どれくらいお詳しいですか」

「全然、詳しくはないですよ。水野さんが天野さんにレクチャーしたのを、彼女たちからさらに又聞きしたくらいの知識しか、ないです」

「沖田さんは、同性婚推進のLGBT団体の幹部だったはずだ」

「ゲイグループ統轄の片桐さんには、偽装結婚うんぬんの相談はずいぶんされたけれど、子ども、どーのこーのって言う話は、でなかったな。もっとも、説明されたところで、法律には全くの素人だから、チンプンカンプンだったろうけど」

「ノンケカップル向けの、不妊治療のための、法律の受け皿はあります。けれど、ゲイ向けに制度が整備されているわけじゃない」

「LGBT関連では、こういうところも立ち遅れてるってことですか」

「実子問題はLGBTの問題じゃない。バイ男性は、普通に女性を愛せて、結婚もできて、実子を作れるじゃないですか。これは、ゲイ特有の問題ですよ」

「同性愛の問題?」

「いや、だから違います。ビアンなら、買うにせよ、もらうにせよ、なんらかの方法で生きた精子を入手できれば、実子を得ることは可能だ。自前の子宮があるんだから。ゲイには、子宮がない。時に沖田さん、片桐さんからは相談されてなかったそうですけど、花束の会では、このゲイが実子を欲しい問題、どう解決されていたか、覚えてますか」

「親族や、ビアンの親友に頼むっていう、ボランティア的な……」

「そう、ボランティア。でも、非常にハードルが高いボランティアですよね。子宮を貸すっていうのは。実際にそういう方法で実子を得られるゲイは、例外例に属する、少数派でしょう。そもそも、親族にゲイばれすれば、嫌悪されたり、叱られたり、はたまた精神病扱いされたりするのが、関の山だ。東京や大阪ならともかく、東北の片田舎では、未だ自分の性癖を受け入れてもらえないゲイが、ほとんどだ。だから、偽装結婚まではできても、子どもは……いや、実子は諦めるゲイが少なくない」

「LGBT互助会活動にどっぷり浸かってきたけど、そういう踏み込んだ問題、バイにはカヤの外っていう感じでした」

「ボクのパートナーは医者だから、科学的な解決策っていうのも、模索してみた。ブタやウシの子宮を借りる研究から、文字通り試験管を子宮がわりに使うっていうのもね」

「SFの世界ですね」

「そう。SFだよ。あくまでも現時点では。空想の解決方法だ。そして、空想でない、ゲイ全体が恩恵を受ける解決方法……ボランティア頼みなんていう不確かな方法じゃない、ちゃんとしたほうは存在しない……いや、法と倫理が邪魔する」

「今回の、里見さんの子宮を金銭で借りるというのは、法律的にアウトだから……」

「沖田さん。それを言うなら、倫理的にアウトだ。そもそも、こういうのを扱う法律は……対象者・ゲイ向けというのは、存在していない」

「話が一回転して、元に戻ってきたような。というか、天野さんたちに言ったこと以上のこと、水野さん、言ってませんよね」

「自分では、回りくどく話してるつもり、ないんだけどね。じゃあ、結論から、いこう。僕は、子宮レンタルビジネスが解禁される世の中が、早く到来してほしい。不妊治療中のノンケカップルのみならず、ゲイにも恩恵のある解禁だ。倫理面でマイナスなのは承知しているけれど、実施することで福音を受ける人の数と幸せを考えれば……功利主義的に、間違ってはいない」

「片桐さんたちが、あなたのことを、異端中の異端って言ってた意味が、分かるような気がします」

「ああ。僕のパートナーを含め、ゲイでも賛成してくる人は皆無だ。一歩一歩、地道にゲイの権利拡張をしようとしている人たちに対する冒とくだ、と言われたことさえある。でもね、沖田さん。そういう偽善者に限って、代替案を全く示してはくれない。やれ、我慢だ、やれ、ボランティア頼みの現体制でもなんとかなる、とかね。ノンケを刺激するのは得策でないと猛反対した日には、いったい、どっちを向いて戦ってるんだって、言いたくなるよ。そして、この手のグダグダで無駄な時間を費やしているうちに、僕らは子どもを育てられないくらい、老いてしまうんだ」

「今一度、確認します。今回、里見さんにカネで頼んだのは、水野さんにとって理想的な方法なんですね。後悔もなければ、迷いもない」

「仲介に立ったのが、中岡くんのような素人でなく、相手側代理人が天野さんみたいな守銭奴でなければね。法、医学、倫理のハザマでの仕事だからこそ、交渉人はプロのエージェントであるべきだ、と思う」

「片桐さんが、あなたを弁護士として信頼していたのが、ある意味、不思議ですよ」

「片桐さんか。彼は、同性婚推進には熱心だけれど、じゃあ、同性婚が制度として成功したあと、どうするんだっていうのは、全く考えない人なんだよ」

「役所の手続きから遺産のやり取りまで、色々と便利になるという……」

「そうさ。でも、子どもを……実子を得ることとは、全く別問題だ。同性婚推進者は、そこのところが分かっていない。同じ結婚というのに、不妊のノンケカップル向けみたいに、実子を得るための政策支援等がスッポリ抜けているのに、気づかないのさ」

「片桐さんたちは、まずは同性婚っていう制度を勝ち取って、それから、他の権利なんかを勝ち取っていくっていう戦略なのかも、しれません」

「いや。そんなことは、ないさ。沖田さん、あなたも花束の会幹部だったんだから、よく分かっているはずだ。同性婚を勝ち取ったっていう実績が、彼らにとってすべてなんだよ。その実績さえあれば、幡野代議士や名和町議は大満足だろう。さらに手柄を重ねたところで、LGBTから寄付や票が増えるってわけじゃない。というか、生殖という微妙すぎる問題に首を突っ込んで、藪蛇になってしまっては、逆にマイナスだ。労力ばかりかかって、たいした宣伝にもならないような活動なんて、政治家がするもんかね」

「水野さん。政治家に対して、すごい不信感を抱いてるんですね」

「それは、君もだろう、沖田くん。花束の会を追い出された顛末、だいたいのところ、天野さんに教えてもらったよ」

「追い出されたのは事実ですけど、ちょうど辞めたいとも思っていたところだったんです」

「やせ我慢はよくないよ。まあ、あれだけキナ臭い団体なんだ、君の弁明にも、一理あるんだろう。LGBTにも人材がなくはないはずなのに、トップの2人が2人ともノンケだなんて……話にならない」

「水野さんの主張は、だいたい分かった気がします。全く賛成はできないけれど、理解だけはしました。で、実際、自分だけでなく、天野さん里見さんも一応は理解して、妊娠に臨んだわけですけど、子どもの教育方針が……」

「ああ。あれかい。沖田さん、里見さんのたわごとを、本気で信じたのかい? 彼女は確かに妊娠したことを後悔しているかもしれない。けれど、僕の、子どもへの教育方針が理由で後悔しているわけじゃないさ」

「というと?」

「カネをもらって妊娠出産すること、そのものを後悔してるに決まってるじゃないか。女として、これでいいのかって、ね」

「だって、それはそれとして納得して、お腹に子どもを仕込んだんじゃ……」

「違うさ。あの天野さんのしつこい説得に根負けして、迷いに迷って……迷いながら、仕込んだのさ。そして、やっちまった後でも、まだ迷い続けてる。女として、これで良かったのかって」

「女として……ビアンとして、ではなく?」

「いくらLGBT運動に心酔しているビアンだって、これだけは別だよ。これはちょうど、初めて売春する女の子が、それでも自分を納得させられなくて、迷っているのと似ている。売春を援助交際なんて言い換えて、これは交際の一種だからヤマしくない……と問題から目をそらそうとしているのと、同じだ」

「里見さんは、卵子を提供して子宮を貸すことを、他の耳当たりのいい言葉に置き換えたり、してませんよ」

「そう。沖田君の言う通り、言葉の置き換えでごまかしたりは、していない。代わりに、姉としての勤め、姉妹の絆、そんな親族の情につけ込んだキーワードで、美談めいた印象を与えようとしている。里見さんは、一度は自分を説得することに成功した。でも、身についた倫理観が、たえず邪魔をするんだ。彼女の父親は、娘2人がビアンだと分かって、心が壊れ、ギャンブルに走った人なんだよ。里見さんは、たぶん、この父親に対しても、後ろめたい気持ちがあるんだ。ビアンでごめんなさい、金銭で子宮レンタルしてごめんなさいって、ね」

「水野さん。そこまで分かってるくせして、それでも里見さんを利用したんですね」

「利用だなんて、人聞きの悪い。正式な契約書をかわした、純粋ビジネスだって」

 まだ、そんなことを言い張るのか。

「妹さんのほうは、お姉さんの献身を承知しているんでしょうか」

「さあね。知ってはいるんだろうけれど、認めているかどうかは、分からない。僕とは全く口を聞いてくれないんだ。主治医である僕のパートナーとは、病状に関する最低限の話しか、しないそうだよ。天野さんとは、見舞いにくるたび、口喧嘩してる」

「お姉さんとは?」

「ささやき声で長いこと話をしていたけれど、次の日の手首を切った。自殺未遂。何をしゃべっていたのか姉妹双方に聞いたけれど、はかばかしい返事はもらえなかったな」

「水野さん。自分をわざわざここに呼んだのは、彼女に……里見ミチルさんに引き合わせるためでしたよね」

「そうさ。正直、恋人と姉以外の見舞客は、ほとんど来ない状況なんだ。手首を切ったのは、狭い人間関係で煮詰まっているせいも、あるかもしれない。気分転換をするのに、君は恰好の相手だ」

「ミチルさんに、会いましょう。でも、水野さん、あなたのためじゃない。お姉さんのミドリさんのためです」

「ほう」

「妹さんのために、多大な肉体的負担をしているのに、肝心の妹さんに自殺された日には、ミドリさんが可哀そうすぎるでしょう」


 ミチルさんの病室は、中庭の見える一階個室で、病棟を通らずとも、ベランダから外に出ることができる。奥手にはカイズカイブキの生垣があるけれど、日当たりがよく、庭に陰を落とすところまでは、いってない。レースのシースルー風カーテンを通して、何の変哲もないレンガ風プランターの花壇と砂利道の風景が見えた。まあ、平凡で退屈だ。けれど、ミチルさんにとっては、心惹かれる光景らしく、沖田が入室し、ベッド脇の背もたれのない丸椅子に腰を下ろしても、じっと窓の外を見つめたままだった。

「誰?」

 天野さん、そしてお姉さんの友達だ、と沖田は答えた。

「ウソね。姉さんに友達なんて、いないもの。あなた、水野さんの回し者?」

 病人相手に、ながながと自己紹介をするのは気が引けたけれど、沖田は花束の会を放逐されたところから、ビアン2人に相談された顛末を話した。ミチルさんは、相変わらず庭に目線をやったままで、沖田はちゃんと話を聞いてもらっているのか、不安になる。

「やっぱり、水野さんの回し者じゃない」

「どーして、そうなるんですか」

「姉さんは、中絶したいだなんて、一言も言わなかった」

「それは、妹さんに気を遣っていたのかも」

「何を、気を遣うっていうの」

「それはその……ミチルさんの入院費を稼ぐために、ミドリさんが身を売ったってことを、気に病まないかな、と……」

「なにそれ。意味、分かんない」

「は?」

「そもそも姉さんは、私のために水野さんの子どもを宿したわけじゃないし」

「どーゆーことです?」

「姉さんは、自分の子どもが欲しいからやったことなんだって、言い張ってた。妹のためじゃない、あくまで自分のためだって」

 それは苦しい言い訳だ、と沖田は思う。

 そう、姉が、なぜ赤の他人に等しい水野氏の子種を仕込んだか、ミチルさんだって、すぐにピンときて、詰問したはずなのだ。ミドリさんは、妹に気をつかって、善意のウソをついた。妹は、その善意にすぐに気づいたけれど、ウソを信じるふりをした。

 ミチルさんは、「優しさに対する優しさ」から、姉のウソを信じるふりをしたわけじゃ、ない。逆に、なんだか意地悪な気分になったからこそ、信じるふりをしたらしい。明るく振る舞うミドリさんに、ミチルさんは、辛辣に言った。

「フケツ」

 潔癖症の女の子が、男女交際中の女の子に発した言葉なら、意味は一目瞭然だ。けれど、ビアン妹がビアン姉に向かって言う場合のニュアンスは、どんなものかと、沖田は思う。

 姉が見舞いに来るたびに、妹はチクチクとイヤミを言ってイジメたそうな。そして、恋人……天野さんが、イジメた事実をたしなめたり、やめるように説教したりした。ミチルさんは、姉だけでなく恋人にも、キツクあたるようになった。もう見舞いに来て欲しくない、顔も見たくない……とまで、言ったらしい。けれど、ミチルさんがそんなふうにキツクあたればあたるほど、お姉さんも恋人も、優しくなっていったらしい。

 ミチルさんのベッドの枕元には、引き出し付のサイドテーブルがついていた。見舞い品のフルーツ盛りだの、花瓶にさした花だのを飾るためのものだ。青い花が好き、というミチルさんのために、ミドリさんは見舞いにくるたび、アイリスだのリンドウだのを買ってきてくれたそうな。「そんなことをしなくてもいい」というミチルさんに、「私がしたいからやっている」とミドリさんは笑って答えていたという。

「お金の心配は、いらないから」

 ミチルさんが返事をせずにいると、ミドリさんは、優しく同じ言葉を繰り返した。

「お金の心配は、いらないから」

 そして、その日、ミチルさんは手首を切って自殺未遂をはかった、という。

 自分さえいなければ、死んでしまえば、姉も恋人も、金策に苦しまなくとも、いいのに。

 ミチルさんは、自責の念から、姉・恋人に嫌われるように振る舞った。そして、そんな振舞いをする自分が、トコトン嫌いになった。ミチルさんの主治医は、自己嫌悪に効く薬を処方してはくれなかった。ミチルさんは、いつしか、青い花が嫌いになっていた。彼女は花瓶を無視することを覚え、一日の大半をサイドテーブルの反対側……窓の外を見て、暮らすようになった。

「ミチルさん……」

「私が治ったところで、貧乏生活がよくなることなんて、ないのにね」

「でも、水野さんが報酬を……」

「それは、姉さんの金」

 ミチルさんは、遠い目になって、言う。

 天野さんと恋人になったとき、多少は貧乏でも、楽しいビアン生活になると思っていた。実際に楽しくはあったけれど、こうして色々なモノが抜け落ち、最後には結局貧乏だけが残ってしまったのだ、と。

「そんな悲しいこと、言わないでください」

「沖田さん。あなた、花束の会の幹部だったんでしょう。ビアングループには、森下さんっていう金満家がいて、問題を見えなくしてるんだって、いすゞが言ってたわ」

 男女の賃金が不平等で、女性のほうが相対的に貧乏だということを、沖田も認めはする。けれど、それは女性一般の問題であって、ビアンに限ったことじゃない。

「男と女っていう具合に比較するから、そんな、間違った結論になるのよ。ビアンと比較すべきなのは、ノンケ女よ」

 昨今、結婚しない女性というのも、少なからずいるけれど、大半のノンケ女性は、やはり結婚をする……男と。ライフステージの長い期間、つまり結婚継続中は夫の稼ぎが加算されるわけで、生活水準だけを見れば……たとえば、その主婦が兼業で、男性より低い賃金で働いていたとしても、貧乏じゃない。

「それって、天野さんの受売りですか」

「ビアンが、カギカッコ付の結婚をするとして、結婚したノンケ女性より、生活水準が低いっていうのは、沖田さんも認めざるを得ないでしょう」

「なんだか、詭弁くさいなあ」

「ピンと来ないのは、沖田さん、あなたがバイセクシャルで、しかも男性だからよ。LGBTの人間でさえ、分かりにくいっていうのが、この問題の闇だと思う」

 ゲイカップルの実子問題、ビアンカップルの貧乏、双方の闇が強引に解決を求めた結果が、姉の妊娠なのだ……とミチルさんは、言った。

「抽象論は、それくらいでいいでしょう。ミチルさんは、結局、どうしたいんです?」

「どうしたいって?」

「現状がイヤで、どうにもならないから手首を切った。そういうことなんでしょう?」

 ミチルさんが自殺したところで、ミドリさんが子種を仕込んだ、仕込んでしまったという事実は、もう変わらない。そして、天野さんの金回りがよくなるわけでもない。

「みんなが、不幸になるだけです」

「少なくとも、水野さんへの、アテツケになるわ」

「やれやれ」


 ミドリさんと天野さんが躊躇している間に、優生保護法で認める中絶の期間は過ぎた。結局、水野氏との契約は継続、となったのである。ミドリさんの出産までの期間、ミチルさんは今一度、自殺未遂を起こし、心療内科の治療を受けることになった。

 ウツのせいか分からないけれど、ミチルさんの猜疑心が強くなり、天野さんとお姉さんの「浮気」を疑うようになる。同じような目にあったことがある杉田が、たびたびミチルさんの見舞いに行って、カウンセリングのマネゴトをした。けれど、彼女の猜疑心が弱まることはなかった。杉田が匙を投げ、中岡大輔がミチルさんの病室に毎日顔を出すようになったところで、沖田たちは手を引いた。

「天野ちゃんたちのことは心配だけど、それよりなにより、中岡大輔が嫌い」という瀬川の意見に、沖田も杉田も賛成したからだ。

 それで、ここから先の話は、又聞き……主に片桐氏から得た情報による後日談である。


 まずは子どもの話から、しておくべきだろう。

 あらかじめ羊水検査等をしていたから、産まれてくる子どもが男の子で、すこぶる付の健康であるのは、分かっていた。ミドリさんは、一カ月半ほど子どもの世話をしたあと、大幅に増額した契約金をもらって「仕事を終えた」はずだった。しかし10ケ月後、ちょうど子どもが一歳の誕生日を迎えるという時に、水野さんたちに呼び戻されることになる。

 水野さんたちでは、子どもを育てきれない、というのが理由だ。

 水野さんたちカップルは裕福で、自宅にはもともと「家政夫」さんを雇っていた。父親2人が、バリバリ仕事をしている間、その家政夫さんが赤ん坊の世話をすることになっていた。けれど、2か月もしないうちに、音を上げることになる。

 昼休みや夜、決まった時間に休息がとれる「家事」仕事とは違って、赤ん坊の世話は文字通り24時間、つきっきりになる「仕事」なのである。多少、時間の融通が効く水野氏が、仕事の合間を縫って育児に参加した。決して赤ん坊の世話をナメてかかっていたわけではないけれど、3か月もしないうちに、水野氏も音を上げることになったという。パトーナーのお医者さんが、赤ん坊の世話に加わるころには、水野氏とお医者さんの間に、隙間風が吹くようになっていたという。

 赤ん坊が可愛いのは確かだけれど、こんなに育児に時間がとられるとは思わなかった、と水野氏は徐々に家に帰らなくなっていった。自分の子どものことだろう……とお医者は問い詰めたそうな。水野氏は、投げやりに「カネはあるんだから、新しい家政夫を、追加で雇おう」と提案したという。育児放棄、とまでは言わなくとも、露骨にやる気がなくなっている水野氏に、お医者さんは幻滅したという。過去、赤ん坊の世話をしたことのある家政夫をネットで募集しようとしている水野氏を、お医者さんは止めた。男子と限定しなければ、一番の適任者を知っている、とお医者さんは言った。

「誰だよ? 知合いの幼稚園の先生とか?」

「私たちの息子の、実の母親だよ」

 こうしてミドリさんは、我が子の世話をするために、カネで雇われることになった。

 ミドリさんにとって、それは嬉しくもあり、つらくもある経験だった。母性本能というものがあるかどうか分からないけれど、とにかく我が子の世話をするのは、ミドリさんにとって、楽しい経験だった。もちろん、問題もあった。

 水野氏が再び契約書を持ち出して、期間を限定してしまった。手間暇がかかるのは赤ん坊の間だけで、幼稚園にでも通うようになれば、世話する労力も時間も減るはず……と水野氏はもくろんでいたらしい。本人は、「本棚一つぶんくらいの育児書を読み漁った。だから三歳にもなれば、世話できる」と豪語していたそうだけれど、お医者さんやミドリさん含め、周囲の人間は皆、冷ややかに水野氏の育児論を聞き流していたそうな。

 まさに、これは、机上の空論だった。

 赤ん坊のオムツを取り換えるのには抵抗がない、と水野氏はたびたび「自慢」していたけれど、トイレットトレーニングで、アヒルのおまるをキレイにするのを、彼は極端に嫌がった。

「人は、得意不得意があるものだ」と水野氏は、達観したモノ言いで、育児嫌いを自己弁護した。けれど「本当に子育てしたいのなら、子育てが好きなら、イヤになる作業というのは、ないはず」とミドリさんが、その不甲斐なさをなじったという。

 実の母親、という子育てにおける圧倒的アドバンテージで、男たちを指図する立場になったミドリさんではあるけれど、彼女には彼女なりの悩みもあった。

 当の息子がなついてくれない。

 そっけない。

 母親扱い、してくれない。

 単なる世話焼きオバサン以上でも以下でもない、扱いを受けてしまう。

 息子が一番なついているのは、水野氏パートナーのお医者さんの病院看護婦さんだった。もう中学生の娘がいる、というでっぷり太ったオバサンで、ミルクを与えるのも着替えをさせるのも、実にそっけなく機械的でぞんざいなのに、当の息子は笑顔を崩さず世話を受ける。二番手は、息子の祖母、水野氏のご母堂である。これまでのいきさつはすべて承知の上で、お婆さんは孫を溺愛していた。ミドリさんが「姑さん」に会ったのは、再契約してしばらく経ってからのことである。お婆さんは、息子がゲイであることを肯定していた……いや、諦めていた。けれど、実際に孫息子と、その母親を相手にするようになって、普通の家族生活がしたい、という願いが復活したらしい。「結婚」という、あからさまなキーワードは使わなかったけれど、幼児にとって、父親母親が揃っている家庭環境が安心できるのだ……などと、一緒にお茶を飲むたびに、ほのめかしてくる。姑さんは、自分のささやかな願いを、息子にも愚痴るようになったらしく、ミドリさんの世話の時間が長くなると、目に見えて不機嫌になるのだった。


「これでは、なんのための実子か、分からない」

 水野氏は、ミドリさんが育児手伝いにくるようになってからすぐに、パートナーのお医者さんに、不平不満をぶちまけた。それはもちろん、お門違いではある。けれど、お医者さんは、ミドリさんを雇おうと提案した張本人ではあるし、第一、他にフラストレーションの矛先がなかったのだろう。

 お医者さんのほうの反論も明快だった。

 水野氏が子育てしきれなかったからこそ、人手に頼っているわけで、ミドリさんを排除したいんなら、お前が仕事を辞めて、子育てに専念しろ、と。

 今どき、専業主夫なんて珍しくもないし、お前を養うだけの収入はあるぞ……とまで、言ったらしい。

 それはもちろん、お互いが裕福なことを了解した上での冗談ではあったけれど、水野氏は、いたく傷ついた。ひがんだ。沖田のような「下々の者」には全く理解できない話だけれど、どうやら水野氏はパートナーのお医者さんに、コンプレックスを抱いていたようなのだ。弁護士とお医者さんとで、どちらの社会的地位が上で、収入が上かは分からないけれど、少なくとも水野氏は、パートナー氏より下の地位にいる……と思い込んでいたらしい。

 お医者さんは「ばかばかしい」と一笑に付し、周囲の人たちも水野氏のコンプレックスを理解できずにいたのだけれど、この「誰にも同情されない」ことが、さらに水野氏のカンに触ったらしいのだ。

 ミドリさんが珍しく連休をもらって美容院にいっている時、お医者さんから呼び出しがあった。妹の容体が悪化したのか、はたまた赤ん坊がケガでもしたか……と飛んでいってみると、水野氏の失踪を告げられたのである。どれぐらい用意周到に準備していたのか、水野氏の私物はあらかた運び出され、携帯電話は通じなくなっていた。

 ミドリさんが姑さんに連絡を入れると、お婆さんも寝耳に水だったらしく、オロオロするばかり。何より、子どもの世話が急務だった。水野氏の育児を、さんざん役立たず扱いしてきたミドリさんたちだったけれど、いざ彼が失踪すると、抜けた穴を埋めるのが意外と大変だった。本棚一つぶんの育児書読破はネタでなく、子どもの寝かしつけかただの「ママ友」たちとのつき合い方だの、地味なところで地味に貢献しているのが、分かった。

 すぐに足取りが掴めるだろうと思っていた水野氏捜索は、思いの外時間がかかった。このまま彼を発見できなかったら、子どもをどうするのか、大人たちで相談することになった。

 ミドリさんは実母ではあるけれど、立場上は水野氏に雇われた世話役に過ぎず、しかも半年経てば、その契約も切れる立場にあった。水野氏がいなくとも、姑さんから養育費をもらって子育てする、という手もあったけれど、ミドリさんは全く乗り気ではなかった。

 契約、契約と、法と金で子どもを取りあげ、都合が悪くなると「母親役」として雇ってきた水野氏への反発もあったし、何より、当の子どもが全くミドリさんになついてくれないのだ。お医者さんは、水野氏の恋人に過ぎず、別れたノンケカップル同様、血のつながってない「連れ子」をどうこうする義務はない。そして、姑さんは、子どもが成人するまて面倒をみ切れるかどうか分からない高齢者なのであった。どう考えても一番悪いのは水野氏その人なのだと思うけれど、孫可愛さから、お婆さんはミドリさんとお医者さんをさんざん罵った。偽装結婚して、孫が一人前になるまで育てろと、しつこく2人に迫ったのだった。


 そもそも、この代理母契約には、立会人がいた。

 そう、中岡大輔である。

 仲介役として、たんまり報酬をもらっている彼を頼るのは、悪くないアイデアだった。中岡大輔は、本家・花束の会の現役幹部にしてゲイグループ統轄だ。偽装結婚うんぬんのトラブル処理もしているだろうし、何より会のトップは県議なのである。失踪した水野氏捜索にも役立ってくれるだろう……けれど、中岡大輔を頼ることに、強固に反対する人がいた。

 天野さんだ。

 イラストレーターの件で、花束の会を放逐された天野さんには、未だにわだかまりがあったということかもしれない。

 水野氏を紹介してもらったときには、ビジネスライクなつき合いができるようになっていたのに、また冷戦状態になっていたのは不思議だった。けれど、またまた、お金がらみと聞いて一同納得した。なんでも、中岡大輔の懐に入った仲介手数料が、思いの外、高額だったらしく、バックマージンをよこせ、と天野さんが詰め寄ったらしいのだ。中岡大輔は、一銭も自分の懐中には入れず、すべて本家・花束の会へ寄付した、と返答した。これは本当だろう。彼は、狂信的なLGBT原理主義者であっても、カネに汚い男じゃない。けれど天野さんは、信じなかった。ミドリさんが引き留めても、天野さんの追求は止まなかったのだ。

 それで。

 天野さんは、中岡大輔を毛嫌いするようになった。

 なかんずく。

 中岡大輔も嫌いだけれど、花束の会はもっと嫌いだ。

 彼らを頼ることで、ウチが嘲笑されていると思うと、我慢ならない、と天野さんは血走った目になった。

 お医者さんも姑さんも、そんな天野さんを無視して、県議に頼ろうとした。けれど、ミドリさんは、天野さんに従うと、反対した。話はいつまでもまとまらず、次善の策で、片桐氏が指名されたのだった。


 片桐氏は、本業のカルチャーセンター講師業が順調で、このたび、スイーツレシピ本を出版するところだという。忙しいから、かまってられない、という意味のことを、丁寧に説明したという。そもそも、この子宮レンタルの仲介が中岡大輔と知って、関わるまいと決心していたらしい。天野さんは、めげずにしつこく連絡した。沖田が承知していないのに、沖田が片桐氏を推薦した……名前を出しもした。ゲイでなければ、ゲイ問題についての妙案は思いつかない、とオベンチャラを言いもした。そして、無理やり相談にこぎつけた、という。

 露骨に迷惑がりはしたけれど、片桐氏は、やっぱり善人だった。

 夕方カルチャーセンターまで来てくれれば、講義の後に話を聞こう、と折れてくれたのである。ガスレンジ付テーブルが設えてある片桐氏専用の控室には、イタリア製の業務用珈琲メーカーが置いてあって、片桐氏は手ずからエスプレッソを淹れてくれた。

「そちらの方が、里見さんのお姉さん?」

「そうです。それと、彼女の赤ん坊」

「かわいいねえ」

 片桐氏は、目を細めて褒めてくれた。生来おとなしい赤子なのか、たまたま疲れていたのか、面談中、ずっと寝たままだったらしい。

「花束の会在籍時代も、僕がやってきた活動は限られてたよ」と片桐氏は前置きするのを忘れなかった。つまり、彼の活動の主は、偽装結婚の世話だった。ミドリさんとお医者さんの場合、子どもを育てるために入籍するという、姑さん推薦の方法は、ナンセンスなのだ。2人が偽装結婚するにしても、そもそも偽装する必要がないのでは? ということだ。

「僕が世話をしてきた偽装結婚は、結婚する人たちがLGBTであることを隠していて、LGBTを毛嫌いする親族・友人・地域住民の皆さんを騙すためのものだよ」

 しかし、2人は……ミドリさんにしてもお医者さんにしても、そもそもビアン・ゲイであることを、隠してはいない。姑さんを含め、LGBTであることに、難癖つける人もいない。2人がどうしても結婚しなければならない、特段の事情も全くない。つまり、結婚を……偽装結婚をする必要なんて、ない。偽装結婚する必要がいないなら、片桐氏の出番はない……。

 理路整然と説いた後「いったい僕に何をして欲しいんだ?」と片桐氏は、逆に問うた。

 そう、ミドリさんという母親もいるし、水野氏がご母堂に残していったカネを、育児のための軍資金にもできる。当面の子育てには困らないだろう。そして、そのうちに、水野氏だって、見つかるだろう……。

 ミドリさんは、そんな片桐氏の説得に、反論する。

「水野さんが見つかったところで、子育てにどれぐらい本気で向き合ってくれるか、分かったもんじゃありません。赤ん坊と向き合うのがイヤで、計画的に失踪した人なんですよ。育児本を読み漁っていたのも、たぶん、子どものためじゃない。自分が、理想の父親として振る舞ってみたかったから。そう、子育てごっこ、したかったからに、決まってます」

 あの子はそんな子じゃない……と、ご母堂が弱弱しい声を上げたけれど、ミドリさんは断固として自分の意見を曲げなかったそうな。

「違います。たぶん、水野さんは、子どもを育てるっていう意味が、分かってない人なんです。そう、犬や猫……ペットでも飼うような軽いノリで、実子を求めたんじゃないかって、思うんです」

 世話は面倒くさいけれど、かわいいところを愛でたい……という「いいとこどり」願望からは、一人前の人間を育てるという意思が感じられない、とまで、ミドリさんは言う。

 姑さんは、そこまで言われて、結局反論を諦めた。

 片桐氏は、黙ってミドリさんに続きを促した。

 そう、ミドリさんの分析が的確だとしても、まだ、片桐氏が手を貸す場面じゃない。

「片桐さん……人を騙すのと、許しを乞うのと、同時にできるものでしょうか?」

「それ、どーゆう意味?」

 もっと具体的に言って欲しい、と片桐氏は促す。

「私たちの子どもを、普通に……ノンケカップルの子どもみたいに、育てたいんです」

「どういうこと?」

「私、自分の子どもを、騙したいんです」

 ミドリさんとお医者さんが、夫婦のふりをするのか、と片桐氏は確認した。

「いえ。夫婦っていう形には、こだわりません。けれど、私たちがLGBTであることは、子どもに隠したい。出生のいきさつ……父親が、父親の自覚の欠片もない幼稚な大人で、母親のほうがカネで母親としての尊厳を切り売りした女だなんて……悲しすぎます。将来、子どもが父親くらいの年齢になれば、LGBTを憎むようになるでしょう」

「ふうむ。ゲイ・ビアンの問題児たちが、実験的に作ってしまった子どもに対して、出生の事情は秘密にしておき、LGBTを全く意識しない育て方をするのが、贖罪になる、という意味?」

「私たち親の罪が軽くなるわけじゃない。でも、そのほうが、子どもは幸せになると思います」

「里見さん。甘いですよ。その育児方針は、穴だらけの計画だと思うな。確かに、カネと人手の心配は当面ないとはいえ、いつまでも、今後十何年も、子どもを騙しおおせると思っているの?」

「そのために、必要ならば、偽装結婚を……」

「永久的に秘密を秘密のままにしておくことなんて、できないですよ。いつかは、きっとバレる。そして、長年、信頼する保護者たちに騙されてきたと知ったショックは、大きいでしょう」

 片桐氏が花束の会時代に手がけてきたのは、確かに偽装結婚までだった。入籍したカップルのその後……子ども、どーのこーのというのには、ノータッチだった。けれど、宮城県内の同業者団体……LGBTネットワークを通じて、三組ほど、LGBTカップルとその子どもに会ったことがある、という。

「一組は同性婚カップル。残り二組は偽装組でした。同性婚のほうは、子どもが小さいときから、親御さんがLGBTについて教え込んでいた。そう、自分たちがどんなカップルで、どんな生き方をしていて、どんな偏見にさらされているか……常々教えていました。そのうえで、子どもには子どもなりの人生を送って欲しいと、同性愛にかかわらない生き方も示唆したそうです。結論から言うと、その子は普通の異性愛者として育った。けれど、カミングアウトしているLGBTの友人たちと良好な関係を築いているし、苦しんでいる性的マイノリティに手を差し伸べることができる子に成長した、ということです」

「うまくいった、例ですよね」

「そうです。偽装結婚組2組のうち、うまくいかなかった例は……偽装結婚であることを、打ち明けることをためらっているうちに、子どもにバレてしまったケースです。子どものほうでは、ずっと騙されていたんだと、随分ショックを受けたとか。バレたのが、ちょうど子どもが中学二年生のとき。多感な時期だったのも、影響したんでしょう。1年くらい、子どもは悩んで……もちろん、両親のほうはもっと悩んだらしいです。花束の会にカウンセリングの派遣依頼が来て、若手を何人か送り込みました」

「失敗して、グレた?」

「いえいえ。不良になって荒れる、とかはなかったですけど、何につけても皮肉を言うような冷笑家に育ってしまったです。よく、好きの反対は嫌いじゃなく無関心、なんて言い方をしますけど、彼もどうやら似たような感情になっているらしい。LGBTの話題が出ても、目の前に花束の会会員がいても、慇懃無礼に無視する感じでねえ」

「残り一組は、成功例ですか?」

「成功というのとは、また違った感じかな。要するに、まだ子供には偽装がバレてない状態でしたね。子どもが小学五年生、思春期の入口になって、そろそろ性教育うんぬんという感じでした。今の学校の子どもは、花を持ち出してオシベ・メシベから始めるわけじゃないですからね。もっと露骨に、性器そのものの模型なんかで、ストレートにいく。それから、雑誌やテレビ、インターネットみたいな媒体で、性に関する情報に接する機会だって、格段に多いです。当然、ノンケ一般の性についてだけでなく、LGBTについても学ぶ機会は多い」

「それで……」

「いつかどこかで打ち明けなきゃいけないってことは、親御さんたち、きちんと分かってはいました。けれど、その時期をどうするかは、悩みまくってたなあ。タイミングを誤れば、子どもはグレるかもしれない。学校で性教育をやってくれる時期はチャンスの一つだけれど、小学生では早すぎるかもしれない。でも、例えば高校卒業時や成人式の時では、遅すぎるんじゃなかろうかって。そこまでいけば、彼氏彼女がいたりするだろうし、ひょっとして結婚相手を連れてくる可能性だってある」

「はあ」

「花束の会で偽装結婚を斡旋したカップルじゃなかったんで、この親子に会ったのは、ただの一度だけでした。カップルどちらかだかの親御さんが要介護になって、二世帯住宅で同居する、とか言ってたはず。それで、生活をともにすれば、LGBTバレする可能性が高まる……と相談に来た。お爺さんお婆さんにバレた場合は、これから考えるとして、子どもにバレない方法はないか……そんな感じでしたね」

「はあ」

「里見さんの場合、偽装結婚するにせよ、結婚以外の偽装をするにせよ、子どもにLGBTバレする可能性は高いです。そもそも、偽装途中で、水野さんがひょっこり帰ってきたら、どうするんです?」

 片桐氏の説得は説得力があり、だからこそミドリさんは黙り込んでしまった。

「じゃあ、私たち、どうすればいいんでしょう」

「他人に頼らないで、自分たちでしっかり考えることです」


 水野氏が戻ってくる前に、パートナーのお医者さんは新しい恋人と交際するようになった。いきつけのフレンチレストランのオーナーシェフだそうで、鼻の下のヒゲが似合う、ダンディだ。ハンサムな外見もさることながら、空気が読める……常識的なものの考えたができるゲイだというのが、お医者さん的には、ポイント高かったらしい。

 水野氏捜索が行き詰っていたある日、天野さん、ミドリさんはランチに招待された。「着ていく服がない」「ナイフとフォークの使い方が分からない」「肩がこる」と2人は遠慮申し上げたそうだけれど、お医者さんは、珍しく食い下がった。「紹介したい人がいる」「ビストロで昼食だから、そんなかしこまらないでも」「もうすでに、予約入れちゃった」。

 その日はあいにくの雨の日で、天野さんはブーツどころか、高校時代から愛用の黄色いダサい長靴をはいていた。上半身はエンジ色の地味なジャージ、下はジーンズである。介護看護には動きやすくていいけれど、実年齢より十歳は上に見えてしまう。オバサンだ。オバサン丸出しだ。「前もって言ってもらっていれば、もう少し、オシャレな恰好をしてきたのに」。天野さんが唇を尖らすと「ゴメン。真正ゲイだから、女性のファッションには詳しくない」という逃げの返事。ここいらへん、やっぱり水野氏とつきあってた人だなあ、と天野さんは呆れたそう。

 話の内容は、端的に言って、彼氏を振る「言い訳」だった。

「エキセントリックな彼氏のほうが、刺激があっていいと思っていた時もあったけれど、もう、こりごり」

 水野氏が戻ってきても、もう恋人として接するつもりはない……とお医者さんはミドリさんたちに宣言したそうな。しかし同時に、自分にも責任はあるから、できるだけ子どものサポートはする、とも言ってくれたらしい。

 結局、最終的に、子育てはミドリさんのところにまわってきた。

 もはや、なんのために子宮レンタルしたのか分からない状況だったけれど、ミドリさんは淡々と現実を受け入れることにしたらしい。

 ミドリさんは、シングルマザーになったことを、自分の父親に告げた。

 父親のほうは、もはや娘がすることに無関心なようで、それがどうした……と言うと、パチンコに出かけて行ったそうな。「喜ばれるとは思ってなかったけれど、それならせめて、叱ってくれたらいいのに」というミドリさんの思いは、全く通じなかった。

 沖田が片桐氏を通じて得た情報はこのへんまでで、その後、すっかり忘れていたころに、風の便りがあった。


 天野さんとミチルさんは、その後、別れた。

 そして、紆余曲折の上、天野さんはミドリさんと交際するようになったという。

 ミチルさんは、入院中、姉と恋人の関係を疑っていたけれど、あながち根拠のない邪推ではなかったのかもしれない。本当のところ、里見姉妹と天野さんの三角関係は、どうだったのだろう? 天野さんは里見姉妹に二股をかけていたのか、それともキチンと別れてから交際し直したのか? 詳細を知りたくはあったけれど、わざわざ調査までするようなことじゃない。そもそもこれは、本家・花束の会・ビアングループの知人から、杉田がたまたま小耳に挟んだ情報だった。杉田曰く、その情報をくれた知人も、これ以上の何かを知っているようではなかった、という。「電話番号が変わってないなら、スマホ一本で直接確かめたらいいじゃん」と瀬川が気軽に言ってくれた。けれど、さしたる用事もないのに、近況を確かめるために電話するほど、沖田は天野さんその人に関心があるわけではなかった。

 ミチルさんは、水野氏が失踪してからのことだけど、無事に退院できたそうな。

 皮肉なことに、ミチルさんが全快したのち、天野さんの偽装結婚相手の父親が亡くなった。偽装旦那さんが「結婚」する時に約束していた通り、遺産の一部を分けてくれた。まとまったお金が入りはしたけれど、天野さんはちっとも嬉しくはなかっただろう。ミチルさんは完治して、もはや治療費は必要なくなったし、そもそも別れたあとの話だった。そして、肝心の治療費は、ミドリさんの子宮を貸して支払い済だったからだ。事の一部始終を知った本家・花束の会・ビアングループの面々、特に森下女史をはじめとして天野さんを生理的に嫌っている人たちが、さんざん嘲笑していたという。

「どんなカネであれ、喜ばないってことはないでしょ。なんせ彼女、守銭奴なんだから」。

 けれど、そもそも天野さんが「守銭奴」になったのは、病気の恋人のせいだった。


 杉田がちょくちょく情報を仕入てくるたび、瀬川は「もっとうまい生き方、なかったのかしらねえ」などと、ありきたりな感想を述べた。彼女たちが不器用だったのは確かだと思うけれど、ビアン・ゲイという業を背負っている限り、どこかで「LGBTの闇」にぶち当たるのは運命だったのかな、と沖田は思う。

 そして……。

 同性愛者たち各々が「闇」を抱えているように、沖田たちポリガミーバイも、自分たちだけの闇を抱えていた。

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