第10話 象徴譚(両性愛者が新しいトレードマークを考える話)
「これで、タコとおさらばできるわよ」
森下さんがウキウキ顔をしていたのを、初めて見たかもしれない。
利府の事務所には、ここの主の名和氏、時折顔を見せる森下さん、そして事務所で顔を見るのは初めてとなる天野さんがいた。県北事務所のときはどうも……と沖田は頭を下げたけれど、天野さんは、何やら真剣に考え込んでしまって、返事すらない。
「自分、何か気に入らないこと、言いました?」
沖田がそれとなく、聞く。
名和氏はのんきに答えた。
「事務所内は禁煙ですから」
「愛煙家の彼女が、ニコチン切れでボーっとしている、というのが名和氏の説明だ。
「違う、違う」
森下さんが、頭を横に振る。
「彼女、イラストレーターと、ちょっとトラブってるのよ」
森下さんのいう「タコ」とは、我が「花束の会」のマスコット? レインボーオクトパスくんのことである。名刺にも印刷してある、この愛嬌ある頭足類は、頭に絞り鉢巻を巻いた、真っ赤でかわいげあるタコだ。LGBT互助会のマスコットキャラということで、8本の足に、それぞれ虹の色をあててある。もともとは志津川商店街かどこかのマスコットキャラ「オクトパスくん」を拝借してきたものだった。花束の会の前身となったゲイグループ内に、志津川出身者がいて、彼がとりあえず何かグループシンボルになるものが欲しい、と仮に制定したものだ。
沖田は愛嬌あるレインボーオクトパス君が好きだけれど、なぜか女性陣には不評で、「花束の会」という通称通り、花のイラストに差し替える計画が、進んでいたのだった。
「まずは、新しいイラストを見てもらいましょう」
名和氏が封を切った茶封筒をよこす。中身はA4の紙1枚だけで、漫画チックにデフォルメされた花の図案が印刷してあった。
「バラにユリにアジサイ……ここまでは、分かります。ゲイ、ビアン、そしてバイの象徴にするんでしたよね。でも、最後の、この花は?」
「ガクアジサイです」
「これが、トランスグループの象徴なんですか、名和さん?」
「そうですよ。原弥生くんにも、了承してもらってます」
「自分は了承してませんよ。これ、バイグループと、かぶるじゃないですか。こっちはアジサイなんですよ」
「イラストでは、ちゃんと区別がつくように描いてもらってます。それに、花の成り立ちが、トランスグループを説明・紹介するのに好都合だとかで」
ガクアジサイは、現在のアジサイの原種にあたる花である。花の中央に両性花と呼ばれるオシベメシベの部分があり、その周囲には装飾花と呼ばれる「ガク」……偽の花がついている。つまりガクアジサイは、植物学的には「花」でない装飾が咲き乱れているけれど、園芸的にはその「ガク」が花で通りますよ、という花なのである。
「で。こういう成り立ちが、トランスグループを象徴するのに、ピッタリだ……と原さんも賛成してくれて。たとえば、トランス女性、原弥生くんみたいなタイプの場合。生物学的には女性じゃないけれど、世間一般的に意味で、女性扱いしてくださいね、というメッセージなんだとか」
「はあ」
「原弥生くん個人の感想として、ゲイやビアンよりバイグループに親近感があるので、ウチとしては似通った花であるのも、嬉しいと言ってましたけど」
「はあ。イマイチ釈然とはしませんけど……バイグループの会合で、話してみます。で、イラストレーターさんとのトラブルっていうのは」
やはり、デザインがどーのこーの、という話だろうか?
「いえ。天野さんが、代金を値切ろうとしたら、相手、烈火のごとく怒り出した、とか」
「天野さん?」
難しい顔をしていた天野さんだが、沖田に水を向けられて、ようやくしゃべり出す。
「相手はインターネットで見つけた若い女性イラストレーターさんよ。看板は出してるけど、まだ修業中だとか。専門学校在学中で、勉強してるんだと言ってました。仙台在住で、その気になれば直接会えるってことと、修業中の身なので安く描いてくれるっていうこと、そして、花のデザインが可愛かったことが、決め手になりました。デジタルデータが送られてきて、支払のときに、少しお代を負けてくれって言ってたら、怒り出しちゃって」
沖田は首を傾げた。
「そもそも、イラストを発注するときに、代金の取り決めもしたんでしょう? なぜ、後出しジャンケンみたいな感じで値切ったんです、天野さん?」
「半分の労力で済んだのかな、と思ったから」
イラストレーターさんのほうでは、仕上がるまでに1週間はかかると言っていた。しかし実際には3日で図案が届いた。
「なるほど。一理ありますね。で、先方の反応は?」
「だから、すごく怒ってた。逆に、短期間で仕上げたんだから、特急料金を割り増ししてくれるのが、スジだって」
話し合いは平行線に終り、天野さんはもう一度、交渉してみた。
「彼女、LGBTの人だって名乗ってたから、情に訴えることにしたの」
「具体的には、何と?」
「花束の会が活躍すれば、それは廻りめぐって、会に所属してないLGBTの人のためにもなる。イラストレーターさんのためにもなることだし、他のLGBTを間接的に支援することになるんだから、ボランティア料金でお願いしますって、頭を下げた。けれど、彼女のほうは冷ややかだった。そーいう、甘ったれたことをいうLGBTがいるから、LGBT全体が良くならないんだって。カネはカネ、LGBTはLGBTで、両者を混同するなって」
「イラストレーターさんの言ってることのほうが、真っ当に聞こえるけど」
「そんなこと、ないっ」
何よ、苦労知らずのガキが、地道にやってきた大人に言うことじゃないでしょうが……。
ブツブツつぶやき始めた天野さんを見て、名和氏が肩をすくめてみせた。
「自分も、名和さんも、たぶん森下さんも、イラストレーターさんの味方ですよ」
「沖田統轄、アンタなんか、嫌い」
「はあ」
LGBTの人が皆、天野さんみたいな考え方をしているわけじゃない。現に名和氏も森氏さんも、最初の契約通りの金を払って、終りにしておけばよかったという意見だ。いつだったか、たしか県北支部で聞いた「天野さんは守銭奴」という意味が、なんとなく分かったような気がする。
味方が1人もいないことに不機嫌になって、天野さんは「今日のところは用事があるんで、これで失礼」とフイと消えた。
イラストレーターさんの話に戻ると、彼女は天野さんと交渉決裂後、「もーやってらんない。ウザい。カネはいらないから、もう2度と連絡してくんな」という捨て台詞の後、花束の会から何度メール等で連絡を送っても、無視している状況なのだと言う。天野さんは、自分が適切だと思う金額……要するに、値引き代金を勝手に振り込んだのだそうだ。
トラブルはまだ尾を引きそうなので、相手の返事待ちなのだ、と名和氏は説明した。
「やれやれですね、名和さん」
「最後の尻ぬぐいは、慣れてますから」
天野さんの名誉のために、一言添えておく。
お金持ちのご令嬢、森下さんは、彼女のことを「守銭奴」「ケチ」「貧乏くさい」とさんざん悪口していたけれど、実際、天野さんは貧乏なのだそうだ。彼女には4年前から同棲しているビアン・パートナーがいるのだけれど、このパートナーさんが、昨年夏から入退院を繰り返している状況なのだそうだ。
「膠原病だそうです。ヘタすれば、死に至る病ですよ」
それまでは共働きだったのに、パートナーの病気後は、1馬力で世帯を支えている。病気治療にかかるカネ諸々も、もちろん天野さんの財布から出ているわけで、彼女の家計は火の車、というわけだ。
「親御さんとか兄弟姉妹からの支援とかは?」
「ビアンであることをカムアウトした時点で、勘当されたとか」
東京ならいざ知らず、宮城県の郡部となると、女性向けの就労はどうしても賃金の低いものに限られてしまう。LGBTのためなら、と積極的に活動をしてくれるゲイグループも、この手の男女差別の話になると無頓着で、逆に「稼げない理由をLGBTにかこつけるな」と説教するそうな。パイグループから見ると、ゲイもビアンも似たり寄ったりな感じなのだけれど、当事者間には、それなりの溝があるらしい。女性が手っ取り早く稼ぐ手段として、水商売か風俗か、要するに「女を売る」という仕事が、ないわけじゃない。けれど、ビアン女性には、ノンケ女性以上に高いハードルがある。つまり、男相手にその手のことができない、ということだ。ビアン・バイ女性向けの風俗なんていう特殊ジャンルが、東北の田舎にあるわけがなく、天野さんにとって、カネを稼ぐ手段にはなりえない。
「同情はするけれど、自分たちが応援できることは限られてますね」
沖田が名和氏に素朴な感想を述べる。
傍らにまだいた森下さんが「私はあのコが大嫌いだけれど、ビアンの名誉のために、一言味方しておくわ。口だけの同情なんて、して欲しくないと思ってるんじゃない」とピシャリと言うのだった。
「花束の会、炎上しているぞ」
最初に気づいて教えてくれたのは、江川である。
チャットその他インターネットを通じてじゃない、直接スマホへの連絡に、イヤな予感がしたものだ。急ぎの用件でなけりゃ、こっちもわざわざお前さんの声を聞かざるを得ない電話はしない……と江川は前置きした。
「匿名掲示板、見ろ。お前さんの言ってた、例のイラストレーター氏が、代金踏み倒しの経緯について、詳しく書き込んでる」
コピーペーストするのに、ちょうどいい分量だったとかで、江川が気づいたときには、ヤフーのトレンドコーナーにチョロリと紹介されるくらい、有名な「事件」になっていた。
「もう、既に消して回るとかしても、追いつかないと思うぞ。謝罪広告というかメッセージというかを出して、しばらくは雲隠れすることを、勧める」
「……その件の担当は、自分じゃないんだ」
「何、他人事みたいなこと、言ってんだ。まだ、会の幹部やってんだろ」
江川が、ネットサーフィンしながら、電話してきているようだったので、コピペにアクセスして、読み上げてもらうことにする。
「……事実と少し違うところがある。料金は踏み倒していない。確か、値引きした額を振り込んだとか、言ってた」
「後出しジャンケンで、無理やり減額させたのは、事実なんだろ? それもLGBTっていう看板を盾にして、無理やり減額を迫った」
「ああ」
「値引きした金額を無理やり振り込んだっていうなら、それはそれでマイナス材料だぞ。誰がどー見ても、立場が弱いイラストレーター相手に、圧力団体が権力振りかざして弱い者いじめしているようにしか、見えん」
「花束の会は、親睦団体で、互助会だ。何が圧力団体だよ」
「ふうん。そうかい。トキオがそう思うんなら、そうなんだろうさ。お前の中ではな。オレは、これ以上何も言わんよ。ま、身をもって、ネットの怖さっていうのを思い知るがいいさ」
ふ、と鼻で笑ったような音とともに、電話は切れた。
入れ違いに、利府の事務所から、連絡が入る。
「あ。ようやく繋がった。こちらは名和です。重要な案件があります。今、電話、大丈夫ですよね」
「どーしたんです。いつもの名和さんらしくない」
「今後、花束の会の連絡は、今、私がかけているスマホ宛てにお願いします。……というか、固定電話のほうは、繋がらないでしょう」
「は?」
「イラストレーターがらみの苦情の電話が、ガンガンかかってきてるんです。回線がパンクするぐらいに。森下さんと原弥生くんに、電話番の応援を頼みました。というか、沖田さん、あなたも助けて」
抗議の電話は、これまで花束の会の「は」の字も知らないように人たちからで、ネットでの炎上騒ぎに参加すべく、怒鳴りつけてきた「正義の味方」の面々らしい。「権力をカサに……」という、真っ当なお説教が大半ではあったけれど、中には、無言電話のイタズラもあったし、LGBTに対する誹謗中傷もあった。固定電話についていたファックス機能は、エンドレスファックス……送信側がループ状に紙をつなぎ合わせて延々とファックスを送ってくるイタズラ……被害で、早々に切られた。抗議の電話は、夜中の三時過ぎに30分ほど途切れただけで、いつ果てるともなく続く。森下さんも原弥生も、耳鳴りが死止まらなくなるくらいに、怒鳴り声の相手をしたそうな。当然、この2人だけでは電話番が足りず、利府近郊の花束の会会員も、みんな、じゅんぐりに、招集されたということだ。
いっそのこと、電話線も外して、抗議を一切受け付けないようにする、という案も出たけれど、これは名和氏がガンとして拒否した。
そもそもの原因の天野さんは、鎮火させるための一切の行動を拒んだ。曰く、「私は悪くない。今回の炎上、会の皆さんに迷惑をかけたことは後悔しているけど、反省はしていない」だそうである。
誠心誠意謝ったあとは、首をすくめて嵐が過ぎるのを、待つ。
長すぎる24時間が経過したあと、名和氏は再び沖田に連絡をしてきて、そんな方針を伝えてくる。
「ネット上の匿名さん相手には、それでなんとしのげるかもしれませんけど……いや、しのげないかもしれませんけど、それはそれとして、会員さんたちには、どー説明するんですか、名和さん?」
そう、抗議の声は外ばかりからで、ない。組織内でも、説明責任を求める声が上がっているのだ。
「沖田さんのところでも……バイグループでも、下からの突き上げ、ヒドイですか?」
「沖田さんのところでも、ということは、他のグループでも、執行部批判がすごい?」
「ええ。ゲイグループの片桐さんから、相談を受けたばかりですよ。彼の疲れた声を聞いたのは、初めてかもしれない。バイグループでは、抗議、ないんですか?」
「シノとタエコ……杉田さん瀬川さんには、色々と言われました。けど、抗議というよりは、対策を一緒に考えようね、みたいな感じで」
「それは、沖田さんの交際相手だから、でしょう」
「ええっと。他のメンバーからは、確かに、いったいどうなってるのかという問い合わせ、あるには、あります。でも、問責というより、単に現状を知りたい、みたいなニュアンスの電話ばかりですね。そもそも最初から、会の活動に熱心でない人間の集まりなんで」
沖田は苦笑した。音声のみで、対面はしていないはずなのに、名和氏にも、この苦笑は伝わった。
「騒ぎが始まってから、初めて少し笑った気がしますよ」
24時間後、再び連絡をとりあうことを約束して、電話は切れた。
事務局という立場上、名和氏からの連絡が公式なもの、ということになるのだろうけど、沖田の元には、当然、他のチャンネルからも情報が入ってくる。
トランスグループの原弥生が、最もマメで、最も困った連絡をよこす。
「ストーカーに、つきまとわれてます」
時系列に沿って言えば、最初の報告は、「見たこともない男に、監視されています」だった。
花束の会は事務所所在地をネット上に公表している。
騒ぎに興味を持った野次馬が、野次馬しに来たわけだけれど、これが、ただの野次馬ではなかった。
いわゆる、ユーチューバーだ。
事務所が入っているアパートを外から撮るくらいならともかく、会員の出入りに乗じて中に押し入ろうとする。断固として侵入を阻止すれば、ドアが壊れるくらいの勢いで、何時間も乱暴なノックだ。何度かは警察に来てもらって追っ払ったけれど、彼らは全く懲りてない。この手のトラブル系ユーチューバーは確信犯で、映像が過激なら過激なほど配信が伸びるので、平気で迷惑をかけ続けるのだそうだ。
花束の会としては、事務所への「襲撃」より、会員個々人を狙い撃ちされるのが、痛かった。世間的にカミングアウトしている面々は今さらだけれど、会員の中にはLGBTであることを隠している人もいる。そう、隠したまま偽装結婚している人だって、いるのだ。
幸いなことに……いや、不幸中の幸いと言ったほうが、もっと的確か……迷惑系ユーチューバーたちは、会員全部をターゲットにしたのでは、なかった。サえないオッサンや地味なオバサンたちでは絵にならないということなのだろう。LGBTと分かりやすい人たち……トランスグループの面々に目をつけた、というわけなのだ。とりわけ原弥生は、素で女子に間違えられるくらいの「かわいい系」トランスなわけで、映像映えする。利府の事務所でのみならず、自宅や職場にまで押しかけてきて、四六時中カメラをまわすユーチューバーたちに辟易……いや、生活の危機さえ感じていた。
「プライバシーが全くなくなった感じなんです」
原弥生は、どこから電話してきているのか、やたら音響のいい場所から、沖田に助けを求めてきた。
「カミングアウトしている立場ですし、バーテンダーとしては、それをウリにさえしてますから、LGBTうんぬん、と言われるのは今さらですけど……コンビニにちょっと牛乳を買いにいくのさえ、盗撮されるのは、たまりません」
「警察は、こういうユーチューバーたち、しょっ引いてくれないのかな」
「職務熱心にやってもらってるとは、思います。でも、おまわりさんたちも、今回の騒動の経緯を知っていて……イラストレーターとトラブルになった、そもそもの原因は花束の会側にあると知っているせいか、どこかこう、冷ややかなんですよね」
「自分、できること、あるかな?」
「あります。沖田さん、石巻に、かくまってくれませんか」
電話番で利府の事務所にいくときと、バーテンダーの職場で野次馬にからまれるのは、ある意味仕方がない。けれど、自宅を特定されて、一挙手一投足を監視されているのは、ツラい。
「ストーカーたちだって、毎日のように石巻までついてくるのは、大変だと思うんです。しかも隠れ場所を特定するまでは、毎日無駄足ということになるでしょうし」
「そうか。でもそうなると、他の電話番の人たちに、悪いな」
沖田たちは、この電話番を免除されていた。
「石巻在住ということで、免除してもらってるのに」
「沖田さんたちは、面が割れてない数少ないメンバーなんです。そのまま、ほとぼりが冷めるまで隠れていたら、いいんですよ。今、手伝えなくとも、県北支部の件ではずいぶん貢献したんですし。警察としても、これ以上保護対象が増えるのは、勘弁という気持ちでしょうし」
静かに耐えていれば、いつかは沈静化する。
それは事実なのだろうけど、沈静化の前に、破局がやってくる。まず、アパートの隣人や大家さんから苦情がきて、利府事務所を追い出されることになった。隣人は夜勤のボイラーマンで、普段でさえ音に敏感な人である。連日の騒ぎで不眠症になったとかで、名和氏に怒鳴り込んできただけでなく、大家さんにも苦情を入れた。大家さんも大家さんで、今回の騒動を苦々しく思っていたらしい。もともとLGBTなんて怪しげな団体とは関わりになりたくなかったので、県議から要請がなければ、入居を許可なんてしなかった人なのだ。
渡りに船、とばかりに、ボイラーマン隣人の苦情を正当理由に、花束の会はアパート退去になった。賃貸借契約に明記してあり、「出るトコロに出ても、負けるよ」と言われ、名和氏はすごすごと引き下がったそうな。
「で。どーするんです?」
24時間ごとの連絡で、名和氏からいきさつを聞いた沖田は、「まさか、原弥生くんに続いて、事務所まで石巻に来るって言い出すんじゃないでしょうね」と警戒感露わに聞いた。
「沖田さん、不動産屋さんに、ツテがあるとか?」
「いえ。ないです、ないです」
「そう、あんまり警戒しないで下さいよ、沖田さん」
「……県北支部のほうは、カボチャファームの間借りだけれど、生きてるんでしょう? 登米に引っ越すっていう手も、使えますね」
「いえ。それじゃ、幡野センセイの選挙のお手伝いができませんから。できることなら、この利府に留まりたい。最低限でも、宮城郡の中に、です」
「この後に及んで、センセイの選挙の心配ですか。会の行き死にがかかっているのに」
「花束の会は2LDKの空間の中にあるんじゃ、ありません。会員皆さんの心の中にあるんです」
「そんな現実逃避、しないでくださいよ」
「レンタカーで、箱コンテナ付の軽トラを借りて、家財道具一式を積んで、緊急非難の予定です。資料用書類とか、テーブル椅子とか、喫緊で利用しないモノは、県議の第一秘書さん・第二秘書さんの物置きに、一時保管を頼みました。保管料は、もちろん、タダ。レンタカーも、軽の、しかもトラックになると、かなり安いんですよ。会員の負担にも、ならないでしょう?」
事務所を追い出された経緯をネット上に公表して、同時に固定電話も解約する。
「ただの電話解約だと、ケツをまくって敵前逃亡した、とか言われかねません。花束の会のイメージに、大打撃です。でも、アパート退去を大々的に公表すれば、世間の道場を買って、少しは騒ぎも収まるでしょうし。野次馬どもに、やりすぎって、攻撃もできると思うんです。そう、一石三鳥くらいの、負けるが勝ち、戦法ですよ」
「家財道具って、ノートパソコン一基だけじゃ、ないんですか?」
県議に「下賜」してもらった茶飲み道具一式がありますよ、となぜか誇らしげな名和氏だった。
事務所の始末とは対照的に、会員個々が特定されるほうは、深刻な被害を生んでいた。
電話番にやってきた会員を、例のユーチューバーたちが映像に撮って、拡散したせいだ。もちろん、正体が発覚しないように、会員たちも変装まがいのことを、してはいた。マスクをしたり、野球帽を深々とかぶったり。
でも、無駄だった。
カミングアウトしていなかった会員の多くは、LGBTがバレたあと、職場の同僚たちに敬遠されていた。あからさまなイジメや、当てこすりがあったわけじゃない。けれど、空気がぎこちなくなるらしい。仕事の話は続くけど、会員が雑談に混ざると、会話が途切れがちになるらしいのだ。昼食や、アフターファイブの飲み会に誘われなかったり、同僚男性に2人っきりになるのを避けられる男性会員も出てきた。
「うつ病が再発した会員もいるよ」とゲイグループ統轄の片桐氏は、湿っぽい声で、報告をくれたものだ。
ゲイグループのアウティング被害が、心理的にダメージなら、ビアンのそれは、身体の危機だろう。ビアンがビアンたるゆえんは、決して周囲の男に幻滅したり振られたりしたとかではないのだけれど、勘違い男が言い寄ってくるようになっているらしい。「オレが男の本当の気持ち良さってのを教えてやる」「君の男運のなさは、ここまでだ」等々、どこかで拾ってきたエロ本のサオ役のセリフみたいなのを、恥ずかしげもなく、次から次への聞かされている……とは、森下さんの弁。
「今までだって男嫌いだったけれど、ますますイヤになった」
「すべての男がゲスじゃない」と沖田は反論してみたけれど、「アンタが言うと説得力がない」と森下さんはニベもなかった。
職場において、どこまでいってもイヤがらせの域も出ない周囲の反応も、家庭においては暴力だの訴訟沙汰だの、より深刻になっていた。具体的に何を言っているかというと、偽装結婚バレ、だ。
ビアングループとゲイグループが共同して「円満」に偽造しているケースでも、ノンケな親族たちからすれば、言語道断な所業らしい。
仲人の顔に泥を塗った、とか言う道義的な非難は、まだ軽いほうである。
金銭的な訴訟を起こされたケースもある。
AさんBさんはゲイカップル、ⅭさんⅮさんはビアンカップルで、それぞれAさんとⅭさんで偽装結婚、BさんとⅮさんも同じように籍だけは入れた。Ⅽさんのお父さんが小金持ちで、新品なら億の値段という大型クルーザー持ちだった。Ⅽさん結婚後、糖尿病で小型船舶免許を返上したⅭさん父は、AさんⅭさんカップルにクルーザーを譲った。Ⅽさんは船舶免許を持っていないのはもちろん、インドア派で日焼けするのも嫌いな人。Aさんも船の操縦はできない。幸いにしてBさんは、釣りが趣味なこともあり、船も操れた。クルーザーの名義をAさんに直し、BさんはAさんとともにクルージングを楽しむこともあれば、釣り仲間を連れて、必ずしもAさんを同伴せず……フィッシングに繰り出すこともあったそうな。
娘のためを思ってクルーザーを譲ったⅭさん父が、実態を知って怒った。クルーザーは、どこの馬の骨とも知れないBさんや、その釣り仲間のためにくれてやったんじゃない。既に名義はAさんのものになっているけれど、結婚自体が偽装なら、譲ったことも無効になるはず、というのがⅭさん父の論理だった。
クルーザーは返してくれ、どこぞに売っぱらって、孫の教育資金にあてる、ついでにAは娘と離婚しろ……。
こんなケースが立続けに怒っている、とゲイグループ統轄の片桐氏は、相談してきたのだった。
「自分、法律家じゃありませんよ、片桐さん」
「もちろん、知ってるさ……法律での決着より、その前段階でなんとかならないか、力を貸して欲しいんだ」
沖田はもちろん、全面的に協力するつもりだった。
けれど、杉田・瀬川が難色を示す。
マサキが借りてきたゾンビ映画を三本、ソファに一列に並んで立続けに視聴してから、沖田は恋人三人に相談をした。というか、なぜに、こんなときにゾンビ? と沖田はマサキに聞いた。ラブコメやSFを見る気分じゃないから……とマサキは大型テレビを見ながら、理由になっていない理由をしゃべった。そういう気分なのよ、とマサキの代わりに姉のほうが沖田の肩に寄りかかってきた。
まあ、話のマクラにするために、聞いてみただけのことだ。
沖田は、バイグループの「バ」の字も出さないで、原弥生や片桐氏からの相談を、少し話してみた。
少しの沈黙のあと、瀬川が言う。
「トキオくん、江川さんが辞めていったときの話、忘れたの?」
偽装結婚等の相談や同性婚推進は、「花束の会」設立の主目的だったから、江川がいた当時のバイセクシャルグループも、当然協力した。けれど、バイグループが求めていた複数婚推進に、ゲイもビアンも形式的賛成以上のことは、してくれなかった。時期尚早と、お茶を濁されて事実上活動は先送り……たぶん、婚姻を焦っているバイにとっては無限にも思える先送り……をされてしまったのだった。他にも色々あって、江川は会を辞め、バイグループ自体が崩壊の危機に晒された。
「今さら、その偽装工作が破綻したところで、助ける義理はないと思うな」
杉田も瀬川と同意見で「そうそう、虫が良すぎる」と言う。
「困ったときは、お互い様だよ、シノ」
「そもそも、江川君が複数婚を提案したのは、トキオくんのためなんでしょ」
「まあね」
「その当人が甘いことを言って、どーすんのよ」
「花束の会そのものが危機だから、しばし、目をつむる……てのは、ダメかな。それに、原弥生くんにしても片桐さんにしても、今さらって言うと思う」
「トキオくん、甘いなあ」
「そうかなあ」
「バイグループは許すほうだから、今さらって言い出せるけど、ゲイやビアンは土下座して謝罪する側でしょうが。あの人たちが今さらって言っても、江川くんなら、絶対許さないんじゃない」
どうも、ラチが開かない。
「マサキは、どう思う?」
「ちょっと。会員でない人に、意見を聞かないで」
「参考にするだけだよ、タエコ」
マサキはゾンビが美人女性の脳みそをすするところを熱心に見ていたけれど、やがて、言った。
「姉さんたちに、一票です」
沖田は天井を仰ぎ見た。
「やれやれ。バイグループも分裂かなあ」
杉田が感慨深く、ため息をついた。
「トキオくん、変わったわよね。前は、あんなに辞めたがってたのに。今は真逆なこと、考えてる」
捨てる神あれば、拾う神あり。
ユーチューバーや、彼らが代表する世間一般にコテンコテンに非難されてきた「花束の会」だけれど、全く味方がいなかったわけじゃない。
軽トラ事務所生活が始まってから3日目のこと。せめて郵便だけは……と私書箱を維持してきた郵便受けに、志津川から葉書が届いた。今回の騒動の一部始終を見守っていた有志一同さんだという。LGBTとは全く無縁無関係だけれど、町おこしの一環として、ささやかな援助をしたい、という文面だった。テンプレそのまんまの書き出しは丁寧で、敵意はなさそうだけれど、最初、この、町おこしうんぬんというのが分からなかった。
「タコ」……そう、今回の発端となった旧? マスコットキャラ「レインボーオクトパスくん」のルーツというか、ご先祖というか、原形「オクトパスくん」ゆかりの地だと気づいた手のは、葉書に掲載されていた有志代表さんに、連絡してからである。東北なまりの全くない若い男性の声が、ビジネスライクに、ハキハキと言いたいことを言ってきた。「事件沈静化のあかつきには、御社のホームページにリンク先を貼ってもらってですね、LGBTのお客さんにも、南三陸に遊びにきて欲しいんですよ」。
観光の勧誘か……この切羽詰まっているときに……ひょっとして、間違った番号にかけちまったのかな……いや、違う。
沖田は相手の素性を聞いた。
なんでも、震災ボランティアを機に、志津川に移り住んだ「起業家」さんだそうで、「モアイグッズ」だの「タコしゅうまい」だの、地域特産品を楽天ネットショップにて売売る仕事をしているそうな。
沖田は当然、相手の援助と返礼条件を全面的に受け入れると言った。
「事務所代わりに軽トラを使っていると聞きました。新古車を1台、無償で提供しましょう。ささやかですけど、レンタル代、浮きますよ」
沖田は現在修羅場中の名和氏にも、小康状態になったら、必ず連絡を入れさせるから、と約束した。
「事務局さんには、オクトパス君の8本目の足が勝手にやっていることなので、あんまり恩を感じないでくれ、とお伝えください」
沖田は電話の見えない相手に向かって、深々と頭を下げた。
昨日の敵は、今日の友。
この志津川有志さんたちだけでなく、かつて沖田たちを吊し上げにかかっていたフェミニスト団体等も、助っ人してくれたことは、明記しておかねばならないだろう。たいていは、ビアングループのシンパ……というか、森下さんのシンパで、何より彼女の窮地を助けんがため、活動してくれていたようである。
「杜の都・フェミニストのつどい」「宮城・女性学連絡協議会」は、炎上の炊きつけ役・燃料投下の面々への確保撃破に力を入れていた。LGBTそのものと、花束の会は別物なのだから、便乗してLGBTまで攻撃するのはルール違反……と結構な数のツイッターやフェイスブックを黙らせた。また、匿名掲示板のスレッドをいくつか終わらせるために、攻撃の仕方が「人格批判」「事実とは微妙に違う誹謗中傷」だとの、揚げ足取りを繰り返した。
「多賀城児童健全育成・母の会」みたいに、他の事件をあえて炎上させて、世間の関心をそちらに向かわせる……というグループもあった。
森下さんシンパさんたちは、総じて天野さんが嫌いらしく、天野さんが置かれている境遇を考えれば、少しくらい同情があっても良さそうなものなのに、「元凶は天野さん」と責任追及する声が大きいという。利府に代わる新事務所の契約等があったら、費用は全面的に天野さんに負担させるべき……とかいう声もあるとかで、彼女は今、四面楚歌らしい。
「それはそれ。これはこれ」と、沖田が天野さんを擁護しようとすると「これはビアングループ内の問題だから、バイセクさんは黙ってて」という横やりがはいる。
沖田は、天野さん自身にも、周囲と仲直りするように勧めていたけれど、頑固者の彼女は、「私は悪くない」を繰り返すばかり。
そして、このビアングループの決定……天野さんに「損害賠償を負わせる」という方針は、花束の会全体にも広まりつつあった。最初はお互い様だから……と鷹揚だったゲイグループメンバーの間にも、厭戦気分が広がっていた。
いつ終わるともしれない苦情対策にうんざいしていたのもあるし、偽装の面が割れて実害が出ているせいもあった。
沖田は、何度目かの24時間定時連絡の時に、名和氏に、この不穏な動きを報告した。
「聞いてますよ、沖田さん。私も、その不穏な動きに、1枚噛みたい気分です」
被害総額を単純に積算すると、一千万円近くになるかもしれない……と名和氏はつぶやきもした。沖田は「たかが何千円の交渉失敗で、一千万円近くのペナルティはないでしょう」と驚く。「そうなんですよねえ」と名和氏自身、途方にくれたという返事だった。
「仙台地下鉄研究会」の面々から、「協力するぞ」という申し出があった日の午後、事態はいきなり収束に向かった。
「仙台地下鉄研究会」会長の星山さんは、好敵手不在だと男尊女卑反対運動もつまらないから……と、とってつけたような言い訳をして、協力を申し出てくれた。副会長の河野さんは「ウソウソ。沖田さんたちまでユーチューバーの標的にされたら、どうしよって、ソワソワしてんですよ」と笑顔だった。
沖田は、勉強の邪魔をしてごめんなさい、と頭を下げた。
そう、この二人とは偶然、県立図書館のロビーで出会ったのである。星山会長は東北大学の法学部生で、自身法律に詳しいばかりでなく、知人友人先輩に法曹関係者が少なからずいるらしい。イラストレーターさんとのトラブルは、既に法律うんぬんという次元を越えているから、そちらはどうにもならないが、偽装結婚がらみのほうは、相談になってくれるという。
「花束の会にも、ゲイやビアンの法律家はいるんだろうけど、LGBT関係のトラブル仲裁なら、普通の異性愛者の法律家が間に入ったほうが、相手も……偽装されたほうも、素直に話を聞きやすいだろう」
そう、LGBTの法律家なら、常にLGBTの味方で、偏見が入っているだろうと、余計な勘ぐりをされる危険がある。
星山会長の見解に、沖田も全面的に賛成した。
ここまで話してみて、一番肝心な人の動向を全く書いてない、と指摘する人がいるかもしれない。最初に言い訳させてもらえれば、騒動が始まったその日から、「その人」との連絡は全く取れなくなり、そして「その人」が沖田に連絡してきたときは……一方的に呼びつけてきた時には、全てが終わっていたのである。
沖田が県立図書館にいたのは、午後の待合せまでの、時間つぶしのためだった。
前日に、幡野代議士から連絡があった。
一方的に、集合場所と集合時間だけを告げると、挨拶もナシに電話は切れた。というか、幡野代議士は「自分が県議の幡野だ」とさえ名乗らなかった。折り返し彼女の携帯電話にかけたのだけれど、ずーっと話し中だったのである。
沖田が呼び出されるくらいなら、名和氏もか。
見当をつけて事務局に連絡をとると、少しは事情が分かった。
招集をかけられていたのは、名和氏の他に、LGBTそれぞれのグループ統轄、そして天野さんであること。ただ、ゲイグループ統轄の片桐氏は、偽装結婚の始末がらみで、当事者のゲイ会員と弁護士事務所に呼び出されているとかで、来れないとのこと。
「あ。あと、なぜか原弥生君が、我々より先に、詳細な事情を説明されているとか」
「じゃあ、原弥生くんに話を聞けば、事前準備ができますね」
「うーん。彼……じゃなく彼女も、昨日から連絡、とれないんです」
原弥生は、現在、沖田が斡旋した葬儀場近くの旅館に泊まっていた。遠方からの会葬者向けの古色蒼然とした旅館で、葬儀場から客をまわしてもらう代わりに、格安料金である。同じ石巻にいる……というか、沖田の職場近くを宿にしているのだから、一言、声をかけてもらってもいいのに……というか、それが義理人情ってものだろう。
しかし、原弥生には、原弥生なりの事情があるらしい。
「知る必要のない人には、知らせない、か。なんだかスパイ映画の登場人物にでも、なった気分だ」
「沖田くん、なんて悠長なことを」
「名和さん、幡野センセイにかまってもらえなくて、悔しくないんですか」
「呼び出された場所を考えれば、細かい指示なしでも、おおよそ何があるかは、見当がつきますよ」
仙台のビジュアル専門学校。
そう、炎上の大本になったイラストレーターさんが在籍している、専門学校である。
沖田たちは見晴らしのよい五階会議室に案内された。理事長さんという恰幅のいいお爺さんが、直々に挨拶に来てくれた。これが県議の威光、というものかもしれない。
形式ばった会合ではないけれど、一応、わが校の紹介を……と5分くらいかけて、学科や斯界で活躍する卒業生さんたちの紹介があった。ビルキャンバスだと中身が大きく見えないけれど、イラストレーター養成以外にも、アニメーターや舞台俳優、写真家、漫画家にシナリオライターと、多方面に人材を輩出しているとか。
「……で、ありますから、クライアントとの方々とのトラブルになりましたのは、私どもの指導が行き届かなかったせいであります。幡野センセイがご指導なさっている団体とはいざ知らず、講師陣も内心忸怩たる思いでありまして……」
頭を深々と下げる理事長に、幡野県議は「寛大な」笑顔を向けた。
「頭をおあげ下さい。そもそも、ウチの渉外会計係が、理不尽な値引き交渉を持ちかけたのが、騒動の引き金と聞いております。謝罪なら私どもからするのが、スジです」
理事長の左右には、還暦間近という感じのスーツ姿の男女が、5人並んではいたけれど、さらに端っこに1人だけ、緑色のパーカーにジーンズという、場違いな感じの服装の女性が座っていた。
ボサボサで染めてない髪に、角ばって、ややエラが張った顔。町役場窓口のオッサンがかけていそうな、黒くて渋いスクエア型の大きな眼鏡。
一言で言って、地味だ。
理事長と幡野代議士が丁々発止やりあっている間、もちろん沖田たちも沈黙を守ってはいたけれど、その地味な女の子は、長机に目を落としたまま、誰とも、顔を合わそうともしていない。
担任講師だという初老の女性が、ようやく、そのパーカー女子を紹介してくれた。そう、天野さんと揉めたイラストレーターさんである。紫色に染めたパーマ頭の、大阪の下町にでもいそうなイカツイ顔の担任講師さんが、顛末をまとめてくれる。
沖田たちは当然、イラスト依頼側の事情だけしか知らなかったけれど、受注側にも受注側なりの事情があることを、このときに初めて知った。
「……在学中の生徒さんには、原則、この手の依頼を受けてはいけない、と指導しております。コンペ等への応募は可、個人的なお仕事の依頼は許可制。そう、今回みたいなトラブルを未然に防ぐための、学校側の老婆心ですね。過去にも、規則を破ってクライアントの方々とモメた生徒さんが、いました。同級生たちと腕比べをして、ちょっとばかり絵がうまいからと、慢心しての所業でしょう。浅はかなことです」
担任講師さんは、ちょっと言葉を区切ると、相変わらずうつむいたままのイラストレーターさんを睨みつけて、続ける。
「職業としてやっていく限り……どこぞの会社に雇われるにせよ、フリーの営業をしていくにせよ、社会人としての一般常識が必要です。彼女は、営業労務税務などの一般教養コースも、全部サボっていました。言語同断です」
トラブルが、依頼主とイラストレーターさんの間だけで収まるなら、それでも事態の収拾しようがあっただろう。彼女は……トラブルを起こした女子生徒は、仙台のみならず、全国的な大騒動になった意味が分かっていないのだ……と担任講師さんは鼻息荒く言う。
「相手をやり込めて溜飲が下がった、と思っているなら、バカの極みです。人を呪わば穴二つ。非難の矛先が自分に返ってくるってことを、この子は理解していない」
ここで初めて、イラストレーターさんが口を聞いた。
「センセイ、ちょっといいですか」
気が強いというか、ふてぶてしいというか、SNS等でイヤミを言っていたキャラそのものの口調である。けれど、紫パーマ講師は、もっと強かった。
「ちょっと、よくないです。あなた、今、叱られてるんですよ。自分の立場、分かってる?」
最大の問題は、このビジュアル専門学校の生徒が、皆、こんな感じの生徒ばかりだと……我が強くて金銭にうるさいと思われることだ。クライアント側に悪評が広がれば、この学校の卒業生というだけで、仕事依頼に二の足を踏む人だって、出てくるだろう。いいい評判はすぐに立ち消えるけれど、悪評はいつまでも世間から消えてはくれない。
「そんなこと、言われても」
「あなた自身、自分でイラストレーターの道を閉ざそうとしているのが、分からないの?
これだけ派手に騒ぎを起こした人に、仕事の依頼をしてくる人がいるとでも? あなたがテレビに出るような有名人だとか、個展を開くような抜群にうまいイラストレーターってならともかく。ここ仙台でさえ、ちょっとうまいだけの、十把ひとからげの描き手でしょうが」
「じゃあ、センセイ。泣き寝入りすれば良かったって、言いたいんですか? このビジュアル専門学校のために」
「誰もそんなことは、言ってません。トラブルになった時点で、学校に相談してくれれば、良かったんです。こちには交渉のプロもいるんですから。今回のケースで言えば、ウチの理事長と幡野センセイで面識がおありだったのだから、円満解決という演出付で、処理も可能だったはずです。あなたの望むような金銭的決着だってできたし、うまくいけば、花束の会さんや、そのお仲間団体さんから、次の依頼、その次の依頼……と、ご縁をつなぐことだって、できたはず」
「でも……」
「でも、あなたは相談に来なかった。学校に断りもなく、闇営業しているのがバレてしまうから。素人考えで、怒りを爆発させてしまい、学校側から叱られるのが、イヤだったからですよね」
ビジュアル専門学校の講師陣たちは、みんな、冷ややかに担当講師さんとイラストレーターさんの「糾弾劇」を見守っていた。
沖田は、ふと気づいた。
これは、専門学校側の仕掛けた、茶番だ。
そう、たぶん、幡野代議士に見せるための……代議士の許しを乞うための「イジメ」なのだろう、と。
並びにいた幡野代議士をそっと見ると、満足気な表情を隠そうともしてない。名和氏は、居心地悪そうな、きまり悪そうな表情で、首をすくめていた。原弥生は、悲しそうに中空を睨んでいた。
「退学です」
担任講師さんの、断固とした一言で、沖田はハッと意識を戻した。
幡野代議士が、満面の笑みを浮かべていた。
いや、訂正しよう。
満面の「残忍で、狡猾な」笑みだ。
代議士のその笑顔を見て、理事長がホッと胸をなでおろしている。例のイラストレーターさんは、顔面蒼白だ。沖田は思わず立ち上がっていた。
「社会人だって、この程度のミスで、クビにはなりませんよ。まして彼女は学生さんでしょう。失敗して、それを許されるのが、学生さんの特権だと思いますがね」
幡野代議士が、すかさず言う。
「あら沖田くん。あなた、ちゃんとした会社勤めなんてしたことないくせに、やけに詳しいのね」
「いや、それは……」
「学校さん内部での処分の話なのよ。外野はクビをつっこんじゃ、ダメ」
名和氏が首を横に振っていたので、沖田は崩れるように座り込んだ。パイプ椅子の感触がやたら冷たく、尻から背筋に上がってくる。
「……お話し合いに先だって述べましたように、これだけ大騒ぎになったのは、ウチの天野が、そちらの生徒さんに無理強いな金銭交渉をしたからです。ビジュアル専門学校さんのほうで、これだけ誠意ある対応をいただけるなら、当方でも断固として、ケジメをつける所存です」
幡野代議士は、天野さんのほうにキッと視線を向けて、言った。
「懲戒免職。もちろん、花束の会からの追放です」
この場合、一番天野さんをかばうべきなのは、ビアン代表として来ている森下さんなのだろう。けれど、女史は県議の決定を大歓迎している風情だ。再び反論しようとする沖田を、今度は原弥生が引き留める。沖田の上着の袖をグイグイ引っ張る原弥生は、わさど会議室のみんなに聞こえるように、耳打ちしてくれる。
「もう、昨日のうちに、偉い人たちの間で、決まっちゃったことなんですよ」
天野さんも沖田の目を見て、言った。
「辞めなきゃ、今回の損害賠償全額、キッチリ背負ってもらうって、幡野センセイに言われた」
沖田に出番はなかった。
再び理事長の幡野代議士の「トップレベル」の腹の探り合いがあり、お互い、少なからぬ広告費を使って、沈静化させることに決まった。
ぶっちゃけ、天野さんとイラストレーターさんをスケープゴートにして、組織を守る……花束の会の場合は、ついでに幡野代議士の評判も守る、ということだ。
花束の会からの請求書をつきつけられたら、自己破産しかない天野さんはサバサバしたものだったけれど、イラストレーターさんのほうは、不満が爆発しそうな感じである。けれど、誰に喰ってかかればいいか分からない、そんな感じなのだ。
2人の「退学」「追放」が決定した10分後、会合は突然終了した。
幡野代議士が、ツカツカとヒールの音高く近づいてきて、言う。
「沖田くん。ここからが、あなたの出番よ。何をどーすればいいかは、原くんから聞いてちょうだい」
「それは、どういう……」
「あなた、イラストレーターちゃんに、いたく同情してるんでしょう?」
そしてさらに10分後。
沖田は1階ロビーの自動販売機前で、お互いコーヒーを飲みながら、イラストレーターさんを口説いていた……いや、新規イラストの発注をしていた。
沖田は改めて自己紹介をし、傍らにいた原弥生も紹介した。
そして、今回天野さんが理不尽にも解雇されたことを怒ってみせ、トランスグループのFtMの人たち、3人全員が花束の会を辞めたことを、教えた。
「あの。何が言いたいんです?」
「FtMというのは、女性として出生したけれど、男性への性転換を試みたり、身体は女性でも、心の中は男性と自覚したりする人たちのことです。まあ、ウチのはグループのくくりなんで、厳密なもんじゃなく、普通の定義より範疇が広いんですけど」
原弥生が沖田の言葉を引き継ぐ。
「もう一度、最初から言いますね。トランスグループには、今まで、全部で3人、男装者・男への性転換希望者がいたんですけど、全部辞めました。いずれも天野さんと仲が良かったひとたちで……というか、ビアングループの森下さんが生理的に嫌い、という人たたちで、アテツケで、3人そろって辞めることにしたみたいです。で、結局、ウチのトランスには、女装者とか、女性に性転換したい人たちだけになってしまいました。で、女装者等だけなら、トランスグループを象徴する花を替えようかなと思って」
イラストレーターさんは、じっと考え込んでいた。
「天野さんからの依頼では、確かガクアジサイでしたよね」
「そうです。沖田さんのバイセクシャルグループと、かぶっちゃうんですよ。バイは、アジサイそのものだから」
「それで? 別の花って?」
「クリの花」
見た目は、打ち上げ花火の光跡のような、乳白色の房が何本も垂れ下がる、可憐な外観であるけれど、近づけば、強烈に男の匂いが……ザーメンみたいな匂いがするのだ。
「見た目は女性的、匂いは男性的。トランスグループに残った会員の象徴にするのは、ピッタリかな、と」
「はあ」
原弥生は、花束の会以外でも、女装者のグループを幾つか知っていたし、バーテンダーとして、毛色の変わった夜の住人・夜の店の知人もいた。
「クリの花イラストが評判になれば、イラストの依頼だって順次、来はじめますよ。これが自分らからの、せめてものはなむけです」
「はなむけ?」
「専門学校を退学になったってことは、今後はフリーのイラストレーターとして、やっていくってことでしょう? 紫パーマのオバサン講師は、もう、この業界ではやっていけないよって脅してたみたいですけど、ビジュアル専門学校で斡旋してくれるお客さんが、お客さんのすべてじゃない。地道に営業して、地道に人脈を広げて、曲りなりにイラストでメシを喰っていけるようになれば、イラストレーターさんの勝ちですよ。退学の原因のいったんは、明らかに花束の会にあるんだから、応援させて下さいってことです」
イラストレーターさんは、ちょっと考え込んでいたけれど、やがて「ありがとうございます」と頭を下げた。そして五階会議室では言えなかった不平不満……天野さんへ、というより、例の紫パーマ講師に対する日頃の鬱憤をぶちまけたのである。原弥生が止めなければ、一時間でも二時間でも、ボキャブラリーが尽きるまで……のどがかれるまで、悪口していたに違いない。
「……だいぶすっきりしました。本当は、ご迷惑をおかけするつもりでしたけど、もう、ご迷惑をかけることはないと思います。イラストの打合せは、スマホのショートメールで、お願いします」
「え。本当は、ご迷惑を……なに?」
「こんな形で退学になって、もう失うものは何もなくなったわけだから、ビジュアル専門学校と花束の会を相手に、もういっぺんネット上で戦争しようと思ってたんです……言わせないでください、恥ずかしいっ」
その後。
約束通り、イラストレーターさんは「クリの花」イラストを送付してくれた。沖田は言い値で代金を支払った。名刺にはLGBTそれぞれの花イラストを添えることになったのだけれど、レインボーオクトパスくんも、依然として残るようになった。そう、軽トラを融通して支援してくれた、志津川有志一同さんへの敬意と感謝を示すためだ。ことゲイグループ統轄の片桐氏は、「苦しい時に助けてくれる友達こそ、真の友」と恩義を感じ、カルチャーセンターのスイーツ教室で使うエプロンに「オクトパス君バッチ」をつけて字義実演指導するようになったという。
新事務所については、名和氏が「利府近辺の安アパート」に固執していたせいで、なかなか決まらなかった。最終的に、隣町松島町の海浜、磯崎の一軒屋を借りることになった。目の前が松島名物の牡蠣養殖場をやっている漁港で、廃業した魚屋さんの店舗兼住宅を借りることになったのである。何日か換気しても、強烈な生臭さが抜けない建物で、掃除に駆り出された杉田・瀬川は「三度目は絶対ないわよ」と朝から晩まで怒りながら雑巾がけをした。ご近所さんたちが、文字通りの獲れたての魚を持ち寄って、歓迎会を開いてくれた。
人が大勢集まるところに、県議あり。
沖田は、酒に酔ったふりをして、名和氏が止めるのを振り切って、幡野代議士にからんだ。
「どーして、あんなにあっさり、天野さんを切ったんですか」
「花束の会のためよ。彼女が辞めなければ、今ごろ会は解散していたわ」
「そーゆーのは、聞き飽きましたよ」
「沖田くん、私にどんな答えを期待しているの? ごめんなさいって謝れば、満足する?」
「……そー言う言い方は、ズルいです」
「私からは、もう何回目になるか分からないけど、同じ説教をしてあげられるだけよ。……政治家が嫌いなら、政治力をつけなさい」
天野さんを、ただ憐れむだけなのは、彼女に対して失礼だろ、とも幡野代議士は言った。天野さんは、その後、意外と言ってはなんだけど、ゲイグループ片桐氏の世話になっているらしい。
「カルチャーセンターですか?」
「それが、偽装結婚の相手ですって」
今回の騒動で、ゲイ会員にもビアン会員にも、ほとぼりが冷めるまで偽装結婚を引き延ばそうという人が増えた。けれど、諸般の事情から、結婚を急がねばならない人もいるわけで、片桐氏は、偽伴侶になってくれる人材を、広く募集していたという。
「もう会員じゃないんだから、ボランティアとして偽装を引き受けるつもりはないって、タンカを切ったそうよ。花束の会で取りまとめている偽装結婚は、ゲイ側もビアン側も偽装の必要性に迫られての結婚なんだけれど、天野さんにとっては、そんな、どうしても偽装結婚しなきゃならない事情なんて、ないんだからって」
「彼女、確かカミングアウト済じゃなかったですか? 大丈夫なんですか」
「さあ。片桐君のことだから、抜かりはないでしょう」
「天野さんには、確か、膠原病のパートナーさんがいましたよね。パートナーさんのほうも、やっぱり、偽装結婚?」
「それが、天野さんがパートナーさんを手元においておきたいから、パートナーさんをお手伝いさんとして雇ってくれるところを……ていうリクエストだったみたいよ」
ゲイ側にしてみれば、言いたい放題だなあと感じるかもしれないけど、沖田としては、天野さんの必死さに、痛く同情した。
「しょっぱい話は、これくらいにしておきましょ。せっかくのお酒がマズくなるでしょ、沖田くん」
ご近所さんと歓談し始めた幡野代議士に会釈して、沖田は名和氏の元に、ビールを注ぎにいった。誰でもいいから、グチを聞いてもらいたい気分だった。そう、幡野代議士に関する愚痴……いや、政治そのものがLGBTにクチバシを突っ込んでくる……突っ込んでもらわないと何事も解決しないという非力さについて、だ。
「沖田さん、あんまり政治の悪口を言わないでくださいね」
「名和さん。そう言えば、県議の第三秘書でしたっけね」
「来月の町議選に、立候補するんですよ、私」
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