第6話 政治譚(両性愛者と政治について)

 名和氏に強制的に呼び出されたのは、日曜のことだった。

 利府の本部には、名和氏、森下さん、原弥生といういつものメンバーに加え、幡野代議士が集まった。

 名目は、不埒な噂に対する対策会議、だけれど、その実、沖田への尋問である。

 原弥生が、みんなのためにお茶を淹れてくれようとした。女性にお茶くみをさせようとするのは性差別だ……と森下さんが原弥生を止めた。一般の人が見たら、ある意味滑稽で不思議な場面だけれど、幡野代議士が森下さんの意見に賛成した。結果、名和氏がいそいそと給湯室に立つはめになった。沖田は、その間、居心地悪く下座に腰を下ろしていた。場を和ませようとしてか、原弥生が、もうすぐ開催の仙台七夕の話をしていたけれど、誰も聞いちゃいなかった。

 沖田は、初めて、まじまじと幡野代議士と向き合った。

 葬儀の時には、確かに、遠巻きに挨拶をするのを見た。年配女性……のちに第一秘書だと分かった……に案内されて、彼女は堂々と葬儀場に現れ、お坊さんが、読経法話をしたあと、葬儀委員長として、10分ほど演説をぶっていったのだった。マイク片手に堂々と話しているときは、結構上背があるように見えたけど、こうやって、正面向き合うと、逆に小柄に見える。この日は、桜色の明るいスーツ姿だった。花束の会打合せ後は、有力後援者主催のパーティ出席で、塩釜に行くという。日曜なのにお仕事ご苦労様ですと沖田が挨拶すると、幡野代議士は「だから速く済ませましょう」と言った。

 県議をやっている有名人だから、そのプロフィールは簡単に調べられる。代議士は沖田より10ばかり年上のはずたけれど、化粧の仕方がよほどうまいのか、年齢不詳の容姿ではあった。柴犬を思わせる人懐っこい顔は、とり立てて美人ではないが、ブスでもない。こういう、ある意味凡庸な顔が、主婦や商店主等の庶民的支持者にウケているのかもしれない。

 沖田の印象としては、「政治家というのは、こーゆーものなのか」である。

 そう、沖田は今まで現物の政治家というものに、身近に接したことがなかった。ゆえに、興味本位に、悪く言えば珍獣でも観察するように、政治家というものを見ていた。幡野代議士は、ある意味、この沖田のイメージ通りの人だった。

「笑顔が、怖い」

「笑顔のまま、説教してくる」

「笑顔が実は、笑ってない」

「笑っていない時も、笑顔の印象」……。

 いつもは頼りになる事務局・名和氏も、ボスの前ではイエスマンになってしまっている。

「アナタ、花束の会を辞めて、他のLGBT団体に移籍するって、本当なの?」

 そんなことはない、とキッパリ断れば、良かったのだろう。

 しかし、沖田はLGBT団体に長居するつもりはなかった。そもそも、花束の会に加入したのは、杉田をトラブルから助けるためで、ほとぼりが冷めたら抜ける……という名和氏との「公認の密約」もある。

 条件が揃えば辞めることもある……という沖田の言葉尻をとらえて、幡野代議士はしつこく翻意を促した。

「アナタ、本当は他の代議士からの回し者なの?」

 違う、と沖田は首を横に振った。

 自分はどこにでもいるバイセクシャル男性の一人で、同じLGBT仲間を助けたいと思って、純粋な気持ちから活動しているのだ、と。

「沖田くん、純粋って、何?」

「純粋とは……LGBT団体に在籍しているのだから、LGBT以外の活動には重きを置かない、二の次にする、とか、そういうことですかね」

 最後は、名和氏に確認するように話したのだけれど、この某天才画家似のオッサンは、借りてきた猫のように、かしこまったまんまで、味方になってはくれない。

「名和さん……」

「し、知らないんだな、ボクは」

「ちょ。そーいう逃げは、卑怯ですよ」

 ハンカチを出して、冷や汗だか脂汗だかをしきりに拭う第三秘書を無視して、幡野代議士は続ける。

「要するに、政治がからんでくれば、不純って言いたいのね、沖田くん」

「いえ。そんなことは、一言も言ってません、幡野センセイ」

「言ってるじゃない。だってLGBT団体でLGBT活動以外のことをすれば、不純なんでしょ?」

「それは……」

 よせばいいのに、森下さんが調子にのって、沖田を責める側にまわる。

「会員を誘って、デモ集会とかに行こうとするのを妨害工作するんですよ、この人」

「デートの行先としては不適切って、指摘しただけじゃないですか」

「新規会員勧誘の邪魔もするし」

「それは、森下さんがストーカー行為をしてるからです」

 幡野代議士は、森下さんと沖田の顔を交互に観察していたけれど、やがて、言った。

「それで、沖田くん。辞めるの? 辞めないの?」

「え。ですから、我々が加入した際の、名和さんとの取り決めが……」

「事務局の話をしているんじゃ、ないの。あなたのコトよ、沖田くん」

 幡野代議士は、説教を続けた。

 過去にも沖田のように、政治の介入……政治家の関わりを嫌った会員が、何人もいた。けれど、様々なトラブルに巻き込まれて、土壇場になって自分に泣きついてきた人たちは、数知れずだ、と。

 バイセクシャルグループで言えば、元警官の神野六郎氏や、問題児・江川俊介もその口だったと言って、沖田を驚かせたのである。

「それに……沖田くん、あなた、肩書だけでもバイセクシャルグループ統轄、なんでしょ。互助会幹部で、遺影写真でちょっとした有名人になった人に辞められては、組織がガタガタになっちゃう」

 しつこく遺留されて、いい加減飽きてきた沖田は、「分かりました、辞めませんから」と言質を与えざるをえなかった。勝ち誇った幡野代議士は、沖田に畳みかけた。

「いい機会だし、政治抜きでの問題解決がどれくらい大変か、実感させてあげる。ゲイグループから持ち込まれた相談事があるのよ」

 そういえば、この場には、ビアンの森下さん、トランスの原弥生、そしてバイの沖田と、揃い踏みだけれど、ゲイグループ幹部がいなかった。

「ハッテンバ利用のトラブルで、苦情が来てるのよ」

 夜の公園等で、あれやこれやしているのを、警察に見つかったとか?

「夜じゃなくて、真昼間の話よ」

 公然わいせつ罪で逮捕されたゲイを、貰い下げる話とか?

「違う、違う。逮捕は、されてない。苦情以上、逮捕未満の話、なのかしらね」

「と、言いますと?」

「男同士でキスしてるのが、目ざわりだっていう苦情が入ったらしいわ」

 具体名は控えるけど、東松島市のA海水浴場で出来事である。津波以来、防波堤工事が続き、近年ようやく本来のリゾート地に戻ろうとしていた矢先、いつの間にかハッテンバとして有名になっていて……。

「これでは、家族連れとか、健全な観光客が来ないんじゃないかって、問題になったそうよ」

「その、東松島市役場のほうから、苦情が来た?」

「それが、そうじゃないのよ。敵は、このA浜の浜茶屋組合。秋から春のシーズンオフには、神社の縁日とかでテキ屋をやっている団体だそう。フーテンのトラさんとかで、テキヤって、いいイメージがあるかもれしないけど、れっきとしたヤクザね」

「反社会的団体」

「構成メンバーにそういう人がいるってだけで、グレーゾーンって話。シーズンオフに、農業をやったり釣具屋をやったり、堅気のメンバーも混じってるっていうのが、話をややこしくしてる。要するに、警察では、反社として、公然と取締りにくい」

 浜茶屋組合の苦情が、ある意味正鵠を得ているせいも、ある。

「海岸駐車場で、最後までやっちゃってるカップルも、いたみたい」

「……最初から話してください、幡野センセイ」

 浜茶屋組合の理事さんが、来年か、再来年の海開きを目指して、工事の進捗状況を見に来ていた。場合によっては、空き缶拾いだのゴミ拾いだの、組合全員で海岸清掃も考えていたそうである。ところが、アスファルトを敷いたばかりの駐車場に、何やら工事関係者でない車が、ポツンと停めてある。A浜の熱心なファンが、待ちきれなくて海に遊びにきたのかな……と理事さんは、近づいてみた。車窓越しに覗くと、ズボンとパンツを脱いだ、2人のむくつけき男どもが、何やら怪しげな行為にふけっていた……。

「浜茶屋組合の理事さんは、当然、その2人に注意したそうよ。というか、どやしつけた。ゲイの2人は、ほうほうのていで退散して、それで終り、のはずだったのだけれど」

 翌日には、どやしつけられたカップルとは違うカップルが来て、ハッテンしていた。たまたま連日見回りに来ていた、例の浜茶屋理事さんが、再び厳重警告した。しかし、もちろん、これで終りではない。翌日には、さらに違うカップルが、さらに次の日には別な人たちが……キリがない。

 業を煮やした浜茶屋理事は、ためらわずに、見つけ次第警察へ通報することにした。

「……それでも、懲りずに、ゲイの人たちは、来ていた?」

「さすがに、半月もしないうちに、情報は出回ったって、聞いたけど」

 A浜は、もはや、ハッテンバとしては利用できない。

 仙塩地区のゲイコミュニティに、噂はたちまち広がりはしたけれど、風光明媚で、海水浴シーズン以外には滅多に人が立ち寄らない好立地だけあって、未練タラタラのゲイたちが、完全に諦めることはなかった。

「ハッテンしないで、単なる待ち合わせ場所としてなら、まだ利用価値はあったから」

 自動車に乗り合わせて、仙台のラブホテル等に直行すればいいものを、待ちきれないカップルが、車内でキスをして……。

「ようやく、本題ですね」

 今まで注意されてきたゲイカップルは、後ろめたいことを自覚していて、みんな、浜茶屋組合の理事に頭を下げて退散していたそうな。しかし、ある時、開き直ったカップルが現れた。そう、車の中でペッティングだのセックスだのをしているなら、警察通報もやむを得ないけど、単なるキスで、猥褻扱いされるのは、納得がいかない、と。

「確かに、公然わいせつ罪の構成要件は満たしてない、みたいな」

 さら言えば、異性愛者カップルがキスしていたなら、おそらく咎められないのに、ゲイカップルに対して執拗にイチャモンをつけてくるのは、LGBT差別だろう、と。

 沖田は深くうなずいて、言った。

「その、ゲイカップルの言い分のほうが、正しいと思いますね」

「でも、沖田くん。本音と建前ってのが、あるじゃない。確かに差別うんぬんっていう論理を振りかざされると、浜茶屋組合の言い分が間違ってるような感じがするけど、現実問題、そんなを見せ続けられたら、海水浴客が怖がったり気味悪がったりして、来なくなる、営業妨害だっていうのも、また、一理あるというか、正論というか」

「県会議員が、そんな弱気で、どうするんですか」

「私に言ってどーすんのよ、沖田くん」

「……それで。その浜茶屋組合さんを説得してくれば、いいんですよね。迷惑だって注意するとしても、それはゲイカップルのほうじゃなくて、一般の海水浴客のほうに。LGBTだからってキスまで咎めるのは、差別だよって啓蒙してこい、と」

「逆よ、逆。今回、その浜茶屋組合から依頼が来たのよ」

 当の浜茶屋組合が、なぜか東松島市の行政じゃなく、利府の商工会に泣きついてきた。LGBTに詳しい、地元実力者、ということで、幡野代議士に白羽の矢が当たったのだった。

「うまく行ったら、選挙応援に人も票も出す、献金もするって持ちかけられたから。死活問題は言わないけど、票田を掘り起こす大チャンスみたいだし」

「幡野センセイ。また、そんな生臭い話を」

「……ゲイ関係の話だから、ゲイグループに話を持っていったら、拒否されちゃって」

 ある意味、当然の反応か。

 なんせ、敵を応援しろというのと、同義なのだ。

「ゲイカップル寄りの解決をすれば、大切な支持団体を失うことになるかもしれない。票田やタニマチ獲得のチャンスなのに、みすみすドブに捨てるようなマネは、したくない。かと言って、浜茶屋組合寄りの決着をつければ、花束の会主力のゲイグループが、離反するかもしれない」

「はあ。というか、いくら票田のためだからと言って、そういう面倒くさいの、うっちゃれなかったんですか?」

「なにが、面倒くさいよ。……同じくらい面倒くさい相談、政治家やってりゃ、しょっちゅう持ち込まれるわよ」

 代議士ご本人が、音頭をとって解決に乗り出す……ということは、ほとんどなくて、たいていは秘書任せ、らしい。

「けれど、今回は内容が内容だし、名和くんにうってつけかなと思ったんだけど。苦労知らずのバイセクシャルグループ統轄さんが、辞めるだの辞めないだのゴネてるっていうから、ひとつ、苦労を味あわせてやろうかなって、思って」

「……自分と秘書の手に余る問題を持ち込まれちゃったから、丸投げするって、正直に言ったらどーです?」

 幡野代議士は、もちろん、教育的指導のために、解決を任せるのだという態度を改めなかった。代議士の尻馬に乗っかって、森下さんも沖田を責めた。幡野代議士は、涼しい顔で、そんな味方も巻き込んだ。

「あら。森下さんも、彼に協力するんでしょ?」

「えっ」

「これ。味方の連絡先」

「味方ってどっちです? ゲイグループ統轄さんの、ですか?」

「違うわよ、沖田くん。浜茶屋組合理事さんのに、決まってるじゃない」

 沖田に追加の質問をさせないためか、言いたいことだけ言ってしまうと、幡野代議士は、さっさと塩釜に出かけてしまった。

 原弥生が気を効かせて、ぬるくなった茶の代わりを、立ててくれた。

 沖田はありがたくいただいたけれど、名和氏は、黙々ぬるくなったのを堪能していた。

「……ああいう人に仕えるなんて、名和さんも大変ですねえ」

 沖田のいたわりの言葉が、耳に届いていないのか、名和氏は力なく茶碗に向かって、言った。

「うまくいかなかったら、沖田さん、あなたの責任。うまくいったら、幡野センセイのお手柄、ですからね」

 そこんところ、よろしく。

「はー」

 沖田の代わりに、原弥生がため息をついてくれた。

 こんなに頼りない事務局さんの姿を見るのは初めてだ、と、このトランス女性は本気で心配していた。


「まずは、直接、現状を聞きましょう」

 当たりさわりのないところから、スタート……と杉田が言う。

 ここは、沖田の写真館。

 問題を丸投げされたのは、沖田の他、原弥生に森下だったけれど、糾弾すべき相手のいない厄介ごとには興味がモテないのか、フェミニスト女史は、そうそう「幽霊相談員」と化した。電話をかけようが、メールを送ろうが、なしのつぶて。ガンとして居留守を貫く態度は、いっそすがすがしいと言うべきだったのかもしれない。抜けた森下さんの穴を埋めるべく、瀬川に事情を話すと、当然のように杉田も参加してきたのである。

 遠路はるばる石巻くんだりまで来てくれた原弥生のために、この日のオヤツはスイカである。塩をかける派の沖田、瀬川に対して、杉田は素のまま食べる派だった。話のネタにと原弥生に好みを聞くと、「実は砂糖をかける派」という予想外の返答が返ってきた……。

「現状のインタビューって言っても、浜茶屋組合さんからだけ聞くんでは、不公平になりませんか? その、ハッテンしているゲイさんたちにも、事情聴取すべきでは?」

 原弥生の提案に、瀬川が逆質問する。

「ハッテンしてる人たちにインタビューって、どうやって? 連絡先なんて、ないでしょ? 一日、海水浴場で張り込みして、とっつかまえるの?」

「……ウチの、花束の会のゲイグループのひとたち、何かツテがないんでしょうか」

 そう、田舎の「同性愛」業界は、とても狭い世界なのだ。

「ツテがあったとして、果たして、協力してくれるかなあ」

 沖田は首を傾げる。

 花束の会の後ろ盾、幡野代議士自ら説得しても、拒否されたという話なのに。

「幡野センセイと違って、ゲイカップル寄りの解決策を探してるって言えばいいんじゃない、トキオくん」

「そう簡単に言ってくれますけどね」

 じゃあ、浜茶屋組合の納得する、ゲイ寄りの解決策というのは、具体的に、どういうのか?

「はい、瀬川……タエちゃん」

「うーん。タエ、分かんない」

「30女が、かわいく言わないでくださいよ」

「わっ。トキオくん、かわいいって言ってくれるんだ」

 瀬川がこの手の会議に参加していると、どーも話題がズレていく。

「はいっ。トキオくん、私にアイデアがあります」

「どうぞ、杉田さん」

「もー。トキオくん、無粋なんだから。そこは、シーちゃんて呼んであげないと」

「……杉田さん、どうぞ」

「えーっと。要するに、ゲイがキスしていようが何していようが、お客さんが海水浴場にちゃんと来て、オカネを落としていってくれれば、いいんですよね」

「そう、ですね」

「こーゆーのは、どーでしょう……宮城県だけじゃなく、南東北三県のゲイコミュニティ全部に連絡をとって、みんなに……そのA浜に遊びに来てもらう、とか、どうでしょう」

「我々で集客する?」

「そうです、トキオくん。ノンケのお客さんが減った分、ゲイの人たちが来て、穴埋めしていけばいいんですよ」

「人数が、ケタ違いに違うと思うんですけど」

「少なければ少ないなりに、一人あたま、余計なオカネを落とせばいいんです。人数が半分っていうなら、みんなでノンケの倍の買物をすればいい。人数が三分の一なら3倍、人数が四分の一なら4倍」

 言うは易く行うは難し、というヤツだ。

「却下ですよ、杉田さん。カネだけに注目すれば、理屈の上では達成できそうですけど。たとえば、焼きそばとか買う場合を考えてください。2倍3倍4倍ってことは、2人前、3人前4人前の焼きそばを喰わねばならないってことですよ。焼きイカだのかき氷だのってなってくると、さらにムリ臭くないですか」

「はいはい、トキオくん。私、イカ好きだよ。4人前でも、イケる」

「瀬川……タエちゃんみたいな特殊な人ばかりじゃ、ないでしょ」

「もー。トキオくん、そうやって、他人のアイデアにケチをつけるのは、誰だってできることだよ? 天邪鬼なこと言ってないで、自分で何か方法を提案しなきゃ。あ。でも、月並みのじゃ、ダメだよ。ゲイカップルを説得して、浜茶屋組合も説得して、粘り強く……なんていう面白味のない解決策なら、わざわざLGBT団体に相談しなくとも、できることなんだから」

 杉田が賛成しただけでなく、なぜか原弥生まで同調した。

「そもそも、説得というのは、実効性のない案と思います」

「うーん。じゃあ、他のハッテンバの開拓、紹介っていうのは、どうかな」

「はあ?」

 つまり、A浜でハッテンしているのが問題になっているのだから、もっと人気がなく風光明媚で車を密かに駐車できるような、別の浜に、ゲイカップルさんたちを誘導すれば、いい。

「ゲイカップルは、思う存分ハッテンできる。浜茶屋組合も、目ざわりなゲイたちがいなくなって万々歳。どう?」

 顔を思いっきり曇らせて、原弥生が言う。

「その、移動先のハッテンバをB浜としましょう。 B浜の浜茶屋さんや砂浜管理組合のひとたちからクレームが来たら、どうするんです?」

「そのときは……ゲイさんたちを、さらに別の浜、Ⅽ浜にコンバートさせる」

「じゃあⅭ浜でもクレームが来たら」

「Ⅾ浜」

「その後はE浜F浜G浜……ですか。単に問題を先送りしてるだけでしょう、それって」

「宮城県の海水浴場、全部が全部ゲイフォビアなら、単なる先送りだけれど、ぐるぐる廻っているうちに、一つくらいはOKだよって言ってくれる浜、見つかるかもしれないでしょう」

「正攻法とは、とても言い難いですね、沖田さん」

 原弥生が難色を示し、「トキオくんらしくて、いい」と賛成してくれた瀬川と、押し問答になった。

 ただでさえ暑いのに、暑苦しい問答はたまらない……と、沖田が天井を仰ぐと、「そんならクーラーいれなさいよ、トキオくん」と瀬川もソファに仰向けになりながら、反論した。

 皆がしゃべり疲れた時、珍客が来た。

「スイマセン。ウチのねーちゃん……あ、いたいた」

 瀬川の弟、マサキくんである。

 姉のマイカーにクーラー液を継足し、クーラントを継足し、ついでにオイル交換をして……と整備の「アルバイト」をしていたという。お小遣いをもらいがてら、涼を求めて写真館に来たらしい。黒いツナギ姿だけあって、汗だらだらだったけれど、悲しいかな、写真館の応接室には、まだクーラーがついていない。がっかりするマサキくんに、杉田が氷水を持っていった。姉も気を利かせて、テーブルの上に残っていたスイカを皿に乗せてやった。

「わ。うまそう。沖田さん、カルピスとか、ないッスか?」

 マサキくんが超・甘党で、スイカにカルピスをかける派と知って、沖田は胸やけする気分になった。

「なんだか、美人がいますね。もしかして、沖田さんのガールフレンドっスか?」

 原弥生の日焼けした肩をちらちら見ながら、言う。

「違うんスか? あ、じゃあ、オレが彼氏に立候補しても、いい?」

「いいけど、マサキくん、彼女には立派なチンチン、ついてるゾ」

「え。男の娘、なんスか……」

 弟のことになると、姉というのは無神経な生き物になるらしい。

 というか、最初から傍若無人の気がある瀬川なら、なおさらで、浜茶屋組合の話をふる。

 スイカを喰い終えたマサキくんは、瓶の底に残ったカルピスを原液のままコップに注いで、イッキ飲みした。

「オレからの提案です。その理事さんを誘惑するっていうのは、どーでしょう」

「誘惑って? 色仕掛けって、こと?」

「そうです。でも、ウチのねーちゃんとか、杉田姉さんとかが、でなく、ゲイグループの誰かが、ですけど」

「これまた、斜め上の解決策だねえ」

「……でも沖田さん。好きの反対は、嫌いじゃないんスよ。好きの反対は無関心っス。その理事さんがゲイフォビアだっていうのは、実は好きの裏返しなんスよ」

 反対意見等は、あまり言わないタイプの杉田が、今度はイの一番に反対した。

「リスクが高すぎる」

 失敗した場合、浜茶屋組合の理事は、愚弄されたのとか、怒り心頭になること、間違いナシだ。怒りがバイグループ向けにだけ留まればいいけれど、花束の会全体に、ひいては幡野代議士その人にも、向かうかもしれない……。

「票田と献金目当てに乗り出したのに、見事に裏目に出ちゃう」

 原弥生が、ポツンと言った。

「なんだか、名和さんみたいな考え方、するなあ」

 姉も結局は味方になってくれず、マサキのアイデアはボツになる。

「そもそも、幡野センセイの指示では、浜茶屋組合よりの解決方法を、ていう話だったし。マサキくんのアイデアでは、ゲイカップル寄りの解決方法になっちゃうし」

「ち。そうかあ。じゃあ、コレとは別に、アイデアがあったんスけど、それもボツかなあ」

「一応、言ってミソ」

 姉に促されて、マサキくんは語り出した。

「その、浜茶屋組合には、カタギじゃない人も混じってるんスよね。というか、メンバーの大半がヤのつく自由業、かもしれないんスよね。だったら、その人たちが、何か合法的でないことをしているのを見つけて、警察に通報してやる……ていうのは、どーかなって思ったんスよ」

 マサキくんが改めて指摘するまで忘れていたけれど、そー言えば、浜茶屋組合の人たちは、そーいう人たちだった。

「ヤクザが混じってるって分かってて、なんでこういうトラブルを引き受けたのかな、幡野センセイ」

 沖田がふと疑問に思ったことを、瀬川が口に出す。

「警察の取締りにあったら、政治家人生、一発でアウトっていう事案じゃないのかな」

 一番、県議とのつき合いが長い原弥生が、独自の解釈をする。

「リスクを取るのが好き……スリルを味わうのが好きなタイプなのかもね。危ない橋を渡ってでもっていう根性がなきゃ、本人ノンケなのに、LGBT団体のケツモチとか、引き受けないでしょうに」

「そうなのかなあ」

 あの柴犬顔は、ギャンブラーという顔じゃなかったけど、人は見かけによらないということなのかな。

 マサキくんが、上目遣いでモジモジしながら、言う。

「沖田さん。裏の駐車場に、軽トラと軽ワゴン、停まってましたけど」

「ああ。農林水産じゃなくとも、重宝するよね、軽トラって」

「連日猛暑ですけど、ラジエーターのオーバーヒート対策って、何かやってます?」

 どうやら、沖田の車の整備をして、お小遣いを稼ぎたいらしい。

「分かった。任せるよ」

 お盆前、供養の裏方手伝いで、お寺さんを駆けまわることもある。

「やったあ」

 マサキくんは、そうそう、お勝手口から出ていったけれど、鳩首会議はなおも続くのだった。


 フガフガな、爺さん。

 浜茶屋組合の理事さんは、見た目もしゃべり方も、これ以上はないというくらい、年寄じみた年寄だった。瀬川と変わりないくらい低い背、曲がった背中、沖田と同じくらい光沢を放つ頭頂部。目尻口元にしっかりと刻まれた皺。茶のカーゴパンツに、これだけは派手な赤いポロシャツを着ていたけれど、沖田には、その「若作り」さえ、逆に老人の象徴のように思える。

 そして、発音不明瞭、内容不明なしゃべり方。半分抜けた歯と、老人特有の早口のせいで音が聞き取れないだけでなく、興奮して何を言っているか分からない……たぶん、本人自身分かっていない感じだった。

 理事さんは、アポイントをとって面談に来たのでは、なかった。

 利府の本部に、たまたま沖田たち対策班が招集されていたときに、怒鳴り込んできたのである。

 落ち着いて下さい……と原弥生が麦茶を出す。

 茶の冷たさがよかったのか、それとも「美人」にほだされたか。

 彼はまだ、落ち着いてはいなかったけれど、しゃべり方は、幾分かマシになっていた。

「いったい、いつになったら、ホモ野郎どもを追い出してくれるんだい?」

 そして……唐突で自己紹介もなく、一方的に、幡野代議士を罵倒し出したのである。

 沖田や原弥生など、おとなしいメンツだけなら、老人の威嚇も通じただろう。

 けれど、血の気の多さと、罵倒後のボキャブラリー、そしてタンカの切れ味で、一枚上手のメンバーが、花束の会にはいた。

 そう、森下女史である。

 差別主義者、というオーソドックスな罵り言葉から始まって、「お前のカーチャンでベソ」というしょーもないモノまで、実に多彩に、森下さんは理事を罵り返したのだった。

 理事さんは、「女のくせして生意気千万」から始まって「今の若いもんは全く」と再反論していたけれど、やがて、尻すぼみになっていった。最後には涙目になって「生活がかかってんだよー」と名和氏に泣きつくのである。

 ゲイカップルは、快楽のため。

 浜茶屋組合は、生活のため。

 こう、並べ立てられれば、確かに深刻さの度合いは違う。

 一方的な雰囲気に流されるのは嫌いだからと、杉田が……そう、いつもバイセクシャルガールズも、この日は参加していた……あえて、理性的に理事さんに問うた。

「彼らは、TPOには合ってないかもしれませんが、何ら法律を犯しているわけでは、ありません。そこのところ、分かってますか」

 分かる、と理事さんはうなずいた。

「何とか、共存の方法、ないでしょうか」

 杉田は、もちろん老人に尋ねたのだけれど、名和氏を始め、皆、腕組みをして考え込んでしまった。

 沖田たちが、独自活動している間、もちろん名和氏も手をこまぬいていたわけではない。彼はゲイグループ幹部たちと連絡を取って、妥協案を探っていた。

「時間差、提案します」

 海水浴場には、確かに四六時中、客が来るだろう。

 泳ぎはしないでも、浜を早朝に散歩したり、夕日を見ながら貝殻を集めたり、楽しみ方は色々ある。しかし、客の滞在に合せて、朝から晩までぶっ通し、浜茶屋が営業しているわけではあるまい。それなら、浜茶屋の営業時間中は、ゲイカップルにはハッテンしないようにお願いし……もちろん、キス等の愛情表現抜きなら、滞在大歓迎だ……他方、営業時間外、例えば夕方なり早朝なりにゲイカップルが愛情表現していても、浜茶屋組合の面々は、見て見ぬふりをする、というのはどうだろう。

 老人は目をつぶり、「まあ、どこかに落としどころがいるっていうのは、分かっておる」とつぶやいた。

 この時点で、花束の会の仲介は、ほぼ成功していたはずだったのだが……。


「協定違反だっ」

 ゲイグループ統轄、片桐完史が血相を変えて名和氏に詰め寄ったのは、それから一週間もしてからのことである。

 花束の会本部事務所は、千客万来とは言うけれど、こう連日クレーマーが怒鳴り込んでくるのは、たまらない。

 しかし、当の「クレーマー」は沖田のボヤキを聞き捨てなかった。

「クレーマーっていうのは、会員以外の人間に使う言葉だろう。僕は身内なんだから、諫言というべきだ」

「はいはい。カンゲン、カンゲン」

「真面目に聞き給え、沖田くん。ていうか、なんで君までここにいるんだ? 石巻の住人なんだろ?」

 片桐の言われるまでもなく、沖田は自分の運命を呪いそうになる。タイミングが悪いこと、この上ないなあ、と。

「本業がらみです。白川理恵さんの葬式で知合った坊さんに頼まれまして」

「ああ。僕もその話は聞いてるよ。じゃあ、また、Tグループに遺影写真を頼まれたのかい?」

「いえ。改修前の山門の写真、頼まれました」

 檀家さんたちの尽力で、この度、二層式の大きな門の建て替えとなり、解体前の旧門を記念写真に残しておきたい、という意向だ。

「理恵さんの葬式のときには、それなりに衝突した相手なんですけどねえ……なにか思うところがあって、ウチに御鉢が回ってきました」

 お寺さんのほうでは、沖田の連絡先が分からなかったらしく、花束の会のほうに話がいった。それで、名和氏と連れ立って、ちょうど寺詣でをするところだったのである。

「じゃあ、話は手早く済ませましょう」

 片桐は、プロレスラーのような体躯の大男だけれど、市のカルチャーセンターで、奥様方相手にスイーツ作りの講師をしている初老の男である。ごま塩頭を短く刈り込んだイカツイ顔だけれど、なぜか生徒さんからは、ロマンスグレー扱いされて評判はよい。歴代のスイーツ講師は、奥様方からモテれば手を出してしまう不倫講師が多かったとのこと。けれど、ハードゲイを公にしている片桐が、そんな不埒に及ぶことは、もちろん、ない。生徒を魅了する力がありながら、生徒の手を出さない優良講師ということで、雇い主からの評価も上々のゲイグループ統轄なのだ。

 もちろん、その外見から男にもたいそうモテ、また面倒見もよい。

 味方にすれば頼もしいこと、この上ないけれど、敵に回すと厄介。

 正論しか言わない男に、反論していくのは大変だ。

「……協定違反の内容を、聞かせて下さい」

「浜茶屋組合の連中が、A浜のゲイカップルたちをさらし者にしているんだ」

「さらし者?」

「ゲイカップルたちのキスシーンを隠し撮りして、ネットにアップしている」

 浜辺で濃厚なキスをしていたとしても、皆が皆、カミングアウトしているわけじゃない。というか、大っぴらにしている人間のほうが少ない。

「既に実害が出始めているよ。親に見つかって家族会議になった大学生。仕送りを止めるって脅かされたとか。顧客にバレてしまった家具屋さんもいる。商談中の取引が次々にダメなっちまってるとか」

 そして、片桐は、浜茶屋組合との約束……時間差棲み分けの話は、どーなっているのか、と詰問してきたのである。

 名和氏が、恐る恐る、片桐に反論した。

「そのゲイカップルのほうが、先に約束違反した、とかは、ないんですか?」

「律儀に守ってきているっていう情報、入ってきてるけどね」

 そもそも、A浜はまだ海開きしていない。

 海水浴客なんていないのに、執拗にゲイ排除する理由が、分からない。

「この間きた爺さん……浜茶屋組合の理事さんに、連絡、取ってみますよ」

 とりあえず、沖田と名和氏は、この日先約があった。

 後日、日を改めて、沖田は片桐に同行する約束をした。


 A浜で夕方から見張りをすること、二日目。

 オトリ役はゲイグループの有志たちが引受けてくれる。一応キスだけ……の予定だったはずだけれど、車内で長時間、2人っきりでいると、ヘンな気分になってしまうのか、パンツとズボンを脱いでしまうオトリが続出する。ま、浜茶屋組合の人たちが、目の敵にする理由も、よく分かる。片桐は仏頂面で、行為を始めたオトリたちを叱って回った。


 盗撮犯は自転車でやってきて、沖田たちが反応するまでもなく、松林に消えていった。

 自動車で下草ボーボーの松林の中を追い回すのはムリだったし、徒歩では追いつけっこない。けれど、片桐に尻を叩かれ、沖田は松林の中で鬼ごっこをした。

 見張り用の車の助手席にいた浜茶屋組合の理事は、ウチの組合の人間じゃない、と証言した。なら、いったい誰だ? と片桐は問い詰めたけれど、「そんなの、ワシのほうが知りたいわい」と理事は首をひねった。

 何の成果も上げられないまま、沖田たちが引き上げようとしたところ、第二の盗撮が起こった。自転車で近寄り、そのまま逃走するやり方……同じ手口だ。今度被害にあったのは、普通の……異性愛者のカップルだ。沖田は、片桐と一緒に被害者の車に詰め寄った。スキンヘッドの怪しげな小男と、映画の鬼軍曹みたいな大男。カップルの女性のほうが怯えて、「なんなの、アンタたち」と金切り声を上げた。女性は上半身裸のあられもない恰好だ。「訴えるぞ、お前ら」と、カップル男のほうが、いきんだ。一触即発のところに、名和氏が駆けつける。「あ。ハダカの大将」。人を和ませる風貌が、大いに役立った瞬間だ。仲間の盗撮被害にあって捜査中だ……と沖田は簡潔に事情を話した。

 落ち着いたカップルと改めて話したが、犯人の顔はよく見てないという返事だった……。

 夜の10時まで粘ったけれど、結局被害はこの二件だけ。

 解散前にもう一度、捜索グループ全員で片桐の車に集まって、反省会をした。このゲイグループ統轄は、こんな時にも気配りを忘れない男である。全員にお手製のティラミスとアイスティーを配ってくれた。浜茶屋組合理事さんが、その味に舌づつみを打ち、ぜひウチの嫁に教えてくれと叫んだ……。


 沖田たち見張り役にひるんでいなくなったのか、それとも普段からこれぐらいの頻度で盗撮していたのか?

 片桐が言う。

「沖田くん、浜茶屋組合さんの嫌がらせでない可能性、大きくなったと思わないか」

 老人が、フガフガとアイスティーに浮かべたレモンをしがみながら、言う。

「最初っから、協定違反なんかしとらんと、言っておろうが」

 沖田は片桐の言いたいことが、既に分かっていた。

「単なる出刃亀だったのかも。要するに、あの自転車盗撮魔は、異性愛者が夜のイトナミをしているところを撮影しに来た。ゲイカップルを写真におさめたのは、単なる偶然。で、手あたり次第撮ってたら、たまたまゲイカップルに行き当たった……こんな感じですか、片桐さん」

「そうだ。家に帰って、成果を堪能していた盗撮魔は、お宝に混じって、自分の趣向に合わないカップルを発見した。ゲイフォビアの男性異性愛者にとって、我々はおぞましい存在だからな。怒りのせいか、気持ち悪いと思ってか、はたまた、これ以上のゲイカップル出没を妨害するためか、盗撮魔は、キスシーンをネットにアップし始めた」

 沖田が、ふと、問う。

「これだけやらかしてるんだから、プロバイダ等に、盗撮魔の情報開示をお願いするとか、できないんでしょうか」

 片桐は空になったアイスティーの水筒を片づけながら、返事する。

「さっきの盗撮された異性愛カップルにも、協力を頼んだよ。でも、ダメだった。確かにあたりは薄暗くなってはいたけれど、車の外から容易に覗ける。ということは、公然わいせつ罪扱いになってしまう。スネの傷を持つ身としては、告発しにくいってわけだ」

「そうか。トイレや更衣室を覗いた場合とは、事情が違う」

「そもそも、盗撮魔は個人的に写真を楽しんでいるのか、異性愛者バージョンをネットにアップしてないしな。ま、味方は結局、花束のメンツだけ」

「片桐さん、身も蓋もない」

「我がゲイグループからの告発も考えたけれど、これもうまくない。無断で写真を撮ったことは、たとえ盗撮に該当しなくとも、肖像権侵害にあたるのだけれど、これも告発しにくい。身バレしたくないゲイたちにとって、藪蛇になる可能性はある。ネットに上げられたキスシーンは、何のキャプションもついてなければ、どの誰ベエとも分からない無名人の写真に過ぎない。見知った人がいても、すぐに風化するたぐいのものだ。しかし、警察に被害届を出したり、裁判とかを起こして、マスコミに面白可笑しく書きたてられたりしたら、それこそ個人名特定に繋がってしまう……」

「片桐さん、そんなことを言ってたら、犯人の検挙、しようがないでしょう」

「あるさ。今回、車と徒歩で追跡をしたけれど、犯人は結局逃げおおせた。捜査隊が何人来ても、逃亡できるっていう自信がついたんじゃないかな。犯人が慢心油断している今が、チャンスだ」

 沖田と一緒に、徒歩捜索を命じられて、滝のような汗を流していた名和氏が、せっかくのケーキも食べずに、息絶え絶えに言う。

「片桐さん。こっちも自転車を数台準備しておいて、カーチェイスならぬ、バイシクルチェイス、と洒落込みましょうか」

「いや。あからさまに自転車を用意していては、盗撮犯は警戒して出てきてくれないだろう。ここは、よりいっそうの油断を誘うために、徒歩で追い詰めることにしたい」

 名和氏の口から、一挙に生気が抜けていった。

「徒歩? とほほほ……」


 次の作戦は、中二日おいて、三日後になった。

 沖田はその間、「足ならし」をして、「身体を鍛えておけ」と片桐に命じられた。


 昼日中は、運動をすれば、命に関わるような気温湿度になっている。夕方、なんぼかでも日が陰ってきたところを見計らって、沖田は開北セイホクパークに走りに行く。筋肉がパンパンになるのもシンドイけれど、なによりかにより、熱が体内にこもって、オーバーヒートしてしまう。こんな時、看護師の知人がいるのは、便利なものだ。生徒のケアで慣れているから……と杉田も協力を申し出てくれる。近頃の高校生は、自分が気分が悪くなったっという自覚に鈍感で、いきなり倒れる人が多いのだそうだ。クーラーのあるところに連れ込み、水をガブガブと飲ませて……と、この夏既に半ダースの生徒さんをケアしたそうな。

「すごい。白衣の天使に、科学的ケアマネージャって、ところだね」

「あははは。お褒めにあずかり光栄だよ、トキオくん」

「どちらかというと、杉田さんを褒めたんだけど」

 医療者なら、熱中症患者への処置も、お手の物だろうし。

「何を言ってるんだい、逆だよ、トキオくん。ウチは手際を褒められて当たり前だけど、高校のセンセの場合は、そうじゃない。そもそも気配りのできるセンセなら、熱中症なんて起こさせないモンでしょ」

 正論をかまされて、シュンとしてしまった杉田を、沖田はマアマアと慰める。

「しっかし。たかだか二日くらい走り込んだところで、効果のほどか……」

「そこは根性よ、トキオくん」

 杉田は、実際に根性と染め抜かれたハチマキを、杉田の頭に巻いてくれた。

「これで、大丈夫」

 瀬川がツッコミを入れる。

「いや、ダイジョーブじゃ、ないでしょ」

 沖田も、ガッカリして言った。

「さっきのオベンチャラと同情、前言撤回します」

 沖田は練習の最中、2人に、駐車場での待機を頼んだ。

 車内のクーラーはガンガン効かせて、タオルから水から、替えの着替えから、準備万端である。

 セイホクパークは、夕方でも、沖田以外の運動選手たちがいた。

 たいていはサッカー関係者で、ボールを蹴っているのは、たいていは小学校中学校の生徒さんに見える。ちらほら見える老人たちは、ウオーキング……散歩? がメインらしい。沖田は、老人たちに習って、サッカーグラウンドを取巻く周回コースをジョギングすることにした。似合わないランニングパンツにシューズと恰好だけはキマっていたけれど、一周回っただけで、グロッキーになった。

 ヘロヘロ歩く沖田を、瀬川が手早く車内に引っ張り込む。

「ウエッジウッドのティーポットと、トキオくんのスキンヘッド、どっちのほうが磨きがいがあるかしら。キュキュキュッ、キュッ、キュッ」

 何やらご機嫌な鼻歌を唄いながら、瀬川は沖田の頭を拭ってくれた。杉田のほうは、ボクシングのセコンドみたいに、ストローのついた水筒を、沖田の口に含ませてくれる。

「シーちゃん。そこは、名セリフで励まさなきゃ。立て、立つんだ、ジョーって」

「いや、あのねえ、タエちゃん」

 おしとやかに見える杉田だが、トレーナーとしては、丹下段平以上のスパルタらしい。脳天に血が上っていて、沖田がフラフラと瀬川の胸の谷間に倒れ込むと、「まだまだまだ」と無理やり引きはがすのだった。

 ポカリスエットで喉を潤してから、第二ラウンドである。久々のジョギングで、ふくらはぎがつりそうになっていたけれど、暑さは和らいだ……いや、耐性がついたような気がする。もっとも、車の中に再び戻っても、荒くなった息は、なかなか治まってくれない。

「やっぱ、自転車相手には、分が悪いんじゃないの」

「そんなのは最初から分かってる……名和さんも、今ごろトレーニングしているかな」

 心臓にやたらめったら負担がかかりそうな体型なのだ。

「心筋梗塞とか起こされても困るし、待ち伏せとかを頼んだほうが、いいのかも」

 今回、主導権を握っているのは、鬼軍曹・片桐である。

 ゲイグループ統轄としての怒りと責任感で、リーダーシップをとっている片桐は、名和氏を甘やかしたりは、しないだろう。尻バットをしてでも、犯人追跡に駆り出しそうな気がする。

「気の毒ねえ、名和さん」

 あんまり気の毒そうでもない口調で、杉田が言う。

 沖田も、自分でキュキュと頭を拭きながら、返答する。

「猟犬は、一頭でも多いほうが、いいからね」

「猟犬で思い出したけど、罠っていうか、オトリっていうか、私たちで役立ちそうな気がしない?」

「というと?」

「犯人は、ゲイカップル狙いじゃないかも、しれないんでしょ? 異性愛カップルがイチャついているところ、盗撮に来たとか。だったら、オトリも、それに合せて、異性愛者カップルをあてがうべきだと思うの。でも、花束の会で、異性愛のオトリを準備できるのは、バイセクシャルグループだけじゃないでしょうか」

「なるほど」

「さらに言えば、現有メンバーで、カップルのふりを楽しめそうなのって、私とタエちゃんだけ、だと思うんだけど」

 そう、江川が偽装結婚補助問題でひと悶着おこし、ゴッソリとバイメンバーが辞めてから、新規会員勧誘、旧会員復帰は、遅々として進んでいない。戻ってきた面々にしても、こんな際どい仕事を頼めるほど、親しくはない。

「ね。私たちが……私とタエちゃんとトキオくんして、やるしかないでしょ?」

「うーん。そうなのかなあ……」

 頭に血が上っているから、うまく考えがまとまらない。

 沖田が正直に迷っていると、瀬川が首っ玉に両腕を巻きつけてきた。「アタシたちも、探偵ごっこしたいのよ。お願い、トキオくん」とせがんだのだった……。


 そして、大捕り物、当日。

 沖田と同じような勘案をしたのか、トランスグループもオトリ用のカップルを用意してきた。女役は原弥生その人で、なぜかセーラー服を着てきている。運転席でハンドルを握っていたのは、Tシャツ姿で若作りしたお爺さんだった。

 打合せ時に、沖田が車窓から原弥生を覗き込んでいると、なぜか、その男役が親し気に沖田に話しかけてくる。口ぶりからして、どうやら沖田のことをよく知っているようだった。意を決して「どなた様でしたっけ」と名前を聞くと、「やだなあ。白川理恵ちゃんの葬式でご一緒したじゃないですか。田所ですよ」という返事。

 女装時の面影が、全くない。

「本当は、原統轄に男装してもらって、私が女装のまんま来る予定だったんですけど。みんなに止められましてねえ」

 さも、ありなん。

「秘密兵器を持ってきました。私、定年退職後、コンビニでアルバイトをしているんですけど、防犯用のカラーボールを借りてきたんです。足では追いつけなくとも、これが当たれば、一発で検挙できます」

 がははは……と、女装姿のときには想像できない豪傑笑いをする。田所さんは、統轄と仲の良さを強調するためか、原弥生の肩に手をかけ、ぐっと抱き寄せた。けれど、なんだか原弥生のほうで、露骨に嫌がっているように見える。

 沖田は、ふと思いついて、聞いた。

「田所さんって、女装ゲイの人なんでしたっけ」

「違うわよ。女装ノンケ」

 白川理恵さんとは、この性癖の点でも話が合った、と自慢気にいう。

 原統轄が男子であることは重々承知しているけれど、これだけ可愛ければ性別なんて問題じゃない。今日はオトリ役、存分に頑張ります。がははは。

 時折女装時の口調が混じると、怪しげなお爺さん以外の何者でもなくなる。

 犯人候補一号、とでも呼びたくなる気分だ。

 原弥生も沖田と同じ感想を持ったのか、はたまた必要以上にべたべたくっついてくるのを鬱陶しいと思ってか、上機嫌な相棒を不安げに見つめ、しっかりと釘を刺した。

「あくまでも、フリですからね、フリ」


 片桐の車には、片桐本人の他、例の浜茶屋組合の老人が乗り、別の車で駆けつけた名和氏の車には、やはり浜茶屋組合の理事が、2人も同乗していた。契約違反の汚名を晴らすため……と理事二人は大義名分を掲げていたけれど、その実、大捕り物を楽しみにしていたのかもしれない。車の屋根にキャリーをつけて、サスマタを積んでいた。まだ車から一歩も外に出ていないはずの名和氏は、既に顔を真っ青にしていて、「田所さんのカラーボール、うまく行くといいですねえ」とため息をついていた。


 沖田たちは、杉田のNボックスに三人で同乗して行った。

 当初の計画では、沖田と杉田が前部座席でイチャついてみせ、瀬川が後部座席に隠れている、というものである。盗撮犯が近づいてきたら、瀬川が素早く犯人の顔を撮影、ついでに沖田が社外に出て、タックルをかます……という計画だった。

「今さらだけど、こんなのにひっかかるかな」

「それはトキオくんの熱演次第でしょ」

 瀬川はカメラのストロボが焚けるかどうか、あちこちいじっていた。三つか四つ、ボタンを押すと、お目当てにたどりついたらしい。ピカッといきなりの光に、カメラを落としそうになった。

「よし。こっちはOK。じゃ、トキオくん、後部座席に来てよ」

「はい?」

 打合せでは、逆に、前部座席に陣取る予定では?

「まだ、時間あるでしょ」

 沖田を挟んで、左右に2人、座る恰好になる。

「さて、チンチン見して」

「え。イキナリ、何を」

「チンチン、見して」

 瀬川の奇行は今さらなので、杉田に何事かと、質問しなおす。

「タエちゃんは、トキオくんに、パンツとズボンを脱いでもらいたいんだと、思います」

「あのー。説明になってないんですけど」

「トキオくん。私たちが、バイカップルだってのは、知ってますよね」

「何を今更」

「交際がなし崩しに始まって、ちゃんとしたルールを決めていなかったことは?」

「ルール?」

「私たち、バイカップルなんですよ」

「それ、さっきも聞いた」

「時折、オトコが欲しくなることが、あるんです」

 現在、瀬川と杉田の交際形態は、ビアンカップルと同じである。カップルなのだから、カップル外の誰かと性的関係を結ぶのは、浮気であり、悪である。しかし、瀬川・杉田の場合、その「悪」を実行しないと、欲求を満足させられないことが、あるのだ。

 瀬川は杉田だけで、そして杉田は瀬川だけで満足すればいい……いや、満足すべきだ、という決めつけは、ビアンカップルの……あるいは異性愛カップルの常識であって、バイカップルの常識ではない。

「それが、どーしたの? バイグループの中では、よくある議論で……そうか、自分にサオ役をやって欲しいって、ことか。でも、なんで自分に? なんでこんなタイミングで? というか、自分でいいの? どこまで2人に貢献すればいい?」

「し。静かに」

 杉田が人差し指を唇にあて、小声で言う。

「いっぺんに色々と聞かれても、答えられないです」

 瀬川が杉田に続けて、言う。

「まあ、実質、トキオくんの質問は一つだけなんだけどね」

 そろそろ盗撮犯が現れないか、外を観察しながら、瀬川は沖田のズボンのベルトを、カチャカチャと外した。

「候補が、トキオくんしか、いなかったから」

 オトコが欲しい、という欲求にお互い気づいたあと、瀬川と杉田は何度となく、話し合ったそうだ。まず、お互いに内緒で、知らない男で欲求不満を解消しなようにしよう、と取り決めた。ナンパされたりして、一夜限りの関係、なんてのも、もってのほか。

「性病から始まって、ドロドロの人間関係まで、余計なモノは持ち込まない」という方針に決まったという。

「それから、好みのタイプについて、お互い言いたいことを言い合って」

「唯一、妥協できない条件にたどりついたの」

 それは、相手男性がバイセクシャルであること。

 沖田は、恐る恐る尋ねた。

「ハゲは、いいの?」

 瀬川が、呆れたように返答した。

「セクシーじゃん。スキンヘッド」

 唯一絶対の条件、バイセクの理由、沖田にはなんとなく分かりはしたけれど、念のために、もう一度、聞いておく。

「……それはね、トキオくん。ノンケの連中って、こーいうのに混ぜてあげると、ハーレムの主気どりで、面倒くさいこと、言い出すからよ」

「ゲイカップル……男のバイセクカップルに女が混ざるときは、違うの?」

 まあ、バイセク女性のほうが、めんどくさくない、というのは確かだ。

「それと、一緒よ」

 で、2人がよく知っていて、気ごころが知れたバイセク男性となると、沖田しかいない、という結論なのだそうだ。

「えー。じゃあ、このタイミングで、というのは?」

 瀬川は、杉田と顔を見合わせていたが、やがて、ポツンと言った。

「フラれちゃったときの対策」

「えー。2人にチンポを求められて拒否する男って、いるのかな」

 かわいくて愛嬌のある瀬川。学級委員長、秘書のその他優等生キャラでカッチリ服装がよく似合うコンサバ眼鏡美人の杉田。どちらか片方に言い寄られても、拒否する男なんて、ほとんどいないと思うのだが……。

 ましてや、2人一緒に迫られたなら……。

「それは、異性愛者の男の場合でしょ」

 そう、杉田と沖田が初めて出会った新宿二丁目の夜、沖田はゲイセックスをしている所をじっくり見られているのだった。

「シーちゃんにその話を聞いていたから、トキオくん、バイセクシャルでもゲイよりの人かなって思ってたのよ。写真館で紹介されてから、今の今まで、女の陰もなかったし」

「……えー。女の陰どころか、男の陰もなかったはずだけど」

 今の沖田に特定のステディはいないし、出会い系で遊んだりも、してはいない。ペンギンの件で、しばらく、その手の交際にはコリゴリしていた沖田だった。

「でも、ほら、トキオくん、江川俊介や原弥生と話す時、ゲイっぽいこと、よく言ってたじゃない。逆に、異性愛者がどーのこーのっていう話、したことないかなって」

「それは、話す相手に合せて、なんだけれど」

「ふーん。じゃあ、トキオくん、ちゃんと女の子にも興味ある人なんだ」

「ありますよ、タエちゃん。自分、レッキとしたバイセクシャルですから」

 瀬川がとうとう沖田のベルトを完全に外し、チャックも下ろした。

「ねえ。トキオくん。パンツも一緒にズリ下げるから、ちょっと腰を浮かせてよ」

「え」

「言う事きかないと、チンポ持って、無理やり引き上げるわよ」

「ガッ。痛い、痛い。タエちゃん、とれちゃうよ」

「だったら、腰を浮かせないよ。警告、三度目はないわよ」

 結局、パンツも膝まで下げられてしまう。クーラーがほどよく効いているのに、座席のほうは外の熱気が残っているのか、生温かい。杉田がバスタオルをとって、沖田の下にしいてくれた。

「サンキュー、杉田さん」

「あ。いえ。たんに、シートが汚れるの、イヤだから」

「……結局、フラれた時の対策っていう意味、教えてもらってなくない?」

 瀬川が、左手で沖田のチンポをしごきながら、言う。

「フラれちゃったら……気まずくて、もう、会いにくくなるじゃない? そうしたら、アタシたち、また一からチンポ探ししなきゃ、ならないでしょ」

「はあ」

「だったら、別れる前に一発、やらせろよって」

「……発想が、脂ぎった中年オヤジそのものじゃん。これ考えたの、絶対、瀬川……タエちゃんでしょ」

「てへぺろ。バレたか」

 杉田が、伏し目がちになって、謝った。

「私は、止めようとしたんですけど……じゃあ、シーちゃん、チンポを調達するアテはあるの? て、逆質問されて……」

「チンポを調達するアテって……やたらストレート過ぎる言い方だ……」

「私、こういう即物的で、ロマンチックのカケラもないやり方、イヤだって反論したんです。そしたら、ゲイバーで公衆面前アナルセックスしてるトキオくんが、アンタたちの出会いだったんでしょ、て、身もふたもないこと、言われて……」

「まあ、確かに……」

「男子便所でフルチン晒してるオッサンに、パンツを届にいった女子が、ロマンチックとか言ってんじゃないわよって、説得されたんです……トキオくん?」

 沖田は目を白黒させて、言葉を絞り出した。

「いや。杉田さん、ありがと。タエちゃん……あまりしごかれてると……出そう……」

「あ。もったいない」

 瀬川が握力マックスにしたらしく、沖田は歯を食いしばった。クーラーはガンガン効いているはずだけれど、沖田の頭のてっぺんから、湯気が出そうになる。杉田が、沖田ごしに、車内反対側の瀬川に尋ねた。

「で。タエちゃん。当初の予定通り、ここでセックスしちゃうの?」

「ここでやっちゃうのは、トキオくんが拒否したときのシナリオでしょ。アタシたちを受入てくれるっていうなら、わざわざこんなシチュエーションでやらなくとも、よくない? あ。でも、こんなシチュエーションだから、燃えるのかな」

 瀬川の左手が、少しずれる。

 金玉も掴まれて、沖田はまたまた悶絶する。

「トキオくん。後で、ちゃんと相手してくれるよね。デートをして、おいしいものを食べて、その他の手順も踏んで」

「あ……うん……」

「それに、盗撮魔を追跡するつもりなら、体力も残しておく必要あるし。ここで射精しちゃったら、マズいよね」

「そういう問題じゃない……てか、寝た子を起こしておきながら、寸止めなんて。鬼畜ナース」

「まあまあ。どーせ、今からオトリ役をするために、シーちゃんとイチャつくふりをしてみせるんでしょ。ビンビンに興奮しているほうが、演技しやすくて、いいじゃない」

「そうかな……」

「ビンビンが治まらないからって、演技を忘れて、シーちゃんを襲ったりしたら、ダメよ」

「襲いません」

 結局、沖田は杉田と「ペッティングのふり」に励む場面はなかった。

 打ち明け話をしていて、全く気が付かなかったけれど、いつの間にか助手席側バックミラー付近に、見覚えがある自転車が停まっていたのである。遠くからとか、後ろかとかでなく、正面切って堂々盗撮だなんて、どれくらい図々しいんだ……けれど、沖田は飛び出すことができなかった。座席の左右には、女の子が座っているのである。

 とっさの判断で、瀬川が飛ぶように降り、沖田の二の腕を掴んで、外に引っ張り出した。ズボンとパンツを膝まで下げていた沖田は、足がもつれて、瀬川を押し倒す形になってしまう。

「何をやってんのよ。このラッキースケベ」

 カメラ係は瀬川だったので、とっさに犯人の写真撮影も、失敗した。

「ああ。セイホクパークでの練習が無駄になる」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、トキオくん。さ、起きて」

「了解」

 杉田は車の屋根に顎を乗せてぐるっと周囲を見まわしていた。自転車は、既に、影も形もない。地面で転がったままの2人に視線を向けもせず、言う。

「……片桐統轄と名和さんに、電話を入れました。逃走経路で待ち伏せて、絶対捕まえるからねって、言ってます」

 アスファルトに押し倒されて、ヒジを擦りむいたらしい瀬川が、傷にツバつけながら、言う。

「ねえ、シーちゃん。アタシたちは、どうすればいい? このまま待機? それとも、松林の中、追いかける?」

「防波堤の裏に移動してくれって、言ってたけど。自転車で逃げるときの、経路の一つなんだそうです」

 沖田たちの待ち伏せ場所に、怪しげな自転車は現れず、結局最後は名和氏たちが逮捕した。片桐の指示のもと、大捕り物グループは、手に手に得物を持って……スサマタをかまえたり、カラーボールで投球練習したりして……配置についた。けれど、結局、松林の中から、銀輪が飛び出してくることは、なかったのである。

 今回も失敗かあ……と名和氏は海岸に出て、火照った両足だけでも、海水に浸し、涼を得ようとしたという。すると、波打ち際に、自分と同じようにズボンを膝までまくった男が、ひたひた歩いてくる。まあ、そぞろ歩きしたくなるような、月夜の晩である。こんばんわ、と名和氏は親しみを込めて挨拶したそうな。が、相手の男は歩みを止めずに、挨拶を返しもせずに、ひたすら歩いていくのだった。

 気になる点が、いくつかあった。

 夜だと言うのに、サンバイザーを目深にかぶっていたこと。海水浴場までどうやってきたのか、交通の足が見当たらなかったこと。そして、左脇に抱えていた、何やら貴重品らしきもの。

「カメラだ」

 盗撮犯と気づいてから、名和氏の行動は速かった。

 片桐に応援要請すると、犯人が砂浜から防波堤側に上がって来れないように、彼と平行して砂浜を移動していったのである。

「こっちはサンダルなのに、相手は長靴ですからね。負けたと思いました」とは、盗撮犯の弁。

 めでたく犯人確保のはずが、片桐は苦虫を嚙み潰したような表情になっていた。

「中岡。なんで、お前」

 それだけ言って、絶句してしまう。

 瀬川が、ひょいと沖田の背中から顔だけ出して、質問した。

「お知り合いですか、片桐さん」

「お知り合いも何も、バイグループの人間なら、絶対知ってなきゃならん人間でしょうが。偽装結婚のチャンスを、前バイセクシャルグループ統轄・江川俊介に潰されてしまった男ですよ。お陰で、親戚一同や地域住民みんなに、真正ゲイであることがバレて、産まれてからずっと住んでいた故郷を追い出された男、中岡大輔くんでしょうが」

 沖田は、ハッとした。

 そうか。この人が、中岡さんか。

 沖田は声にこそ出さなかったけれど、内心には色々な感情が渦巻いた。

 尋問は、当然、片桐が勤める。

「なんで、こんな嫌がらせを?」

「ゲイカップルにとっては、貴重なハッテンバの一つだから。なんとしてでも死守しようと思ってだ」

 そう、浜茶屋組合の誰かを犯人に仕立て上げ、協定破りと詰め寄るために、マッチポンプな盗撮をしたのだ、という。片桐は、いったん尋問を中断し、捕り物に同行していた浜茶屋組合の理事たちに、深々と頭を下げた。理事たちは、謝罪を受けいれ、というか、謝罪は後回しでいいから……とさらなる尋問を求めた。

 沖田たちは、もちろん、中岡事件……江川俊介の偽装結婚妨害事件の詳細は、知らない。片桐が、浜茶屋組合の理事たちに聞かれるまま話し、理事たちは、少し中岡に同情したようだった。

 けれど、トランスグループの田所が「それはそれ、これはこれ」と言う。

「ゲイバレして、さんざんイヤな思いをしてきたアンタなら、分かり切ってることなのに、なんでキス写真をネットにアップしたのよっ。裏切り行為もいいところじゃない」

 田所のあまりの剣幕に、浜茶屋組合の理事が取りなす。

「肉を切らせて、骨を断つっていうところじゃないのかね、お若いの。身内を売ってでも、ワシらを追い出したかったって、ことじゃな」

「そうなのか、中岡」

 片桐が詰め寄る。中岡大輔は、首を左右に振った。

「禁じられ注意されても、なお懲りずにハッテンしようとする……あるいは、そんなマネゴトをする連中にも、お灸をすえてやる気持ちでした。アンタたちみたいな跳ねっかえりがいるから、ゲイの居場所がなくなっていくんだって」

 沖田は思わず、中岡の理屈を否定したくなった。

「何もかも、ゲイのためだって言うんですか? 全方向に喧嘩を売ったのも?」

 そうだ、と中岡は返事した。

 浜茶屋組合メンバーのふりをして盗撮したのは、彼らの過干渉を排除して、ゲイ用のテリトリーを守るため。そして、盗撮を公にしたのは、跳ねっかえりにペナルティを与え、テリトリー確保のためのルールを遵守させるため。

 黙って見守っていた原弥生が、言う。

「花束の会の内部では通じても、一般のゲイは、余計なお世話って思うんじゃないんですか」

 みんな、ある程度リスクは承知の上で、ハッテンバに来ている。

 ゲイの形も千差万別で、ここでキスするな……とか言われたくない人も、少なからずいるのでは?

 中岡は、言っていることの意味が分からない、あるいは、分かりたくない、感じだった。

「組織のために、ある程度我慢するのは、当然でしょう。自己犠牲ゼロの会員ばかりになったら、花束の会は瓦解してしまう。そうでしょう、名和さん」

 指名されて、名和氏は頭をかいた。

 沖田にだけ聞こえる声で、瀬川が「社畜。田舎者」とつぶやいた。

 原弥生が不安そうに片桐を見、中岡は言葉を続けた。

「花束の会のため、ひいてはゲイ全体のためを思ってやったんですよ」

 片桐が、だるそうに反論する。

「盗撮されてネットに晒されたゲイカップルたちは、中岡に賛同しないだろうな」

「そんな……オレのときは、皆のためを思って耐えたのに」

 そう、偽装結婚失敗のあと、中岡は他の偽装結婚カップル……田舎派のビアン・ゲイのことを思って、波風立てることなく、江川俊介の横やりを不問にした。聖人君子の振舞い、と他のメンバーからは……いや、バイを除く他グループメンバーからは、称賛され同情された。けれど、同じ潔さを、他のメンツにも期待しようとしているらしい。

 彼には彼なりの行動原理があり、確信犯的になした犯行ということなのだ。

「沖田くん、どう思う」

 片桐が意見を求めてきた。

「バイグループの、やらかした前責任者の後任としては、発言権、ないように思います」  

 沖田はそつなく返事を留保した。

 直接会えたのだから、江川俊介サイドからの事情説明……偽装結婚の方法に異議あり……という裏話についても、問い詰めてみたかった。けれど、この中岡確保の場では、不適切すぎる。気がつくと、瀬川が元通り沖田の後ろに隠れていた。杉田も、やたらしっかりと沖田の腕にしがみついていた。

「目が怖いよ」。

 確かにそうだった。沖田たちがバイグループの人間だと知ってから、中岡は、憎悪丸出しの視線を沖田たちに向けてきたのだった。


 盗撮その他、警察に突き出してもいいような案件ではあるけれど、積極的に告発しようとする人間がいない。浜茶屋組合のほうも、処分は花束の会に任せるという。名和氏は、片桐に促されるまま、幡野代議士に連絡をとった。幡野代議士は、わざわざ電話口に沖田を呼び出し、勝ち誇ったような口調で言った。

「どう。処理、難しいでしょ。これが政治ってものよ」


 盗撮をアップしたゲイカップルへは、お詫び行脚。

 浜茶屋組合へは、共同作業の際の労働力提供。

 そして、花束の会では、新規会員勧誘のためのノルマを果たす。

 これが、中岡に科せられた罰である。

 ちなみに、浜茶屋組合の共同作業というのは、例の海岸でのゴミ拾いや、迷惑行為禁止の立て看板設置の作業、などらしい。

「そうそう。ハッテンしているカップルを見かけたら、率先して注意するっていう、監視員としての役目も、頼まれたわ」

「なんか、バツっぽくない罰ですね」

「浜茶屋組合も鬼の集まりじゃないからね」

 大捕り物が一切合切終わったあと、特に沖田だけが指名されて、幡野代議士に後始末の顛末を教えてもらうことになった。呼び出された場所は、例によって利府の本部事務所だったので、もちろん名和氏も同席している。ご近所住まいならともかく、こう何度も石巻から呼びつけられるのは大変だ。電話で済ませられないことか? と沖田は婉曲に断ろうとした。幡野代議士は、スパイ映画ばりに「直接会って話さなきゃダメ」と言い張った。こうして、またしても日曜の午後を潰して、沖田は県議とお茶を飲んでいた。

 低気圧が近いのか、どんよりした曇り空で、窓の外の車の往来が、うるさく聞こえる。

 何度も呼び出されるのが不愉快で、沖田は抗議の意味で、上下で三千円の安いジャージを着ていた。沖田の考えを読んだわけでもないのだろうけど、名和氏は白いランニングに短パン姿、幡野代議士も上下お揃いのサファリシャツにキュロット姿である。

 沖田さんもお疲れ様……と、名和氏に声をかけられて、膝の力が抜けた気分になる。幡野代議士は、これから孫につきあって、県民の森にカブトムシを取りにいく、と言った。

「幡野センセイ。どうしてわざわざ、自分だけ、呼んだんですか」

 それとも、個別に片桐や原弥生を呼び出して、同じように話をしているのか?

「沖田くんだけに、決まってるでしょ。内緒の話があるのよ」

 内緒で褒めることが一つ。内緒で叱ることが一つ。そして、内緒で相談が一つある、と県議は言う。

「内緒で、褒めること?」

「名和くんに聞いたわよ。あなたの最初のアイデア、アレ、良かったわ」

「最初のアイデア?」

 A浜でトラブルになったら、ゲイカップルをB浜に導き、B浜でさらにトラブったらⅭ浜に、そしてⅮ浜E浜F浜……という、アレだ。

「問題の先送りって、アッサリ却下されたんですよ」

「先送りした先で、それぞれの浜茶屋組合が、私に相談を持ち込んでくれれば、票と献金の掘り起こしができるじゃない。名和くんとか、片桐くんとかは、タスクが増えてちょっと大変だけど、私的には抜群に好都合なアイデアよ」

 そうよね、名和君、と幡野代議士は忠実な第三秘書にも同意を求めた。

 名和氏は、ぶんぶんと首を縦に振った。

 沖田は、ポーカーフェイスを気取っていたが、幾分か軽蔑が眼差しに出ていたかもしれない。

「実は、このアイデアで得をするの、幡野センセイだけ、なんですね」

 こと、いらぬトラブルを持ち込まれるB浜Ⅽ浜Ⅾ浜……の人たちは、いい迷惑だ。

「そうよ。だから、大っぴらに褒めることができないんじゃない。こっちも、純粋なボランティアでやってるわけじゃ、ないんだから」

「いや。ボランティアでしょう」

 幡野代議士は、沖田の真剣な視線に、ハッとして言い直した。

「そうね。失言。ボランティアだったわ。でも、ボランティアだからこそ、これぐらいの役得はあってしかるべきと思わない、沖田くん?」

「分かりません。自分、政治家じゃないんで」

「LGBT関連の人って、どーしてこう、石頭が多いのかしら。いいわ。この話、今日はここまでにしましょ」

「……内緒で叱る話、お願いします」

「中岡くんの話よ」

「幡野センセイが監視してるんでしたっけ」

「本当は、アンタたちバイセクシャルグループで、引き受けて欲しかった。私とか、ゲイグループに丸投げしないで。だって、彼が今みたいな意固地男になったのは、江川くんのせいだから」

「自分が、花束の会に加入する前の話でしょう、それ」

「沖田くん。江川くんの知人……腐れ縁って聞いてたけれど。昔は協力関係にあったとか。因縁浅からぬ関係だって」

「今は、ヤツとは犬猿の仲……とまでは言わなくとも、冷戦状態ですよ」

「江川くんが、偽装結婚に介入した顛末を聞いて、一理あるって納得したって、聞いたけど」

「地獄耳ですね。ひょっとして、真相についても、知ってるとか?」

「さあ。真相って、何? 中岡くんが、江川くんの後輩と、カムアウトしないまま籍を入れようとしたこと?」

「やっぱり、全部知ってるんだ」

「少なくとも、江川くんから事情聴取したことはね。でも、それが全部かどうか分からない。闇は残ってるかもしれない」

「少なくとも、自分も同じです、幡野センセイ」

「中岡くんはね、ジキルとハイドみたいな男なのよ。花束の会のために、自己犠牲で滅私奉公できる聖人君子。でも、他方、他人にも同じ振舞いを求めるときは、超鈍感なハイド氏になってしまう」

「幡野センセイ。自分に……じゃない、バイセクシャルグループに、何を求めてるんです?」

「花束の会のために、彼のハイド氏の部分を、徹底的に隠して欲しいのよ。発作的に出てこないようにして欲しいわけ」

「それって……」

「中岡くんはね、江川くんに嫌がらせされて、それでも聖人君子な態度を取り続けてから、ウチの……花束の会の顔役なのよ。広告塔で、イメージタレントで、知る人ぞ知る有名人なのよ。彼を慕って、ウチに入会したいっていうゲイの人も、少なからずいるって話。だから、マイナスの部分、極力他に知られなくないわけ。今回の盗撮犯騒動は、うまく握り潰して、隠ぺいしたいっていうのが、私の……名和くんの……そして、花束の会の望みであり、総意なの」

 既に、片桐や原弥生等、あの夜、大捕り物に参加した面々には、根回し済だという。

「なんか……聞かなきゃ、良かったです」

「あら。私のほうでは、あなたにだけは、絶対聞かせたいと思ってたのに」

 沖田は、アメリカ人みたいに、大袈裟に肩をすくめてみせた。

「……中岡ファンのゲイ会員が増えるにつれて、プライベートを知りたがったり、過去のことをほじくりかえそうとする人も、実際、出てきてるわけ。さて、ボロが出ないようにするには、どーしたらいいと思う、沖田くん」

「ええっと……」

「もっと、質問を具体化しよか。偽装結婚の件について、バイグループに情報収集に来た人がいたら、どうする?」

「分かりません、と答える?」

「正解。実際、分からないんだもんね、公式には。じゃあ、盗撮騒ぎには?」

「分かりません、では通用しませんね。でも、本当のことを言えば……中岡さんが盗撮魔だったといえば、彼は地に落ちたアイドルになってしまう」

「そうね」

「だったら……ウソをつく?」

「そういうこと。でも、単にウソをつくだけじゃ、ダメなの。絶対バレないように、上手にウソをつく必要がある」

「上手に、ですか? 普通にウソをつくのと、どう違うんだろう」

「とぼけないで、沖田くん。中岡くんと、アナタとで、言う事が違ってたら、すぐに嘘だってバレるでしょ。だから、そうならないように、綿密な口裏合わせがいるってことよ」

「分かります」

「いえ。沖田くん、分かってない。最初の偽装結婚妨害の話に戻るけど。沖田くんが知らないってシラを切っても、いずれは、こっちもごましきれなくなる時が、やってくるでしょう。2人とも同じ石巻の人で、同じバイセクシャルなんだから。さらに、同じ花束の会のバイセク統轄の継承者。何もないって考えるほうが、おかしいでしょ。どんな会社とか組織でも、情報共有とかの引継ぎがあるのが当たり前で、感情に左右されて、やりませんでした、なんてのはビジネスの場では通用しない」

「……つまり、盗撮だけじゃなく、偽装結婚のほうでも、裏で打合せておく必要がある、と」

「さっきから、そう言ってるじゃない。まあ、打合せっていうより、一方的なフォローよね。中岡くんは、決して自分の非を認めないでしょ。他人にどれくらい迷惑をかけようが、自分が正しいと思ったことを、一直線に突き進む人だから。予め、釘を刺しておく、なんてことができないのよ」

「江川に続いて、自分にも、悪者になれって、ことですか」

「そこまでは言ってないわ。で、沖田くん、アナタとバイグループが悪者にならず、中岡くんをフォローするためにも、手元に置いて欲しい、と思うわけ。会員じゃない人に、余計な事、言おうとしたら、発言行為そのものを、なかったことにするために」

「それは、随分な力技だと思います」

「バイセクグループそのものにも、メリットというか、恩恵はあるわ。なんせ、このことは私が知っている。名和くんも知っている。花束の会内部での、バイグループの立場向上、発言権の確保に、これだけ役立つことは、ないでしょ? 会の最上位権力者の庇護がつくってことなんだから」

「臆面もなく言いますね。幡野センセイ。会の内部に、ドロドロの政治、持ち込まないでください」

「ほーら。そういうところがダメなの。中岡くんのフォローに気づかなかったことも含めて、沖田くんを叱ろうとしていたわけよ」

「……内緒で、ですね」

「そうよ。内緒でよ」

「具体的に、何をさせる気なんです。中岡さんを、バイグループに移籍させる?」

「違うわ。これから話す。沖田くんは、ただ、ウンと返事をすればいいのよ」

「はあ」

「はあ、じゃなく、ウンよ」

「建設的な叱咤でなかったのが、なんか悲しいです」

「叱咤は、いつでも建設的じゃないわよ。あなたがそれを生かせるか殺せるかで、建設的にもなるし、廃墟にもなるんでしょうが」

「……そういうもんですかね」

「そういうものよ。納得がいったところで、次、行くわ。内緒の相談。ズバリ、登米に県北支部を設けようと思うの。ある程度現地会員が集まるまで、支部長をして欲しいのよ」

「なんで、自分が。てか、自分に白羽の矢が立つなら、なんで石巻支部じゃないんです?」

「この利府っていう町は、宮城県内の都市交通網では、やたら好立地なの。仙台は、もちろん、近い。石巻にだって、三陸道インターを降りるまでなら、三十分でいけちゃうでしょ。つまり、わざわざ石巻支部を設ける理由がない」

 ちなみに、この位置だと、県東部……石巻地区のカバーはなんとかなるが、県南が遠くなる。大河原か村田か柴田か、あのへんに近々支部設置を検討しているという。

「幡野センセイの県議の選挙区って、ここ利府と松島なんですよね」

 自分の利益にならない幡野代議士の提案を聞くにつけ、なにか裏があるんじゃないか、と勘ぐってしまう。

「いやね。これは純粋に花束の会のための便宜よ。会員は県内全域……山形福島にも少々……いるでしょ」

「はあ。まあ、額面通りに受取っておくことに、しましょう」

「でも、利府からじゃ、大崎や登米、気仙沼なんかの県北はカバーできない。行き帰りに半日かかるようじゃ、活動にじゅうぶんに時間が避けないから。どこかに支部を設けて、幹部クラスを送り込みたいけれど、これも難しい。ゲイグループの片桐くんは仙台在住、トランスグループの原さん、ビアンの森下さんは、ともに多賀城。名和くんは名和くんで、本部を守ってもらう仕事があるから、兼任は難しい。でも、ちょうどおあつらえ向きに、石巻在住の会員がいる」

「その、石巻在住の該当者が、自分ってわけですか。県北にめぼしい会員は……」

「花束の会の会員のうち、七割が仙台か、その周辺在住、この利府とその周辺に二割在住。つまり、仙塩地区以外に住んでいる会員は、一割弱しかいない」

「極端ですね」

「そもそも、宮城県自体が、人口やらなんやら、仙台に一極集中してるでしょ。仙台以外の郡部に行けば、LGBTが住みにくい環境が、未だにある。LGBTがバレても、普通に暮らしていける数少ない場所と考えれば、会員の九割が都市部集中っていうのは、なんの不思議もないわ」

「はあ。……もう一つ、質問があります」

「なに、沖田くん」

「その、県北支部っていうのは、お話から察するに、石巻地区以北の宮城県全域をカバーするんですよね。登米が、利府と同じく交通の要地であるのは分かりますけど、LGBTが偏在している場所を狙うっていう意味でなら、もっと都市部のほうが、いいんでは? 古川とか、気仙沼とか」

「支部のために、一軒屋を貸してくれる人がいるからよ。それも、家賃0円で」

「太っ腹な人がいますね。会員の人ですか? それともシンパ?」

「中岡大輔くんよ」

「あ」

「中岡くんは、家賃は0円にするって言ってるけど、0円はタダという意味じゃないとも、言ってる。要するに、花束の会支部が開設されて、LGBT理解者が増えていけば、村八分が解消されるんでは? と期待しているみたいね。彼はそれで、故郷を追い出されたわけだから」

「自分が支部長として赴任するっていうことは、中岡さんにあれこれ頼らなくては、ならない。それから、自分が登米に行っている間、彼は否応なく、つき合わされる」

「そうね。彼をバイグループに移籍させなくとも、様子を観察して、暴走させないようには、できるでしょ」

「県北支部開設のために、会員が県北で集まるまで、自分は仮の支部長という立場で行くんですよね。ひょっとして、県北支部が軌道に乗ったら、支部長は中岡さんに交代ですか?」

「正式な約束は交わしてないけれど、中岡くんは、そのつもりでいるでしょうよ」

 本人は既に仙台住まいだから、今後登米でLGBT理解者が増えても……花束の会会員が増えても、故郷に戻らないというかもしれない。けれど、戻ってくれれば、盗撮騒動なんていう「痛い」事件も起こさないだろうし、一石二鳥。

 沖田は天井を仰いで、言った。

「策士だ。県議は伊達じゃないですね、幡野センセイ」

「そういう褒められ方が一番嬉しいわ、沖田くん」

 いつもは人畜無害の柴犬顔が、一瞬、土佐闘犬に見えた。

 中岡のスマフォの番号は、名和氏が教えてくれた。

「彼は、未だバイセクシャルが嫌いだ。そこんとこ、忘れないで下さいよ、沖田くん」

 沖田は、議員たちの目を見ず、メモを凝視しながら答えた。

「慣れてますよ。ゲイに嫌われるのは」

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