第5話 死生譚(両性愛者たちがLGBTの死について考える話)
花束の会における、LGBTのTは、性転換者、性転換希望者、性同一性障害者……などのみならず、本来は違う範疇に属す異性装者をも含む、広範囲のカテゴリ・グループである。カバーしている領域の広さに対して、その人数は、最も少ない。
「花束の会のメイン活動が、結婚に関するもの……同性婚推進、にあるからかもしれません」
Tグループ統括・原弥生は、沖田がなり立てホヤホヤのバイセクシャルグループ統括だと知ると、挨拶もそこそこに、懇切丁寧に説明し始めた。沖田が名和氏に、目で助けを求めると「いいから聞いておけ」と合図してくる。名和氏といい森下さんといい、そしてこの原くんといい、花束の会の連中は、どうして、こう演説が好きなんだろう。沖田が、遠い目になると、暑さでへばっていると思ったのか、原が率先して、クーラーのリモコンに手をかけた。利府と言っても海際で、窓を開けると潮風が気持ちいいんですがねえ……と、このTグループ総括は、沖田のうんざりの理由に、気づかなかった。
さて。
ここで、原の長広舌の内容を、かいつまんでおこう。
「LGBTの中で、トランスジェンダーだけが性的志向によらない分類です。他に比較して、異質でありながら典型的である……という二つの相反する面を持ちます」
異質であるというのは、他の……LGBと違って、トランスジェンダーは、必ずしも同性婚実現という主張を持たないということだ。一昔前と違い、今は、日本でも、性転換のやり方が、医学的法学的にきちんと確立整備されている。正しく手順を踏んでいけば、望む性のなることは可能だ。そこからは普通の男女間の結婚ができる。……いや、少なくとも法律上の在り方は同じなるので、手続きだけに限って言えば、支障はない。むしろトランスジェンダーに関して言えば、日常生活とくに職業生活やご近所付き合いみたいな、普段が難しい。夜のお店、水商売関係等の就職口はあるけれど、昼職、普通の事務現業等を見つけるのが大変なのだ。女装をしていて男性と見破られないレベルになることをパスするという。そのレベルになれば普通に女性として職業につけるのかもしれないけれど、男性から女性への途中経過、アウティングしてないのにアウティングしたのと同等の効果が出てしまう段階が大変なのだ。LGBTに理解のある職場、経営者等がそんなにいるわけではなく、差別意識からというより、単純にトラブルの種と見て忌避する会社も多い。ここのところは、アウティングしたLGの人たちと同じということで、激しく差別するような人もいる。
「この、偏見や差別と戦う必要がある、不断に晒されるっていうところが、LGBTの典型である、と思います」
「はあ」
沖田は、間の抜けた相槌を打った。
「でも、原さん、あんまり、そっち方面の苦労は、なさそうな外見に見えます。あ。失礼」
「いいですよ。褒め言葉と、受取っておきます。まあ、沖田さんがバイで、男女の別なく
セクシーさを感じる人だから、余計女性っぽく見えてるのかもしれませんが」
「そもそも、童顔小柄で、女顔なのは、確かでしょう」
原弥生は、 まだ、かろうじて十代で、酒は飲めないながらもバーテンダーをやっているという。履歴書に正直にLGBTのことを書くと、昼職にはつけなくて、とこぼす。
「原さん、女性ホルモンは、入れてないんですよね」
「まだですね。これからも、入れないかもしれない。厳密に、ボク、性転換希望者じゃ、ないですから」
「グループ最年少でありながら、リーダーの立場って、すごいと思います」
原は、意味ありげに寂しく微笑んだ。
「人生経験がないほうが、しがらみがなくって、やりやすいことも、あります。名和さんは、フットワークの良さ、なんて言いますけど。今日、わざわざ利府まで出向いてもらったのは、その、しがらみだらけで、にっちもさっちもいかなくった、グループ長老を助けていただきたいからです」
「自分、トランスには、不案内なんですけどねえ」
すると、沖田たちを、ニコニコ見守っていた名和氏が、口添えした。
「バイセクシャルだから、じゃなく、ご商売の得意を生かしてほしい、ということですよ、沖田さん。LGBTとして死ぬという意味は、LGBTじゃなきゃ、分からない」
「え」
今朝未明、すぐ隣の松島町で、1人の異性装者が亡くなった。「彼女」は、友人たちに看取られる際に、異性装者として今まで生きてきたのだから、異性装者として死にたい、と言い残していた。
「バイグループ統括としての沖田さんじゃなく、沖田写真館の沖田さんへ、依頼します。彼女の、遺影を用意してくれませんか」
「それって……」
「ええ。女装したままの遺影を、祭壇に飾りたいんです。我々からのお願いであるとともに、故人の意向です。会葬に来る方たちが、みんなLGBT関連の人たちだけなら、女装遺影でも問題ないんでしょうけど。こういうことに、ご理解がない人も、少なからず葬儀に出席します。女装遺影を見たら、不謹慎だと遺族や葬儀委員に説教したり、フザケンナっと怒鳴り散らしてきたりする人が、必ず出ます。最初からトラブルになりそうなのが分かっているので、葬儀場付の写真屋さんからは、拒否されました。タウンページで周辺の写真屋さんも調べたんですけど、みんな、二の足を踏んで……」
「つまり、女装遺影を用意するだけでなく、そのクレーマーにも対処してくれ、と」
「そうです、沖田さん。しかも写真屋さんとしてではなく、LGBTの関係者として」
なんだか、また、面倒くさいことに巻き込まれそうだ。
「名和さん」
「もちろん、花束の会の事務局として、その手のクレーマーが来たときには、一緒に説得に当たりますよ。私自身は、後から駆けつける形になるかな。幡野センセイに連絡して、弔電と花輪の手続きをしてから、かな」
「あのー。その、幡野センセイも、線香あげに、くるんでしょうか」
「来るも、何も。名前だけでもお借りして、葬儀委員長になってもらう、予定ですよ」
「ふーん。亡くなられた方、よほど、県議センセイと懇意にしてたんですね」
「いえ。生前はお会いしたこと、ないはずです。というか、幡野センセイにとっては、初めて聞く名前じゃないか、と」
「えー。そんな人に、葬儀委員長、頼んでもいいんですか」
これは、名和氏でなく、原に向けての言葉だ。
原は、そういう葬式のしきたりは分からないから……と口をつぐんだ。ここいらへんが、若年者の限界なのかもしれない。
「遺影の件だけでなく、厚かましいですけど、沖田さんには、もう一つお願いがあります。パートナーの女性たちにも、ご出席をお願いできませんでしょうか」
「パートナー?」
名和氏が助け船を出してくれる。
「杉田さんたちですよ。杉田さんと、瀬川さん」
「確かに、彼女たちも今や花束の会の会員ですけど……」
「故人は、五十代を目前に辞任するまで、高校教師をやっていた人でした。お子さんが三人いるんですけど、末っ子の長男さんが、やはり教職です。かつての同僚の方々や、お子さんからクレームがあったとき、助力願いたいんです」
「じゃあタエちゃん……瀬川さんのほうは」
「トランスグループでは、エストロゲンとか、身体に入れている人、何人かいますから。葬儀で大立ち回りをして体調でも崩した場合、ナースとして……」
「やれやれ。分かりましたよ、原さん、名和さん」
「感謝します、沖田さん」
「でも、彼女たち、会葬者としては、連れていきませんから。ウチの、沖田写真館の、助手として連れていきます。仕事をおしつけるための呼び出しなんだから、そっちのほうが、いいでしょう? たっぷり報酬も、いただきますよ」
原は、ぽかんとした顔を沖田に向けた。
名和氏は、うんうんと、うなづいた。
「じゃあ、故人のアルバムを……それから、写真選びをしてくれる、遺族・友人の方たちを、貸してくれませんか」
沖田写真館は、お爺さんの代から続いた、三代目の由緒正しい写真館である。
店はもともと女川にあったが、津波で流されていったん廃業した。「遺影写真をやってくれる腕のいい知合いがいないから……」と知人葬儀屋に懇願されて復活をした。その際、石巻渡波の店舗を買い取って、移転した。もともとはペットショップだったところで、改装の際に、臭いだの毛だの動物の痕跡を消すのが大変だった。
一応、スタジオらしきものの用意はあるけれど、今はほとんど使用していない。
爺さんの時は七五三がメインで、父親の時は見合い写真が主だった。今では古い写真をパソコンにとりこんで、遺影として仕上げるのが本業。デスクトップパブリッシングというヤツだ。写真屋というよりパソコン屋、そして写真の腕より額縁を売っているようなモノだ。
「ふーん。へー」
「自己紹介、これくらいでいいでしょうか、白石さん」
「いーよー」
利府へは車で来ているので、幸いなことに、クルマの後部座席に商売用の大型ノートパソコンとスキャナが積んであった。トリミングや色彩補正等、たいがいの細工は現場でこなせる、高性能な代物だ。用意周到な故人の場合、特に女性の場合、遺影にはこの写真を使ってくれ、と指定してあることも、多い。
「さらに、松島町の葬儀屋さんだと、スライドショーを作ったりしますね。住職さまを待っている間、天井から吊るされたディスプレイで流したりします」
「なるほど」
原に案内されていった故人宅は、葬儀場のすぐ真ん前、主に単身赴任者が利用するというワンルームマンションだった。日本三景として名高い松島のうち、観光地でない松島であり、生活くさいドラッグストアだの自動車整備工場だのが、軒を連ねている。
沖田が頼んだ遺族代表として、高校生くらいのお孫さんが2人、それから、故人の親友だというお爺さん……いや「お婆さん」たちが4人も押しかけてきた。高校生2人は学生服姿、「おばあさん」方も、そのまま葬式に参列できそうな、黒のスーツだのワンピース姿である。沖田は、いつもなら、車の後部座席に黒スーツ黒ネクタイも積んであるのにな、と悔んだ。
原弥生が、そんな沖田を促す。
沖田はまず、遺族代表たちに、頭を下げた。
「この度は、ご愁傷様でした」
狭い六畳間である。一応、花束の会メンバーが見苦しくない程度に片づけたというけれど、やはり狭い。入って右側には各種衣装ケースが山のように積み上げられ、反対側は、部屋にそぐわない立派なベッドがついていた。風呂に何日も入らなかった体臭のような、饐えた臭いが充満している。「仏様、あっちにおいてもらえて、よかったですね」。おばあさんの誰かが、言った。そう、葬儀場は前述の通り、目と鼻の先にある。ご遺体は、自宅に留めおくことなく、即座に、そちらに運んだ。ワンルームマンションの玄関脇には、一応、清めの塩や案内板が設置してあったけれど、基本、会葬者をこの「本宅」には招かないことになっている、という。
高校生は男女一人ずつで、男子学生のほうが、沖田に答礼した。女子高生のほうは、ずーっとスマホに目線を落としてポチポチやっていて、返事どころか、顔も上げようとしない。完全に無視だ。固太りしていて、無駄に存在感があるだけ、異様な感じがする。
男子学生が、眉間にしわを寄せた沖田に気づいて、そんな彼女をかばう。
「あ。コイツ、いつでもどこでも、こんな感じのヤツなんで。許してやってください。サーセン」
男の子は、引き続き頭を下げる。若者だから、死というものに対して実感が湧かないのかもしれないけど、おじいさんが亡くなったのに、ヘラヘラし過ぎる。
「ご両親は、今日、来ないんですか?」
「ウチ、共働きで、そもそも山形住まいなんで。オレも、高速バスとJRを乗り継いで、山形から来てます」
「それは遠くから、ご苦労さまです」
「でも、まあ、たとえ近くても、日曜とか休日だとしても、ウチの両親、来ないと思います」
故人……女装名「白川理恵」さんが女装し出してから、彼……白石君彦くんのお父さん、君一氏は、親子絶縁状態なのだそうだ。
「じゃあ、君彦くん。今日は、ご両親に無断で来たの?」
「そーすよ」
「ご両親が疎遠にしていても、君彦くんは、おじいさんと交流があって、最終のお見送りをしたかったから、とか?」
「んなわけ、ないじゃないスか。動画を撮って、ユーチューブにあげるためっスよ。オレ、将来、ユーチューバーになりたいっス」
「つまり、どういうこと?」
「オカマだのホモだのが、続々と参列する葬式なんて、滅多に見られるモンじゃないッショ。再生数、めちゃくちゃ伸びそうな見世物なのに、チャンスを逃す手はないなって」
原弥生が、君彦くんのあまりの暴言に、苦言を呈そうとする。
パンっ。
原と一緒に来ていた「おばあさん」の1人が、君彦くんにビンタをしていた。
「見世物だなんて。仮にもおじいさんの葬式でしょう。不謹慎にもほどがある。それに、オカマなんて、差別用語よ。謝りなさいよ」
まあまあ、田所さん……と、他のおばあさんたちが、二発目を繰り出そうとする彼女を止めた。涙と鼻水で化粧がすっかり崩れていて、田所さんの男としての顔が、くっきりと浮かんでいた。君彦くんのほうは、原さんに羽交い絞めされていた。そう、ビンタの報復とばかり、彼のほうでも、田所さんに暴力を奮おうとしていたのである。
君彦くんは、わざとらしく、叫んだ。
「ああ。痛え。痛くて、たまんねえ。これだから、オカマは嫌いなんだよ。一体、何様のつもりだよ、ヘンタイのくせして。オレの爺さんの葬式だぞ。身内でも何でもない、アンタたちがでしゃばるのが、そもそもお門違いなんだっつーの」
「このクソガキ。根性を叩き直してあげるわ。そこに正座しなさい」
「うっせー。オカマ。オカマオカマオカマ」
君彦くんは、興奮冷めやらぬまんま、この場にいるおばあさんたちはもちろん、日本全土のLGBTへの悪口も、言い始めた。
「そもそも、日本経済が斜陽化した一番の原因が、あんたたちだろうが。生産性のないオカマが、ゴキブリみたいな増えちまったせいなんだよ。自分たちが、善良な他の人の足を引っ張ってるっていう自覚、ある? 自分たちが、日本没落の原因って、分かってる?」
君彦くんは、LGBTのみならず、専業主婦だのフェミニストだの在日外国人労働者だの、見境なく、こき下ろし出した。
沖田は、原に耳打ちした。
「こういうのを、中二病って、言うんですかね」
「いいえ。それを言うなら、ネトウヨ、とかですかね」
君彦くんが、ツバを飛ばして、故人の旧友たちと言い合っている間、もう1人の女の子は、相変わらずスマホとにらめっこである。
原が、気を利かせて、缶ジュースを買ってきてくれた。おばあさんたちは、黙々と喉を潤した。君彦くんも、コーラよりドクペがよかったのにな……といいながら、壁によりかかって足を長く伸ばし、目をつぶった。
原は、女の子にもジュースを買ってきたけれど、彼女は見向きもしなかった。
君彦くんが、言う。
「ああ。メイプルなら、それでいいんスよ。もともと、アリバイ作りのために連れてきただけっスから」
秋本メイプルさんは、君彦くんの従姉妹にあたる女性、とのこと。ハイカラな名前だが、もちろん外見から分かるように、純・日本人だとのこと。両親から「今、何をやっているか」という確認の電話が入った場合、従姉妹のところに遊びに来ている、という口実にするために、同伴したという。
「その、メイプルさんのご両親は?」
「離婚して、シングルマザーっスよ。本業は、国分町のキャバクラのママで……時間が時間だし、まだ寝てるんじゃないかな」
メイプルさんママも、おそらくは葬儀に来ないだろう、とのこと。
女装した父親が嫌いだから、ではなく、ゼニにならない葬式なんて、時間の無駄と割り切ってしまう性格だから、という。
「……それって、合理的思考って、言うんですかねえ」
沖田が原に話しかけると、メイプルさんは初めて口を聞いた。
「守銭奴の冷血女な、だけよ」
一瞬、会話が途絶える。
接ぎ穂がなくて、沖田は「守銭奴なんて難しい言葉、よく知ってるね」とメイプルさんを褒めてみた。
「あのクソババアに借金した人たちが、よく、そういう悪口を言ってたから、自然に覚えちゃっただけ」
メイプルさんの辛辣な言い方に、場は、さらに暗くなった。
そうこうしているうちに、葬儀社の社員さんがやってきて、供花や茶盛りはどんな順に並べますか、と相談に来た。旧友四人のうち、一番若く見えるおばあさんが立って、社員さんについていった。
「こつちも、時間ありませんし、始めましょうか」
君彦くんは、なぜかおばあさん方でなく、沖田にびょこんと頭を下げて、さっきはすみませんでした、言い過ぎました……とつぶやいた。
スライドショーで使う写真のほうは、人生の節目節目のピンナップや記念写真等を選んでいくのが基本である。小学校中学校等の入学式・卒業式、就職を決めたとき、結婚式。第一子の誕生。新築の家を買ったとき。
「そして、白石理恵さんの場合は、初めての女装のとき、ですかね」
故人のアルバムは、古新聞の束の奥に、無造作に積んであった。
「ふーん。じいさんって、中学高校とか、若いうちから女装してきたわけじゃ、ないのか」
「君彦くん、さっきは随分と偉そうな口を聞いてたけど、おじいさんのこと、何も知らないんだな」
田所さんが、あおる。
原弥生が「まあまあ」と止めて、皆はアルバム鑑賞に戻った。
「君彦くん?」
「ウチの親父が、とにかく爺さんのこと、嫌ってたからなー」
君彦くんの父親、君一氏がまだ小学生の時分、理恵さんは女装を開始したそうだ。父親がオカマということで、君一氏は、同級生たちにたいそういじめられた、ということらしい。
「君彦くん。君がお父さんから聞いたのは、そのイジメうんぬんの話、だけかな」
田所さんが、今度は穏やかに質問する。
「ええ。まあ」
用心しつつ、君彦くんは、返事した。
「じゃあ、理恵さんが女装するきっかけとか、教えてくれなかったんだ」
「うーん。そもそも、じいさんの話を持ち出すと、怒るんですよ。怒り狂って、不機嫌になって、浴びるように焼酎を飲んで。どっちにしろ、アレでしょ。男が好きになったからでしょ? その、オカマ……すんません、差別でない用語とか、知らないもんだから……オカマになって、男と寝たいから、とか」
「違うね。理恵さんは、異性愛者だった」
「え」
「君のお父さん、君一さんも、息子には全部語ってなかったか。イジメにあったのは気の毒だったし、そこは親として、理恵さんが不甲斐なかったことは認める……でも、理恵さんには、理恵さんなりの思いがあって、女装してたんだ」
白川理恵さんは、今からおよそ80年前、終戦直後の青森県五所川原にて、小作農の息子として産まれた。「貧乏人の子だくさん」ということわざがあるけれど、白川さん家は例外で、理恵さん出生後、母親が婦人科系の病気にかかったとかで、結局一人っ子として育った。父親という人は、「飲む・打つ・買う」という男の遊びは一切しない人だったという。ただ無類の将棋好きで、弘前や青森市に強豪がいると分かれば、休日を潰してまでいそいそと勝負に出かけたりした。青森のアマチュア棋界では、知る人ぞ知る有名人だったけれど、肝心の本業はパッとしなかった。GHQの農地改革で、白川家にも幾ばくかの田畑が手に入ったけど、それだけで飯は食えなくて、出稼ぎに行ったり小作を続けたりしていた、とのこと。経済状況は、こんなふうにイマイチだったけれど、息子1人だけで多少教育に金をかけることができたせいか(もちろん白川理恵さんの自身の努力もあってのことだが)、理恵さんは町でも評判の「神童」「秀才」として頭角を現わしていった。同級生が中学卒業後「金の卵」として東京に集団就職していく中、理恵さんは高校・大学とまっしぐらに進学していった。
前途洋々たる理恵さんに、転機が訪れたのは、その大学を卒業してすぐのこと、だった。理恵さんには、結婚を誓った相手ができた。京子さんという、正真正銘のお嬢様で、よりにもよって理恵さんの父親が小作に行っていた地主の娘さん、だった。
2人の結婚は、京子さん実家だけでなく、親戚一同や隣組の知人友人たちからも、猛反対された。
「身分違いの恋」などというアナログな説教に辟易した理恵さんは、未来の花嫁を連れて、駆け落ちした。理恵さん父が出稼ぎに行っていた仙台の酒造メーカーが世話をしてくれて祝言をあげ、理恵さんは高校教師の職を得た。
時代が流れ、4半世紀後。
理恵さんと京子さんは3人の子宝に恵まれた。上の二人の娘の婚約も決まった。孫ができるのが楽しみと言っていた矢先、奥さんがすい臓がんで、亡くなった。娘たちの結婚式は1年ほど先延ばしになったけど、婚家の応援や当人同士の固い意思もあって、三回忌の前に挙行された。
理恵さんが、京子さんの墓前に娘たちが片付いた報告をした日、最初の事件が起きた。
「その、理恵ちゃん、亡くなった奥さんの服を着ているところ、上の娘さんに見つかっちゃったんだよね」
神妙に田所さんの昔話を拝聴していた君彦くんが、ここで、俄然食いついてくる。
「お墓の前でも、女装してたの?」
「……生前、奥さんが自室代わりに使っていた箪笥部屋でって、聞いたわ。私も又聞きだから、どんな部屋かも分かんないけど。上半身は既に花柄のブラウスを着終わっていて、下は奥さんのパンティーに、新品の黒ストッキングをはいて……」
「オエー」
「こら、君彦くんっ。また、そうやって茶化して」
「サーセン」
田所さんと君彦くんのやり取りが一段落ついたところを見計らって、沖田は確認を入れた。
「要するに、駆け落ちまでした最愛の奥さんが亡くなったショックで、心が壊れちゃった、ということで、いいんですよね」
「まあね。写真屋さんのいう通り。奥さんが亡くなった直後は、悲しみに耐えていたけれど、懸案の娘2人を嫁がせて、安心しちゃったせいも、あるのかもね」
カウンセリング、なんていう療法が非常にマイナーだった時代の話である。
心配した娘さんに相談できる親戚とかがあるわけでなし(なんせ、理恵さんたちは駆け落ちで故郷を後にしてきたのだ)、自分たちのできる範囲で、最良と思われることをやった。理恵さんの再婚相手を探すべく、お見合いの斡旋業者を頼んだのである。
「……君彦くんのお父さん、君一氏がまだ小学生で、母親が必要な年齢であることも、大きな理由になったって話。ちょうどお姉さん二人が結婚して家を出てしまって、男手一つで子育ては大変……て、理恵さん自身も自分の力不足を実感していた頃合いだったみたいで。息子のためにも、前向きに生きよう……と理恵さんは、娘さんの提案を受け入れた」
しかし、うまくはいかなかった。
席を設けてもらった女性、実に43人。うち、3人は婚約直前、という段階まで、話が進んだ。
まとまるはずだった話を、最終的にまとまらなくしたのは、君一氏だった。
「どんな気持ちで、君一くんが、父親の再婚に反対し続けたのかは、知らない。まあ、小学生に大人の事情を理解しろって言ったって無理な話だ。タイミング的には、姉二人が家を出ていった直後だからね。継母ができたら、今度は自分が追い出されるかも……と、いらぬ心配をしちゃったのかもしれない。あるいは、単に、継母になるはずの女性たちと、そりが合わなかっただけだったのかもしれない」
このころ、まだ理恵さんは花束の会に加入していたわけではない。二十年近くのつき合いになるけれど、身の上話を聞いたのは、つい最近のことだ……と田所さんは、言った。
ともあれ。
理由はどうあれ、君一氏は父親の再婚を拒否し続けたし、そして、彼の「イヤ」という意思表示は、とても有効だった。
「理恵さんは、君一くんが中学生になるころには、再婚を諦めて、結婚斡旋所も退会してしまった」
最初の女装……娘二人が結婚した時のは「魔が差して」「どうしようもない寂しさを埋めようとして」自分でも、何がやりたいのかハッキリしないままの、女装だった。しかし、この退会を決意する前の女装は、いわば、確信犯のそれだった。
「亡くなった奥さんの衣裳をまとうだけでなく、自分用にと、買い足すようになってったらしい。もう、悲しく寂しい美談の段階は、通り越していたわけよ」
毎夜のように口紅をさし、カツラをかぶって鏡の前に立っても、理恵さんにはまだ、常識が残っていた。学校やご近所のスーパーで、身バレすれば、職を失いかねない大事件になると、知っていた。
仙台は東北随一の大都市だけあって、理恵さんのようなライトな女装を楽しむためのお店も、あった。エンタテイメント精神あふれる女装者が経営しているバーが国分町にあって、酔客は、余興の一環として、貸衣装を身に着け、化粧もしてもらう。
理恵さんは、足しげく、この店に通った。貸衣装だけでは飽き足らず、自前の衣装を持ち込んでまで、女装した。客がぎっしりと入った日には、頼まれて「ホステス」役をすることもあった。もちろん無給でであり、接客を受ける常連さんたちも、理恵さんの立場は承知の上の「お遊び」である。けれどなぜか、このひそやかな趣味が、理恵さんの勤務先の高校に知られることになった。「オカマ]教師が生徒にいかがわしいことを教えたらどうする、とPTA役員をしていた保護者が、問題にしたのである。学校側は、これはプライベートなことだから、と一応は大人の対応をした。もちろん、全く推奨できる趣味ではないけれど、少なくとも法律を破っているわけではない、からだ。
反対派の筆頭、例のPTA役員は、理恵さんがホステスまがいの接客をしていたことを調べあげ、告発した。女装そのものは不問にしていた学校運営側も、公務員の兼業禁止違反と突き上げられて、「ナアナア」な対応ができなくなってしまった……。
田所さんが一息いれた。
黙って彼女の解説を見守っていた他の女装さんが、言う。
「その、PTA役員さんが気に入らなかったのは、結局、女装そのものなのよね」
まあ、良識派というかリベラル派というか、理恵さんの味方をした学校関係者が、いないでもなかった。
PTA副会長さんと教頭先生が、なんとか落としどころを見つけてくれた。理恵さんがが女装をやめれば、反対派の告発を取り下げさせる、と、かのPTA役員を口説いてくれたのだ。
……ここまで説明されれば、沖田にだって、結論は明白だった。
「理恵さんは、女装をやめるかわりに、学校を辞めたんですね」
「そうよ。勝ち誇った理恵さん反対派は、追い打ちをかけてきた。理恵さんの女装趣味を知っていたのは、高校関係者だけだったのに、地域住民から近隣の小中学校から、とにかく理恵さんの生活範囲全部に知れ渡ることになった。そして、父親が女装者って分かると、君一くんは、いじめられた」
理恵さんは、意地になって、今まで夜遊びの時にだけ、ひっそりとやっていた女装を、昼間も堂々やるようになった。スーパー・コンビニ・公園・本屋・ハンバーガーショップと、女装姿のまま出没するようになった。
原弥生が、ようやく自分の番だと、口を出す。
「ここからは、ボクが話しましょう。理恵さんは、自分が女装のことで、女装フォビアの人達から、ある事ないこと言われたりするのには、敏感に気づいていました。でも、自分のことで精いっぱいで、息子君一さんのことまで、手が回らなかったのです。で、孤立無援でいじめられている弟をかわいそうに思った娘さんたちが、今度は、この手の業界団体を見つけて、相談することにしたんです」
そう、それが花束の会だった。
「当時の幹部さんたちは、まず、理恵さんの職探しに奔走しました。学校辞職の引き金になった例の女装クラブは、ヘルプのアルバイトさんならともかく、ちゃんと、人一人雇用するくらいの売上は、なかったんです。他の女装バーの雇われママっていうのも探しましたけど、これも失敗に終りました。この手のお店で働いている女装者って、中身はどうあれ、建前上は同性愛者ってことになってたりしますから」
最終的に花束の会で斡旋したのは、携帯電話のパーツ下請け会社の仕事だった。理恵さんは、中国人やベトナム人労働者と一緒に、ベルトコンベアの前に並び、定年までこの仕事を続けた。
沖田が疑問を口にする。
「子どもへのイジメ対策、結局、どうなりました?」
「どーにもならなかった、らしいです。イジメっ子の保護者には再三直談判しました。また、小学校PTAに対して、花束の会の名前で何度となく抗議もしました。さらには、他のLGBT団体の応援ももらって、圧力もかけました。けれど、子ども同士のイジメには、無力だったらしいです」
「ふーん」
君彦くんがいきなり声を出して、沖田はびっくりした。
「ウチの親父が、今でもジイちゃんを恨む理由、分かったような気がする。結局、そのPTA副会長と教頭先生がかばってくれた時、意地を張らないで、女装をやめればよかったんスよね」
「人間、意地を張らなきゃならない時もありますよ、君彦くん」
「人生を棒に振ってまで、通さねばならない意地って、何スかね」
一番若い君彦くんと原弥生が、人生どうのこうのと語っているのをみると、なんだか自分が思いっきりジジイになった気がする。そう、「今の若い人は……」と言いかけて、沖田は口をつぐんだ。
「……定年退職後は、花束の会のお手伝いをしてもらってました。ウチのトランスグループは、性転換希望者から、単に女性の恰好をしたい人まで、ゴタマゼですからね。同性愛者ばかりだと思っていたのに、お仲間がいて、居心地がいいと言ってもらいました」
原弥生が、白川理恵さんと出会ったのは、実は、彼がこのお手伝いさえ辞めてから、だという。
「親しくなったのは、この一年くらい、でしょうか。でも、今、遺影の写真選びをするくらいの関係になってます。人間のエニシって、不思議ですよね」
晩年は、他に交流がある友人がいたわけでなし、花束の会トランスグループの年配メンバーと旅行に行くのが、唯一の楽しみだったようである。アルバムを次々にめくっていくと、最後の数ページを飾る写真は、鳴子温泉だのニッカウヰスキー工場だの、観光地での集合写真ばかりだった。上半身がアップになっている写真はなく、キレイに正面を向いている写真も、残念ながら、ない。記念写真の中から、適当にトリミングして遺影を作ることにする。
「どの写真がいいですかね」
沖田が、アルバムをめくりつつ、尋ねる。
一同は、皆、口をそろえて言った。
「どれでも、いい」
フォトショップで加工することを前提としているからだろう、パソコンに画像を取り込んでからは、俄然、注文がやかましくなった。
「皺をとって。特に、目尻と口元の皺。お目目をパッチリと大きくして、唇はハッキリと赤く、頬はほんのり明るく、美人にね」
田所さん以下、お婆さんたちの注文は単純で、とにかく故人をキレイに若々しく見せたい、一点張りだった。
女装をする限り……というか、化粧をする限り、自分をキレイに見せたいという願望は明らかで、だからこそ、サギと言われようとも、遺影を美化するのは正当化できる……とおばあさんたちは異口同音に言った。
対して、原弥生の意見は、少し違った。
「理恵さんの女装のオリジンに遡って考えるべきです」
そう、理恵さんがそもそも女装するようになったキッカケは、奥さんを亡くしたからであり、これが原点である。女装のまま棺に入るというのなら、この原点回帰のほうが故人の意思にかなう……と原弥生は力説した。
「つまり、どういうことです、原さん?」
「奥様の京子さんに似せた化粧……じゃない、写真加工をして欲しいってことです」
幸いなことに、奥方の写真は、きちんとアルバムの中に入っていた。
「女装遺影に顔をしかめる人も、原点にある美談を語られれば、遺影の意味を考えて、むやみに非難することもなくなるのでは?」
君彦くんは、この二者とも、さらに違った意見だった。
「花束の会の人たちの思い入れは分かった。化粧して、カツラをつけた遺影にすること自体は、反対しないッス」
でも、男っぽさ……化粧によって隠そうとしている男性性そのものを残してくれ、と彼はリクエストするのである。
「化粧をしようが、女装をしようが、爺ちゃんは爺ちゃんだから」
「何が言いたいのかな、君彦くん?」
本人もよく分かっていない理屈をくみ取ると、こうである。
祖父の生き様を否定はしたくないから、女顔で化粧をするのは認めよう。でも、同時に、化粧の下に隠れた、「白川君男」その人に思いをはせる機会があってもいいのでは? 参列者が花束の会の面々やLGBT関係者ばかりだと、爺ちゃんは「白川理恵」としてだけ、野辺送りされてしまう。化粧の下に隠れた白川君男の生き様を、誰もが追想することなく、墓の下に入ってしまう……。
「なんとなく、君彦くんの言い分も、分かりました」
「で? 写真屋さん、どうするの?」
「もう1人、意見を聞いてないひとが、いますよね」
メイプルさんは、相変わらずスマホに目を落としたままだったけれど、君彦くんが「何にか言え」と再三促すと、ようやく口を開いた。
「そもそも。化粧なんか、さすな。女装反対。以上」
あまりのそっけなさに、田所さんが憤慨する。
「なによ。真面目に返事しなさいよ」
メイプルさんは、その派手な名前に全く似つかわしくない、しゃがれた声で答えた。
「ワタシャ、真面目だ」
「アンタって、女装差別する女子なの?」
「違う」
そしてメイプルさんは、田所さんを無視するようにして、沖田と向き合った。
「写真屋さん。死に様っていうのは、生き様と同じで、というか生き様の一種で延長で、だからこそ、遺影には生き様を映すべし、なんだよね」
まあそうだ、と沖田は返事した。
「でも、本当にそうなの? 生き様は生き様で、死に様は死に様なんじゃないの? オカマとして生きてきたとして、死ぬときくらいは、もとの男として死なせてあげるべきじゃないの?」
田所さんが、キッと娘を睨みつける。
「何が言いたいのよ、この小娘」
自分が無視されたように思ってか、田所さんは声を張り上げたけれど、蛙の面に小便というべきか、メイプルさんは顔色一つ変えない。
「アタシなら、死んでからも、生前のしがらみに縛られたくない」
「それは、アンタが小娘だから、そう思うのよ」
遺影写真の加工作成をするのは、沖田である。
遺族の1人の貴重な意見として、沖田はメイプルさんの話をもっと聞きたかった。けれど、田所さんがチクリとイヤミを言うと、彼女は足音高く、マンションから出ていった。
ちなみに、田所さんの失言は、以下の通りである。
「……生前に縛られたくない? ああ。その、DQNネームが恥ずかしいから、死ぬときくらいは普通っぽい戒名をつけて欲しい、とか、そういうこと?」
長々と話をしたお陰で、大人たちは、田所さんの大人げないイヤミを咎め忘れるほど、疲れていた。君彦くんが、従姉妹を追いかけていき、二度とマンションには戻ってこなかった。
翌日。
沖田は、リクエストになかった分も含めて、四枚の遺影写真持参で葬儀に向かった。
前にも述べたと思うが、利益のほとんどは写真そのものより、額縁によって稼いでいる。四枚分の写真加工は手間だったけれど、もしかして今後も花束の会から仕事を持ち込まれるかもしれない可能性を考えると、サービスをしておくのも、悪くないという判断からだ。
杉田、瀬川両名は、渋々ながら、協力を受けてくれることになった。2人とも昼間は勤務があり、夕方から、通夜の席にだけ連なる。領収書のいらない日当のほか、松島の高級ホテル内レストランでのディナーを、沖田は約束させられてしまった。とんだ出費だ、と沖田は原弥生に電話で不満を漏らした。名和氏は、この通夜からの参加だけれど、葬儀委員長の幡野代議士は、最後の埋葬と精進落としだけ、顔を出すとのこと。
葬儀会場は、くだんの葬儀社の中で一番小さな会場で、パイプ椅子を30脚も並べればいっぱいになりそうな狭さだった。床も、くすんだ緑色のカーペットで、線香も焼香もしっかり焚いているのに、それでもまだ、土臭い匂いがする。祭壇だけは立派で、白木の……いや、白いプラスチックの祭壇中央に、遺影のためのスペースがあった。
遺族の了承をとっておく必要がある……と幡野代議士の件を君彦くんに知らせると、「いったい誰のためにの、何のための葬儀なんスかね」と、すっかり呆れた返事が返ってきた。
どこの地方も、地域特有の、毛色の変わった風習があるもので、松島町の場合は、座り棺という、桶の中にご遺体を座らせる、という形式だったとのこと。
「ま。半世紀くらい前まで、くらいですかね。今は、火葬炉の構造もあって、全部寝棺」だそう。葬儀屋の社員は、沖田が他所からきた……石巻から来た写真屋と知って、他にも色々と蘊蓄を垂れてくれた。
沖田もお返しに、地元の慣習を披露する。
「ウチの地域では、親族の女の人だけで、百八の白玉団子を丸めて、お供えするっていう風習、あるんですけど」
「石巻あたりだけじゃないんですかね。こっちでは、聞いたことがない」
ちなみに、火葬場は松島町内になく、隣の塩釜市まで行かねばならないらしい。
「じゃあ、お寺さんも?」
「それは、ちゃんと、松島にあります」
戒名をもらう段になって、またひと悶着あった。
お布施の多寡が問題になったとか、そういうことではない。末尾につける位号を「信士」にするか「信女」にするか、という問題である。普通はお布施をお寺に持っていきがてら、授けてもらうものだけれど、ちょうど同じ葬儀場の他会場で、住職さんが引導を渡していたので、ついでに「内輪の話」として、少し配慮を頼んでみたのである。
和尚は、首を縦に振らなかった。
「仏教って、LGBTに向いてなのね」
田所さんが、ブツブツ言いながら、それでも「信女」か「大姉」が欲しいと、と住職さんの袈裟の袖にしがみつく。葬儀の手伝いにきていたのは、ほとんどが花束の会の面々で、彼ら彼女らも、もちろん田所さんの味方だったけれど、やはり住職はウンと言わなかった。
田所さんの、短気な性格が裏目に出たせいもあるかもしれない。
「五十万も包んだのに、まーだお布施、足りないってのかしら」
住職さんに聞こえるようにイヤミを言う。
もう還暦を過ぎているであろう住職さんのほうも、なんだか好戦的だった。
難しい仏教用語と、難しいLGBT用語がぶつかり合ったけど、双方全く譲る気配はない。住職がうっかり、法華経の変成男子説……女性は男性に生まれ変わらなければ仏になれない……を語ってしまい、女権論者の森下さんが、男女差別だと猛抗議する場面も、あった。トランスグループの年配者たちは、この手の「下品な話」が嫌いではなく、公衆の面前で、竜女の女性器が男性器に変わるという卑猥な場面に対して、あれやこれや評していた。竜女の逆、男性器が女性器に変わる「おまじない」、どこかお経に書いてないのかしら、と田所さん。原弥生は「性器が変わるのはいいけれど、公衆の面前でっていうのは、イヤだなあ」とのたまう。「何言ってんの、見られながらだから、いいんじゃないの」と田所さんは露出趣味を肯定し、「性転換と露出では、全然違うでしょう」と名和氏に突っ込まれていた……。
住職は、あからさまに軽蔑を隠さず、トランスグループのお婆さんたちに、言った。
結局、遺族の方たちは来てないのでしょう。
故人の意思を表明してくれる人が、いない。
「アタシ、来てるよ」
いつの間にか、制服姿のメイプルさんが、隅っこのパイプ椅子に座って、ほうじ茶を飲んでいた。
「ママが仕事に行ってから、ウチを抜け出してきた。だから、遅くなった」
田所さんは、一回目の顔合わせのときに大げんかしたことをコロっと忘れたのか、思ったことを口に出す。
「君彦くんのほうなら、よかったのに」
「アイツは、山形だから。そもそも両親いるし、抜け出すの、ムリ」
田所さんは、メイプルさん自身ではなく、我々に向かって、言った。
「あーあ。負けか。この女子高生なら、口を開く前から、どっちの味方か、分かっちゃってるしね」
そう、メイプルさんは、期待通り住職さんの味方をした。けれど彼女は、こ難しく、抹香臭い「正論」を述べたわけではない。
「お墓。おじいさんが、自分用のお墓、買ったわけ、知ってる?」
住職さんが、首をひねる。
昔からあった墓の他に、白川さん家の墓はなかったはず、と。
「違うよ、和尚さん。おじいちゃんは、山形にお墓を買ったのよ。息子と孫のために、ね」
駆け落ちした五所川原に戻るわけにはいかず、京子さんが亡くなったとき、理恵さんは一回目のお墓を買った。そして、この度死期を悟って、二つ目のお墓を購入した、というのである。
田所さんが、当たり前の疑問を口にした。
「なんで、わざわざ」
「白川家のお墓でなく、白川理恵個人の墓でなきゃ、ダメだって、悟ったから、でしょ」
このままでは奥さんの京子さんが入っている墓に、君一さんが入れてくれないかもしれず、だから、理恵さんは、生涯で2つ目の墓を買った。そう、それは山形在住の君一氏たちのための、お墓だ。
「アンタたちが死んだら、新規にお墓を買ってあげたから、そっちに入れって、意思表示でしょ。あるいは、このままお墓が1個しかなかつたら、息子は自分の遺骨をどこかで無縁仏として捨てちゃうかもしれないって、考えたのかも」
住職さんが興味を示して、尋ねる。
「息子さん、君一氏、そこまで意地悪な人なのかな?」
「意地悪っていうより、恨みつらみのせい、だと思う」
田所さんが、うっとりと乙女な顔つきになって、言う。
「ロマンチックだわあ。駆け落ちから始まって、最後は2人っきりのお墓に入るなんて」
まあ、そういう考え方も、できるか。
メイプルさんが、畳みかける。
「京子おばあちゃんは、君男っていう旦那様のことは知っていても、理恵なんていうオカマのことは、知らないでしょ。知らないうちに、死んじゃったんでしょ。愛しの旦那様がの、白塗りの厚化粧であの世に来たら、びっくりするんじゃないかしら? この人、誰って」
「……一理、ありますね」
思わずうなずいてしまった沖田を、田所さん以下のおばあさんズが睨みつけてくる。
もうそろそろお寺に帰る時間だから、と住職は葬儀社の若い人に送迎されていった。もちろん、戒名は「信士」か「居士」になるらしい。
住職さんと入替で、今度は杉田・瀬川両名が式場に到着した。
女子高生に……メイプルさんに喰ってかかろうとするトランスグループのおばあさんズを、我らがバイセクシャルガールズは引き留め、事の顛末を聞いた。
「亡くなった人たちが、あの世でどうこう考えているか、なんてのを皆で真剣に考えるっていうのが、なんか、ウケる」
瀬川がボロっと漏らした言葉を、杉田が咎める。
「お葬式の席で、ウケる、はないんじゃないの、タエちゃん」
「あら。葬儀、まだでしょ」
「そういう問題じゃない」
唯一の遺族、メイプルさんが、瀬川の「ウケる」を肯定した。
「お葬式って、もともと、そういう話をするためにある、儀式なんでしょ」
沖田は、そろそろ四枚の遺影のうち、どれかを選んで欲しかった。
お通夜で誰かが一晩中、交互に起きていなければならないとしても、生前のつき合いが全くない自分がやらねばならない義理は、ない。
「眠い」
瀬川は、メイプルさんと意気投合したようで、死者のことはそっちのけで、コンビニで新発売された駄菓子の話をし始めた。
「これだから若い女の子は……」と田所さんは、ため息をついた。
「結論、出たよー」
瀬川がいきなり、遺影写真選びの話に戻ったときは、だから、驚かされた。
「おばあちゃん……京子さんの生前を知っている人って、誰もいないんだよね?」
それは、あたり前の確認事項である。
「住職さんと、メイプルちゃん曰く、愛しの旦那様が厚化粧のオカマになって京子さんに会いにいったら、びっくりするかも、だっけ? 確かに、びっくりするけど、その後のリアクションって、どういうのかな?」
「タエちゃん、何が言いたいの?」
杉田が首をかしげる。
「許してあげるんじゃないかと思うの、その、京子おばあちゃん。……私が死んだあと、こんなに苦労したのね、とか。私のためを思って、私の服を来て化粧をして女装していたのね、とか」
理恵さんは終始、異性愛者であって、おそらく浮気なんぞしなかったでろうことも、ポイント高いと、瀬川は言った。
「だって、そうでしょう。その……女装の恰好をしたオジサンが好きな男もいるんでしょうけど、もちろん理恵さんは同性愛者じゃなかった。そして、いくらなんでも、オカマのジジイが好きな女子はいない」
悪意があって異論を唱えるわけじゃないが……と前置きして、名和氏が疑問を呈する。
「京子さんは昭和20年代生まれの女性でしょう。そういう女の人が女装そのものに寛容ですかねえ」
たとえ駆け落ちまでした仲でも、いや、駆け落ちまでした仲だからこそ、「女装堕ち」した旦那は許せないのでは? と言う。
沖田は天井を仰いだ。
「水かけ論だ」」
瀬川が、すかさず、ツッコむ。
「トキオくん。それは、最初から分かり切っていたことよ」
最終的な決断は、結局沖田が下した。
「名和さん、悪者になってくれますか?」
「なるも何も、最初から悪者ですよ、私は」
ニヤッと笑って、名和氏は慣れないウインクをした。なるほど、悪人顔だ。
「じゃあ、遺影は、これに決定します」
それは4枚の内、最も話題に上がらなかった……若作り美形化の遺影だ。そもそもリクエストしてきたのは、田所さん以下トランスグループのおばあさんズだけれど、あまりにも写真加工し過ぎた……もはや原形を留めていないんじゃないの? と言われて、そうそう却下された代物だ。
「でも、トキオくん、これは全然似てないんでしょ」
「だから、いいんだよ、タエちゃん」
この、あまりに美化しすぎた遺影は、名和氏が現・花束の会トランスグループの会員のことをおもんぱかって、選定したことにする。
「白川理恵さんの場合は、死別した奥さんとのストーリーがあり、ご本人の劇的な生き様もありました。だからこそ、何種類もの遺影を作っても、どれも説得力があった。でも、そんな起伏のある人生を送ってきた人ばかりじゃない、と思うから」
人生や、人生観の忖度しないで、葬式を出して欲しい……という女装者だって、中にはいるだろう。生前のなんやかやに触れて欲しくない、という人だって、いるはずだ。
「当たり障りのない……という言い方はアレですけど、トランスグループの誰からもケチをつけられない、無難な遺影の在り方だと思うんですよ、美化・若作りの遺影って」
憮然とした原弥生が文句を言う。
「じゃあ、今までの話し合いって、何だったんでしょう」
「話し合いは、話し合いとして、そのまんま使います」
この葬儀場には、会葬者が待っている間、手持無沙汰の時間を埋める、スライド写真展示のスクリーンがある。
「このスクリーンに、加工した遺影を忍ばせます」
花束の会の面々には、メンバー外の参列者がいたら、それとなく、この採用されなかっとた遺影を語って欲しい、と沖田は頼んだ。
「色々と揉めないように、名和さんのツルの一声で、美化遺影に決まったけれど、実はご本人のために、色々と考えていた……と打ち明ければ、花束の会メンバー個々人への、メンバー外の人たちの評価は、高まるでしょう。会員で、これから会員葬を頼むかもしれない人たちにも、別な意味でアピールするか、と。色々とかまってほしい人たちは、それぞれのグループ統轄に相談すればいい。詮索して欲しくない人は、名和さんに頼んで、一刀両断してもらえばいい」
「それで決まりね、トキオくん」
なぜか瀬川が相槌を打ち、なぜか皆が賛同した。
遺族代表……この場にいる唯一の身内、メイプルさんはと見れば、そうそうにスマホを取り出して、ポチポチやっていた。
杉田が、飾られた遺影に頭を下げて、言った。
「結局、誰も涙を流さない葬式なのね」
沖田は肩をすくめて返事した。
「今どきの葬式って、みんなそうだよ。遺産争いで、取っ組み合いの喧嘩にならないだけ、マシ」
遺影写真が決まってから、火葬・通夜・葬儀……と、一連の仏事は滞りなく流れていった。君彦くんは、どれか一つにでも出席して、おじいさんにお別れを言いたかったようだけど、父親がガンとして許さなかったようである。君一氏からは、連絡の「れ」の字もなかった。
葬儀の席は、当然ながら、花束の会会員で埋まった。
花束の会加入以来、名前は知っていても顔は合せたことのないメンバーを、いい機会だからと名和氏に紹介してもらう。今回の遺影の話をいち早く小耳にはさんだ面々から、早速、遺影写真の注文……いや、予約というべきか……があった。
LGBTの人たちは、誰もが他人に語りづらいエピソードをかかえていて、でも、だからこそ、他人に自分のことを知って欲しくなる。
「女装遺影を撮ってくれる、唯一無二の写真家」という田所さんの褒め言葉は大袈裟としても、LGBTとしての生き様を刻んだ写真撮影・写真加工なら、ノンケに負けない自信はついたかな、と沖田は一人思った。
写真屋は写真屋でしかない。
けれど、気ごころ知れた葬儀屋での葬儀の場合、陰に陽に葬儀進行の助っ人をすることがある。今回も、その場合に該当した。要するに、葬儀の最中には、仕事で手一杯だった。そして、葬儀後は杉田・瀬川へのアフターサービスで、他のことを考えている余裕なんて、なかった。けれど、なぜか、沖田がこの度の葬儀に、ケチをつけた、という噂が流れた。
それは、埋葬まで終えて、3日ほど経ってからのこと。
原弥生が、「名和さんには内緒にして」と前置きしたあと、花束の会に蔓延している噂について、教えてくれたのである。
曰く、君一氏ほか、数人の子どもたちが誰も葬儀に来なかったのは、葬儀委員長の幡野代議士が圧力をかけたからである。
花束の会は、県議に「おんぶにだっこ」されたエセLGBT団体であり、県議の力がなければ、仲間の葬儀一つ上げられない組織なのだ。沖田は花束の会の現状を見限り、他のLGBT団体への移籍を考えている……。
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