5 プラユス

 ――しかし、きみにもうひとつ頼みたいことがある。

 これは私の個人的な頼みだ。教師と生徒という関係ではなくて、私からきみへの頼みごとだ。なるべく短くまとめるから、聞いた上で判断してほしい。

 きみと同じクラスの皆坂についてだ。彼女は私の親戚で、今私は彼女に近づくことができない。色々とややこしい問題が重なっていてね。

 しかし、おそらく今行動しなければ、あの子はいずれ何かするべきでないことをやってしまうだろう。それは未来の彼女にとって不利益になる行為とか、あるいはもっと決定的な行為かもしれない。

 つまり、何が言いたいかというと、きみに、彼女が今何を見ていて、何を感じていて、何を考えているのか、きみの言い方を借りるなら「洞察」してほしいんだ。そしてできれば、彼女が自分の地底湖から汲みあげる手伝いをしてくれないか。


「いいかい。きみの独りよがりな観察ごっこはもう終わりだ。洞察力っていうのはね、それを使ってじっさいに相手と関わるときにのみ、はじめて意味のあるものになるんだよ、厳しいことを言うようだけれど。まあ、そういう訳で、どうだい。引き受けてくれるかい」

 ぼくは少し考えて『やってみます』と書いた。先生は柔らかい笑みになって言った。

「ありがとう、恩に着るよ。ただし――これはきみの安全のためでもあるんだけれど――彼女には指一本触れない、と約束してくれ」ぼくは頷いた。「うん、必ずだよ。ちなみにだが、彼女は今日、学校を欠席して市民病院で診察を受けているんだ。一時間後くらいには終わっているはずだよ」

 

 先生は、職員室に戻るついでに宿題のプリントをクラスに持って帰ってほしい、と言った。ぼくはまるで巨人に首根っこを掴まれてざぶんと水につけられるようにすこしだけ職員室にひたされ、すぐまた暑い世界へと戻された。そうして今、合唱の薄くきこえる渡り廊下を渡っているのだった。

 ぼくはみずからの教室の引き戸を開け、入った。そのとき空気はほんの少し振動するように温度を下げた。ぼくは教室に満たされた情念が自分のに向けてひとつひとつ投げられているのを感じた。それらひとつひとつがぼくの顔に引っかかっては力なく張りついた――あの人の言葉を思い出していた。涙の数だけ強くなれるなんて詭弁だ。だけど努力次第では、優しくなることならできるかもしれない。とにかく考え続けることだ。そして何より、考えた分だけ行動することだ――ぼくはひとつひとつを摘んで取り除くように呼吸し、ひとつひとつを眺めるように紙の束を教室の隅にある箱にしまった。そしてプリントを二部手に取った。

 ぼくは自分の席についた。誰かが手を叩いたように教室は音と温度を取り戻す。あるいはずっと鳴っていたのかもしれない。教室に満たされる精神的な力学に集中しているとき、現実の感覚がおざなりになることは仕方の無いことだった。でもおそらく、ちゃんと音量の変化はあっただろう。ぼくは主観的な感覚の世界の内側で、今日は湯川さんの機嫌が悪そうだと思った。教室の引き戸が空いた。男性教師が入ってきて、号令、と声をかけた。ぼくたちは立ち上がって礼をした。ほかの全員が着席したが、ぼくは立ったまま、ゆっくりとガムテープを剥がした。

「先生」

 教室じゅうが眼を振り向かせた。そのすべてがサバンナの野生動物の眼のように動きを停め、ぼくを貫いていた。先生は声にならない声を喉にためてから「どうした」と言った。

「体調が悪いので帰ります。さようなら」

 ぼくは教室を出て階段を下りた。廊下にも昇降口にも誰もいなかった。校門を抜けるとベタ塗りの青空がこう叫んだ。彼女はここに来てはいけない!

 確かにそうだ。彼女は高く跳ぶ前に、深く潜った方がいい。風の中、ぼくは丸めたガムテープをポケットにつっこみ、駆けた。

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鋼鉄の思春期 ペチカ @pechka

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