4 黒い雌鹿の教室

 先生は発音のいい英語教師だ。先生が例文を読み上げるとき、空気はある独特の匂いを帯びた。森の奥深くに分け入ると、すこし開けた場所に出る。そこには鬱蒼とした木々の手をすりぬけた陽光が幾筋か束ねられて降りそそぐ。その真下に、毛並みを黒く輝かせた一頭の鹿が静かにてらされている。そのとき、教室は緊張と倦怠を段落ごとに行き来する理想的な空間として存在するようになる。一頭の黒い鹿を中心として。


 先生はぼくのノートをぱらぱらと読み流した。ときどき一箇所をじっとみつめたりしながらも、全体的には速読といっていい速さだった。

「なるほど」

 先生はふいにそうつぶやきノートを閉じた。そしてコーヒーにくちをつけ、それからぼくの方に向きなおった。

「興味深い。これはしばらく預かっておくよ。ところで」

 ぼくは先生の手を目で追った。その手は机のよこに置いてある黒い革張りの鞄へと吸いこまれていった。先生はそこからなにか白い紙の束を取り出し、それを机の上におき、その表紙に書いてある文言を指差した。

「これを覚えているかい」

 ぼくはしばらく考えて首を縦に振った。先生は軽く頷いてから「場所を変えようか」とぼくを職員室の外へ連れだした。


「――正直いってきみは奇妙な生徒だ」

 ぼくの前を歩く先生は振り返らずに話し始めた。

「一年前、きみは相当にひどい体験をしたはずで、その証拠にまる三ヶ月学校へは来なかった。なのに、三ヶ月たったある日、きみは急に学校へ来て、それまでのこと全てがまるで無かったかのように振る舞いはじめた」

 ぼくは黙っていた。校舎にはレース生地のような柔らかい暑さが揺蕩っている。節電週間で照明のない廊下は靴音と先生の声の輪郭だけをぼんやりと溶かしながら無人だった。

「しかもそれは、おおよそ正気とは思えないほどの変化だった。つまりきみは、それまでの出来事だけでなく、周りの存在さえも完全に無いもののように生活した。きみに対し、誰によって、なにが行われたとしても。それで、きみを含めた数人がカウンセリングを受けることになった。きみの行動はあまりに異質で、で一般的とされる影響を超える兆候を、周囲はみせた」

 先生は急に立ち止まり、ぼくの方をみながら教室のドアを開け放った。

「そのすべてを、きみは覚えているね」

 ぼくは黙ったまま先生をみつめた。先生の背後では、去年ぼくらの教室だった部屋が微睡みの中に沈んでいる。

 先生はしばらくぼくの目を、何かを探すようにみつめていた。しかし、先生はコンセントを無理やり抜くように、投げやりに視線をはずしながら教室に入った。

 無人の教室に入っていく先生の背中を、ぼくは教室の外からみつめていた。先生はカーテンの縁をつかみ、振るように投げた。レールの高い音が立つ。それから先生は窓をあけた。そしてふりかえり、ぼくをみた。

「そうか。ほんとうに言われるまで動かないんだな」

 先生はにわかに笑った。それは他意のない、ただ興味深いものをみたときの自然な笑みにみえた。

「すまない、色々と口がすぎた。まあ入りなよ」

 ぼくは教室に入った。先生は学習机のひとつを選んで椅子を引いて座り、持っていた紙の束を卓上にはたくように置いた。そしてべつの椅子をひいた。「座って」ぼくはそこに座った。先生は紙の束を静かに捲り、なにかをみつけた様子で黙った――いくつかの文章だけ、逆さまで読みとることができた。「他者のことをある種の物語、読んで解釈する対象と見なしている」「自己をロボットのような存在であると認識している」「自分自身をそのような物語のなかに置いており」「同時に現実に対するそうした認識が間違っていることを自覚してもいる」――そして先生はこう切りだした。

「きみは、あの花をどう思う」

 ぼくは黙ってふたつのことを考えていた。あの青い花のこと。そしてこれまでの「記録」について。

 ぼくは先生の意図を測りかねていた。だからなにを答えればいいのか分からなかった。だからただ先生の質問にこたえることにした。ぼくはシャツの胸ポケットからシャープペンシルと薄いメモ帳を取りだした。

『人の心は深い場所に眠る水のようだ。洞察力がそれを汲みあげる』

「うん。それは?」

『古い格言だそうです』

「誰かに聞いたのかい」

『はい』

「どういう意味なんだろう」

『そのままの意味です。地底湖、あの花は、そういう意味なのだと思います』

「そうか」

 先生は俯いて、しばらく考えていた。そして言った。

「だれかに汲みあげてもらったのかい、きみは?」

 ぼくは先生の瞳をみつめた。そこには指のような白い花びらが無数にあって、まるで結晶のように硬く円形に並んでいた。それはずっと過去から届いた言葉のように先生のせりふや表情よりも先生を教えているような気がした。つまり先生は何かの目的のためにぼくのことが知りたいのだろう。もしそうならぼくはぼくのことを話さなければならない。

『たぶんそうです。ぼくは』

 ぼくはすこし逡巡し、シャープペンシルを机に置いた。そして、口に貼っていたガムテープをゆっくりと外した。ぼくは深く息を吸った。


――ぼくはほんの少し汲みあげてもらったとき、その人が世界の全てであるような気がしました。でも当然のようにその人はぼくの世界ではなくて、ぼくの心を汲みあげる手がいつでもそばにあるわけではないと知ったんです。ぼくはそれをもっと早くに知るべきでした。だからぼくは一度諦めたんです。それで今度は、ぼくが洞察力になって潜ることにしたんです。ぼくにとって世界は、それがどんなものであっても、観察し洞察する対象だと思うことにしました。今ぼくはそういう設計なんです。ぼくは今、たぶんぎりぎり、そういう世界の中にいます。


 ぼくはガムテープを口に貼りなおした。先生はしばらくなにも言わずにぼくをみていた。その唇はなにか言わなければならないことがあるかのように、すこしのあいだ逡巡していた。「夜と霧の――」そしていま言葉が凝結した。

「『夜と霧』のなかで、虐殺されていくユダヤ人たちのなかに、けして死なない人々がいた。力のある、いぜんは強いとされていた人たちが、飢えと虐待によって、はじめに精神をうばわれ、そして冷たくなっていった。そういうなかで、ある人々だけは、なぜか精神をうばわれなかった。どうやってかそれを保ちつづけ、生きのびた」

 ぼくはそれを聴きながら、そんなに大した話じゃない、と思った。これが現実であれ物語であれ、読み手にとってなんて単調でつまらない話だろう。なぜならあの人は言っていた。これは「大人になる」ということをすこし大袈裟なやり方でやりすぎただけことなのだ、と。

「きみのそれは、あえて名付けるなら過適応で、不名誉な名前だけれど、しかし――」

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