3 曖昧
夜、ぼくは自らが書いたノートを見直しながら、これから始める「記録」の方向性を確立していった。
(「記録」には、ある要素を、ある基準をもとに継続的に記述し、ある場合、評価することが関係するだろう。しかし、「ある要素」をどう取るか、といった詳細にかんして、まったく指示は与えられていない。だから、そこはある程度先生の意図を汲まなければならないだろう。……ところが、それを推察する材料があまりにも少ない。これは、なにをどのように「記録」するか、ある程度一任する、ということだろうか。そういった「意図」があるのだろうか)
ぼくはノートを閉じ、ベッドに入った。ぼくの頭の中の状態は、ノートをひらく前とほとんど変わりが無かったが、それでも確かに覚悟とも諦めともつかない手触りのものが、脳の底あたりを漂っているのが分かった。
結論として、今後の方向性はこうだった。
(とりあえず、やりたいようにやってみよう)
ぼくは目を閉じた。その日は夢をみなかった。
「記録」づくり初日からしばらく、地域一帯は記録的な猛暑となった。ぼくは浴びるほどの水分を必要としたが、「地底湖」は相変わらずの指定された水量だけで鮮やかな青を維持しつづけた。
「記録」をはじめて四日目のことだった。ぼくはノートを取りだし、「記録」を行っていた。太陽はすでに最高到達点を過ぎていたが、それでも気温が冷めはじめるにはまだ時間が早かった。
そのとき、背後からの声が分厚い熱気を押しのけた。
「Y野?」
振りむくと、そこには去年同じクラスだった男子生徒が立っていた。後ろには同じ部活のチームメイトらしき人たちがいる。
「お前、何してんの?」
ぼくは彼から自分のノートへと視線を移した。そして、すこし考えたあと、
『記録してるんだ。先生に頼まれて』
とノートに書き、彼に見せた。
すると彼は、片側の口角をすこし歪ませ、ふーん、とも、はーん、ともつかない、曖昧な発音の返事をしてから、後ろを向いてどこかへ行ってしまった。ぼくは「記録」づくりを再開した。遠くでなにかが焦げるように、じりじりと蝉が鳴いていた。それはほんの耳もとで囁いているようにも、本当は鳴いていないかのようにも聴こえた。
ぼくは不思議と止まってしまったシャープペンシルの尖端を眺めながら、この感覚をどこかで知っているような気がした。ぼくは今胸のなかにひろがる感覚、水に一滴の青い絵の具をぽたりと垂らしたときのような区切られた感覚を、どこで触れたのだったか思い出そうとしていた。まるでそれが自分にとってとても重要な記憶でもあるかのように。
それで、ぼくは校舎の白い壁紙がすこしずつ黄みを帯びていっていることに気づかなかった。ある別の声が投げかけられるまで。
「Y野君」
シャープペンシルの芯はノートの上で不可解な紋様を描いていた。ぼくは硬直した手を解くようにしながら声の方を見た。そこには、あの二つの黒曜石がくっきりと浮かんでいた。
「何をしているの?」
彼女はまた、分からない情念を浮かべた二つの夜闇でぼくを見ていた。しかしその色合いはどうやら数日前とは別種のものらしいという印象がぼくの考えを支配した。そこに湿潤した森林はなく、濃い霧にも包まれてはいない。彼女はただ立って、ぼくをみつめているのだった――その眼はあの日とおなじ眼だった。プールから更衣室に戻るとロッカーのなかにぼくの下着は無かった。更衣室を出ると女子更衣室の前に広げられた下着はぼくのものだった。女子たちはその周りを円を描くように避けていった。ぼくは下着をひらって更衣室に戻った。放課後、彼女は机を持ったまま停止していた。ぼくが箒を止めて彼女を見ていると、彼女はぼくを見つめ、さまざまな言葉を飲み込んだ声で「あなたが羨ましい」と言った――ぼくはぼくのなかに充たされていく彼女の眼の、その瞼をひとつずつ閉じさせていった。そうとしか言いようのない感覚がそのときぼくの全身だった。
そしてぼくは彼女にノートを見せた。
『記録してるんだ。先生に頼まれて』
そのとき、彼女が傷ついた表情をしたように見えた。気のせいかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます