2 地底湖
混声二部合唱の真っ白な響きが、うっすらと渡り廊下に迷いこんでいた。それは理科準備室の奥にしまいこまれた半透明な肉厚の鉱物ごしにみる文字のように、距離によってぼかされていた。ぼくは職員室を出たあしで昼休みの教室へと戻るところだった。ぼくの両肩にはまだ冷気のかけらが乗せられていて、それも角砂糖のように溶けつつあった。
ぼくはここ最近頼まれていた「記録」を先生に提出しにいったところだった。それはごく明解かつ曖昧な指示で、以下のような内容だった。
正面玄関に活けられている大きな生体造花の水をまいにち替えるのと併せて、その「記録」をとってほしい。
どのように「記録」をとればよいのか。それはいつすべきなのか。いつまですべきなのか。ぼくは先生の口許をみつめてじっとしていた。すると先生は微笑って、ではよろしく、と言った。先生は自分の仕事に戻り、その場にはクーラーの冷徹な駆動音と、どこか遠くで風鈴のように鳴っている合唱部のルフランだけが残った。
先生は長い黒髪を耳にかけた。指さきに重たい艶やかさを滑らせていくその仕草は、「ではよろしく」の「では」に微量含まれる断絶のニュアンスを強調し、厳命するもののようにしかぼくにはみえなかった。指示は、以上である―——ぼくはすこし頭を下げてから職員室を出たのだった。それが二週間ほど前の出来事だった。
その日の翌日、ぼくはさっそく「記録」づくりに取りかかることにした。放課後の校舎は新鮮な匂いの染みだす清潔な無秩序だ。正面玄関へと向かうぼくのすぐ側を、見たことのある顔がすり抜けてはそれぞれの運動を目指している。課せられた手足の、課せられた頭脳の、課せられた感覚の、課せられた眼の運動を目指し、早足で過ぎ去っていく。
そして巨人が大口を開けたような正面玄関に辿りつく。その抽象的な口腔の奥では、複眼のように重なりあった無数の青い花びらが静かにこちらへと投げかけられている。その視線は、時折ここを通りがかって目が合うたびに、ぼくの神経をすこしだけ冷たくするのだった。でもこうして近くで見てみると、それはたんに息をのむほど美しい花だった。そこになんら怖ろしさはなく、その青の鮮やかさは、あくまで理解の範疇だった。
ぼくはまず水を替えた。やりかたは、その日の昼休みに図書室で調べていた。生体造花の特徴的な形状の花瓶は特別製で、持ち上げることはしない。そもそも重いので水道のある場所まで持って行くことはできない。それぞれに指定の水の量があり、ぼくはその分だけジョウロを軽くした。受け皿にたまった汚れた水は綺麗な布にしみこませ、抜き取った。
それから、学生鞄の中からノートを取り出した。罫線にはあらかじめラインを引いて表を作ってある。ただし、項目は白紙のままだった。なぜなら、何を「記録」するのかはまだ決めていなかったからだ。ぼくはこの放課後を、それを決めるための時間にするつもりだった。
ぼくは腰を据え、じっくりと観察してみることにした。ぼくはものを考えるとき、考えているものを目の前に置かなければ、それが難しかった。たとえそれが形のないものでも、何かをそれに見立てて、目の前に置くことで、はじめてそれについて考えることができた。
今ぼくの目の前には葉脈がある。覗きこむと、透き通った緑の地図には沢山の区画が描き込まれている。ぼくはそのひとつを選んでそこに立ってみることにした。降り立つと、透き通った緑の地表は思ったよりも靴の裏に弾力がない。見渡せばあたりには間欠泉のような孔がいくつも空いている。ものによってはそこから長いアンテナが空へと直立している。ぼくは右のてのひらでアンテナに触れた。つるつるもザラザラもしていなければ、温かくも冷たくもない。見上げると、緩やかなカーブを描きながら伸びている。まるで適温の惑星だった。おそらくアンテナの生えない孔から吹き出してくる涼しい風が地表に充ちているからだ。ぼくは肺胞の末端の末端にまで届かせるように、深く息を吸いこんだ。爽やかな、人工的な空気だった。
そして、通り過ぎる足音のなかにゆっくりと吐きだした。靴裏は校舎の床の硬い主張を受け取っている。そうやって区画ごとに観察を繰り返しながら、ノートの表に項目を書き込んだ。いくつかの興味深い点を見つけたことを喜びながら。
満足のいくまで書き終わったあと、ぼくは花自体について考えることにした。そしてあることに気がついた。ぼくは今まで、この学校のひとつの象徴ともみえるこの花の名前を知らなかったのだ。
生体造花はその製作者によって名前が付けられる。その名は、一枚だけ存在を許された無機物の葉に刻まれる。唯一質感の違う葉を目で探りあて、ぼくは凹んだ金刺繍のような文字を心の中で読みあげた。そこにはこうあった。
(――『地底湖』)
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