鋼鉄の思春期
ペチカ
1 プラスチックの夢
性的な夢を見るときだけ、ぼくの身体はどこにも存在しなくなった。ベッドシーツはぼくの形に凹んだ影を遺した。ぼくの肉体は基本的に無味無臭で、清潔で、燃えない。土に埋められてもほとんど永久に還らない。そういうふうに出来ていた。
教室はすでにがらんとしていた。授業は滞りなく終わり、カーテンに希釈された半透明な水たまりが床全体に散らばっていた。机はすべて無気力に教室の後ろに押しやられていた。
ぼくは箒を細かく動かして埃を纏めるのが好きだった。それはぼくの機能的にみても、ぼくに合った作業だった。
「——箒、終わった? 机、戻したいんだけど」
背後からの声にぼくは振り向いた。彼女の硬質な瞳が静かにぼくをとらえていた。それは夜闇をくるむ磨き抜かれた窓ガラスで、まるで潤んでいるようにさえ見えた。ぼくは頷き、火星の知らない山脈のように細く連なった埃をちりとりにあつめた。
「いそいで。部活行かないとだから」
彼女は机を運びながら言った。それでもその声はあまり乱れなかった。彼女はいつも機械的なリズムで文節がゆるく接合された話し方をした。それは彼女が棒高跳びをするとき、背面跳びの姿勢が空間のある一点で静止して見えるときの硬質な浮遊感だった。きびしく澄み渡った空気が、常に彼女の全身をやわらかく包みこんでいた。彼女はそういう設計だった。ぼくとはほとんど真逆だった。
別れるとき、彼女は言った。
「最近、今くらいの時間、職員室のあたりにいるでしょう。何してるの」
ぼくは頭を巡らした。しかし言葉は凝結する気配もなく、霧散しつづけた。そうした濃霧が頭のなかにすっかり充ちていき、その灰色に湿潤した森林に、彼女の双眸だけがくっきりと浮かんでいた。
彼女は、その目になにがしかの情念を浮かべたあと、
「——まあいいわ。さよなら」
そう言い残し、去っていった。
校門を出ると、浅い山影が街向こうに濃緑の輪郭を縁どっていた。その空の汽水域には午後の馴染んだ色が流れこみ、薄められていた。ぼくはフェンス越しの校庭を渇いた目で眺めた。陸上部が各種目、躍動する影を白いひなたに残しながら駆け抜けていた。その中に、きわだって鮮やかに冴えたひとつの慣性がある。
それは地面から極度にゆっくりと遊離し、一本の太いまち針になる。そして空間に重力を刺しとおす。彼女はぴたりと静止する。
しかし、彼女の背中が棒に触れる。鈍い音が発つ。刹那、彼女は彼女に戻ってしまう。引き抜かれた重力の腕は彼女をしたたかに打ちつける。雪のように白いマットが優しく彼女を沈ませる。そこで彼女はいちど死ぬ。
ぼくは夢想した。彼女のふたつの黒曜石の
ぼくはベッドに入る。ぼくはときどき夢をみた。それは大別して三種類の夢だった。記憶が選別される時のとりとめのない夢、窓のない白い部屋の夢、そして、彼女が空で、完全に静止する夢。
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