第3話 黒獣と少女
数日歩いて“森”に入る。
深い森を抜けた先に、俺が長く暮らした集落がある。
まるで浮世を避けるかのように人里離れた、静かな村だった。
森は真昼でさえ陽の光がまばらであるものの、不安はない。
今は「
神話生物や災厄の魔物たちのいなくなった、穏やかな時代なのだ。
今でも瘴気の濃い場所や負の魔力が沈殿した地域などには凶悪な魔物が出現していて、だからこそ冒険者稼業などが成立している。
けれどこの地域でそんな話は聞かないし、獣こそ棲んでいても魔物の姿を見たことはない。
だからこそ背筋に悪寒が走った時、信じられない思いだった。
森が揺れ、鳥が飛びたち、小動物が地面をかけた。
続く轟音が心臓を震わせる。
見上げると、厚い雲が空を暗く覆っている。
「……
考える前に剣を抜いた。
地面は揺れ続けて、一定間隔で巨大な
樹がへし折れ倒れる。
土が削られ煙が巻き起こる。
逃げ遅れた動物たちが踏み潰され骨がきしみ血肉が飛び散る。
「──」
獣のものではなく、かといって人のものとも違う、けれど確かに何かが聞こえる。
「何が起こってる……!?」
言葉に出して落ちつこうとする。
確かなのは危機が迫っているということだけ。
剣を握りしめて、呼吸を整える。
──来る。
全身が黒い
四肢の先の鋭い灰色の爪と、頭部らしき三角形の塊の上に光る赤い瞳だけが、やけにはっきり映る。
全身から立ち上る威圧感は、一目で俺に不可能を理解させた。
これは化物。
人知を超えた“
けれど俺の眼は獣の口元に吸い寄せられていた。
一瞬の判断が死につながるのに、目を奪われた。
「──人?」
獣の鋭い牙の間に、小さな人が挟まっていた。
細い腕がだらりと垂れ、長い髪がまとわりついていて。
隙間からのぞく表情は、幼い少女のもの。
「──!」
腰を落とし、獣に向かって行くまでの瞬間が頭から消し飛ぶ。
獣の方でも予想していなかったのだろう。
一瞬の硬直の隙をついて、俺は獣の頭部下に滑りこんでいた。
「“
技を放った瞬間、腕と頬に血が散る。
宙に舞う剣は獣の顎骨を切り裂いた。
不意をうたれた獣がわずかに後ずさり頭を振る。
口を閉じることができず、牙の間に挟まっていた少女が地面に落ちる。
素早く彼女を抱きとめると、俺は一切ためらわず獣に背を向けて走りだした。
一撃はまぐれ、戦闘態勢に入る前の獣に奇襲が成功しただけ。
立ちむかえば死ぬ、その確信がある。
あれは俺程度の剣士でどうにかなる相手じゃない。
たとえ精霊契約していたところで敵うかどうか。
なんであんな獣がこの森にいる?
深い深い地の底、地獄の門前がお似合いだろうに。
どうして“無風”の地上に現われた?
おかしい、何かがおかしい。
「ん……」
小さな声に手元を見て、ぎょっとする。
少女は布きれ一枚まとっていなかった。
白く美しい肌に、獣から受けたものか血が滴っていて、黒い瘴気の浸食も見られた。
「大丈夫か」
裸の少女に見とれている暇はない。
銀に輝く髪に隠れた、幼い顔に声をかける。
意識が曖昧なのか、少女はわずかに首を傾けて、言葉を発しようと口を開ける。
少女の尖った歯が目に入ったけれど、何を考える余裕もなかった。
獣の咆哮が背後に響いた。
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