死人

結津

死人

 そうだ、殺そう。

 そんな考えが頭をよぎって、俺はむくりと起き上がった。それは唐突に浮かんだアイデアのような気もするし、ずっと頭の片隅にあった古びた計画のような気もする。馬鹿げているとは思わなかった。今この瞬間、俺が殺すことはいたって当然で、殺さない方が不自然なのだ。

 道具が必要だ。暗い中、睡眠薬と煙草の箱を蹴散らして、台所へ向かう。小さな四畳半の一室では、寝床から台所まで、たったの五歩しか必要なかった。台所といっても簡素な流し台が備え付けてあるで、調理器具はほとんどない。かろうじて、引き出しに安物の包丁が見つかった。鞄がなかったので、そのまま手に持って部屋を出る。

 アパートの階段を降りると、外は地面が見えないほど真っ暗だった。深夜らしい。空には、満月には少し足りない歪な形の月と、まばらな明るさの星々が浮かんでいる。俺は街灯のない田舎道を、夜空の明かりだけを頼りに歩きだした。

 しばらく歩いてみても、誰とも出会わない。人どころか、車すら通らない。耳を澄まして聞こえてくるのは、虫の音と用水路を流れる水の音だけ。人の立てる音が一切ない。住宅街からはもうすっかり離れ、いつのまにか開けた田んぼ道になっていた。

「あの」

 男の声がして振り返る。死人が立っていた。なんだ死人か、と思って再び前を向くと、今度はふっと目の前に現れた。

「あの」

「……なんです?」

「私を殺してくださいませんか?」

 辺りは何も見えない暗闇だというのに、なぜだか死人の姿ははっきりと浮かび上がって見えた。平均的な身長に対し、ずいぶんと痩せこけている。色あせた服を着ていて、髪は伸び放題。生気のない濁った目が俺を見ていた。

「……あなたは生きているんですか?」

「ええ。だから困っているのです」

 どうやら死人は生きているらしかった。震える手で、俺が持っている包丁を指差す。

「探しているのでしょう? 殺してください。でも、突然刺してほしのです。今から殺しますと言われて刺されるのは怖いですからね」

「ずいぶんと厚かましいお願いですね」

「あなたが快楽殺人鬼ではないのなら、私の望みを叶えてください」

 死人は俺の目をじっと見つめ、冷静に言う。俺が歩き出すと、死人は黙ってその隣を歩き始めた。静かな時間が流れる。しばらく進んだところで、俺は死人に尋ねた。

「……あなたはなぜ死にたいのです?」

「死ぬのに理由がいりますか?」

「そりゃ同情されるような理由がないと許されませんよ」

 死人は少し考えるそぶりをみせた。

「生きる意味がないからです」

「なぜ?」

「なぜ……まるで、私だけに生きる意味がないような言い方ですね。私が言っているのは人類……さしずめ世界や宇宙の話ですよ。生命の存在に何か意味を見出した人間が、これまでに一人としていましたか? ああいえ、もしあなたが何か生きる意味をお持ちならそれはとても幸せなことですがね、でも多くの人たちはきっと、生きる意味がないということにすら気づかずに生きていますよ。あるいはそういったことをまるで考えない。極地に至った人は、生きる意味を探すために生きるだなんて、まるで本末転倒なことをおっしゃいますが、そこまでして自分を奮い立たせて生きながらえる意味は、私にはとんと見当がつきませんね」

 あまりにも饒舌に語りだしたものだから、俺は思わず吹き出す。死んでいるも同然な様相をした男に、生きているとは何かを諭されるとは思わなかった。肩を震わせて笑っていると、死人が心底不思議そうに首を傾げる。

「何を笑っているのです?」

「いえ、そうお喋りだとは思わなかったんですよ。しかし、ねえ。それは生きる理由がないという話であって、死ぬ理由ではない。死を妄想する者の正当化の言葉ですよ。それに一体どうして、わかりきったこの世の理を、さも自分が初めて見つけたような口振りで話すことができるんです? 自惚れないでください。あなたと同じことを考えている人間なんてごまんといますよ! それすら理解できずに死のうとしているなら、俺はあなたを殺すつもりはない。さようなら」

 言い放って、死人に背を向ける。すっかり殺す気が失せた。俺はあんな偉そうな奴を殺したかったわけではないのだ。突然現れては持論を語り、挙げ句の果て自らをすべてを理解した人間として祭り上げる。これ以上の傲慢がどこにあろうか。身の程を知れ。全く、ひどい夜だ。わかりきったことを他人の口から聞かされることが、こんなにも苦痛だったとは。怒りか、苛立ちか、それに近い感情がふつふつと湧き起こる。こんなことになるなら部屋から出るんじゃなかった。

 体を前に傾けて、大股で歩く。終いにはほとんど走るようにして来た道を引き返し、自宅へ戻った。アパートの階段を駆け上がり、建て付けの悪い自室のドアを乱暴に閉める。バタンという音を最後に、辺りはひっそりと静まり返った。十秒、二十秒と待っても、死人が追いかけきているような気配はなく、俺はほっと胸を撫で下ろす。いつのまにか息が上がっていた。

 部屋に上がろうとすると、死人が立っていた。

「うわあ!?」

 驚き、そしてじわじわと恐怖が込み上げてくる。俺は閉めたばかりのドアをもう一度開けて、勢いよく外に飛び出した。振り返る余裕などない。転がるように階段を降り、アパートを出る。さっき進んだ方向とは逆の道を走った。ひたすらに走った。怖い。今まで、これほどの恐怖を感じたことはなかった。逃げても逃げてもついてくる、振り払うことのできない恐ろしさ。怒りなどとうに消えた。すぐ後ろに死人が迫っているのではないか、振り向いた瞬間に、何か恐ろしいものを見てしまうのではないか。全身の毛が逆立つような恐怖に支配される。

「あの」

 耳のすぐ横で声がする。死人がこちらを見ていた。

 自分が叫び声をあげたのかもわからない。気づいた時には、冷たい地面に尻もちをついて倒れていた。心臓がぐるんと一回転したような、体中の血が全て頭に上ったような、そんな感覚を覚える。包丁が地面に転がるカランという音で、我に返った。一気に血が全身を巡りだし、心臓の音が鳴り響く。死人が俺を見下ろしていた。

「なぜ驚くのです?」

 答えられない。顎ががくがくと震え、言葉を発することができない。

「なぜ驚くのです? あなた、初めに私を見た時は、全く驚かなかったじゃありませんか」

 死人が音もなく近づいてくる。足は地面を踏み締めているのに、音が鳴らない。その顔には、到底生きている者ではない表情が浮かんでいた。いや、表情はなかった。無表情ですらない、本当に表情がないのだ。別々の場所から、眉と、目と、鼻と、口と、それぞれ持ってきて切り貼りしたような調和の無さ。ハリボテだった。こいつはやはり、生きてなんかいない。死人だ。

「答えてください。なぜ驚くのです?」

「驚いているんじゃない……怖がっているんだ」

 絞り出した声は、か細く、掠れていて、独り言のようだった。

「ああ、なるほど。私から逃げられないと悟ったのですね」

「お前は誰だ? いや、何だ? 人ではないな?」

「私は人です。人間です。一人の立派な、とは言えませんが、それでも人間です。だから殺してほしいと言っているのです」

「嘘だ! お前は生きてなんかいない!」

「……もしそうだったら、どれほど素晴らしいことでしょうね」

 淡々とした死人の声に、少しだけ悲しさを感じる。俺ははっとした。どこからか、死人の辛さや絶望や焦りが、体の中に染み込んでくる。無機質な粘土細工のようだった顔が、よく見たことのある、人間らしい表情になった。濁った目に命を感じる。

 なんて可哀想に。この人は、生きながら死んだのだ。絶え間ない苦しみの感情によって、殺されている最中なのだ。終わりのない責め苦のために、希望を失った人間だ。さきほどとは別の恐怖が込み上げてくる。一体、この人はどれほどの十字架を背負っているのだ。どうしてまだ生きていられるのだ。

「……私は、ずっと前からあなたのことを知っているんですよ。あなたがいつか、誰かを殺そうと思い立って、こうして外に出てくるのを、ずっと待っていたんです。今晩あなたが殺すのが自然なように、今晩私が殺されるのもまた自然なことなのです。殺してください」

「だめだ。俺は今、お前に同情してしまった。同情では殺せない」

「同情でもいいじゃないですか。殺すのに理由がいりますか?」

「それにしても同情はいけないだろう。同情はだめ、同情ではだめなのだ!」

「何をそんなに怒っていらっしゃるんです? あなたは私を殺す、私はあなたに殺される、それで十分でしょう。それとも、殺すのが怖くなったのですか? 適当な理由をつけて偽善者ぶって、あなたも結局は殺さないおつもりなんですか?」

「偽善者だって?」

 体を起こす。アスファルトの地面であぐらをかいた。その一言で死人への恐怖が消え去り、途端に苛立ちが湧いてくる。

「ええ、だって殺さないのでしょう?」

「お前は何もわかっちゃいないな。偽善者だって? まさか、お前はこの世界に絶対的な善があるとでも思っているのか? お前にとっての善が隣人からすれば悪であるという可能性を、少しでも考えたことがあるか? 俺が偽善の心からお前を殺さないと、そう本気で考えているのか? ふざけるな。そもそも、この話に善やら悪やらを持ち出すこと自体間違っている。殺すか殺さないかは、俺の気持ちだ。倫理観なんか知ったこっちゃない。なあ、そうだろう? 今この場にはお前と俺しかいないんだ。いいか悪いかなんて、死んだあとはもうどうでもいいんだよ。今さら考えさせないでくれ。もう決めたことだ。俺は殺すんだから。殺さなくちゃならいんだから……」

 呼吸が荒くなる。酸素が足りない。吸っても吸っても、血が巡らない。視界が白くなり、頭が重くなる。膝に肘をついて、額を支えた。気持ち悪い。息ができている感覚がない。形ばかりの呼吸だ。死人が静かに俺を見下ろす。

「よくわかりましたよ、あなたは臆病なんですね。わずかばかりのよい心に惑わされて、殺す覚悟が揺らいでいる。二人で並んで歩いていた時、あなたは私を嫌悪してひどく貶しましたけど、それというのも実は、あなたが私と全く同じことを考えていたからではありませんか? あなたもきっと、生きる意味がないことに気づいてしまったのでしょう? 自分の特権のように思っていた頭の中身を他人に得意げに話されるというのは、心地良く感じる時もあるにはあるでしょうが、時として非常に気分の悪いものですからね。端的に表すなら『図星』というやつです。私が死を妄想する者ならば、あなたは殺しを妄想するもの。似た者同士仲良くやりましょうよ。さあ、座りこんでいないで、はやく私を殺してください」

 死人がそばに落ちていた包丁を拾い上げ、柄を向けて俺に差し出した。刃の部分を掴んでいるというのに、死人は顔色一つ変えない。血が滴ることもなかった。

「……お前は、俺のことをずっと前から知っていると言ったな。いつからだ?」

「本当にずっとですよ。あなたがどうやら殺してくれるらしいと知った、その時からです」

「俺は昔から殺すつもりだったのか?」

「ええ。何度も何度も、殺そうと試みては、すんでのところでやめてきたじゃないですか。あなたが殺すのをやめるから、私は今の今まで生きてしまっているんですよ。でも今回はきっと殺してくださると、そう信じています。さあ、はやく手に取ってください。あなたの気が変わらないうちに」

 突き出された柄をぼうっと眺める。俺は死人に従う気になれないでいた。本当に俺は殺すべきなのか? 殺さない方法があるんじゃないか? 数十分前には揺らぎなかった確固たる意志に、疑念が忍び寄る。

「なぜお前は死にたい?」

「理由など些細なことです。そこに死にたいという気持ちがあるから、死にたいのです。あなたは感情を論理的に説明できるとでもいうのですか?」

「違う。俺は死にたいという気持ちに至った原因について聞いているのだ」

「原因を聞いて何になるというんですか!」

 初めて、死人が声を荒げた。

「私が悲惨な経験をしていれば、潔く殺してくれるんですか? 安らかに眠れ、と声をかけて? ではあまりにもつまらない原因だったら、あるいは原因などないと言ったら、あなたはどうするんです? なんだ、そんなことかと呆れるんですか? 私に生きろと言うんですか? 早まるな、生きていればいいことがある、と励ますつもりですか? 悲しむ人がいるんだぞ、と心に訴えかけるんですか? では悲しむ人がたったの一人もいなければ、その人は殺されたって死んだって構わないというわけですか? 一体どうなんです? どんな言葉をかけられたって、私の感じることは変わりませんよ。根本的な解決をしなけば変わらないんです。そのためには、死ぬしかないんです。私が私である限り、何も変わらないのです。本当に、お願いですから、わかってください。あなただけが、私の唯一の頼みの綱なのです」

 死人は興奮気味に捲し立てた。悲痛な叫びだった。

「お前が生きる道はないのか」

「ありません。いや、本当は、明日になれば少しは気が変わるのかもしれません。でも、また死にたいと思うのは嫌なのですよ。じっと時が過ぎ去るのを待つことしかできない。ああ、いつもそうだ。あなたはいつもそうやって殺すのをやめる。『それなら明日まで待ってみよう』と言って。拷問じゃないんですよ! 我々は何の疑いもなく、生きることは正しいことだと信じ込んでいますが、そんなもの、動物的本能に後付けで正否を書き加えたに過ぎません。一種の洗脳であり、感情論が先走った教育です。いいですか、私は今、あなたと私のことについて話しているんです。他の事例なんてどうでもいいんです。他人がどう考えるかなんてどうでもいいんです。私とあなたの感情のぶつかりあい、そこに正しいも間違っているもありません。それなのに、どうして、あなたは引き止めるのですか。何が不満ですか。いいか悪いかなんて、死んだあとには関係ないのでしょう? それとも、ああ、あなたも! 私が悪いというんですか! 全部お前のせいだって! 誰も私になることができないから、そんな口をきけるんですよ! もし、私の苦しみを他人が味わうことができて、他人があまりの苦痛に耐えかねて死に向かうほどになったとしたら、そうしたら、私はようやく許されるんですかね。ようやく……」

 死人は泣きそうな表情になって、でも涙を流すことはなかった。泣くのを堪えているのではなく、きっと、もう流すほどの涙もないのだ。

 哀れだと思った。哀れで、気に食わない。やはり死人は傲慢だった。自分を被害者だと信じてやまない。自分だけが被害者だと思っている。

 俺は差し出された包丁を握った。頭を振ってむくりと立ち上がる。

 そうだ、殺そう。

 こんなやつ、死んだって誰も構わないだろう。誰にも見向きされないのだから。本人が望んでいるのだから。何も怖いことはない。俺は至極当然な行いをするのだ。それが正義か悪かなど知らない。誰かが勝手に判断すればいい。正義が常に正しいとは限らないのだ。

「お前、名前はなんだ?」

「あなたがこの世で最も嫌っている人間の名前と同じです」

「上出来だ」

 闇の中、月明かりを受けて刃がきらりと輝く。俺は抱きつくようにして、力いっぱいに死人の胸を刺した。強烈な痛みが走り、立っていられなくて、俺はばたんと倒れる。死人もまた、その隣で倒れた。まるで鏡のようだった。平均的な身長に対し、ずいぶんと痩せこけている。色あせた服とズボンを着ていて、髪は伸び放題。俺と全く同じ姿形をした人間が、俺を見ている。

 死人とは、俺のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死人 結津 @yuizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ