クズの道と新旧の想い編 エピローグ
1話
日付の上では晩餐会が行われた翌日、ほのかに白む明け方のことだった。
「――よっと。――お、空は綺麗に雲が去ったな。昨夜の雨のせいで足場はぐちゃぐちゃだが」
暗い地下道から身を乗り出した途端、澄明な世界に吸い込まれた。
少しずつ登っていく朝陽と雲が創り出す空のグラデーション。雄大に佇む大きな岩。夜に降った大雨と朝露に濡れ、陽光をキラキラ反射し風に靡く草花。まるで絵画のように美しい光景だ。
そんな美しい地にある小高い丘の上に、突如としてクズが姿を現した。
幼き頃、アナとともに城を抜け出した倉庫からの抜け道。
いまだ残っていた懐かしい抜け道を使い、クズは城外へと出ていた。
「綺麗だな……何も、変わらない。アナ……ここで、よく遊んだよな」
新鮮で爽やかな空気を力一杯吸い込む。
穏やかな波の音。海の存在を嗅覚から主張する潮風。
水平線からは朝日が徐々に顔を覗かせ、辺りの美しさを際立たせている。
この場所に来ると、より一層思い出す。
お腹をぐぅと鳴らしたアナのために木からリンゴを採り、二人だけで食べた思い出。
「このリンゴの木、まだ在ったのか。……木は変わらなくていいな……。俺は、こんなにも萎れてるのに」
クズにとって真に懐かしい原風景は王城ではない。
この丘と、当時と変わらず真っ直ぐ伸びるリンゴの木であった。
いつになく穏やかな面持ちでクズがリンゴの木に近づくと――。
「――……ぇ」
人の姿らしきものが見えた瞬間、クズは痺れるように動きを――呼吸を止めた。
同時に激しい胸の鼓動が、脈うつ血潮がドクドク音を立てて全身へ巡った。
リンゴの木に隠れるように――銀色の髪を靡かせた女性が立っていた。
僅かに照らす朝日が、彼女の輪郭をクズの網膜に映し出す。
忘れるはずもない、潮風に靡く美しく長い――幻想的な銀髪。白絹のような肌をした細い肩。
その姿は――。
「アナ……?」
そう、今は亡きアレクサンドラ・ベルティーナ・アナント王女。
通称――アナの姿だった。
神々しいまでの美しさは、当時のまま何も変わらない。
「はは……っ。俺も遂にクズからスクラップになったか。精霊どころか幽霊が実体化して見えるとか……・嗤うしかねぇ」
自嘲して嗤い、涙が滲んで視界をぼやけさせようとも――クズの視線はアナから全く離れることは無かった。
例え光が作り出した一時の幻影だったとしても、それでも一瞬たりとも目線を離したくは無かった。
やがて幻想のように美しい女性は濡れる丘の草々を強く蹴り――クズに駆け寄って来る。
濡れた草々はよく滑る上に、大地は泥濘んでいる。
途中、何度か体勢を崩し転びかけながらも――クズの胸に強く飛び込んだ。
実態がともなう幻想?
――いや、そんなことはあり得ない。
「――本当に、アナ……なのか?」
そこまで来て、ようやくクズは自分の胸に額を強く擦りつける女性の名前を確認した。
女性は――アナは鼻を啜りながら、何度も何度も強く頷いた。
アナがあまりにも強く身を擦りつけるものだから、クズは自分がアナを吸い込んでいるような――吸い込んでしまいたい、そう願うような感覚に陥る。
自分でも訳が分からない胸の苦しみに襲われた。
寂しさとも、嬉しさとも、なんとも形容しがたい。
――ただ、全身に波及して染み渡るとても心地良い胸の苦しみだった。
「――……アナっ!」
なぜ生きていたのか。
今までどこに居たのか。
そんな些末な事――今はどうでも良い。
痺れて震える腕を脳に無理矢理動かさせて、クズはアナを強く抱きしめた。
最愛の想い人を、強く体内に入れて逃がしたくない。
それ程までに強く、強く抱き寄せた。
「アナ、会いたかった……! すまない。本当に、すまない! 俺が、俺が約束を裏切ったばかりに! あの時、義妹達の安全も何もかも失ってでも……ッ。それでも駆け付ける覚悟を持てる程、勇気がなくて……本当に、ごめんッ。――ぐっ……ぅ……うっ」
「クラウス。泣いていいんだよ? 私の前では、泣いていいんだよ」
「アナ……ッ。すまない、アナ……ッ! うぅ……あぁ……ぁあッ!」
「クラウス……昔から泣き虫さんだったよね。変わってないね。だから、私も、少し……泣くね?――会いたかった。ずっと、ずっと……っ。ぅ……ぁあ……クラウス、クラウスぅ……」
二度と会えないと思っていた。
三年ぶりに感じる温もり。
二人は強く抱きしめ合いながら、互いに嗚咽をあげながら泣き続けた。
身体に沈殿していた寂しさや、辛さを全て涙として排出するように。
悲しみが枯れ果てるまで、ずっと。
――何分ほどそうしていただろうか。
どちらともなく抱擁を緩め、お互いの顔を見つめた。
三年ぶりに見るアナの顔は粉雪のように白く、不純物など一切無いのではと言うほど美しかった。
泣きはらした瞼が赤くなっているのが、また男の庇護欲をそそった。
「アナ……どうやって、どこで生きていたんだ……ですか? アレクサンドラ王女は、なんで俺がここにいるってわかったんです?」
少し落ち着いてくると、疑問が堰を切ったように湧き出てくる。
「――クラウスの唐変木。それと、もう私は王女じゃ無い。敬語は禁止」
アナは懐からごそごそと何かを取り出すと、クズに手渡した。
「黒毛のかつら……?」
「ウィッグって言うの。この格好とそのウィッグでわかる?」
アナの来ているメイド服と、見覚えのある艶やかで長い黒髪に、クズは思い当たる節があった。
「昨夜のメイドは、もしかして……っ!?」
「そう、私」
抗議するかのように胸に額を押し当て、トンっと力なく一度叩く。
「いや、あれだけ顔全体を覆っていたら無理だろう……。体つきだって……」
最後に会ったのは十四歳の時。
それから三年経過したアナの体つきは、当時と様変わりしていた。
上から下までじっくり確認するように見る。
身長もモデルのようにスラッと伸びていて、服越しに見る胸部も――。
「――いや、これは気付かない俺が悪いな」
「ちょっと待って。今どこ見て言ったのかな?」
「おっぱい。いや、胸板……か?」
「えっち。殴られる準備はいいよね?」
抗議しながらも、アナはふふっと儚く美しい笑みを浮かべた。
「私は着痩せするタイプ。というより、伯爵の指示でサラシを巻いてるの。人の興味を惹いて目立たないようにって。だから顔も身体も隠してる。……ほんとうは、凄いよ?」
「……そうなのか。そう、だよな。うん、俺が悪かった」
「なんだか、すごく釈然としない反応」
「しかし、伯爵のメイドをしていたということは……」
「……そう。私が牢に囚われている所を、伯爵が奴隷にしたの」
「そう、だったのか……」
ひとまず命があったのは良かった。
だが奴隷になっていると言うことは、人としては既に死んでいるように扱われる。
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