第9話 濡羽色の玉

「帰りたい、心の底から。」


「ええ、もう帰りたい。」


「帰ろう、帰らないと、帰りたい。」


彼は先ほどからずっと同じことを言いながらそわそわしている。


子猫が母猫を見つけた時のようなぱやぱやとした動きに、私は可愛らしさと子どもっぽさを感じて微笑んだ。


「なーに、そんな落ち着かないで。どうしたの?」


母性本能丸出しで声をかけると、彼はこちらに顔を向けながら目を見つめた。


「…帰りたい、帰ろう?」


少し茶色掛かった光の入った瞳は綺麗に反射していた。


弱々しくそんな風に言われるのが弱いと知っているのにずるい男だと私は心を鬼にした。


「理由聞いとらんやないの。理由は?」


彼は少し拗ねたような口調で、そっぽを向いて話した。


「歌うの嫌い…。」


次の講義は、手遊び歌や童謡などを用いた幼児との関わり方を学ぶもので、楽譜や歌唱は避けられない。


教授も積極的な方で、8割くらいは学生側に答えさせるような進行だ。


「いいよ、当てられたら私が一緒に歌うから。私から言えば大丈夫でしょ。多分。」


彼は顔をまたこちらへ向けると、表情を変えた。


「ほんと?」


「うん、歌うの嫌いじゃないし良いよ。」


「なぎささん〜。」


彼はほっとしたような表情で、こちらに一歩近づいてきた。


「頼りになります、姉御。」


調子良くなるとすぐ可愛いことを言う彼もまた子どもと同じく可愛らしいと感じた。



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