第6話

 付き合ってくれませんか、と言われた後、完全に固まってしまった私に、鈴木くんは、返事は今じゃなくていい、と言ってそのまま違う路線へと姿を消した。

 私はしばらくその場に立ち尽くし、今、明日ではなく今、どうしても先生に会いたい、と思った。

 今から戻っても、学校はまだ開いているだろう。先生が残っているかどうかは賭けだけれど、なぜだか、まだいる気がした。

 持って帰るか迷って、荷物が重くなるし、次の日に持って帰ればいい、とロッカーに置いてきた数学の問題集の存在を思い出して、それを忘れ物だということにした。忘れ物を取りに行くために戻るだけだ。それから、次の模試のことで相談があるから、準備室に行くけれど、たまたま先生がいたらラッキーで、別にいなくても大丈夫、また話す機会はいくらでもある。

 言い訳をたくさん用意する私に、私は呆れる。衝動的に会いに行くということも、私にはできないらしい。

 頭の中で、誰にしているのかも分からないような言い訳を並べながら、足早にきた道を進む。門衛さんに、忘れ物をしてしまって、と曖昧に笑って、正当な理由で戻ってきたのだ、と呆れる自分を納得させる。

 ロッカーの問題集を鞄に入れた後、準備室へ向かう。

 ノックをして、ドアを開ける。

 どうぞ、と先生の声が、聞こえる。

「どうかしましたか。」

 模試のことで相談があって、と言うはずだった。

「恋は罪悪ですか。」

と、突然聞いてしまった。

 先生はいきなりの質問に少し驚いたようだったけれど、いつものように穏やかに、

「今日の授業で出てきたところですね。やはりあの場面は印象的でしたか。」

と、微笑んだ。

 その顔を見て、私の中で、糸が、ぷつん、と切れた。

 もうどうでもいい、変だって思われても、痛いって思われても、いい。

 本当は、忘れ物なんか取りにきたんじゃない。

 本当は、模試の相談なんかしにきたんじゃない。

「恋は罪悪ですか、先生。」

 アイロンのかかった綺麗な白いシャツ。グレーのネクタイ。

 私より一回り以上大きな手。

 靴箱の閉まらなさそうな足のサイズ。

「あれは、『先生と遺書』の内容と関係していて…。」

「『先生』じゃなくて。」

 言葉を遮ってしまう。

「先生は、どう思いますか。」

 恐る恐る、先生の目を見る。今にも雨が降りそうな、二つの目。そこに、泣きそうで必死な表情の私が映る。

「僕ですか?」

 いつもより困惑の滲む声色で、先生が尋ねる。

「はい。恋は、罪悪ですか。いけないことですか。」

 私は今、暴走している。どうかしている。でも。この人が。

「いいえ、恋をすると…新しい発見をし、人間的な成長ができる場合もあります。」

「それは先生のお考えですか。本当に、そう思っているんですか。使い古された一般論なんか、聞きたくありません。先生は、どう思うんですか。恋は罪悪だとは、思わないんですか。」

「…ええ、恋は罪悪ですよ。」

 ああ。

 どれだけ多くの時間を過ごそうとも、相手のことを完全に理解できる、なんてことはない。自分の見ているところだけを見て、見えない部分は見ようとしないか、想像もしない、あるいは理想を当てはめて妄想し、一緒にいたいと思う、それは罪だ。そういう感情を、恋と呼ぶならば、恋は間違いなく罪悪。エゴ。醜い、秘めるべき想い。この人の力になりたい、だとか、辛い時の支えになりたい、だとかは、嘘だ。逆だ。この人に力になってほしい、辛い時にそばにいてほしいと、自分が思っているのだ。

 私は、罪人だ。

「じゃあ、先生は、恋をしたことがないんですか。」

 薄々気づいていて、でも蓋をしていたのに。認めたくなくて、深追いしてしまう。

「あります。」

 やめて。そんな、遠い目をしないで。

「僕も罪人ですよ。」

 どうして目の前にいる私が、その目に映らない。どうしてそんなに心惹かれるような、悲しい笑顔をする。

 今きっと先生が抱えている気持ちは、一生私に向けられることはない。

 どうして、どうして、どうして。

 たまらなく泣きそうになる。どうしようもなく、私は目の前のこの人に、恋をしている。

 これから先の人生で、これ以上に、衝動的に行動することはないのだろうと、なぜか確信する。

「私も、罪人みたいです。」

 先生がこちらを向くけれど、耐え切れなくて、準備室を飛び出す。

 廊下に出ると、さっき鈴木くんと話していた時よりも、雨が強く降っていた。

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