第5話
「本日は、図書委員会主催のビブリオバトルにお越しくださり、誠にありがとうございます。本日、司会を担当させていただく、佐藤です。不慣れで、おき…お聞きぐる…お聞き苦しい点もあるかと…。うーん、やっぱりちょっと難しいよ。」
お聞き苦しい、の部分がどうしても言いづらい。
「大丈夫大丈夫、最初よりは言えるようになってる。」
開催の迫ったビブリオバトルで、私は司会を任されることになってしまった。なってしまった、という言い方は本当に正しい。というのも、委員会当番の後、日誌を先生に出しに行った時、司会を探しているのですが、と先生が言った。鈴木くんが私がいいんじゃないか、と言って、先生にどうですか、佐藤さんはどうしたいですか、と言われ、なんとなく断ることができなかった。
以前までの私なら、断っていたと思う。でも、少しでも先生が司会の人を探す負担を減らすことができたら、なんて、思ってしまったのだ。
かくして、鈴木くんと練習している。
「お聞き苦しい、は、お聞き、と、苦しい、とで分けようとしたら言いやすいよ。」
鈴木くんは、先生の前で、おれ練習付き合うし、と言った。
「一呼吸置くってこと?ちょっとやってみるね。」
先生は、なら安心ですね、と少し口角を上げて言った。
「いいじゃん、言えてる言えてる。」
それがどういう種類の微笑みだったのか、私にはわからなかった。ただ、少し胸が痛んだ。
「本番すごく緊張する。授業中以外で、あんまり人の前で話す機会ないし。」
「確かにな。佐藤ってそういうの緊張しそう。」
え、と言ってしまう。
「そういうイメージ、あるんだ。」
「うん。おとなしいじゃん。」
「まあ確かに自分から前に出るタイプではないけど…。」
鈴木くんは、なんで練習に付き合ってくれるんだろう。
「でも委員一緒になって、話せてよかった。」
え、と、今度は声にならなかった。
生ぬるい風が、カーテンを揺らしている。
窓の向こうには灰色の雲が広がっていて、雷の音が聞こえてくるような気がする。
「『君は恋をした事がありますか』私はないと答えた。『恋をしたくはありませんか』私は答えなかった。…」
夏目漱石は、明治末期から大正初期にかけて活躍し、言文一致を完成させた、近代日本文学の文豪の一人。代表作は、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」等。そして、「こころ」。
「…恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。
恋は、罪悪。
外に気を取られ、半分ほどしか傾けていなかった耳に、突然飛び込む。
恋は、罪悪。
「はい、そこまで。ありがとうございます。…」
アイロンのかかった綺麗な白いシャツに、グレーのネクタイ。
司会を引き受けた理由。
私が、図書委員を続けている理由。
現代文のある日、当番のある日に、前髪を丁寧に巻く理由。
日誌を渡しに行く時、爪が剥がれていないか確認する理由。
「恋は罪悪ですよ、解っていますか…。」
もう一度本文を読んだ先生と、目が合う。
いや、気のせいかもしれない。
雨の匂いのわかる人。
いつも綺麗なシャツを着ている人。
恋は、罪悪。
チャイムが鳴る。
号令。
礼、の後に、先生を見る。
目は、合わなかった。
「…お聞き苦しい点もあるかと…。」
鈴木くんが笑う。
「佐藤、もう言えるようになったじゃん。」
鈴木くんは、いつの間にか私を呼び捨てで呼ぶようになった。
「うん、練習付き合ってくれたおかげ。ありがとう。」
どうして、そんなに嬉しそうに笑うの。
「いや、全然。おれも原稿ちょっと相談乗ってもらったりしたし、こちらこそありがとう。」
初めて話した時と変わらない落ち着いた声が、最近ふわふわしているように感じる。気のせいだろうけれど。
「じゃあ今日はこの辺で帰るか。」
練習をする日は、一緒に帰っている。二人とも電車通学で、乗り換え駅が同じだ。
この前、お昼を食べる友達に少し冷やかされたことを思い出す。最近鈴木くんと仲良いね、と、含み笑いの疑問形で。
靴箱を抜け、グラウンドに出る。また、雷の音が聞こえる気がする。
「うわ、雨降りそうだな。」
「ね、降りそう…。家着くまで降らないといいけど…。」
並んで歩く。
「ビブリオバトル、いよいよだな。」
「そうだね。」
「一番最初の、アンケート?で書いた時は、まさか本当にやるとは思ってなかったんだよね、正直。」
ふ、と笑う。
「でもやることになって、準備で手こずることはあったけど、楽しかったな…まだ終わってないけど。」
私も笑う。
「本選びも原稿も、何回も修正してたもんね。」
「うん。佐藤がいてくれて、助かった。」
え、と、また声にならない。
「ありがとう。」
眼鏡の奥で、目がきゅ、となるのが見える。
「いや、こちらこそ…。私も司会頑張るね。…あ、乗り換え。」
電車を降りて、じゃあね、と別々の方向に歩き出そうとした時、
「佐藤。」
呼び止められ、振り向く。
「…あのさ、おれ…。」
鈴木くんは下を向いて、言葉を丁寧に丁寧に選んでいるように見えた。決して間違ってはいけない、解答権が一回しかないクイズで、慎重に答えを決めようとしているように。
「おれ、佐藤のこと、去年から知ってた。」
え、と、息を呑み込んでしまう。
「カウンターで、当番してて…。貸出とか、返却の手続きしてて…。おれ、一回聞いたんだ、佐藤に、おすすめの本、ありますか、って。」
思い出した。私、鈴木くんと、話したことがある。今年、図書委員で一緒になる前に。
「その時、すごい目きらきらさせて、本を紹介してくれたんだ。いつもはすごく大人しそうに見えてたのに、たくさん話してくれた。」
雷の音が聞こえる。雨音も。
「その時からずっと、もっと話したいと思ってたんだ。今年も図書委員やるかどうかは、賭けだったけど…。」
今日の授業がリフレインする。
「で、委員一緒になって、いっぱい話せて、嬉しかった。おれ、佐藤のこと好きなんだ。よかったらおれと、付き合ってくれませんか。」
恋は、罪悪ですよ。解っていますか。
先生の声が、頭の中で響いた。
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