第4話

 先生を初めて見た時のことは、あまり覚えていない。

 元々、本を読むのが好きだった。小説の中なら、私は何にでもなることができた。あるときは平凡な会社員になり、あるときは大恋愛をし、またあるときは人を殺した。読んでいる時だけは、自分から離れることができた。

 現実逃避、という人もいるだろう。でもそうやってなんとか生き延びていた私は、当然のように図書委員になった。

 多分、そこで初めて先生を見たのだと思うけれど、思い出そうとしても、私の記憶に初めて登場する先生は、桜の木と、雨の匂いと、数学のノートと一緒だ。

 制服のスカートを、二回折る。白いシャツの袖は三回。

 学校に行く日の朝は、いつも祈る。具体的に何を、と言われたら難しいけれど、祈るような気持ちで、スカートと袖を折り、ローファーを履く。

 ドアを開け、夜の暗さが嘘みたいな新しい朝の眩しさに目を細めて、スクールゾーンの文字を踏んだ。


 ビブリオバトルの参加者募集が締め切られた。教室の後ろの黒板に貼られたポスターを剥がす時、右手の親指の爪が割れているのに気がついた。

「佐藤さんいますか?」

 先生。突然廊下から聞こえてきたその声は、全く大きくなくても、す、と耳に入ってくる。

 クラスメイトが何か答えて、視界の端で先生がこちらに向かう。カクテルパーティー効果だっけ、と冷静になろうとするけど、心臓が鳴ってしまう。バレないように、そっと深呼吸をする。

 気配を本当に感じたあたりで、振り返る。

「先生。」

「佐藤さん、これ、添削しました。」

 私は、先生に模試を解き直したものを添削してもらっていた。この間、模試の話になった時に添削しましょうか、と言ってくれたのだ。

「ありがとうございます。あんまり手応えなかったんですけど…。」

「いえ、よく書けていましたよ。いくつか要素の抜けている問題もありましたが、しっかり点を取るところは取ることができていました。」

 褒められて、一瞬とても嬉しくなり、ふわふわするけど、だめだめ、と自分に言い聞かせる。

「ありがとうございます…。」

 いえ、と微笑む先生に、胸が苦しくなる。昨日切りすぎたわけでもない足の小指が、痛む気がする。

「そのポスター、もらっちゃいます。」

 先生は私より一回り以上大きい右手を差し出す。この手に触れることが、この手に触れられることができる人間は、この世に何人いるんだろうか、なんて考えてしまう。邪だ。

「ありがとうございます。お願いします。」

 ポスターを持っていた右手に気持ち程度に左手を添えて差し出し、後悔した。親指の爪が、剥がれている。

「では。」

 先生はそのまま行ってしまう。どうして左手で渡さなかったのか、いや、添削してもらったノートを左手で受け取ったから、右手がメインになってしまうのは仕方がない、でも割れている爪を見られたかもしれないショックは抜けない。

 気にしすぎだってことくらい、わかっている。そもそも先生は私の爪なんて見ていないに決まっている。

 返してもらったノートを開くと、先生の字が見える。先生の字は、綺麗だ。丁寧に書いているのが見るだけでわかる。

 先生の書く「は」が好き。「ということ」、も。

 算用数字や記号、アルファベットは、どんな風に書くんだろう、と思ったところで、チャイムが鳴った。


「何してんの。」

 急に近くで声がして、ひゅ、と息を吸い込んでしまう。

「ごめん、そんな驚くと思ってなかった。」

 鈴木くんが申し訳なさそうな顔をして、両手を合わせる。

「いや、全然…。」

 今日は当番で、私はカウンターの中にいる。すぐ右隣にいる鈴木くんの気配も感じ取ることができなかった。

「それ何?」

 図書室なので、鈴木くんの声はいつもより静かだ。

「模試のやり直し。」

「へー、偉いな…。あ、その問題難しかったよな、おれもう全然できなかった。」

 返却された時のことを思い出したのか、うなだれる。

「うん、ここは難しかったよね…。私も本番では書けなかった。」

 ちら、と、鈴木くんの目がノートの赤色を捉えたのがわかる。あ、と思ったけれど、遅くて、

「それ、添削してもらったんだ?」

と聞かれた。

「うん。そうなの。やっぱり人に見てもらうと違うかも。」

 私はさりげなくノートを閉じて、

「今日ちょっと早めに閉じるんだよね?」

と言った。

 鈴木くんは、不思議な顔をしかけたようにも、なんとも思わなかったようにも見えた。


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