第3話

 早々に終わった委員会会議の後、鈴木くんと共に、また人通りの少ない階段、騒がしさの少し減った廊下を抜け、教室に戻る。傷口は、もう痛まなかった。

「じゃあ、また。」

「うん。」

 教室に入ると、

「早かったね。」

と、友達が出迎えてくれた。

 お弁当を食べ終わってすぐ、自習時間が始まる。受験生になってから、お昼休みは三十分になった。

 いつもこの時間は数学を解くことにしている。

 公式を当てはめ、パターンを認識し、ただ一つに定まる答えに向かうのは、安心する。自分の答えが正解か不正解か、必ずどちらかで評価してもらえる。

 三問ほど解いたところで、ふと校庭に目をやると、一つ下の学年の女子たちが、輪になってバレーボールをしていた。

 予鈴が鳴る。


 図書委員は、鈴木くんの出した案である、ビブリオバトルの主催をすることになった。他にも提案した人がいたみたいだ。

 私の出した交換日記も採用されて、閲覧ブースの端に、ひっそりと一冊のノートが置かれた。

 ビブリオバトル、とは、知的書評合戦、とも呼ばれ、一人五分程度で、本の紹介を行うものだ。複数人の紹介が終わった後、参加者に最も多く支持された本がチャンプ本となる、ゲーム要素を取り入れたものだ。

 これはディスカッションではないので、聞く側か、話す側か、はっきりと分かれる。

 これを、私たちは夏休み明けに行うことに決め、参加者を募集することになった。

「どれくらい人集まるのかな。」

 少し不安になってしまう。図書委員は、普段あまり目立たない仕事をすることが多く、こうした大々的なイベントごとを担当するのは少し怖い。

 少し目をふせ、

「どうだろうね…。でも、図書委員からも参加する人いるし、おれも友達誘ってみる。」

と、鈴木くんが言う。

「あれ、鈴木さん参加するの?」

「うん。あなたはどうしたいんですか、って言われて、やりたいです、って言った。」

 ふ、と笑ってしまう。

「それ先生が言ったの?」

「え、うん。なんで笑うの。」

「いや、ごめん。私も言われたことあったし、人によく言ってる気がして。口癖なのかな。」

 少し間があく。

「さあ…。おれあの先生の担当じゃないんだよね、現文も古典も。」

 気まずい。

「そっか。なんか変なこと言っちゃったかも、ごめん、忘れて。」

 少し慌てて言う私に、今度は鈴木くんが、ふ、と笑う。

「いや、別に謝んなくても。佐藤は担当なの?」

「うん、現代文の。去年から。」

「そうなんだ、じゃあ結構あの先生のこと知ってるの?」

 わからない。

「…うーん、そんなに知らないよ。あんまり話すことないし。」

 嘘をついてしまった。

 そっか、まあそんな教員と話すことないよね普通、と微笑む鈴木くんを見て、胸が痛んだ。


 初めて先生と話した時のことを、よく覚えている。

 入学して間もない頃、まだ教室の配置を覚え切ることができていなかった私は、クラスの人数よりすこし少ない冊数のノートを両手で抱え、数学準備室を探していた。

 準備室が一階にあることはわかっていたし、登下校の際に見かけたことがなかったから、すぐに辿り着くだろう、と思い、靴箱とは逆の方向に向かった。

 廊下を曲がる直前、外からの空気が差し込んでいるのに気がついた。春の、あの空気。

 扉が開いていたので、一瞬躊躇った後、上履きのまま、そっと外に出る。

 まだ少しだけ花びらを舞わせる桜の木に、目を奪われる。

 一本だけで、ひっそりと、でも凛とした桜の木が立っている。

 一枚だけ、集めたノートに花びらが落ちてくるのを見た時、背後に気配を感じて、振り向いた。

「先生。」

「ここの扉、開いていましたか?」

 静かな声で、先生が聞く。怒ってはいない、と思う。今日は何曜日ですか?と同じ温度に感じた。

「はい…。開いていたので、つい外に出てしまいました。すみませんでした。」

 つい、謝る。

「いえ、全く怒っていませんよ。」

 少し口角を上げる。

「こんなところに桜の木があるなんて、知りませんでした。」

「確かに、ここの扉が開いていることはあまりないので、知っている生徒は少ないと思います。今年の一年生では、佐藤さんが初めて見つけた生徒ではないでしょうか。」

 その頃は図書委員の仕事も、国語の授業も、何もかも始まったばかりで、まさか名前を覚えていてくれるとは思っていなかったから、驚いた。

「もう、葉桜ですね。」

 目を細めて、見上げる横顔。アイロンのかかった綺麗な白いシャツ。

「そうですね。」

 私も、見上げる。ふと思いついて、聞く。

「ここ、冬も開けることはできるんですか。」

 先生の目が、こちらを向く。

「ここは焼却場につながる扉で、その点検の際には開きます。なので、冬の点検の時に学校が開いていれば、また外に出ることはできると思います。」

 丁寧に、静かに話す人。

「焼却場があるのも、初めて知りました。」

「以前使われていたものが、そのままあるようです。」

 相槌を打ちながら、目線を上げる。今日はかなり曇っている。

「冬の桜の木、好きなんですか?」

 静かな、どこか寂しそうな目。雨が降る直前の空模様のよう。

「はい。」

 その目が、細くなる。

「いいですね。僕も好きです。」

 その目で世界を見れば、どんな風に見えるんだろう、と思った。

 しばらく二人で、桜を見上げていた。時折、花びらが落ちてくる。

 そっと横を盗み見ると、折ってあるシャツの袖に、薄いピンク色。

「あ。」

 それを見ると同時に雨の匂いがして、思わずつぶやく。

「雨の匂いがしますね。中に入りましょう。」

と、先生が、言った。

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