第2話

 傷口が痛む。

 昨日切りすぎたせいで爪の端が剥がれた小指に、上履きが食い込んで、痛む。

 朝、ローファーを履いた時から痛かったけれど、上履きに履き替えた後、六限分の傷口が広がった。

 絆創膏を貼ろうかどうか迷って靴下を脱いだら、かなり血が出ていて、紺色が少しだけ濃くなっていたけれど、よく見ないとわからなかった。


 図書委員の当番は、二人一組で行う。だいたい二週間に一度のペースで回ってきて、カウンターで貸出や返却の手続きを行い、鍵を閉める前に掃除をして、日誌と共に鍵を職員室へ持っていく。

 一年の頃から図書委員だった私は、各クラスに一人ずついる図書委員が、三年生になると学年で二人になること、その二クラスは担任の先生のくじ引きで決まることを先輩から聞いた。

 なぜですか、と聞いたら、受験だからじゃないかなあ、と返された。他の委員もくじ引きで枠が決まるらしい。私は、確かに「大事な時期」ですもんね、と答えた。

 だから私は、なんとしても担任の先生に図書委員というくじを引いてもらわなければならなかった。委員決めのクラス会議で図書委員があると聞いた時、真っ先に、いや、正確には誰も手を挙げないのを確認してから、手を挙げた。

 もう一人の図書委員が何組の誰でもよかったと言えば言い過ぎだけれど、もっと私の興味をひくものが、他にあったのだ。


「奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは『本当いうとあいなんですよ』といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出であるのに、…」

 隣の席の男子の朗読に、みんな眠気を誘われていた。

 なんだか教室がぼんやりした空気に包まれることはたまにあるけれど、その中でもかなり沈んだ日だった。私は一番端の一番後ろの席なので、教室内がよく見える。視界のかなりの割合を占める下を向いている黒い頭たちは、時折、かくん、かくん、とリズムをとる。

「はい、そこまで。ありがとうございます。では、ここの…」

 先生は、国語の先生だ。大学では、文学部だったという。字が綺麗で、いろんなことを知っている。アイロンのかかった綺麗な白いシャツに、水色のネクタイ。

 空が青い。同じ色だ。

 チャイムが鳴る。

「はい、今日はここまで。次回はこの続きからします。では、挨拶。」

 日直の号令。正座、起立、気をつけ、礼、ありがとうございました。

 現代文は四限だったので、食堂へ走っていく運動部の足音と、廊下を走るな!と叱る生活指導の先生の怒号が廊下に響く。

「お昼食べよー。」

「あ、ごめん…。今日は図書委員の委員会会議があって、五分後に始まるから、先に食べてて。すぐ終わるみたいだし。」

「そっか!じゃあ私たち先食べてるね。会議頑張って。」

「うん、ありがとう。」

 いつも一緒にお昼を食べる二人との会話の後で、一旦の開放感に包まれた教室を後にする。


 お昼休みの廊下は騒がしい。ただ、向かう先へ続く階段は利用する生徒が少ないので、遠くからかすかに聞こえるだけだった。

 騒がしい声も、足音も、遠くから聞くのは好きだ。

 また、傷口が痛む。階段をそっと上っても、やはり痛む。

「あ、佐藤。」

 鈴木くん。

「あ…。こんにちは…?」

 ふ、と笑った。

「こんにちは。会議って、演習室、五階の端のとこだよね?」

「うん。」

 傷口が痛い。

「お昼休み始まってすぐとか、ご飯食べさせる気ないよな。」

 柔らかく笑う。

「ね。お腹すいちゃった…。」

 演習室に入ると、既に委員の半分くらいが集まっていた。

 端か、後ろの方の席がいいな、と思い、鈴木くんと隣り合わせで座った。

 ここなら、先生からは遠い。

 扉が開く。

「みなさんお揃いですか。」

 アイロンのかかった白いシャツに、水色のネクタイ。

 先生は、国語の先生だ。

 そして、図書委員会の先生でもある。

「お昼休み直後にすみません。では、始めます。」

 私はいつも、先生から離れた場所に座りたい。でも、先生の担当する図書委員会には入りたい。

「今回集まってもらったのは…。」

 空が青い。先生のネクタイと、同じ色。

 また、傷口が痛んだ。

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