雨の日

第1話

 雨の匂いがした。

 少し開いた窓から、雨の匂いがした。

 その日の降水確率は確か四十パーセントで、予報自体は曇りだった。

 窓際の席に座っていた私は、窓の外に視線を向けた。グラウンドでは、一つ下の学年が、ハンドボールの授業をしていた。

 前の時間にサッカーをした私たちのクラスは、その後の世界史の授業で、教室中に眠気を充満させていた。

 かくいう私もそこら中から発せられている気怠さにあてられて、目を見開いてみたり、天井の蛍光灯を見上げて目に光を差してみたりして、誘発される眠気と格闘していた。

 そんな中、雨の匂いがした。

 私はなぜか一気に目が覚めて、先生の声が急にはっきりと聞こえた。

 私はその時十七歳で、一年もしないうちに、高校を卒業する予定だった。

 一年後、それが第一志望の大学構内であれ、県内の予備校の教室であれ、この教室ではない場所に座っていることは確かだった。一年後には、確実にこの場所に、私はいないのだ。

 不確実なことだけが確かだ、と思って、どこかで聞いたことのあるセリフだなと思っているうちに、世界史の先生は遠くの国の、遠い時代の話をしていた。

 雨の匂いで意識がはっきりしたのは、あの日も同じ匂いがしたからだろうか?

 意識が急にクリアになったせいか、雨の匂いがきつくなった気がした。


「委員会、終わりましたよ。」

 黒縁の眼鏡をかけた、真面目そうな男子が、少し怪訝そうな顔をして、こちらを覗き込んでいた。

「あ…すみません。」

 ぼーっとしていた私は、自分の顔が赤くなるのを感じながら、慌ててペンを片付け始めた。

「このプリント、時間内に書き終わらなかった人は、今日中に書き終えて提出だそうですよ。」

 落ち着いた声で話す人だ。

「そうなんですか…。すみません、教えてくださってありがとうございます。」

 集中していなかった私が悪いとはいえ、面倒だな…と思いつつも、親切な彼に感謝する。

「いえ…。時間内に終わった人の方が少なそうでしたし、大丈夫だと思いますよ。実はおれも終わってないし。」

 少しはにかむ、目の前の人。同じ学年だろうか?と、ネクタイの色を確認すると、私のボウタイと同じ赤色だ。

「あ、もしかして今年の三年の図書委員、もうひとりって…?」

「そう。鈴木です。よろしく。」

「佐藤です。こちらこそ。」

「もし良かったらこれ一緒にしません?」

 私が頷くと、鈴木くんは前の席の椅子の向きを変えて座った。

「これ、結構難しくないですか?」

 そのプリントは、これから図書委員として実現したいことを二つ述べ、それが図書室運営にどう影響するのかを含めた理由を書きなさい、というものだった。

「そうですね。一つ目は思いついたけど、もう一つが難しいかも。」

「二つは難しいよね…。一つ目は何書いたんですか?」

「図書室の本の整理。今、かなり曖昧になっているから。目当ての本を探しにくいし、読みたい本が見つからなかったら悲しいし。」

「確かに見つけにくい時あるかも…。」

「鈴木、さんは…何か書きました?」

「うん、おれはビブリオバトルの開催。自分が好きなものについて話せるのも、誰かが好きなものについて話してるの聞くのも楽しいかなって。そしたら図書館を利用する人も増えるし。」

 やわらかく笑いながら話す人だ、と思った。

「すごく素敵ですね。もし開催できたら、すごく良さそう。」

「そうかなあ、でも話すの苦手な人もいるだろうし、POP作りとかでもいいかもとも思いつつ…。」

「え、それ二つ目でいいんじゃ…?」

「確かに。」

 元々丸い目をまた丸くして言い、その目を細めて、笑う。私もつられる。開きっぱなしの窓から入ってきた、水分を多めに含んだぬるい風がカーテンを揺らす。

 書き始めたのを見て私ももう一つ早く書かなきゃ、と思い、彼が半分ほど用紙を埋めたところで思いついて、書き始めた。

「あ、思いついたの?」

「うん。」

 交換日記、と書き、その下に本の感想をやりとりできる匿名の交換日記を設置することで、図書室を利用するのがより楽しくなるのではないかと考えたため、と付け足す。

「なんで匿名なの?」

「匿名の方が本当のこと書きやすいかもな、って思って。本って何読んでるか知られるの結構恥ずかしかったりするし、それを読んでどう感じたかとか、本当のこと話すのはハードル高いでしょう。」

 あー、そうかなあ、と彼が首を若干傾げるので、ちょっと失敗したな、と思いつつ、少し慌てて、

「いや、もちろん人と共有するのも良いけど。そういう人もいるかな、って。」と付け足す。人と感覚が違うなんて当たり前だと頭ではわかっていても、少しだけ、居心地が悪い。

 そっか、と彼は笑って、

「それ、もう少し書く?」と聞いてくれた。

「うん、じゃあもう少し付け足そうかな。」と言い、理由のところをもう少し丁寧に書いた。

「終わり?」

「うん。出しに行く?職員室に持ってけばいいんだっけ?」

「うん。じゃ、行こ。」

 彼は立ち上がると、座っていた椅子を元の位置に戻して、右手でプリントを持つ。私も立ち上がって、椅子をなおし、左手でプリントを持つ。

 廊下に出る直前、私の視界の隅っこで、またカーテンが揺れた。きっともうすぐ、雨が降る。

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