父の仇

牛丼一筋46億年

父の仇

小林庄衛門は牢人であった。

 小林家は信濃の国に仕えた武家の一族であり、主家である武田家が滅びた後、牢人となり、江戸へと移り住んだ。

 大阪夏の陣以降の殆どの武士がそうであったように、庄衛門もまた生活に困窮する毎日であった。もはや武士にとって一番の敵はなだれ込む敵ではなく貧困であったのだ。



 彼は文武に優れ、清貧を尊ぶ好人物であったが、それでも再士官の道は狭く、また老いた父母を養う為にも武士の身分を捨て、江戸で手習い師匠として生きる道を選んだ。



 幸いにも庄衛門は漢詩が得意で、それを見込まれての就職であった。

 数年後には町娘のきぬと結婚し、息子の勘吉を授かる。

 庄衛門は元武士ながら物腰が柔らかく、また柔和な性格であった為、手習い所に通う子供達はもちろんのこと、人物評にはうるさい町の女衆にも好かれていた。

 もはや、町内で彼のことを好かぬ人物は誰一人としていないようになっていた。

 ある正月の夜、庄衛門は厠に行くと言い残し、長屋を去り、戻ることはなかった。

 人々は、あの庄衛門に限って妻子を残し去ることはあるまい、きっと人攫いにあったに違いないと噂した。噂には尾ひれがつくものである。庄衛門は神隠しにあったというもの、または夜中に庄衛門の叫び声を聞いたというものまで現れ、岡っ引きまで捜査に乗り出し、事態は大事となったがついぞ彼の行方は分からず終いとなった。

 それから二十年後、庄衛門の息子、勘吉は信濃の国にある小林家の墓前にいた。

 成人してから年に一度は先祖の墓を参るようにしているのである。そして、今回の墓参りは母きぬの為でもあった。きぬは庄衛門が消えて以来体調を崩しがちになり、よく寝込むようになった。病床の母は今尚父の安否を気遣っている。彼女は息子に、私はもう長くありません。死の間際ただ気がかりなのは夫である庄衛門の消息。きっとあの人はまだ生きております。どうか私の代わりにご先祖様方に無事を願って来てください。そう言い、息子を送り出したのである。



 勘吉は墓前で手を合わし、父の無事を母の代わりに祈るのであった。

 勘吉は父の跡を継ぎ、手習い所の師匠となった。父と同じく心根の優しい性格で皆から愛される好青年であった。

祈る勘吉の瞼の裏に映るのは在りし日の父の姿であった。 

父は勘吉に漢詩を諳んじて聞かせてくれた。

 その優しい顔と声色を勘吉は忘れることが出来ない。息子もまた庄衛門を愛していた。だからこそ噂の通り、父が何者かに殺されており、またその下手人に出会ったならば、理性を保てる自信がなかった。子らにいつも和を尊ぶ大切さを説いている自分がである。



それ故に、勘吉はよく悪夢を見た。夢の中で勘吉は父を殺した下手人を棒きれで滅多打ちにするのである。男は背を丸め痛みに耐えている。やめてくれと言っても止めない。男がうめき声ひとつあげなくなった時、勘吉は初めて棒を下ろす。そして、仇の顔を一目見ようと男を転がした時、いつも夢から覚める。

寝床から飛び起きた時、勘吉は夢で良かったと思う反面、夢でなければ良かったと願う自分を認めざるを得なかった。

江戸への帰り道、ある宿場に立ち寄った。時刻は既に夕暮れ時である。

それにも関わらず往来で人が集まり、何やら話しているのであった。

「いかがしましたか」

勘吉は近くにいた男に尋ねる。

「ケダモノが遂につかまったのさ」

「ケダモノ?」

男の話はこうである。この辺り一帯では最近、気が狂った男が現れるのだと。男は着物を身に着けず素っ裸で普段は山の中に住んでいるのだか、たまに山から下りてきて農村や宿場から食べ物を盗んでいく。男はいつも夜に現れ、二本の脚ではなく両手も使い恐ろしい速さで駆けていく。それ故にケダモノと言うあだ名がついたと。そして今、とうとうケダモノが捕まったと言うことであった。

なるほど、と勘吉は人の輪の中心を見ると、確かに裸の男が地面に伏した男を番太が引きずり起こし、どこぞへと連れていく最中であった。

ケダモノと呼ばれた男の後ろ姿しか見えず、顔は見えなかったが、その髪は真っ白で手入れされることなく伸び放題で、背中は小さく哀れで勘吉の胸は痛んだ。

きっと困窮し町で暮らせなくなった男が空腹から盗みを働いていたのであろう。

 勘吉は父ならばどうするか、胸の奥に聞いた。勘吉は迷った時いつもこうするのである。心の中で父に尋ねるのだ。

御父( おとと)様ならばどうしますか。

 既に勘吉は成人しているが、胸の中で父に尋ねる時はいつも子供の頃呼んでいたように父に問いかける。

 そして、胸の中の父は息子に答えた。

 その日の夜、勘吉は番太の元を訪ねた。



 「私、江戸で手習い師匠をしております、勘吉と申します」

 「はい、なんの用でしょう」

 「夕刻に捕まえた男の件でして、きっとあの男、住む場所も失い、盗みでもしなければ生きていけない身の上、盗まれた品々に関しては私が立て替えますので、どうか許してやって下さい」

 そう言うと、番太は困ったように笑った。

 「先生の清いお心はわかりました。しかしですな、あんな男憐れんでやる必要はございません。あの男は人の言葉も解さず、衣服すらまともにつけていない。先ほどしょっ引いた時も唸り声を上げるばかり、あれはケダモノです。それに、今回一度きりならいざ知らず、前々からあの男はここら辺の田畑は荒らすわ、ものを盗むわで大層迷惑しているのです」



 「なるほど、ならば一晩猶予を下さい。一晩私は男と話してみます。そして、男に人の心を思い出させ、もう二度と盗みを働かないよう誓わせてみせましょう」

 渋々と言ったように番太は承諾した。

 男は宿場から少し離れた使われていない蔵の中に繋がれているとのことだった。

 勘吉は緊張した面持ちで夜中に蔵の前に立った。

 決して恐れているから緊張しているのではない。江戸時代に於いて盗みは重罪である。刑罰は死罪であることも珍しくなかった。




 この男の生き死にが自分かかっていると思うと、勘吉の背中に冷たい汗が流れた。

 御父様、どうか見守っていてください。

 そう心で唱え、勘吉は蔵に近寄った。

 蔵の入り口はつっかえ棒が立てかけられていて中からは開けれないようになっている。蔵の裏の高い位置には窓格子があり、そこだけが外界と蔵の中を繋いでいた。

 格子の前で勘吉は離し始めた。

 「私は江戸で手習い師匠をしている勘吉と申す。私の言葉が分かるのならば、どうか答えてください」

 ガタリと蔵の中で音がした。恐らく中で男が立ち上がったのだろう。

 「かんきち・・・?」

 中の男がそう言ったのだ。想像と違い、透き通った声であった。

 格子に両の手が伸び、中から男が頭の上半分だけ出し、ぎょろりと光る両の目で勘吉を見据えた。

 「はい、番太と約束しました。お前様が改心し、もう二度と盗みを行わないと約束できるのならば、一切の罪を許すと」

 「もしや、お前の父親の名は庄衛門ではなかろうな」

 男が蔵の中からぬめりとした声で問いかけてきた。

 「なぜ、それを・・・」

 「なるほど、これは笑える。あの父にして、この子ありと言ったところか。なぜ、お前の父の名をしているか、それはだな、お前の父を殺したのは私だからだ」

 勘吉はしばらく呼吸を忘れていた。ふーと息を吐き、呼吸を整え、冷静さをなんとか保とうとした。

 「父をどうしたと言うのだ」

 「二十年前、私は江戸で盗人をしていた」





 二十年前の正月、男は凍えていた。寒い夜であったが、薄手の着物しか身に着けていなかった。行く当てもなく、ただ道を男はひた歩くしかなかった。男には家が無かったからだ。持ち物と言えば懐の鈍ら包丁だけである。正月だからか、往来には男意外に誰もいなかった。

 しばらく歩くと、前から温和そうな男が歩いてくる。

 二人は目が合う。するとその温和な男はニコリと笑った。

 「寒いが月が綺麗な夜ですな、思わず散歩しておりました」

 それに答えず、ただ睨みつけたが、それでも男は気にせず続けた。

 「私は手習い師匠をしている庄衛門と申します。随分と寒そうな恰好をしている。もし良ければ私の上着と手ぬぐいをあげましょう」

 そう言うと、男の返答も待たず、庄衛門は自分の上着と首に巻いた手ぬぐいを外し、男にそれを渡した。

 「今日から新年、お互い良い年になればいいですな」

 そう言うと、庄衛門はまた歩き出したのであった。

 男はその背中を追いかけ、後ろから庄衛門を切りつけ、ギャッと短く庄衛門は叫んだ。

 そして、倒れた庄衛門の背中に何度も刃を突き立てたのである。

 「俺はな、お前みたいなやつが一番嫌いなんだよ」

 そう言って男は庄衛門の横腹を思い切り蹴り上げる。

 その時、庄衛門が何やら呟いていることに気が付いた。男は耳を庄衛門の口元まで近づける。

 「きぬ・・・勘吉・・・」

 「誰だそれは、お前」

 「嫁と・・・息子」

 「死ぬ前に家族の顔を思い出せるなんていい人生じゃねえか代わって欲しいもんだなまったく」

 そう言う庄衛門の目には涙が浮かんでいた。

 男は庄衛門を近くの川に放り投げその場を後にした。




 「馬鹿な男だ。情けなどかけるから殺される」

 そう言って蔵の中の男は笑った。

 勘吉は激昂していた。目には涙が溜まっていた。胸中には様々な感情が渦巻き、言葉にならなかった。

 最後まで誇り高かった父。そんな父の親愛を踏みにじった男。帰らぬ父を待ち続けている母。そして下手人を殺す夢を見続けていた自分自身。

 「今まで悪事をさんざん働いてきた。今更助かろうなんてこれっぽっちも思っちゃいない。さっさと帰りな、先生」

 男の声がまた蔵から聞こえてくる。勘吉はもう我慢できなかった。

 「いや、帰りはしない。お前はこの手で殺す」

 そう言うと、勘吉はずいずいと入口まで歩みを進める。

 「おい、やめろ、やめろ、開けるな」

 蔵の男は狼狽し、中から悲鳴にも似た声を上げる。

 「殺す、殺してやる」

 「後生だから開けないでくれ」

 男の声は絶叫に変わっていた。

 存分に恐れるがいい。この二十年間、母と自分がどんな気持ちで生きてきたのか。そして、父の無念を、今思い知らせてやる。

 勘吉はつっかえ棒を手に取り、引き戸を開けた。棒は手に持ったままである。それで打殺す算段であった。




蔵の中、ケダモノは戸に向かって背を丸めていた。手を合わせ額を床にこすりつけていた。手をこすり合わせ、なにやらぶつぶつと呟いている。窓格子から漏れ出る月明かり暗闇の中に差し込み、そのケダモノの汚い背中を縞模様に染めていた。

 顔を上げたケダモノの目には涙が浮かんでいた。垢で黒くなった顔に黒い筋が頬に向かって伸びている。

 その顔を見た時、勘吉の胸中に去来したのは怒りでも憐みでもなく懐かしさであった。俺はこの男を知っている。まさかと思った。いや、しかし、こんなことがあろうか。既に二十年時間が流れており、それは他人のそら似かも知れないし、そもそも勘吉の中でもその顔はおぼろげになっている。それでも勘吉の本能はけたたましく警鐘を鳴らすのである。

 「御父様・・・?」

 それはケダモノに問うた訳ではなく、自分に対する問いでもなく、言うならばここにいない第三者に対しての問いであった。

 「許せ、勘吉」

 そう言って庄衛門は鼻水を啜りあげた。

 「そんな、なぜ?」

 勘吉は絶句した。既に持っていた棒は手から落ち、音を立てて床に転がったが、そのようなこと、最早気にはしていなかった。

 「お前にはこの姿見せたくなかった。もう父は死んでいると思って欲しかった」

 「一体何があったのですが、どこに行っていたのです」

 「勘吉、一切のこと、まずは謝りたい。申し訳なかった。これは業なのだ。私と言う人間が逃れられなかった業なのだ」

 「業・・・」

 「勘吉、私が江戸で何を思い生きていたと思う?恥だ。私はおめおめと生きる自分を強く恥じて生きていたのだ」

 「御父様は皆に尊敬されておりました。その証拠に御父様が居なくなった時、皆とても悲しみました。もちろん私もです。皆に優しく誰からも愛されたことを誇りこそすれ、何を恥る必要がございましょうか」

 「それは表面的なことに過ぎない。いいか、私は武士なのだ。武家に生まれ、武家に育ち、そしてそれを失ったのだ」

 



 庄衛門は武家に生まれ、武家の男として育ったが、主家を失い牢人の身となった。

 江戸に移り住み、再士官の道を模索しつつ、発展する江戸の町で築城の仕事をして口に糊する日々を送った。

 皮肉なことだと思った。天下泰平の為、大義を持ち戦った祖先。そして、その志を受け継ぎ、清貧を心がけ生きてきた己。もちろん贅沢になりたいなどと願ったことはない。しかし、ついに天下泰平となった時、未だ小林家は城の礎を泥に塗れて築かざるを得ないのである。努力に対して、忠誠に対して、慈しみに対しての見返りはなく、報いがないことを庄衛門は認めざるを得なかったのである。

 仕事のあと、泥に塗れた体を丸め、せめて天下の往来にその哀れ染みた身体をさらすまいと道の端を歩いていたとき、道の真ん中を商人の一向が笑いながら派手な着物を着て歩く姿を見た。江戸初期、南蛮貿易と物流の未発達により、商人は巨万の富を得ていたのである。



 それを見た時、庄衛門は愕然とした。彼ら商人は幕府に賄賂を贈り、更に商売を拡大させ、既にある莫大な富を更に大きくしているのは誰もが知るところである。平和な世で必要とされるのは志ではなく、よく動く口と金である。それを認めたくなかった。なぜならば、それを認めると言うことは、この世に自分の生きる場所が最早ないことを認める事に他ならなかったからである。

 これまで培った自分らしさ、誇り、志し、一切は無用の長物である。この世で生きる為には、自らを隠し、周りを欺き、夢など見ず、理想を忘れ、江戸の町に適応して生きていくしかない。庄衛門はそう思った。

 果たして、庄衛門は武士の身分を捨て町人となった。

 そして、漢詩の博学をかわれ手習い師匠として生活を始めた。しばらくの後、町人の娘と結婚し、更に数年の後、息子を授かった。

 決して不幸せではなかった。むしろ、幸せであった。しかし、心から幸せを感じたことは一度としてなかった。庄衛門の内には常に落ち武者が住んでいたのである。彼は髷を落とし、鎧は擦り傷がいっぱいで、背中には突き刺さった矢がある。彼は庄衛門が家族で出かけた往来の人々の中に、ふと目を覚ました時に部屋の隅に、子らに手ほどきをしている寺小屋の格子越しに姿を現し、庄衛門に問いかけるのである。



 「それがお前の本当の姿か?」

 庄衛門は彼を見る度に恐れおののいた。なぜならば落ち武者の顔は庄衛門の顔だったからである。

 自己不全感から来る自己乖離である。庄衛門の心から庄衛門が離れていく。まるで身体の中が空っぽになって外の殻だけになってしまったような感覚。それでいて空っぽの身体の中に偽物の自分が溜まっていく、庄衛門は風船のように膨れ上がり、そして遂に ある大晦日の夜、彼は弾けた。

 きっかけは些細なことだった。大晦日の夜、家族で雑煮を食べ終わったとき、庄衛門は尿意に襲われた。ちょっと厠へ、と言う庄衛門に妻は、早く帰ってきてくださいね、と声をかけた。大晦日は大つごもりとも言われ、一般的には家族と家で過ごすものだ。幼い勘吉は雑煮を食べたら眠くなったらしく、もう眠ってしまっている。真っ赤で柔らかく膨らんだ頬をむにゃむにゃと動かして眠っている。この子はどんな夢を見ているのか。この子を愛している。でも、同時に憎んでいる。自分をここに縛り付ける楔である我が子。我が子を憎むと言うことがどれだけ業の深いことか。そして、そんな思いを秘めて生きることの辛さ。庄衛門は自嘲気味に笑って家を出た。  

 庄衛門は言われた通り、用を足したら家に帰るつもりであった。

 しかし、庄衛門はちょいと通りを見ようかと、往来へ出る。大晦日の夜、誰もいない。冬のツンとした空気が肺に入ると気持ちい。ぶるりと震えそうになる。

 どうだ、ひとつ散歩でもするか。



 庄衛門は歩き出す。

 誰もいない。誰もいない。誰も俺を見ていない。うふふと一人ほくそ笑み歩く。

 歩く音しかしない。

 さて、角を曲がる。そこには落ち武者がいた。

 彼はどんどん先に行って後ろ姿しか見えない。

 おい、ちょっと待ってくれよ。

 庄衛門は走り出す。

 落ち武者も走り出す。

 なんだか楽しくなってくる。 

 おい、待ってくれよ、行かないでくれ。俺を置いて行かないでくれ。

 庄衛門は笑いながら叫ぶ。笑い声はどんどん大きくなる。笑えば笑うほど楽しくなってきたぞ。

 わはははは、おい待てよ、待ってくれよ。

 庄衛門は風のように走る。そこには誰もいない。

 わははは、なんだろう、なんでこんなに楽しいのだ。

 ついに落ち武者に追いついた。彼も走っていた。その姿は最早落ち武者ではなかった。それは庄衛門だった。遂に彼は見失った自分と同化したのである。

 わははははは。

 庄衛門は笑った。笑いすぎておかしくなりそうだった。

 彼は走った。走りながら叫んだ。走るたびに彼の体の中に溜まった偽物は剥がれおちていった。それが気持ち良くてたまらなかった。

 気が付いたとき、江戸の町にはいなかった。森の中にいた。

 森の中に洞穴を見つけ、そこに住んだ。

 木の実を食べ、兎や鳥を捕まえて食べた。

 武士を捨て、江戸も捨て、すべてを捨てた時、彼は自由を始めて享受した。

 誰にも気を使うことなく、誰に負い目を感じるでもなく、誰かの為に生きるでもなく、ただ、自分の生存の為だけに生きるとはこれほどまでに清々しいことだったのかと庄衛門は涙した。




 服はボロボロになってすぐ捨てた。裸で森を歩いた。同じ場所にとどまることはしなかった。なるべく何かに執着したくなかったからだ。だから彼は森から森へと渡り歩いた。そしてたどり着いた先が故郷であったのは人間の中に残る野生の帰省本能だったのかも知れない。

 庄衛門は気が付いていた。この二十年で少しずつ行き来できる森が少なくなったことを。森の中に街道が整備され、無人だった場所に人が住み始め、野生動物と庄衛門は更に森の奥に行かざるを得なくなったのである。

 その理由は江戸初期に商人たちが街道を整備し、貿易を拡大していた背景があった。またも庄衛門は商人によって生き方を変えざる得なくなったのは皮肉としか言いようがない。

 森の奥で生活をしながら、庄衛門は自身の老いを認めないわけにはいかなくなった。目はかすむ、昔のように動けない。動物を捕まえることも出来ず、ただ自生する木の実を食べるしかできなくなった。

 死が彼を追い始めたのであった。

 江戸を出て二十年。もはや彼は人と呼べる生き物ではなかった。伸びた真っ白な髭と髪、真っ黒になった手足。いつの間にか四足歩行するようになっていたものだから背骨は折れ曲がっている。

 獣。まさにそれが一番彼に似合う言葉だった。獣は生に貪欲である。獣は自分よりも鈍重な生き物に目を付けた。

 それが里山に住む人々である。

 彼らは森の中の獣達よりもずいぶんと鈍い。それに彼らの周りには食べ物がいっぱいある。



 獣は里山に降り、畑の食べ物を盗み、鶏のような家畜を殺して食べるようになった。そして、遂に獣は捕まったのである。

 久しぶりに聞く人語。捕まった時、死を覚悟した。打ち殺されても仕方あるまいと思った。しかし、彼は殺されることなく、司法によって裁かれるのである。それを悟ったとき、自分は獣ではなく人であることをようやく思い出したのであった。

 



 全ての話を聞いたとき、勘吉は涙していた。庄衛門も泣いていた。

 「御父様は人ではなく獣として生きることを選んだのですね。私には理解しかねます。町で人の為に生きる事の方がよほど尊いではありませんか。獣など何も考えず、ただ生きることのみ考える、浅ましい生き方ではございませんか」

 「勘吉よ、人を獣よりも上と考えるのは思い上がりだとは思わんかね」

 「どう言う意味ですか」

 「森で生きて思い知った。勘吉よ、人よりも醜い生き物はこの世におらんぞ。私は昔から嫌気が差していた。豊臣家に仕えていた大勢の者たちが徳川の時代になればすぐさま主人を変えた武士たち。奉公人をこき使い、悪どい賄賂で懐を肥やす商人たち。他人の噂ばかりして人の悪口を言う隙をいつも見計らっている町人たち。果たして、どちらが劣っていると思う」

 「御父様がそう思うのは勝手ですが、しかし、それが私と母を捨てる理由になりますでしょうか」

 「私はお前もお前の母のことも心の底から愛せなかった」

 もはや勘吉は言葉を発することが出来なかった。ただ老いて小さくなった父を見る事しかできなかった。父は涙を流し、その曲がった背を更に曲げて丸まるようにして泣いていた。

 「勘吉、本当にすまないと思っている。許して欲しいなどと言うつもりは毛頭ない。これが私の嘘偽らざる心だ。すべて私のせいだ。私に勇気がなかったからお前たちに辛い思いをさせた」

 「本当にそう思うのならば、今すぐここを発ち、身なりを整え江戸の母と会ってください。母は病に臥せっており長くはありません。せめて最後に」

 「それは出来ない」

 「なぜ」

 「これまで多くの命を奪ってきた。森に生きるとは、自然で生きるとはそう言うものだ。彼らは恨み言ひとつ言わずに運命を受け入れて死んでいった。私もそうありたいと強く願っていた。そして、ついに私に回ってきたのだ。せめて最後は潔く死にたい。母には、旅の道中父の仇と出会い、それを仇ったと伝えてほしい」

 勘吉は強い嫌悪を感じた。しかし、それ以上に憐みを感じた。

 「父は死んだのですね」

 「そうだ」

 「ならば、ここにいるのは父の仇、これ以上話すことはありません」

 勘吉は蔵を後にした。

 去る時、後ろから父の声がした。



 床前看月光

 疑是地上霜

 挙頭望山月

 低頭思故郷



 李白の歌であった。静夜思である。父の本心であり、父の叫びであると勘吉は思い、また父はずっと死んでいなかったことを悟った。そして、父の本望を知った。

 

 翌朝、番太が勘吉の元に来た時、勘吉は旅支度を終えて出立するところだった。

 「先生、昨日はいかがでしたか」

 「あれはただの獣でございました。人の言葉を解さないただの獣です」

 「そうですか」

 番太はどこか残念そうだった。

 勘吉は宿場を後にした。しばらく歩いたのち、少し休むことにした。

 見上げると真昼の月が見え、勘吉は父のことを思った。

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