9.クジラとトカゲの死
壮行会が終わると、早々にAは宮殿の外に出されました。
城の外では人形がひとり待っていました。
「クジラ様の元まで案内するよう仰せつかっているいる」
人形が狂った調子でそう言いました。
「クジラの所の人形だ。こいつがお前をクジラの元まで案内してくれる」
豚は忌々しそうにそう言うとさっさと宮殿の中に入っていってしまいました。
人形はスタスタと歩き出し、Aはその後ろについて行きました。
城の外には小さなビートルが一台止まっており、人形はその運転席に乗り込み、Aは助手席に乗り込みました。
これから、騎士としての冒険が始まると思うと、なんだか落ち着かない気分にAはなりました。
人形はビートルを海へと走らせ始めました。
「いや、しばらくぶりだね」
人形は唐突にAに話しかけました。その声の調子は全く狂っておらず、それどころか朗らかで親しみがこもったものでした。
Aは驚いて何も言えませんでした。
「誰も見ていない。今なら好きなことが言えるから心配しないで。ほら、覚えてないかな、僕だよ、トカゲだよ」
人形は森であったトカゲでした。そう言われてますますAは混乱してしまいました。トカゲは手足を切られてヘビになったはずです。Aの考えを察したのか、人形はまた話し始めました。
「そうか、君はこの国に来て日が浅かったから知らないのか。この国では大人になって働き始めると殆どの人が人形になるんだ。僕もクジラ様の元で働き始めてしばらくしたら宮殿に呼ばれて人形に変えられてしまってね」
「そうだったのか、なら君の事はなんて言えばいい?」
「誰も見てない時は昔みたいにトカゲと呼んでくれよ。ただ、誰かが見ている時は絶対に呼ばないでくれよ」
「トカゲくん。ああ、なんて酷いことをされたんだ。君はトカゲなのに蛇にされて、最後には人形にされちまって、もう、君は君だと言えないじゃないか」
「世の中はそう言うものさ、システムと工業化の時代だからね。それに、そもそも自分なんてもの、最初からないのかもしれないとすら、今は思う」
「君は知ってるかい、僕はクジラを殺しに行くんだ」
「知ってるよ」
「止めないのかい?」
「クジラが死んだところで、僕の生活は変わらないからね、一生人形のまま死んでいくんだから。クジラの死により工業化の時代が完璧に終わるがそれはまた新しい時代の始まりに過ぎない」
「それは奴隷の考えだ。君は奴隷じゃないだろ」
「そう言うこともどうでもいいんだ。僕の生活は幸せではない代わりに悲惨でもないからね。先輩のイカとタコも結構いい人なんだ」
「言い訳だ。自分を騙して、感情を鈍くさせているだけだ」
「僕は人形だよ。感情なんてあるわけ無いじゃない」
トカゲの言葉にAは何も言えなくなりました。
「君は知ってるかい。クジラが海の生き物をほとんど食べてしまい、海水を分解する生き物はいなくなってしまったから、今、海の水に栄養はほとんどないんだ。一見するととても澄んだ水に見えるけれど、何ものも生かすことができない死の水になってしまったんだ。それが川に流れ込むだろ?そうすると川の水質も悪くなる。川に栄養がないと森も育たないし、生き物も住むことが出来なくなっていく。だから、オタマジャクシの数も減る。生き物は減っていく」
「地獄じゃないか」
「それがこの世界だ」
「君はそれでいいと思っているの?」
「良いわけがない。でも、どうしようもないんだ。それがこの国の摂理なのだから」
「誰かが変えなくちゃ」
「変えた誰かが新しいクジラや王になるだけだよ」
それから二人は黙ってしまいました。
Aは黙って窓から外を見ていました。するととある花が車の前で咲き誇っている事に気がつきました。
「あの花の名前わかるかい?」
Aは思わずトカゲに聞きました。
するとトカゲは「シロツメグサの花だね」とこともなげに言うのでした。
車が海にたどり着いた時、驚くことに大きなクジラが岸に打ち上げられていました。
「おい、お前ら、助けろ、海に俺を押し戻せ」Aは言われた通り、クジラを押す為に彼のそばまで歩み寄ろうとしました。しかし、その肩を人形は掴みました。
「もう、助からないだろう。ゆっくり、ここで彼が死んでいくのを待とう」
そう言うと、人形はライターとタバコを手に取りました。
「なんで打ち上げられたのだろう」
Aはポツリと言いました。
「クジラは浅瀬には行けない、それが許せなかったんだ。きっと自分がコントロール出来ない場所があることが許せなかったんだろう。強欲さが彼を浅瀬まで導き、そして殺したのだ」
人形は興味なさそうに言いました。
Aはクジラの側に行き彼の眼前で問いかけました。
「あなたは何を考えていたんですか。あなたのせいで多くの命が奪われ、この国は衰退し、後は滅亡しかありません」
すると、クジラは地面が震えるほど笑いました。
「私が何を考えていたかだと、もちろん、繁栄だけを考えていたさ。それでお前らも満足していただろう。ところがどうだ、人形作りの男が現れてからみんな手のひらを返して俺を悪者扱いだ。奴はただの俺の後継者でしかないのに。貴様の様な何も考えず、何も与えず、何も行動せず、享受するだけの人形には理解できるまい」
たしかにその通りかも知れないと思いました。
Aは海岸に座り込み、クジラの事をずっと見ていました。クジラはその汚くて大きな体を捩り、海へと戻ろうとしています。そんな風にして動くから、砂と肌が擦れ、血が滲み出て、皮膚はベロりと剥がれ、ピンクの肉が中から顔を覗かせます。
それでもクジラは構うことなく、身を捩ります。よく見れば彼の尾鰭はすでに腐り始めており、ぐずぐずとした血肉が滴り落ち始めていました。
たしかに、クジラは大きな力を持っていたでしょうが、今やただの老人です。なぜ、ここまで醜くなっても生きたいのか、Aにはさっぱり理解できませんでした。ただひとつ分かった事はクジラが実りある人生を送れなかったであろう事です。もしも、彼が人生に納得していたのならば、もう少し穏やかに死ねた筈でしょうから。
Aはぼんやりとクジラを眺め続けました。クジラは呪いの言葉を吐きながら身を捩り続けます。
何時間経ったでしょうか、日が傾き、夕日が海を照らした時、クジラは一度だけ大きくビクリと震え、ちくしょう、と呟いてから動かなくなりました。
クジラは死にました。夕日がとても綺麗でした。
Aが後ろを振り向くと人形は燃えていました。きっとタバコの火が彼に燃え移ったのでしょう。彼は燃えているのに、騒がず、あーあ、とだけこぼし、炎は彼を燃やし尽くしてしまいました。海岸にはAだけが残されたのでした。
Aは長い時間、そこにただ一人で立ち、地平線の彼方を眺めました。潮の匂い、生ぬるい海風、夕日が残していった暖かな残り香、それらを全身で感じました。
ふと、正面を見て、じっと海を見据えました。海は当たり前ですが何も言いません。
どれだけ汚されようと、どれだけその身を利用されようと不平不満のひとつも言いません。
海はただ海であり、それは揺らぐ事のない真実であり、真実は何よりも変えがたく美しいのでした。
Aは真実を見ました。全ては体を通り抜ける風の様に明らかになりました。
彼の体にヒビが入りました。それはパキリという音を立てて、彼の木でできた頬は裂け、中から白くて弱々しい肌が露出します。 亀裂は頬から顔に、肩に、胸に、身体中に広がりました。
木は脆く崩れ去り、中から弱々しい子供が出てきました。それは疑いようのないほどの自分自身でした。
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