1.クラゲの中のミジンコ

ドーム状の大きな幕かと思っていたそれはクラゲの傘でした。

 その透明な薄い膜はところどころ海上から差し込む光が反射して、煌びやかに輝いていました。それまるでドーム型の水族館の様でとても美しい光景でした。

 クラゲがその傘を振るうたびに、傘はシルクのドレスが風に舞う様にふわふわと海中で踊ります。



 そして、足元を確かめてみると、ブヨブヨとしたクラゲの肉に足が沈み込み、くるぶしまで埋まってしまいました。

 その下、つまり海の深いところがクラゲの肉越しにみえましたが、宇宙の真空よりもまだ暗い闇が広がっており、Aは思わず見惚れてしまいました。

 人は海から生まれたと言います。だから、もしかすると人が死んだら行く場所は海なのかも知れません。



 クラゲの中にいると言うと、僕が小さくなったのか、それともとても大きなクラゲなのか、とAは考えましたが、きっと自分が小さくなったのだろうと思いました。と言うのも、周りに合わせて自分を変形させるのが世の常なのですから。

 その透明なドームの中をAが歩いていると、大きいけれど小さいミジンコと出会いました。



 ミジンコは全身水で濡れていて、音符のヘ音記号みたいな形をしていました。

 ブヨブヨとしたクラゲの肉の上に横たわり、ビタンビタンと跳ねています。身体は頼りなく透き通っていて、小さな内臓が生まれたての子犬のように震えながら不規則に動いています。

 「俺は弱く、惨めで、誰からも馬鹿にされている。お前も俺の事を蔑み、騙して、俺から全部奪い去ろうとしているのだろう?そうだ、きっとそうに違いない」

ミジンコは泣きじゃくりながら暴れるから、またビタンビタンと肉にしたたか身体を打ち付けます。



 「馬鹿になんてしてないし、何も奪わないよ。君が思うほど僕は君に興味がない」

「嘘だ。お前は嘘を言っている。俺には何もない、誇るべきことも、愛してくれる人も、昨日と今日が入れ替わっても俺は気が付かないだろう。あるのは絶望だけだ。恥ずべき事だ。昔からそうだった。ちくしょう、みんな俺のことを見下しやがって。今に見てろよ、皆殺しにしてやる」

 そう言うと、ミジンコは先程よりも強くその場でビタンビタンと跳ねてみせて、そのせいでAの顔に水飛沫がかかって、Aはちょっと嫌な気持ちになりました。

 「あー、馬鹿らしい。俺はいい学校を出たのに、社会が悪い、親が悪い、全部悪い」



ぷりぷりと怒りだしたミジンコはウジウジと文句を垂れ流しました。それを聞いてAは、君がそんな態度だからみんな君のことが嫌いになるんじゃないかな、と言いかけましたが、言ったところで彼を更に怒らせるのは目に見えているのでやめておきました。

 「こうなれば、革命しかない。それしか考えられない。不当な扱いに甘んじている労働者達と共にこの国を転覆させる他あるまい。そして、みんなが幸せに暮らせる楽園の様な国を作るのだ」

ミジンコが声高らかに言った時、Aは胸の奥に不安がじんわりと広がっていくのを感じました。



「そんな世界はありえない。全員に幸せを与えるなんて、不気味な話だよ。幸せは貰うものじゃないはずだよ」

Aは思わず口に出してしまいました。

 すると、ギョロリとした目でミジンコはAを睨みつけました。

「お前はつまり、反対派と言う訳だな。みんなの幸せがいらないと言う訳だな。ならば死ね。俺は平和のためならば人殺しも厭わぬ」

そう言って、ベチベチと両手をいっぱいに広げ、その柔らかな腕をAにぶつけてきました。痛くはありませんでしたが、気持ちの良いものではありません。

 さて、どうしたものか、とAが困っていると、海の向こうから大きな大きな影が近づいてきました。

 最初Aはあまりの大きさに海底山脈がプレートによって押し出されて、モリモリと海面に向かって背を伸ばしているのかと思ったほどです。

 しかし、その山が近づいてきた時、それがクジラだとAは気が付きました。

 クジラは低く暗く、まるでこの世の終わりに鳴らされるラッパの音の様な声で歌っていました。



クジラの歌「みんな幸せ」

 

"我々による我々の為の我々の政治

我々による我々の為の我々の生活


ミジンコもオタマジャクシもトカゲも情けない

 あいつら全員苦労を知らずに甘えたい


支えろ世界よりも大事なみんなの生活

 生活って誰の生活?そんな質問興味はない

贅沢したいなら、もっと頑張れ自分の適役


将来は?そんなのは知ったこっちゃねえ計画

最近怪しい王様と人形作り

 俺は譲らねえぞこの席"



近づいてくると、そのクジラの姿がより鮮明に見えてきました。長いお髭を海の底まで垂らし、灰色の目はどこか虚ろで、体全体シワだらけで、そのシワの間には垢がびっしりと溜まっています。そして、シワシワの皮膚は所々がめくれてなんだかとっても汚らしいのです。

 そんな山みたいなクジラが現れた時、さっきまでAに怒り狂っていたミジンコはAへの怒りなんて忘れてしまって、今度はクジラに向かって怒鳴り散らし始めました。

 「お前らは海のもの全部食べちまいやがって、海にはなんにもなくなっちまった。そんなことまでして、まだ生きていたいのか!!!我々はお前らのせいで最早死にかけている。それでも俺たちはお前らの為に食われ続けなければならないのか!!!革命である。クジラ死すべし、クジラ死すべし」



 ミジンコはピョンピョンとはねて叫びますが、クラゲの中のミジンコの声などクジラに届くわけがありません。クジラがクラゲの横を泳いで通った時、海流が渦潮を作り、ただ漂うだけのクラゲはその波に飲み込まれてしまい、必然的に中にいたAもミジンコも天地が分からなくなるほど回り、揺さぶられました。

「ちくしょー!奴らにゃ俺の姿なんぞ見えてないのだ。奴らが生きているだけでどれだけの生き物が苦しむのかわかっていないのだ」

ミジンコはグルグルと回りながら半ばやけになって叫んでいました。Aもまたグルグルとクラゲの内側できりもみ回転したせいで三半規管が無茶苦茶になってしまい、気を失ってしまいました。

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