0.一寸先は暗黒

 Aはほとほと疲れ果てていました。

今日も朝から晩まで工場でネジとボルトを繋ぐお仕事をしていました。朝から晩まで立ちっぱなしです。それだけでなく、果たして自分が作ったものが一体何に使われるのか皆目知らないものだから、まるで自分が物言わぬ機械になった様な気がしてうんざりしてしまうのです。

 それだけでもほとほと嫌気がさすのに、残業ばかりしていて家に帰るのはいつも遅い時間なのでした。

 ご飯を食べてお風呂に入って歯を磨いたら、もうすっかり夜は更けてしまい、Aは思案に耽るのでした。



 あーあ、こんな生活ちっとも楽しくない。

 働いて寝るだけの生活にすっかり慣れてしまったな。でも、普通に生きていけるだけでマシなんだろうな。これが普通なんだろうな。俺は恵まれているんだろうな。この世界には食うにも困り、明日生きている保証すらない人がごまんといるんだもの。ただ、そんな人達も僕と同じ生活をしたら嫌気がさすだろうな。

 そんな事を考えていましたが、すぐに切り上げました。と言うのも、明日も朝早くに起きないと、仕事に間に合わないからです。

 うーんと思い切り伸びをして、ドアの近くにあるスイッチをパチンと消しました。

 すると明かりは消え、Aの目の前には暗黒が広がりました。見知った暗黒です。いつも、この中を五歩だけ歩き(長年この部屋で暮らしているので、Aは歩数を覚えてしまいました)ベッドまで行くと布団を被って何も考えずに眠ってしまうのです。

 この日も、一歩一歩暗黒の中で歩を進めていきます。

 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、六歩、あれ?おかしなことが起きました。

 五歩歩いてもベッドにたどり着けません。

 手をぶんぶんと振りまわして、暗闇を引っ掻いてみても、手は空を切るばかりです。



 困ったものだ、どうしよう。

 とAは言ってみましたが、それほど慌ててはいません。と言うのも、Aにとって日常は苦痛でしかないので、このふって湧いた非日常にほんの少しだけ心が踊ったのもまた事実だからです。

 とりあえず、歩くかとAが暗闇の中を歩いていると、一匹の豚が目の前を駆けて行くではありませんか。

 豚と言っても普通の豚ではありません。二本の足で立って、ブカブカのスーツなんて着ちゃって、額いっぱいに玉の汗をかきながら「ブヒブヒブヒ」と独り言を言って走っているのです。

 「遅刻だ遅刻。公爵様に怒られる。豚をぶったところでちっとも面白くないのに。公爵様はきっと僕を殴るぞ」

そう言っている豚はどこか嬉しそうで、それを見た時、Aは本当にこの豚は幸せなのかと少し考えてしまいました。

 もしかすると、彼は自分の辛い現状に対して、満足していると自己暗示をかけることでなんとか自我を保っているのかも知れません。

 もしくは、公爵様と言う存在に虐げられる事に快感を得ているのかも知れません。なんと言っても人は虐げられる事に快感を覚える生き物ですから。

 何はともあれ、ここがどこなのか聞くべきだと思い、Aは豚を追いかけました。ところがちっとも豚はAに気がつかない。それどころか、どれだけAが走っても豚には追いつかず、どんどん引き離されていきます。

 Aから見て豚は小さな点になって、そして最後には消えてしまいました。

 見失ってしまった。と立ち止まった時、Aは自分が今、海の中にいることに気がつきました。

 と言うのも、彼はクラゲの中にいたからです。

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