第10話『千秋、こっちに来いよ』

 車をまたあてもなく走らせた。

 標識を見ると俺の生まれ故郷近くまで来ていた。

 俺は導かれるように高速を降り、生まれ故郷の町を走らせた。

 もう既に日付は変わっており、片田舎の我が町の人家は静まりかえっていて、田畑の間に等間隔で並ぶ街灯だけが光り輝いていた。

 「どこ、ここ」

 たまりかねたように、千秋が田んぼの真ん中で言った。

 「俺の故郷」

 「おじさん、ずいぶん田舎の生まれだったんだね」

 「そうさ、だからずっと息苦しかった。何をするにも誰かに見られているような気がしていた。田舎暮らしに憧れる都会っ子っているけれど、俺には信じられない。都会の方がずっと暮らしやすい。人がいっぱいいる分、俺がいなくても気づかれなくて済むんだ」

 田畑を超え、車は大通りに入り、その大通りも超え、工場群も超え、住宅街にポツリと建つ高校の前で俺は車を停めた。

 「ここは」

 「俺が通ってた高校。あのさ、前に話しただろ。学校が当時のままなら窓を外して忍び込める」

 「嘘、待って、バレたら洒落にならないよ」

 「いいさ、バレても三十路の男が女子高生を無理やり夜中に連れ回して高校に忍び込んだだけの話だろ」

 「マジで言ってる?」

 「俺は本気だ」



 俺は車から降り、学校の裏門をよじ登って飛び越えた。

 千秋は迷った末、渋々と言った表情で裏門を飛び越えた。

 理解準備室の窓はなんの抵抗もなく外れた。きっとこの十年間、誰も気が付かなかったのだろう。こんな事、誰も気が付かない。

 窓をよじ登り学校に入る。室内から手を伸ばし、千秋を引き上げた。彼女の手は震えていた。何故なのか、犯罪をしているからか、それとも自分を拒絶した空間にまた足を踏み入れているからか。どちらもかも知れないし、どちらも違うかも知れない。所詮俺たちは分かり合えない。でも、それでもこの子を離してはいけないと俺は強く思う。

 「俺のいた教室に行こう」

 殆ど何かに取り憑かれたように俺は足を踏み出し、校内を進んでいった。

 高校時代の事なんてすっかり忘れていたのに、校舎に入ってしまえば手に取るようにどこにどの教室があるのか思い出す。千秋は俺の服を後ろから掴んで、恐る恐る俺の後ろを歩いていた。

 二人で歩く、明かりがなくても窓から差し込む月の光で校舎の中は明るかった。

 迷う事なく、当時いた教室にたどり着く。

 「昔のままだ」

 そう溢れた言葉はすぐに静寂に飲み込まれる。

 等間隔に並んだ机、それを見下ろす教壇。壁に貼られたポスター。月明かりがそれらを優しく包み込んでいる。

 「ここは怖い場所じゃない、少なくとも今は」

 俺は教室の窓際まで歩き外を眺めた。

 校庭は当時よりもずっと小さく感じた。まるでジオラマみたいだった。

 ここが世界の全てだったのに、今ではただのおもちゃ箱の中みたいに感じる。

 後ろを振り向く、千秋は教室の扉の前で所在なさげに立っていた。そこは窓から月の光が差し込まず、とても暗く、千秋の顔もよく見えなかった。

 「千秋、こっちに来いよ」

 そんな所に立ってちゃダメだ。暗い場所じゃない、君は明るい場所にいなきゃダメなんだ。

 千秋は少し躊躇ってから俺の隣まで歩いてきた。二人で校庭を見下ろす。

 「なんだか、不思議な気分」

 千秋はポツリとつぶやいた。

 「多分、あと数時間後にはここで高校生達が騒いでるわけでしょ。でも、今は誰もいなくて、それで多分だけどあたしたちの事もその高校生は知る由もないんだって思うと、変な気がする」

 「世界から取り残されてる感じ?」

 「多分、そんな感じ」

 お互い、目を合わせずにただ外を眺めていた。



 「千秋、もう二度と死のうなんて思うな」

 千秋は驚いたように俺を見つめる。俺は彼女の目をしっかりと見た。美しい瞳、年よりもだいぶ大人びて見える完成された風貌。でもこの子は確実にまだ十六歳なんだ。傷つきやすい子供で世界のことなんてよく知らなくて、これからきっと色んな事を人生で経験していく十六歳なんだ。

 「私だって、出来れば楽しく生きたいよ。でも、前おじさんも言ってたじゃん。歳を取っても辛い事はむしろ増えるし、生きづらさも変わらないって。私もそう思うの。多分、私は生きててもコテンパンにやられ続けちゃうんだって。だからおじさんが死のうとした気持ちも分かるよ。ねえ、なんで、それなのに死ぬなとか言うの。まさかお説教じゃないよね。今更そう言うのやめて欲しいんだけど」

 千秋は静かに、しかし、その語気はしっかりと強く、顔を苦悩に歪めながらそう言った。

 彼女の手首を見る。白くて痛々しい包帯。出来る事ならその傷を代わりに受け取ってやりたい。でもそんなことは出来ない、彼女は彼女の傷を背負って生きていくしかないのだ。

 「確かに、少し前の俺なら死ぬななんてとてもじゃないけど言えなかったな。でも、今は死にたいとは思ってない」

 「なんで?」

 「お前に出会えたから」

 俺はその時、自分が泣いている事に気がついた。頬を涙が伝う、拭っても後から涙は止めどなく溢れる。



 「なあ、千秋、確かに生きるって本当にしんどい。死んだ方がずっと楽だと思う。でもな、たまに生きてて良かったってこともあるんだよ。俺にとってお前がそうだった。お前に出会えて本当に楽しかった。この世界は変わり者に厳しい。多分、お前はこれからもっと傷つく、もっと死にたくなる。でもな、絶対に生きていて良かったって思える日が来る。それはもしかすると明日かも知れない、一年後かも知れない、死ぬ前かも知れない。でも、必ず来る。その時、多分、お前は心の底から生きていて良かったと思う。だからもう死のうなんて思うな。さよならなんて言うな。そんなの寂しすぎるじゃないか」

 俺は泣きじゃっくりを上げながら子供のように泣いた。格好悪い大人だと思う。ダメな男だと思う。上手く生きれなくて、仕事を辞めて、無職で、高校生の女の子を夜通し連れ歩いて、その子の痛みから目を背けて、その子を失いかけたら涙を流して引き止めて、でも、これが俺の嘘偽りのない本心なのだ。

 千秋は俺を抱きしめ俺の胸に顔を押し当てた。胸が温かな湿り気を帯び始める。

 俺は月明かりの中彼女を強く抱きしめた。

 なあ、千秋、お前は悪くない。俺たちは何も悪くない。

 どれだけ時間が経っただろうか。俺たちは泣き止んだ。

 「家に帰ろうか」

 と俺が言うと、千秋はコクリと小さく頷いた。



 帰り道は行きの沈黙が嘘みたいにお互い途方もなく話し続けた。これまでの人生で何を感じていたのか、何に深く心を傷つけたのか。そして、どんなものに涙し、感動したのか。

 そして、太陽は登り朝がやってきて、俺たちの夜の事など無視して世界はまた動き始めた。

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