第9話『サービスエリアでラーメン食べたい』

 夜、暗い廊下に立つ。

 俺は千秋の部屋の前にいた。

 ノックをして扉を開く。

 本棚とベッドしかない簡素な部屋だった。そして、ベッドの上の布団が人型に盛り上がっていた。彼女は頭からくるりと布団を被っていた。それはカイコの繭のように弱々しい繊細な膨らみだった。

 「よう、来たぞ」

 と俺は務めて明るく言おうとしたが、口から出てきたのはぶっきらぼうで辿々しい言葉だった。迷った末、俺はベッドの傍に腰を下ろした。ベッドのスプリングが沈む。背後に千秋の存在を確実に感じる。しかし、千秋は黙ったまま何も言わない。

「あれだな、あれ、恋リアのシーズン2始まったって知ってたか」

 そう言うと彼女はもぞもぞと布団の中で身体を動かした。そして、知らなかった、とだけ短く言った。

 「結構面白いぞ」

 そう、とまた彼女は興味なさそうに無愛想に返事をした。そして沈黙。

 「お前の母さん、ちょっと変わってるな」

 「前から変わってたけど、お父さん出てってからはもう最悪。宇宙人みたい」

 お父さん出て行ってから。そうか、お前のお父さん出て行ったのか。知らなかった。

 彼女が父親のタバコを吸うのは非行ではなく、ただ父の残り香を嗅ぎたかっただけなのかも知れない。

 「よかったらドライブに行こうぜ。今日は車で来たんだ」

 俺は後ろを振り返り、布団を頭から被った千秋を見下ろした。

 彼女は少し躊躇ってから、布団を下げて顔を出した。

 彼女の目は腫れていて、美貌が台無しだった。髪は風呂に入っていなかったからだろう少し油気がある。

 彼女の右手には包帯が巻かれていて、その白い布は俺の心をちくりと刺し、痛みが胸いっぱいに広がった。

 「ひどい顔してるな」

 俺が言うと、彼女は頭の下の枕を手に取り、力強くそれを投げてきた。

 「そんな事言ったらドライブ行ってあげないよ」

 彼女はそう言うとプイと顔を背けた。

 「悪かったよ。もうそんな事言わないからドライブ行こうぜ」

 「準備するから、外で待ってて」

 彼女はそう言ってベッドから立ち上がった。



 彼女がクローゼットを開けてそこに頭を突っ込んでいるのを確認すると俺は部屋を出た。

 部屋の外には彼女の母親が立っていた。

 「千秋は?」

 まるで看護師の報告を促す医者のような口ぶりだった。でも、俺は彼女が千秋を愛していると確信していた。愛情はあるが、その出口を上手く探せていないだけだ。

 「来てくれるそうです」

 「そう、よかった」

 彼女はふうと息を吐いて肩を落とした。

 「あの、もしも、よかったらなんですけど、もしよかったら今度三人でどこか行ってみませんか」

 彼女にそう言うと、不思議そうに首を傾げた。

 「なぜ?」

 「今の二人の関係は良くないと、あなたも思っているのではないですか。でも二人きりだと気まずいでしょ。なら第三者がいた方がなにかと場も和むんじゃないかと思いまして」

 彼女は手を顎に添えて、少し考えてから「合理的ね」とつぶやいた。



 ☆



家の外、レンタカーの小さな軽自動車にもたれかかり、千秋が家から出てくるのを待った。

 もう既に時計は八時を指しており、辺りは真っ暗だった。

 彼女は白いシャツの上に黒いカーディガン、下はジャージと言うラフ過ぎる格好で家から出てきた。

 「ラフな格好だな」

 「着飾っても意味ないでしょ」

 そう言って千秋は断りもなく、軽自動車の助手席に座り込んだ。その時、何故だか俺はこれが千秋との最後の夜遊びになると確信した。

 美しい少女を乗せて車をただ思うがままに走らせた。

 別に目的地があるわけではなく、ただ走る為だけに走る。

 音楽もかけず、ただ車内には沈黙が流れていたが、決して気まずいものではなかった。

 「サービスエリアでラーメン食べたい」

 千秋は外を見ながら抑揚のない声で言った。

 「いいね、ああ言うとこで食べるラーメンって何故だか美味いんだよな」

 俺の言葉に千秋は答えず、彼女はただ外を眺め続けた。

 俺は近くのインターから高速に乗り、ひたすら車を走らせた。平日の夜、車はまばらですれ違うのはトラックばかりだった。



 ☆



 サービスエリアの大きな駐車場に車は数台しか止まっておらず、どこか寂しさを感じた。

 車を停車させると、俺たちは無言のまま車を降りた。

 「手紙読んだ?」

 二人で並んで歩いていると千秋がポツリとそう言った。

 おう、と俺が言うと、そう、と彼女は小さく言った。

 サービスエリアはだだっ広かったが、夜という事もあり、お土産屋は閉まっており、飲食店だけが営業していた。

 無機質な椅子とテーブルが並ぶフードコーナーには客は一人もいなかった。

 ラーメンの食券を買って、シンプルな醤油ラーメンを啜って食べた。何と言う事もない味だった。

 「お前の母さん変わってるけど、悪い人じゃないと思う。お前のこと、本気で心配してるし、愛してる。ただ、上手く気持ちを伝えられないだけなんだと思う」

 「わかってるよ、それくらい」

 彼女はむすっとした表情で言った。

 そしてまた沈黙。俺たちのラーメンの啜る音だけが店内に響いていた。

 「兄貴が賢かったんだ」

 俺は独り言のように呟いた。

 「え、なに?」

 千秋は箸を止め戸惑いの表情を浮かべる。

 「両親は兄貴に期待してたよ。俺は子供ながらに焦った。まずい、捨てられるってね。俺は必死になってテレビで芸人がするギャグを覚えて家族の前で壊れたおもちゃみたいに繰り返しそのギャグを披露した。すると家族は笑ってくれた。もう、涼はお調子者ね、と母親が言った時、俺は救われた気分になった」



 千秋は俺の顔を凝視する。その目から逃げず、俺は彼女の目を見据えて続けた。

 「なるほど、明るくて面白い人を演じたらみんな俺の事を好きになってくれるんだと思ったよ。だから、俺はそうやって生きてきた。でも、上手くいくことばかりじゃない。中学の頃、ヤンキーに虐められた。俺は嫌だったけど、どうやって抵抗したらいいか分からなかった。だから、俺はそこでも明るくて面白い奴を演じたよ。殴られても、踏んづけられても笑ってギャグに変えてしまうんだ。ほら、トムとジェリーのトムってどれだけ殴られても踏んづけられても、ギャグになっちゃうだろ。俺は自分のことをトムだと思うようにしたんだ。本当はそんなことしたくなかったのに。俺の人生万事そんな感じだった。本当は絵を描くのが好きだったけど、オタクって馬鹿にされるのが怖くて高校ではサッカー部に入った。大学でも飲めない酒を飲み続けて盛り上げ役を演じた。会社でもみんなが嫌がる仕事をすんなり引き受けて、いつも笑顔でいい奴を演じ続けた。それで俺は去年の冬に首を吊って死のうとした」

 千秋は黙って俺の事を見続けている。俺はもう彼女から逃げない。俺なりに彼女に責任を持ちたい。心の底からそう思っている。



「首を吊って気がついたら病院だった。紐が上手く結べてなかったらしく、死ぬ寸前で解けて地面に落ちたらしかった。それから俺は何もしたくなくなって会社を辞めた」

 そこまで言うと、千秋は箸を握りしめて、黒いスープを見つめた。そしてポツリと、ままならないね、と言った。まったくその通りだった。

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