第8話『拝啓、山中涼様』


 「随分と千秋に良くしてくださったみたいですね」

 喫茶店の窓際の席、千秋ママがカップに口をつけて紅茶を飲むと、俺の背中に嫌な汗が流れた。

 と言うのも、これは皮肉なのかも知れない。よくも私の娘を夜中に連れ回してくれたな。と言う意味合いをこっそり含んだ言葉なのかも知れない。もしかすると何かしらの罪で俺を訴えるつもりなのか。民事訴訟か。金ならないぞ。

 「いやあ」

 と曖昧に答えてコーヒーを啜るのが精一杯だった。

 「謙遜なさらないでください。彼女が死のうとした時、私への手紙も友人への手紙もなかったけれど、あなたへの手紙はしっかりとあったのだから。住所も書いてありましたし、切手も貼ってありました。出そうかどうかずっと迷っていたのでしょう」

 その言葉に思わずコーヒーカップを持つ手の力が抜け、黒い熱湯は俺の太ももに滴り落ちた。皮膚が焼けて、激痛が走るが声も出せなかったし、瞬きひとつできなかった。

 「どう言う意味ですか」

 やっと絞り出したのはその一言だけだった。

 「命に別状はないのでご安心ください。睡眠薬を飲んで手首を少し切っただけです。どちらの方法も確実に死ぬには適さない方法です。死ぬのなら手首は腱が切れるくらい深く切らなければならないし、睡眠薬ならお腹いっぱいになるまで錠剤を飲まなければなりません。彼女は身体的にはとても元気です。数日入院しただけですぐに退院できました。ただ、家に帰ってからは部屋から出なくなって、一言も話してくれなくなりました。もう二週間近くそのような状況です」



 彼女はまるで天気の話をするような抑揚のない無感情な調子でそう言った。

 「よく冷静でいられますね」

 自分の声が少し荒立っていることに気がついた。

 「泣き喚いても問題は解決しませんから、私は冷静かつ早急に娘の問題を取り除くべく、娘が一番信頼しているあなたの元にやってきたのです」

 そう言うと彼女はまた紅茶を一口飲んだ。

 全く頭がついていかなかった。学校で千秋に何が起きたのだろうか。そもそも千秋はなぜ学校を休んでいたのだろうか。何も分からない。俺は彼女の事を何も知らない。知ろうとしなかった。全身の血が冷水に起き変わったような気分だった。手が震えていた。突然、崖の上に立たされたみたいだった。これは俺に対する罰なのかも知れない。俺は今まで彼女に対して傍観者を決め込んでいた。その罪に対する罰を俺は今受けているのだ。

 「俺にどうしろと」

 「彼女と話して、彼女の精神状態をよくして欲しいのです。これは彼女があなたに宛てた手紙です。この中には彼女の問題が書かれています。正直、私は彼女とどう接していいか分かりません。あなたが頼りです」

 そう言うと彼女はバッグの中から手紙を取り出した。封筒には熊のシールが貼られている。その下に「山中涼様へ」と丸い文字で書かれていた。

 それを受け取った時、ずっしりとした重みを感じた。それは今まで見て見ぬふりしてきた重みだった。



 どうしたらいいか私には分かりません。

 そう言った千秋の母親の表情からは何も読み取れなかった。きっと彼女も長いこと見て見ぬふりしてきたのだろう。だから分からなくなってしまっているのだ。

 「なぜ、見ず知らずの俺をそこまで頼りにするんですか。知っていると思いますが、俺は彼女の夜遊びに付き合っていたただの非常識な男です」

 「たしかに、世間一般からすればあなたは非常識な男です。でも、千秋は夜出歩くようになってから少し明るくなりました。私にもほんの少し笑顔を見せる時すらありました。だから私は夜歩きを強く咎められなかった。手紙を読んで彼女の精神が向上した理由があなただと知りました。あなたは非常識な大人ですが、千秋にとっては唯一の友人なのです」

 俺は火傷でヒリヒリする太ももを手で押さえながら、受け取った手紙を凝視した。



 □



 拝啓、山中涼様。



 元気ですか?私は元気ではないです。この手紙をおじさんが読んでる頃にはきっと死んでると思います。

 おじさんと夜中に散歩した夏の日々は本当に楽しかったよ。恥ずかしくて言えなかったけれど本当にありがとう。それと、直接ありがとうって言えなくてごめんね。

 この手紙を出すかどうかずっと迷っています。だって、こんな手紙受け取ったらおじさん重いだろうなとか思うし。

 でも、何も伝えずに一人で死ぬのも寂しいし、それによくしてくれたおじさんに対して何も伝えずに死ぬのは失礼なのかなと思い、思い切って手紙を書きました。

 私の秘密をおじさんに知って欲しい。



 私は女の子として産まれたけれど、好きになる人は全員女の子です。

 私はレズです。その事実に私は時折絶望します。



 結婚も出来ず、子供も作れず、一生本当の自分を隠して生きないと、からかわれたり、傷つけられたりするのだと思うと、死んだ方がマシだと思います。

 なんとか普通になろうと思って努力しました。高一の冬にクラスの男子に告白されたので、付き合ってみる事にしました。私はレズである事は思春期特有の性自認の揺らぎであり、男の子と一緒にいれば自然と男性が好きになれると思っていました。

 でも、無理でした。私の部屋で彼と一緒にいた時、彼は私の唇に口づけをしてきました。それだけでなく、胸を服の上から揉んできました。そして抵抗しようともがいた手をガッチリと掴まれて押さえ込まれました。

 私は言いようの無い嫌悪感に襲われました。身体がバラバラにされたみたいな感覚でした。

 やめてと言っても男の子はやめてくれませんでしたが、私が絶叫した時、ようやく手を止めてくれました。

 私はそのあと、声も出さずに泣きました。

 男の子には悪い事をしたと思います。きっと、彼の行動は私たちくらいの年頃の男の子からしたら当然の欲求であり、また、当然の行為なのでしょう。でも、わたしには到底彼の身体を受け入れる事は出来ませんでした。

 私の心と体がこの世界から拒絶されたような気分でした。

 私はきっとおかしな女です。生物学的にもおかしな女です。同性が好きで生殖を目的とした恋愛ができず、クラスメイト達にも親にも嘘をつかないと生きていけません。



 それが嫌で嫌で仕方なくて、もう、誰にも会いたくなくて学校を休むようになりました。

 誰にも会いたくなかったから、夜中に出歩くようになりました。

 そして、おじさんに会いました。

 おじさんは優しくて、少し間抜けで、格好悪くて、そんなあなたと出会えてとても嬉しかった。

 おじさんは気がついてないだろうけど、おじさんとの日々は産まれてはじめて嘘をつかなくていい日々でした。

 おじさんがいたから、もしかするともう一度学校に行けるかも、とも思えました。

 でも、やっぱり無理でした。

 頑張って学校に行ってました。でも、どうにも私は学校に馴染めません。

 男子が私と話すとき、チラリと胸を見てきたりする表情は我慢出来ないくらい気持ち悪いけど、自分に対してもどうしようもないほどの嫌悪感を感じます。

 朝、可愛い制服を着て鏡の前に立つと、私はとても醜い生き物になった気がしました。



 そんな醜い生き物が恋をするなんておこがましいと思っています。

 それでも、私はまた性懲りも無く女の子に心を惹かれてしまうのです。

 これはもはや呪いです。一生続く呪いです。

 だから、もうこの呪いを断ち切ろうと思います。

 私は私も世界も大嫌いです。でも、ギガントピテクスが大好きです。ギガントピテクスは間抜けでお人好しそうで、おじさんにそっくりだからです。

 ギガントピテクスは最後は絶滅しちゃったけど、おじさんには幸せになって欲しいと思っています。

 最後に、本当にいままでありがとう。さようなら。こめんね。

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