第7話『夏休みが終わったらまた学校に行こうと思ってるんだ』
千秋と会ってから二ヶ月近く経ったある日のことだった。夏は後半戦に入っていて、街を歩く学生達は夏休みを惜しむように足早に歩いていた。
その日も俺は千秋と共に歩いたり、時には立ち止まったり、笑ったりしていた。
夜中の三時、公園に俺たちはいた。いつものように、それじゃまた明日ね、と千秋が言ってくれるのかと思っていたが、違った。
その日、千秋は、おじさん、少しだけ話があるの。と控えめに言った。どこか座ろう、俺は言って、近くのベンチに二人で座った。
「私、夏休みが終わったらまた学校に行こうと思ってるんだ」
彼女はそう言って、どこか遠くを見つめていた。その目線の先は目の前の雑木林よりももっと遠くを見つめているようだった。
「そうか」
「だから、おじさんと散歩できるのも今日が最後なの」
「そうか」
「寂しくても泣かないでよ」
「誰が泣くか」
俺たちの間に少しの沈黙が訪れた。これで最後か、いつまでも続くものではないと思っていたけれど、終わりとは突然だ。
「ひとつだけ、言わせてくれ」
「なに?」
「無理してまで行かなくていいんだぞ、学校なんて」
「ありがとう、でもね、みんなが昼に学校行ってるのに、夜に散歩しているのが最近少ししんどくなってきちゃってね。あ、おじさんといるのは結構楽しいんだけどね。ふと、考えるの。あ、脱線しちゃってるって。私、頑張って普通に生きてみたいの。普通に学校行って、普通に大学にも行きたい。本当よ。だからね、嫌だけどやっぱり行かなきゃって決めたの」
違うよ。千秋、それは違う。普通になんてならなくていい。お前はお前のままでいい。
「そうか、俺はまだ暫くダラダラ過ごす予定だから、暇ならまた来いよ」
「どこに?」
「公園に」
「でも、あたし達、連絡先も交換してないのに待ち合わせなんて無理だよ」
「あ、そうか」
「そうだよ、もう、なに言ってるの」
二人でひとしきり笑った後、千秋は言った。
「ねぇ、おじさん、住所教えてよ。手紙出すよ」
「LINEでいいだろ」
そう言って、ポケットから携帯を出そうとしたが、千秋がダメと言って俺の手を取り、制した。
「LINEなんて味気ないよ。それに、いつでも連絡取れるってなったら、私、おじさんにまた頼っちゃう。だから、手紙がいい。それに楽しそうじゃない?手紙」
頼っちゃう。違うよ、千秋、俺の方がお前に頼っていたんだよ。そう思った時、寂しさが込み上げたが、我慢した。彼女よりも一回り近く年上なのだ。俺は大人なのだ。
「そう言うことなら」
俺は自分の住所を彼女に伝えた。それを彼女は携帯のメモ帳に書き留めた。
「これで暫くお別れだね。今までありがとうね、おじさん」
彼女はそう言うと笑った。その笑顔は儚げで、触ったら消えてしまいそうなほど繊細なものに見えた。
×
千秋と最後に会った夜から数週間後、俺は昼の街を練り歩いていた。
なんのことはない、俺は再就職先を探し始めていたのだ。
企業の説明会や展覧会に足繁く通い、いろいろな所を見て回ったが、結局どこも同じように見えた。
これが本当に俺がしたいことなのか?俺がすべきことなのだろうか。疑問が頭をよぎるが、全て無視した。
そんな子供じみた考えは捨てろ。働くんだ。働かないと金が手に入らない。金がないと幸せになれない。幸せになれないと生きている意味がない。
俺は自分に言い聞かせて働き口を探し続けた。
残暑は厳しく、容赦なく日光が照りつける歩道の上で立ち止まった。その日は午前中で企業の説明会が終わり、午後からすることはなく、後は部屋に帰るだけだった。しかし、あまりの暑さに俺は耐えきれず、喫茶店に入った。
クーラーの効いた店内でアイスコーヒーを一気に飲み干す。
窓ガラスの向こうでは人々が急ぎ足で歩いていく。サラリーマン、子供と母親、老人、OL、学生。
俺も店を出れば彼らに混じって歩くのだ。昼の街を歩いていると、自分のことを抜け殻のように思った。本当の魂を夜の世界に忘れてしまったのだ。
千秋はどうだろう。彼女は学校でうまくやっているだろうか。千秋、美しい女の子。彼女がいたから俺は夏を乗り越えられた。彼女がいなければ俺はとっくに首をかき切って自殺でもしていた。
千秋がこの世界で踏ん張って生きている。そう思うだけで、俺も少し頑張ろうかな、なんて思えた。我ながら単純だ。
それからまた暫く経った。九月になり、朝起きて家を出た時や夜コンビニに行く時、外の涼しさに少し驚く。季節はあいさつもなく確実に変わっていくのだ。
面白いほど企業の内定を貰えた。受けた企業の殆どで内定が出た。
俺は元来嘘をつくのが得意なのだ。
やる気はありますか YES
働きたいですか YES
愛社精神を持てますか YES
こんな馬鹿みたいな事で職にありつけるなんて、世間というのも大したもんじゃないなと思った。
△
更に数週間が経った。季節は夏から秋に確実に移り変わり、シャツ一枚で外に出るのは厳しい季節になっていた。
その日、俺は夕方部屋の中でぼんやりと天井を眺めていた。
俺は受かった企業の中からどの会社で働こうか悩んでいた。まあ、別にどこに行っても同じなのだ。だから、悩む必要もないのだが。
悩むのにも疲れたので、愚息を虐めてやろうかとジャージを脱いだ時、部屋のチャイムが鳴った。
どうせ宅配だろう、まったく、なんてタイミングが悪いのだ。
舌打ちをしながらズボンを上げて玄関を開くとそこには配達のにいちゃんではなく、恐ろしく綺麗な女がいた。彼女は黒いワンピースに身を包み、銀河に浮かぶ天の川のように輝く長い黒髪はこの世の真理を内包しているかのようだった。
彼女が真っ直ぐに俺を見据える。その時、この女が千秋に瓜二つであることに気がついた。千秋がしっかりと年齢を重ねたらきっとこんな女性になるだろう。
「山中さんですよね、はじめまして、千秋の母です」
その女性は淀みなく、よく通る声で一息にそう言うと頭を軽く下げた。
「は、はじめまして」
俺は思わぬ人物の登場に呆気に取られていた。それにしても美しい。俺は彼女に少し恐怖心を抱いた。本当に美しいものを見た時、人は喜びよりも恐怖が勝るのだと知った。
「お頼みしたい事がありお伺いいたしました。突然で失礼ですが中でお話をさせていただいてもよろしいですか」
こんな美人を部屋に招き入れる機会など一生ないであろうから喜んで「はい」と答えたいところだが、なにぶん俺の部屋には俺以外にもゴキブリやら小蝿など愉快な仲間達がいる。荒れ果てたマイルームはとてもじゃないが来客対応できるような状況ではない。
「すいません、少し散らかっていて。近くに喫茶店があります。そちらでどうですか」
俺がそう言うと、千秋の母は急な来訪を詫び、喫茶店へ行く事を了承した。
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