第6話『夜の世界には俺と千秋しかいなくなってしまったようだった。』

「おじさん、やばいってこれ!!!」

 ある日、俺たちは散歩中、突然の豪雨に襲われた。

 俺たちは必死になって走った。雨は俺たちの服を瞬く間に濡らしていった。その雨から逃れる為、走り、バス停の屋根のあるベンチを見つけるとそこに逃げ込んだ。

 俺たちは膝に手を置いて肩で息をした。久しぶりにこんなに走った。昔、高校生の頃なんて少し走ったくらいじゃ息ひとつ切れなかったのに。俺は確実に歳をとっている。いや、これは老化じゃなくてただの運動不足か・・・

 ずぶ濡れになっても千秋は楽しそうだった。ずぶ濡れになった俺を見てずぶ濡れの彼女はケタケタと笑う。



「ダメだね、これ、風邪ひいちゃうね」

 笑いながら千秋は言う。その通りだ。俺はタバコに火をつけて、土砂降りの夜空を見上げた。まったく、やってくれるよ。

「雨が止んだら今日は帰ろう」

 俺がそう言うと、ええーと千秋は声を上げた。

「もったいないよ。ずぶ濡れで散歩するってレアな経験だと思わないの?」

 千秋が信じられないと首を横に振る。

「そんな経験しなくていい」

 俺はタバコを濡れた地面で押し消して、無造作にポケットの中に吸い殻を突っ込んだ。

「じゃあさ、じゃあさ、タオル貸してあげよっか?」

「持ってないじゃん」

「私の家近いの、タオル貸してあげるから、そこまで歩こ、ね、いいでしょ?」

「お前の親に見つかったら、俺、半殺しにされるんじゃねえのか?」

「大丈夫よ、バレっこないって」

 雨上がりの夜道、俺は千秋の後ろをホテホテとついて歩いた。

「家まで何分くらいなの?」

「うーん、三分くらい」

「近いな」

「近いって言ったでしょ?」

 確かに、タオルを貸してもらったほうがよさそうだ。雨上がりに吹く風は冷たく、濡れた衣服は俺の体温を容赦なく奪っていた。俺の家までは歩いて三十分くらいかかる。そんなに歩いていたら絶対に風邪を引いて痛い目を見ることになるだろう。

「俺、家には入らずに外で待ってていい?」

「え!?お茶でも飲んでいきなよ」

「馬鹿野郎、そんなにくつろげるか」

 千秋はうふふふと笑いながら歩いていく、この女の子は一体何がこんなに楽しいのだろうか。ふと、俺は十歳も年下の女の子とこうして歩いていることがひどく不思議に思えた。

 俺の人生はどこでどう迷走して、この袋小路に入ってしまったのだろうか。そして、どうして、この女の子は俺と同じ袋小路にいるのだろうか。疑問が頭に浮かぶ。なぁ、千秋、お前、どうして夜中に歩き回ってるんだ?

 言葉にして聞いてみたかった。でも、出来なかった。聞くことで、彼女と過ごすこの緩やかな時間が崩壊してしまうのではないかと思うと、俺は尻込みしてしまう。

 俺はそんなに千秋のことを大事に思っているのか。馬鹿みたいだ。十歳も年下の女の子が今地球上にいる唯一の友達だなんて。



 やがて、俺たちは一軒家の前で立ち止まった。千秋が振り向き「これが我が家です」と俺に言った。

 千秋が家の中に入ってしまうと、俺は道の真ん中に立ち彼女の家を眺めた。なんてことはない、二階建ての洋風一軒家だ。表札を見ると、深見とあった。「深見千秋」それがあの子のフルネームかなんてぼんやりと考えていると、二階の一室に灯りがともった。窓から千秋が見える。彼女は部屋の中から俺に手を振ってみせてくれた。俺は彼女に手を振り返す。そうすると彼女は悪戯っぽく笑ってカーテンを閉めた。

 きっと今、彼女はカーテンの奥で着替えをしているのだ。一瞬、俺は裸になった彼女を想像した。

 濡れた長い黒髪がきめ細やかな白い肌にぺとりと張り付きその白さを更に映えさせる。そして、小ぶりな胸は魚の夢を見て眠る子猫のように愛らしい。

 そこまで想像してから、俺は頭を振って妄想を吹き飛ばした。俺は未成年の女の子相手に何を考えているのだ。どう考えてもそれは卑劣な行為だった。俺は自分を恥じた。



 もう長いこと女を抱いていない。千秋の裸を想像するなんて、もしかして俺は欲求不満なのか。明日、風俗にでも行こうかな。なんてぼんやり考えていると、ジャージに着替えた千秋が玄関から出てきた。手には大きなバスタオルを持っている。

「はい、おじさん、これ使ってね、あとね、お父さんのシャツも持ってきたからよかったら着替えて」

 見ると、バスタオルの下にシャツがあった。黒い、大きなシャツだ。俺はありがとうと言うと、ずぶ濡れのシャツを脱ぎ、上半身をバスタオルで手早く拭いた。

「おじさん、ここで着替えるの?」

「夜中だから、誰も見てねえよ」

「ほんと、変なとこで臆病だったり、変なとこで大胆だったりするよね」

「シャツありがとな。洗って返すよ」

 着替えると、乾いたシャツの肌触りが心地よく、晴れやかな気分になった。

「いいよ、返さなくて」

「でも、オヤジさんのなんだろ?」

「いいよ、別に」

 千秋は感情を込めずに繰り返した。それ以上聞くことはしなかった。

「じゃあ、俺、帰るわ」

「うん、じゃあ、また明日ね」

 千秋はそう言って手を振った。また明日。その言葉が俺の心に染み入っていった。



 ☆



 その日は家に帰ってもうまく寝付けなかった。朝日が登り、普段は眠っていて聞かない人々の生活音が部屋に入ってきた。

 車の走る音、子供たちが登校する声、隣の部屋から聞こえてくる朝のテレビ番組。

 俺は寝るのを諦めて、簡単な服に着替えてしまうと部屋を出て朝の散歩に出かけた。

 太陽が眩しい。俺がムルソーなら哀れな男を殺すところである。

 俺は100メートルも歩けず、どこかで休憩したくなった。勘弁してくれよ。全く、朝の光は俺のことをじりじりと溶かそうとでもしているみたいに容赦なく降り注いだ。

 俺は駅ロータリーのバス停のベンチにへたり込んでしまった。道を見れば車でいっぱいだったし、歩道はスーツを着たリーマン、OL、子供を連れた主婦がいそいそと歩いている。



 俺は牢屋に入れられた夢を思い出した。

 千秋、彼女がいないだけで、あの夢にそっくりだ。なぁ、千秋、お前、今、なにしてる。

 俺は今、確実にひとりぼっちだった。急いで自分の部屋に帰ってカーテンを締め切り、日の光が入ってこないようにして眠った。

 起きたのは夜の七時ごろだった。酷く腹が減っていたので、近くのラーメン屋に行くことにした。貯金はまだまだあるが、今後の生活を考えればあまり外食などせず、慎ましく生活すべきだろう。しかし、まぁ、たまの贅沢くらいよしとしよう。

 ラーメン屋で俺は醤油ラーメンを頼んだ。頼んでからぼーっと店内のテレビを見ながら考えた。

 さて、この人生の袋小路に陥った俺はどうすればいいのだろうか。また、社会の荒波の中に戻るのか、それともバイトでもしてこの生活をしばし延長させようか。いろいろと考えたが、考えても答えは出なかった。俺は一体何がしたいのだろうか。

 そんなことを思いながらラーメンを啜った。ラーメンは無類のうまさだった。

 




「なりたいものとかないの?」

「えー、私!?」

 俺たちは、その日散歩には行かず、公園で二人ブランコに揺られていた。

「将来の夢とかさ、なんかそう言うのある?」

 俺が言うと、千秋は困ったように笑った。

「別にないよ。だって、私、明日のことすらよくわかんないのに、将来どんな仕事についてとか想像すらできない。おじさんは高校生の頃、あったの?そう言う夢」

「高校生の頃の夢は、そうだな、夢と言っていいか分からないけれど、とにかく生まれ故郷から出たかったな。よく言うやつだ。ここじゃないどこかへって言う」

「悩み多き青春だったんだね」

「別にそうでもないけど、千秋もそう言う時ないか?自分のこと誰も知らない町に行きたいとか思ったことないか?」

「消えたいって思うことはあるよ。チリみたいに風に飛ばされて綺麗さっぱりこの世からいなくなりたいって」

「そう言う気持ちわかるわ。俺もたまに考えるよ」

「おじさんもこう言うこと考えるんだ。大人になったら思わなくなると思ってた」

「千秋、大人になってもな、大して変わらねえんだよ。みんな建て前でもの話すのが上手くなるだけで、根っこはお前らくらいの歳からあんまり変わらねえんだよ」

「私、おじさんのそう言うところ好きよ」

「どう言うところだよ」

「そう言うカッコ悪いこと正直に話してくれるとこ。学校で先生が偉そうにいろいろ言ってくるけど、私分かるの。みんな本心から言ってないんだって、言わなきゃいけないから言ってるだけなんだって。本当はどうでもいいけど、大人だから言わなきゃいけない。そう思ってるのがわかる時があるのよね」

 俺はそれには答えず、ブランコの上に立ち、体を前後させてブランコの振れ幅を大きくした。身体が前へ後ろへと揺れる。

 そんな俺の姿を彼女は楽しそうに見つめていた。



 千秋、違うんだよ。俺は正直なんかじゃなくて、ただ、自信がないだけなんだ。二十七歳にもなって、自分が大人ってことが信じられないんだよ。俺はまともな大人になれなかったんだ。俺は世間からあぶれた出来損ないだ。千秋、お前には俺みたいになって欲しくないな。

 俺は必死になってブランコを漕いだ。そして前にブランコが伸びきった時、真正面に思い切り飛んだ。少し足をくじいた。

 俺は千秋と別れてから部屋に戻ることなく、朝の街を1人ブラブラと歩いた。

 小鳥のさえずり、犬を連れたおじさん、ジョギングするおばあちゃん。俺はそんな光景を駅前の植え込みに腰をかけてぼんやりと眺めていた。

 俺はまたこの世界に戻らなくてはならない。昔の自分を想像してみた。ネクタイを締めて、満員電車に揺られて出勤する朝の自分を。

 想像しただけで吐き気がした。俺はそのレールの上から転げ落ちてしまったのだ。

 なんで俺は仕事を辞めたのだろうか。別に続けてもよかったのではないか。駅の中に吸い込まれていく人々、吐き出される人々を見つめながらそんなことを考えていた。

 今日は朝のラッシュが終わるまでそうして座って人の顔を見つめていた。

 皆、どこか眠たそうな目をしながら歩き去っていく、彼らは果たして本当に幸せなのだろうか。本当は会社や学校になんて行きたくないのではなかろうか。自分に嘘をついて生きているのではなかろうか。

 そんなことを考えていたが、下らなくなって俺は帰った。

 


 ☆



 また違う日、俺たちは散歩中、野球ボールを拾った。適当な公園に入り、二人でキャッチボールをした。グローブはないので優しく、取れるように力を抜いて弧を描くような軌道でボールを投げた。

 なかなか千秋は筋が良かった。しっかりとボールを捕球すると、サッと流れるように綺麗なフォームで投げてくる。

「上手いもんだな」

 俺が言うと千秋は嬉しそうに笑った。 

「でしょ?運動神経いいのよ、私」

 俺たちはしばらく黙々とキャッチボールをした。

「おじさんって高校時代好きな女の子とかいた?」

「まぁ、いたよ」

「その子とどうなった?」

「告白も出来ないまんま卒業したよ」

「私と一緒じゃん。後悔してる?」

「うーん・・・まぁ、後悔していた時もあるよ。でも、大学生になって、また好きな人ができて、その人と付き合ったりしているうちに忘れていったよ。お前に聞かれるまでその女の子のことなんてすっかり忘れていたよ」

「そっか、忘れちゃうってことはそんなに好きじゃなかったってこと?」

「ちゃんと好きだったよ。狂おしいほど好きだった。でも、それでも忘れちゃったんだ」

「ふーん・・・じゃあ、最近別れた女の人、ほら、仕事辞めて別れた人いたじゃん。あの人の事はどう?覚えてる?」

「覚えているし、あの子のことを考えると未だに胸が痛いよ。でも、きっと、夏が終わる頃にはなんとも思わなくなるだろうな」

「なんだか、寂しいな」

「そうか?」

「そうよ。私は好きになった人のこと、ずっと覚えていたいな。だって、忘れちゃったらさ、その人のこと好きだった頃の自分まで蔑ろにしている気がしてなんかやだな」

「でもな、忘れるからこそ、人は生きていけると思うぞ」

「珍しく大人みたいなこと言うのね」

「俺は大人だ」

 千秋は口をへの字に曲げてボールを投げた。きっと彼女には忘れられない人がいるのだろうな。



 彼女はきっと若さ故に恋に恋しているのだろう。しかし、いざ付き合ったり、キスしたり、セックスしたりしても決して他人との距離は永遠に埋まらないんだよ。逆に近くなればなるほどどうしようもなく埋まらない溝がある事に気がついて、孤独がより一層増す。きっと彼女も大人になる過程でそれに気がつくだろう。


 千秋と分かれてから、部屋に戻り、高校生の頃好きだった女の子の名前をSNSで検索した。

 彼女は苗字が変わっていた。時間は過ぎていくのだ。SNSには彼女の顔写真も掲載されていた。彼女は笑っていた。そして確かに十年歳をとっていた。彼女は俺と違い太陽の下を歩いているように思えた。

 夜の世界には俺と千秋しかいなくなってしまったようだった。

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