第5話『ギガントピテクス』

 久しぶりに夢を見た。馬鹿みたいな夢だった。俺は牢屋の中にいた。鉄格子の向こうはちょうど大通りに面していて、牢屋の前をいろんな人が通っていく。サラリーマン、子供と母親、老人、OL、学生。皆、俺の目の前を通っていくと言うのに、誰も俺のことを見ない。世界に否定されているような気持ちになった。

 俺は少し泣きそうになった。すると後ろからコロコロと笑い声がする。振り返ればそこには千秋がいた。千秋は膝を抱えて座っていた。

 俺は千秋の隣に座り、肩を並べて鉄格子の向こうの町を眺めた。眺めていると眠くなっていき、だんだんと俺は眠りの中で眠りの中へと入っていった。

 夢の中の夢で俺は教室の中にいた。闇が広がる教室。俺はここが怖くて堪らなかった。今までそれを忘れていた。そうだ、俺は学生時代学校が怖くて仕方なかった。教師も学友も怖かった。早く卒業したかった。大学に行けば、社会人になればこの恐怖が少しは薄まるのだろうと思った。そうであって欲しいと思っていた。しかし、そうはならなかった事を俺は知っている。


 すまない。


俺は俺に言った。

 


 ☆



 公園に行くとベンチに座り、外灯の明かりを頼りに千秋は本を読んでいた。

「なにを読んでるんだ?」

 俺がそう言うと、千秋は顔をこちらに向けた。

「適者生存説についての論文を読んでるの」

「難しい本を読んでいるんだな」

「意外と簡単だよ。要するに自然界において生き残るのにはね、力が強いとかじゃなくてね、環境に適応し続ける力が必要なの」

「なら、俺はすぐに絶滅しちまうな、生まれてこの方適応できた試しが無い」

「自然淘汰ね。でも、私、絶滅しちゃった生き物って結構好きだよ。大きすぎて食べるものがなくなって絶滅したギガントピテクスとか、なんだか少し可愛いなって思う」

「可愛くても絶滅したら意味がないよ」

 クスクスと俺たちは笑った。


「おじさんはさ、恋人とかいないの?」

 散歩中、唐突に千秋は俺に尋ねてきた。

「いたけど、仕事辞めた途端に別れたな」

「え、なんで?」

「将来が不安だからってフラれたよ、まぁ、至極当然の意見だわな」

「将来が不安だから人のこと嫌いになるのって結局その人はおじさんのことじゃなくて自分のことが好きだったんだね」

「なかなか深いこと言うんだな」

「まぁね」

 千秋は鼻を擦って恥ずかしそうに笑った。

「千秋は彼氏いないの?」

 俺がそう言うと千秋は正面を見据えて口元を歪ませた。

「いないよ、クラスの男子ってさ、すっごく子供っぽいしさ、なんだか汚いし、そもそも恋愛対象外って感じ」

「なら、恋リアに出てくる男の子たちは?あの子たちかっこいいじゃん」

「えー!!!おじさん、見てくれたの?嬉しい!!!絶対見ないと思ってたから」

 日中暇なので彼女に教えてもらった番組をずっと見ていたのだ。

「意外と面白いな、あれ」

「でしょー!?」

「ああ言う男の子たちはタイプじゃないのか?」

「見る分にはいいけど、付き合いたくはないかな。ね、そんな事よりもちょっと語ろうよ」



 俺は興奮する千秋の話をうんうんと頷いて聞いた。千秋は目を輝かせて番組のあらすじを俺に語った。俺も見ていて知っていると言うのに。

 そんな千秋のことを俺は愛おしいと思った。こいつは俺のことをおじさんと呼ぶが、俺からしたら少し歳の離れた妹ができたみたいな気持ちだった。

 千秋が軒並み番組について語り終えた頃、遠くに屋台を引くオヤジが見えた。あれはまさか・・・。俺は千秋の肩を叩く。

「どうしたの?」

「あれ、屋台ラーメンじゃね?」

「嘘!?マジで!?」

 俺たちは目を見合わせて飛び跳ねた。夜中に屋台ラーメン。これほどまでにテンションを上げてくれるシュチュエーションもない。俺たちは屋台に向かってかけて行った。

 屋台ラーメンは格別だった。屋台を引くオヤジさんは優しそうな恰幅の良い老人だった。

 俺と千秋は肩を並べて屋台に座り、ラーメンを無心で啜り込んだ。優しい味の醤油ラーメンだった。

「夜中に食べるラーメンってなんでこんなに美味しいのかな」

 千秋が口をてからせながらしみじみ言う。

「オヤジさん、ビールも追加で」

 俺はビールを頼み、ゴクゴク飲んだ。千秋が、私も!と叫んだが、千秋にはコーラをとオヤジさんに頼んだ。

 千秋は恨めしそうに俺を見つめたが、俺は気がつかないフリをしてビールを飲み続けた。

「美味かったな」

「最高だったね」

 俺たちは満腹になった腹を抱えて夜道をまた歩き出した。

「多分、私たち、今日世界で一番ラーメンを美味しく食べた人間だよ」

「違いない」

 



 ☆



 また違う日、俺たちは歩いていたら、飲み屋街に出た。会社員時代はよく来た所だった。飲み屋街は深夜一時を回っていても人がまばらにいる。皆、千鳥足で少し頬を赤く染めている。千秋はそれを物珍しそうに見つめていた。

「こういう所来たことないだろ?」

 俺がそう言うと彼女はコクリと頷いた。

「うん、だってあたし十六歳だよ」

「大人になったらよく行くことになるだろうよ」

「大人ね、大人になったら、もう少し生きやすいかな」

「そうだよ。と言ってやりたいけどな。千秋、大人になっても生きやすさというものはあんまり変わらないぞ」

「嫌なこと言うのね」

「嘘はつきたくないからな」

「ねぇ、おじさん、あたし飲み屋に入ってみたい」

 彼女は目を好奇心で輝かせてこちらを見つめてきた。さて、困った。俺も二十七歳だし、女をどう言った飲み屋に連れて行けばいいのか、ある程度の心得はあるつもりだ。しかし、十六歳の女の子をどんな飲み屋に連れてってやればいいか全く見当もつかない。

「お洒落な所と雑多な所ならどっちがいい?」

「お洒落なところ!!!」

 千秋は即答した。なるほど、わかった。なら、うんとお洒落な所に連れてってやろう。

「よし、バーに行くか」

「えー!!!バー!?」

 千秋はぴょんぴょん飛び跳ねた。

「スゴイスゴイ!!!あたし、そんなとこ行ったことないよ〜!!!えー、今日めっちゃラフな格好で来ちゃったんだけど」

「気にするなよ、俺もラフな格好だし、それに普段着の方が慣れている感あってかっこよくない?」

「かっこよくない!!!」



 俺たちは飲み屋街の路地裏にあるこじんまりとしたジャズバーに入った。店員が俺たちを席まで案内する。店内は意外と広く、カウンターは十人がけくらい、フロアには四人がけのテーブルが五つほどあった。席はあらかた埋まっており、繁盛していた。もちろん、千秋くらいの歳の女の子などいるはずもなく、客のほとんどはスーツ姿のサラリーマンか、小洒落た格好をした女かのどちらかだった。店内にはうっすらとジャズのスタンダードナンバーが流れ、そのおかげで店の中にはゆったりとしたまどろみが漂っている。

 席に座ると、ひっそりと千秋が「私たち場違いじゃない?」と小声で尋ねてきたが、俺は構うもんか、とあしらった。誰の指図も受けまい。好きな時に好きなところへ行こう。



 千秋はメニューと睨めっこしてうんうんと唸っていた。

「どうしたんだよ?」

「カタカナばっかりでさ、写真がないからどれがどんなお酒かわからないから迷ってるの・・・」

「馬鹿、未成年のお前に酒を飲ませるわけないだろ」

「えー!!!タバコ吸ってる時はうるさく言わなかったのに、なんでお酒はダメなの?」

「お酒がダメなんじゃない。酒なんて未成年でも飲みたけりゃ勝手に飲めばいい。タバコだって好きに吸えばいい。ただ、こう言う店ではダメだ。人の目があるからな。お前が未成年だとバレた時のリスクがデカすぎる」

「変な理屈」

「一応、今、俺はお前の保護者だからな。あとでとやかく言われるのは俺なの」

「私、おじさんのこと、保護者なんて思ったことないよ」

「俺もお前の保護者になった気はさらさらないけど、周りはそう見ないんだよ」

 そう言う意識があるのなら、未成年を夜中に連れ回すのはどうなのだろうか。と俺は少し考えたが、ここまで来てまだ他人の目線を気にしている自分が妙に哀れで、一旦その考えは無視した。

「でもさー、せっかくバー来たんだからカクテルとか飲みたい」

「俺に任せろ」

 俺は店員を呼んでピニャコラーダを頼み、千秋にはヴァージンチャイナブルーを注文した。

「なに?そのヴァージンなんとかって?」

「まあ、楽しみにしとけよ」

 千秋は落ち着きなく、何度も椅子に座り直したり、髪を触ったりしていた。ふと、俺はこの子に対して申し訳ない気持ちになった。

 普通の大人ならこうやって女の子を夜中に連れ回さないだろう。タバコを吸っていたのなら注意するだろう。バーになんて連れて行かないのだろう。

 俺はこの子といると楽しい、だから、こうしていろいろな所に夜中連れ回しているんだ。

 でも、それはきっと間違ったことなんだろう。ただ、俺はもう疲れたのだ。普通である事に。

「おじさん、どうしたの?」

 千秋が不思議そうにこちらを見つめていた。なんでもないと俺は答え、彼女に笑いかけた。

 ピニャコラーダとヴァージンチャイナブルーが俺たちの目の前に運ばれてきた。

 千秋はその大きな目をキラキラと光らせて、グラスを見つめるのだった。

「ねぇ、このヴァージンチャイナブルーってさ、お酒?」

「ノンアルコールカクテル。美味いぞ」

「こう言うのおじさん詳しいの?」

「ある程度は」

「モテそうだね」

「ある程度はな」

 ヴァージンチャイナブルーを千秋は大事そうに舐めるように飲んだ。途中、ピニャコラーダを一口だけ千秋にあげた。

 彼女は美味しいと言って笑顔を見せてくれた。



「私ね、失恋したの」

 千秋はストローでグラスの中の氷をかき混ぜながら言った。その仕草は十六歳の少女とは思えないほどに色気があった。

「お前を振る男がいるなんて信じられない」

「すごい褒めてくれるのね、ありがとう。でも振られたわけじゃなくて、私が勝手に諦めただけなんだけどね」

 そう言って、千秋は口元を少しだけ上げて笑った。

「でも、この前、同級生の男なんて恋愛対象外だって言ってなかった?」

「同級生の男子じゃないの」

 千秋は首を傾げてまた笑って見せた。その拍子にサラリと流れる黒い髪、店内の淡いオレンジ色の灯りに照らされた柔らかそうな頬。彼女は間違いなく美しかった。本当にこんな美しい女が恋を諦めなければならない事があるのだろうか。

 俺はそれ以上深く聞くことはなかった。ハッキリ言うと俺は彼女の美しさの前に怖気付いて何も言えなくなったのだった。

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