貝殻に耳をあてれば

牛丼一筋46億年

『貝殻に耳をあてれば』

 きらきらと光る星屑の砂浜を歩いたら、足の裏に小さな小惑星が突き刺さるのかしら、なんて考えていた。

 そんな散文的思考が湧き出てきたのは、長い坂道の途中で後ろを振り向いて空を見上げたから。冷気のせいなのか、冬の澄んだ夜空は淡い青を孕んだ黒色で、その上に散りばめられた星々はよく見ればどれひとつとして同じ色や同じ輝きをしていなかった。夜空の星々はどこまでも広く、どこまでも遠く、そしてどこか儚げで、あまりにも美しかった。まるで世界の誰にも発見されていない海みたいだと私は思った。パラソルが並ぶ海なんかじゃない、孤独さすら感じる、そんなところ。



 時間は夜の真ん中あたりで、私は仕事帰りで、とても疲れていて、瞼がとっても重い。私のアパルトメントは丘の上にあるから毎日この坂道を登らなければならない。向き直ると、視界にはコンクリートの坂道と、高級そうな一軒家を覆う高い塀しか見えない。息が詰まりそうな風景。疲れた身体をなんとか動かして坂道を一歩一歩登る。唯一の救いは呼吸をすると、冷たい冷気がツンと鼻を刺した後に、毛細血管を巡る真っ赤な血によって熱せられた肺の中に入り、ひんやりと胸を冷ましてくれることだった。坂道を進むたびに、薄っすらと汗をかき、コートの下のスーツが蒸れて気持ち悪かった。



 坂道を登り切ったら、まっすぐ行って、角を左に曲がって、そのまた角を右に曲がれば住んでいるアパルトメントに着く。毎日同じ円環の中で暮らしているが、その日の私はそれにちょっと我慢できなかった。それはきっと綺麗すぎる星を見たから。

 ゴツゴツした身体が嫌い、低い声が嫌い、朝必ず生えてくる胡麻みたいな髭が嫌い。自分が嫌い。鏡がもう少し嘘つきだったらもう少し我慢できたかも。女の子になりたかった。男の子になりたい女の子がいたなら、是非ともかわってあげたい。私はあの星が羨ましい。だって、彼らはありのままであれだけ美くしいんだもの。

 コンクリートの上ではーとため息を吐いた後、海に行きたい。私は心の中で唱えた。子供の頃、自転車を走らせ見に行った海、そこには私と海しかいなかった。私の涙は海しか知らず、波の音は私しかしらなかった。あの海にもう一度行きたい。そこで私は胸いっぱいに空気を吸って、膝の中に顔を埋めて座り込み、ただ海の音だけを聞いていたいの。



 だから、いつもの角を右に曲がらず、左にも曲がらず、ただ夜空と海のことだけを思い浮かべていたらフリーウェイステーションに私はいた。

 フリーウェイステーションの待合室はまるで大きな病院の待合室みたいで、壁は一面真っ白で、それは海の底で死んだサンゴ礁みたいな色だった。その真っ白の中に長椅子が等間隔にいっぱい並んでいた。

 そこに幽霊達が所狭しと座ってお話をしている。私も座って待つことにしよう。

 長椅子の前まで行くと幽霊達は器用に腹や肩を引っ込めて私の席を作ってくれた。ありがたく座った。

 呼ばれるのを待っていたら、ひとりの幽霊が目の前で絶叫。彼の遠吠えは世界の隅に消えていってしまった。

 「ここで叫んでも誰にも聞こえへんのに」

 隣の幽霊が悲しそうな声でそう言った。

 「でも、それでも叫ばずにはいられないんだと思います。生きているうちに叫べなかったから」

 私は彼女にそう言い返した。彼女は私の顔を少し見てから、うん、その通りやわ、だからやりきれへんよな、と呟いた。そして、私に少し微笑んでから、「綺麗な子やね」と言ってくれた。

 そんな事を言われるのは初めてなので照れる。

 「綺麗になりたかったから、そう言ってもらえるととても嬉しいわ」

 いつの間にか、言葉遣いまで丸くなる。私はあたしになった。

 綺麗。なんて美しい言葉。声に出して言ってみたい。きれい、キレイ、kirei。嫌いと一文字違いなのに、どうしてこんなに尊いの?

 「あたし、キレイ?」

 幽霊に問いかける。綺麗。その言葉は呟いてしまうのが惜しいくらい甘く、ずっと口で転がしていたい。まるで、飴が口の中で少しずつ小さくなっていくのを惜しむ子供みたい。

 「とっても」

 幽霊はこぼれ落ちてしまいそうなくらい優しい笑顔でそう言ってくれた。なんだか、涙が溢れそうだった。

 ここには幽霊しかいない。ここは幽霊しかいられない場所なのかしら、もしくは生きている人間には必要のない場所なのかも。きっとそう、なら、あたしも幽霊?おそらく。でも、想像していた幽霊とは少し違うの。うまくは説明できないけれど、それは想像していたよりもずっとまろやかなものだった。まるで、一瞬で消えてしまった流れ星達の永遠を捉えたような感覚。

 次の方どうぞー、と言う抜けた声にあたしの思考はかき消される。次の方、とはあたしだと本能的に悟ったので、席を立ち、ナースキャップを被った全身白色の看護師さんの後ろを歩く。

 白い壁の長い長い廊下を看護師さんの後ろに着いて歩く。いつの間にか看護師さんは白い背景と同化し、溶けていなくなってしまい、次に廊下の白い壁もなくなり、私だけが世界に取り残された。それでも私は進んだ。それはまるで、宇宙の中をただ推進していく彗星のようだった。広大すぎる宇宙の暗闇。そこには摩擦力も、それどころかひとつの粒子すらなかった。一人孤独に宇宙を突き進む彗星。それがあたしだった。

気がついたら古ぼけた埃っぽいガレージにいた。目に映るもの全てが錆て茶色。夕日が窓から刺して、光がガレージの床の一角を痛々しく突き刺していた。ここに来たことがある。幼い頃に。

ガソリンの危険で魅力的な匂い、農機具の圧倒的な無機質さ、鎌や桑に着いたこげ茶色のさび。ここがどこかもう少しで思い出せそう。でも私は思い出さないことにした。だって、ここには嫌な記憶しかないこと、それをまず思い出したから。

ガレージの中には小さな車が止まっていた。

 小さな紺色の軽自動車。でも、その軽自動車こそ、今のあたしに最もよく似合うビークル。

 あたしは軽自動車に乗ると、エンジンキーを回して彼を起こした。

 「やあ」

 彼は眠たい目を擦って朗らかに挨拶をしてくれた。

 「どうも」

 あたしも出来るだけフレンドリーさを込めて返事をした。

 「行くかい」

「そうね」

 あたし達は走り出した。





フリーウェイには一台の車もなく、あたし達は空に軌跡を描く一筋の流れ星みたいに夜を駆け抜けた。

 軽自動車は確かな四つの現実的な車輪でもってフリーウェイの地面を掴み、進んでいく。静かだけど、力強く、あたしのハンドリングに忠実に従いながら軽自動車は走った。

 もしかすると、アポロに乗ったアームストロング船長も同じ気分だったのかもしれない。真っ黒な海の中で誰も踏み入れたことのない領域に向かって進み続ける不安と高揚感。そして、唯一の頼りであるアポロに対する愛と祈り。

 「夜に走るのは気持ちいいね」

 弾む声で車が言う。きっと彼は自分の役割をキチンと果たせてとても嬉しいのだろう。

 「うん、気持ちいいね」

 そう言うあたしの声も少し弾んでいる。

 真正面にはどこまでも続くフリーウェイ。

 両端は木々が立ち並ぶ。

 その木々の真上の雲は工場の煙突が吹き上げる炎が反射して、真っ赤に染まっている。夜空に傷がついて、そこから血が滲み出ているみたいでおっかない。

 「まるで世界が終わるみたい」

 あたしはポツリとその空を見上げて言った。

 世界なんて終わるわけないのに馬鹿みたい。

 早く寝る人たちは知らないだろうけど真夜中の空が真っ赤に染まるなんてよくある事なのよ。空だって傷つく時くらいあるんだもの。そんなこと、あたしは生まれる前から知っている。

 「世界なんて終わってくれないのに」

 車は独り言の様に呟いた。

 「世界に終わって欲しいと思ったことある?」

 「何度も」

 車は静かに、しかし、力強く応えた。

 「僕は、ほら、身体が他の車に比べてとても小さいだろ。だから、子供の頃よく大きな車に虐められたのさ。ひどい時なんて、身体に落書きをされたりした。かなり低俗な言葉を身体に刻み込まれてね。それで、親にはそんなの見せたくないから、家に帰るとすぐに風呂場で身体を洗ったよ。鏡に自分の姿が映った時の惨めさったらないよ。そう言う日の夜、寝る前に願うんだ『どうか、神様、世界を終わらせて下さい』とね。でも、朝起きて窓を開けた時、愕然とするんだ。世界はどこまでも美しく、寝起きの小鳥の囀りや、朝日の有無を言わさぬ生命力、人々の朝支度の忙しい音。どれも、普通の人からしたら、一日の始まりを告げる福音なのだろうけど、僕からしたらそれは絶望でしかないんだ。また、今日が始まっちまうってね」

 「そう言う時はどうするの?」

 「自分が海の底に横たわる小さな貝になった姿をイメージするんだ。ただ、身体を丸め、分厚い貝殻の中でじっと海底にしがみつき、頭上の大波が去るのを待つんだ。決して何も言わず、指ひとつ動かさず、目もしっかりつぶってひたすらね」

 「浜辺に落ちてる貝殻を耳に当てると波の音が聞こえるって言うじゃない?あれはもしかすると、貝殻の中にいた人の魂が震えた時の残響なのかも」

 「或いは、まだ魂は貝殻の中に残っているのかもしれないね。でも、どちらにしろ、浜辺まで出れたんだ。だから苦しみは終わったのかもしれない」

 「そうであって欲しいわ。ずっと海の底なんて、悲しすぎるもの」

 「本当にね」

 あたし達はそれっきり何も話さなかった。

 長い長いフリーウェイを走った先、あたし達は綺麗な宇宙の海が見えるビーチに辿り着いた。








 あたしは車を降り、堤防に足を一本ずつ、丁寧に載せ、その場に立ち、海を見つめた。

 視界いっぱいに広がる真っ黒な宇宙の海、黒い波が押し寄せて引いていく。その度にいくつかの死んだ星をビーチに残していく。そしてまだ生きている星は海の中で、悲しいほどに美しく輝いていた。真っ白なビーチと海の境界線は色濃くハッキリとしていた。

 海の中をコンパスの様に綺麗に線を描いて走り抜ける流星群。長い長い途方もない時間、銀河を照らし続けていた恒星が人生の最後に見せるスーパーノヴァはまるで宇宙にさよならと手を振る姿に見えた。堤防の上からでは漆黒のブラックホールすら、黒いパールの輝きに見える。そんな煌びやかなショーが海の中いっぱいに行われている。

 「歩いておいで」

 車はあたしにそう言った。あたしは振り向きもせず、ただ小さく頷くと、堤防を降りてビーチを歩いた。

 小さな砂粒、そのひとつひとつが星々の死骸で、彼らは自分の人生を終え、文句ひとつ言わずに地面に伏せている。



 海の遥か向こうを見ると、ベテルギウスが真っ赤に染まって今にもはち切れそう。また遥か遠くの方では永遠に空を巡らなくてはならないカシオペヤ座の憂鬱そうな輝きが見える。

 あたしは星屑を踏み鳴らして歩く、歩くたびに星屑は互いに擦れ合い、歌うような音を足元で奏でる。

 ビーチはどこまでも遠く続いていて、終わりがないみたい。

 一体、海に足を浸けてみたらどんな気持ちなんだろう。靴も靴下も脱ぎ捨てて、躊躇いがちに海に歩みを進める。

 波打ち際、死んだ星々とまだ生きている星々の境界線。それを超えて、ほんの少しだけ足を海に浸してみる。

 足を浸けた瞬間、あたしは私であり、また俺であり、僕であり、どこまでも自分であることを感じた。

 あたしは今、生と死の狭間にいる。どこまでも海は輝いていて、海に浸した足先から恒星達の輝きと冷たさが解き放たれ、それは足先から脛を太ももを痺れ、震わせ、どこまでもあたしの身体の中に染み渡っていく。

 その時、あたしは確実に星と化した。

 星になったあたしは牢屋のような身体を捨て去り、この世を捨て去り、幽霊たちにお別れを告げ、軽自動車に口づけをし、海と同化していった。

 いまや、あたしは光り輝く星々の仲間なのだ。そして、もしも、照らせるのならば、あたしは貝殻を照らしてあげたい。

 海底で横たわり、ひたすら沈黙し続けて、一条の光も浴びることがない彼らに光をそっと届けてあげたい。

 目を瞑って、遥か遠く足元の貝殻を探す。

 自然と彼がどこにいるのかわかった。

 気がついた時、あたしはビーチの上で貝殻を耳に当てて佇んでいた。

 白くて大きくて、ゴツゴツとした貝殻を小さな耳にすっぽりと覆うようにして当てる。

 耳を澄まして貝殻の声を聞く。


 今、ハッキリと聞き取れる。

 

 "貝殻に耳を当てれば、あたしの声が聞こえる"


 その白くて、空っぽで軽い貝殻はあたしの抜け殻。あたしが生きる過程で脱ぎ捨てていったあたしが星屑のビーチに捨てられていたのだ。あなたのことをあたしはすっかり忘れてしまっていた。


 ごめんね、あたし。

 いいよ、あたし。

 車にも伝えなきゃね、あたしを見つけられたって。

 ねぇ

 なぁに?

 もしも、生まれ変わったら、何になりたい?

 そうね、それでも、あたしはやっぱり生まれ変わっても、あたしでいられますようにって願うと思うの。

 

 目を開けると、地平線の向こうが微かに白み始めていた。それは夜の終わりを告げていた。

 ゆっくりと、あたしは私に戻っていく。

 貝殻みたいにゴツゴツとした身体に戻っていく、低い声を出す喉仏はまた私の身体に戻ってきたし、顎にはきっと胡麻みたいな髭が生えてると思う。

 地平線の向こうから太陽が登り、それは確かな生命力を讃えている。朧げな朝日は私の醜い姿をぼんやりと照らしている。やっぱりちょっと好きじゃない。夜の方がよっぽど優しいんだもの。

 それでも、いいの、私は醜いままで生きていく。

 完全に夜が終わってしまう前にもう一度だけ、貝殻に耳を当ててみるの。

 うん、確かに聞こえるわ。ちゃんとあたしの声が。

 

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