#2 - 第10話

 ほしうらたかひろは、パーカーのフードを目深に被り、誰とも視線が合わないよう歩いた。

 雨があがった舗装道路は水を含みアスファルトの色を深めている。夕暮れ時とはいえ、四月ともなると日が高い。人通りのある時間帯に出歩くのは久しぶりだった。

 家族は、貴太が外出するのを嫌がり、二階の八帖洋室に閉じ込めた。

 いくら父親が箝口令を敷こうとも、人の口に完全に戸は立てられない。

 改名や徹底した情報規制を続ければ続けるほど、世間から、やがて家族からも孤立していくのをたかひろは肌で感じた。

 いつも通り息をひそめ、音をたてないように自室の扉を開いた。

 その時だった。隣接する父親の部屋から大きな怒鳴り声が聞こえたのは。

 一体何が起きているのか。あの日以来、外部情報にはアクセスさせてもらえない。

 思わず貴太が聞き耳を立てると、瀬屋と河内が殺されたということが分かった。

 どこか息苦しいのはマスクをしているからだろうか。一歩足を進めるたびに荒くなる自分の息遣いが耳障りだった。

 どうして今なのだろう。あの日からもう七年も経っている

 渡会わたらいばし。自分にとっての忌まわしい場所。

 彼女は、支援を明確に断ったと聞いた。

「あなた達に支援されるくらいなら、死んだほうがましだ」

 そう宣ったと当時、父が苦々しく言っていたのを覚えている。

 大きく深呼吸をして、記憶を辿り河原を歩いていく。あの時は三人で歩いた。

 三人中、貴太だけ不起訴処分となった。

 裁判所で見た二人の侮蔑の目は、今でも忘れられない。

 そして、今回も罰を受けたのは瀬谷と河内の二人だった。

 遠目に、あの日と同じ青いテントが見えてきた。

 喉元から何かがこみ上げる。貴太はバランスを崩してその場に膝をついた。

 その場に吐物をぶちまける。

 胃の中身を全て吐き切ると、右手の甲で口を拭い、貴太はゆっくりと立ち上がった。河川で汚れた右手を濯ぎ、履いていた部屋着のスウェットで拭いた。

 ジャリ……と河原の石を踏みつける音がし、背後に人の気配を感じた。

「……何しに来たの?」

 女の声だ。

 貴太はゆっくりと振り返った。

 あの時より白髪の増えた老婆の姿がそこにある。手には、骨が曲がり、ガムテープで持ち手を補強したビニール傘を持っていた。

「何しに来たの?」

 越子は静かにもう一度貴太に問うた。

 貴太は河原の砂利に額を押し付けて土下座した。

「……しゃ、謝罪を、しに来ました」

 口腔から絞り出すように声を出す。声が掠れている。吐いたからだろうか。気が付けば喉がカラカラに乾いていた。

 伸びきったツルヨシの群落が重なりあって音を立てる。

 河原風が、貴太の頬を冷たく叩いた。

「あなたが謝る相手は私じゃない」

 よく通る声だった。

 貴太は縋るような顔で越子を見上げた。

「謝る相手はあなたが殺した」

 越子の言葉に、貴太の視界がぐにゃりと曲がる。

 青テントに向けて何度も投石をしたこと、ビニール袋にこの河原の石を詰めたこと、老人の頭部へ目がけてそれを振り上げたこと、転倒した老人をそのまま置いて逃げ帰ったこと。蓋をしていた記憶が一度に蘇り眩暈がした。

「あなたは贖罪の機会を永久に失った」

 気が付けば、貴太の両目からぼたぼたと涙が流れていた。

 堪えきれず、額をまた河原の砂利に押し付けた。

「……殺してください」

 越子は黙っている。

「あなたの気が済むように僕を殺してください!」

 今度は叫んだ。

「いやだわ。まるで私がいじめているみたいじゃない」

 越子の顔が不気味に歪む。

「ねぇ、坊や。泣くくらいなら、あんなことしなければ良かったじゃない」

 貴太は答えられなかった。

「あなたは一体何がしたかったの?」

「……わか、わかりません」

「わからない? どうして、自分のことでしょう?」

 もう今となっては分からなかった。当時の自分は何がしたかったのだろう。

「も、問題を起こして……父を困らせたかったのかもしれません……」

 当時は家庭で高圧的に振る舞う父親を間接的にやり込めたかった。

「それと私たち、一体何の関係があった? 」

 貴太は、息を詰まらせた。越子の言うとおりだ。

 だんだんと呼吸が荒くなっていく。視界が涙でぼやけ始めた。

「……あ、あなた達を見下していた……」

 首筋に衝撃と後から痛みが走った。

 貴太は瞬時に両手で頭を抱え身体を丸めた。

 越子は一打、二打と持っていたビニール傘の笠地で貴太を叩いていく。

 最初は、悪戯心で猫に向かって石を投げた。そうしたら、老人が大声で貴太たちに注意をした。きっかけはそんな些細なものだった。老人が気に入らなかった。猫から人へ、途中で対象が変わったのだ。

 自分より下層にいる人間を見て己の優位性を誇示したかった。

 腕が疲れたようで、越子は息を切らしながらビニール傘を杖によろよろと体重を預けた。咳き込んで、その場にしゃがみ込む。

 貴太はゆっくりと顔を上げる。

 叩かれた腕が、ところどころ帯のように赤くなっている。

 越子は衣服のポケットから二重のビニール袋を取り出すと、一つ一つ河原の石を詰めていく。かつん、こつんと大小の石が重なり合う乾いた音が響いた。

 貴太は鼻から息を吸い込むと静かに目を閉じた。

 河のせせらぎが聞こえる。

 越子はビニール袋に石を詰め終わると、傘を杖にしてゆっくりと膝から立ち上がった。よろけながら歩を進める。踏みつけられた河原の石がじゃりと音を立てた。

 起きている時に、こんなにも澄んだ気持ちになるのは久しぶりだった。

──ようやく終われる。

 貴太の前に越子の小さな影が落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る