#2 - 第5話

 早朝4時。東京の下町情緒が残る飲食街。

 ここは、文化保護地区として旧時代の趣をそのまま残している。

 大場は、目頭と鼻の付け根の間を指の腹でつまんだ。

 目撃者が多いにも関わらず、決定的な証拠がないため捜査は暗礁に乗上げてしまった。

 交代で仮眠を取るよう指示を受け、今は帰路についている。

 映像記録を大量に確認し続けたからか目の奥が痛い。

 10分ほど歩くと、軒先に大きな信楽焼の狸を飾る代錯誤な木造建築が見えてきた。

 紺色の暖簾に『居酒屋いざかや内海うつみ』の文字がある。

 大場は引き戸になっている格子扉を開く。

「おかえり」

 店に入ると、細身で化粧気のない女が優しく声をかけた。

「……うん」

 大場は、ふいと目を逸らしながら素っ気なく返事を返す。

「うん……って、何だい! おかえりって言われたら普通は何て返すんだい!」

 寝不足の身体に金切り声は堪える。大場は観念したように声を挙げた。

「あぁ、もう! ただいま!」

 そう返すと、女は満足そうに頷いた。

 内海うつみ愛子あいこ、この店の店主だ。

 昔は民宿だったが一階をホールに改装し、現在は居酒屋として営業している。

 そのうち持て余した二階を活用し、寮母の真似事をしようと思い立ったそうだ。思い付きで張り紙をしたところ、その日に入居希望したのが大場の父親だった。

 気が付けば十年以上、なんだかんだと大場は、愛子の世話になってしまっている。

 カウンターの奥に一人座る老婆が、小さな笑い声を立てた。

「まるで本当の親子だねぇ……」

 その言葉に大場と愛子は顔を見合わせると、すぐにお互い目を逸らした。

「いつまでも反抗期の小娘で困っちまうよ」

 愛子はそう言うと、そそくさと厨房に入ってしまった。

 反論しようとしたが、今日はもうそんな元気は残っていない。

「……えっちゃん、もっとカウンターの真ん中に座ればいいのに。話しかけてくれるまで気づかなかった」

 大場が声をかけると、老婆は困ったように眉根を寄せた。

「愛子さんのご好意でお風呂を頂いたばかりだけど、まだ臭うかもしれないしねぇ……」

 そう言うと、ひび割れて荒れた両掌を擦り合わせた。 

 大場は、すぐ隣のカウンター席に腰掛ける。

「臭くないよ」

 老婆はくしゃりと顔を歪めた。

「ありがとうねぇ……」

「私はそのままを伝えただけ」

 内海と店名が入った浴衣と半纏を老婆は着ていた。

 愛子は民宿の名残の大浴場と宿泊客用の浴衣を、今でもたまに客に貸出している。

 カウンターテーブルに、握ったばかりのおにぎりと味噌汁と沢庵が置かれる。

「え、愛子さん。こんなことまで……いいのよ」

 老婆は慌てて遠慮する。

「昨晩、米を炊きすぎちゃったのよ。食べ切れなかったら持って行って」

「でも……!」

 愛子は大場へ声をかける。

「一恵もどうせ、また一眠りしたら仕事いくんだろ?」

「うん」

「ほらね。あと一時間で閉店だし。私一人じゃ食べきれないから持っていって」

 老婆は小さな背中を更に小さくした。申し訳無さそうに俯いている。

「皿洗いを手伝ってくれたお礼だから」

 その言葉に、老婆はおずおずと手を伸ばし、大事そうにおにぎり両手で抱えた。

「ありがとう」

 愛子は優しく微笑むと、チャキチャキと次の仕事へ取りかかる。

「さてと、えっちゃんの服は乾いたかね。一恵、洗濯機を見てくるから。食べたら外の暖簾をしまっといとくれ」

「分かった」

 大場の返事を聞くと、愛子は慌ただしい様子で奥の部屋に引っ込んでしまった。

 小さく味噌汁を啜る音とアナログ時計の針の音が、静かな店内に不規則に調和する。

 大場は、カウンターテーブルにゆっくりと腕を下ろす。

「えっちゃん、やっぱり民間セクターに頼る気はないの?」 

 部屋がしん……と静まり返る。

 老婆は申し訳なさそうな表情を浮かべると、弱々しい笑顔を作った。

「……頑固なお婆さんで、ごめんねぇ……」

 大場は、静かに視線を落とした。

 長岡ながおか越子えつこ。今年で81歳になる。

 住居はこの近くの橋の下に構えた青テントだ。

 舞台女優になることを夢見て、仕事と劇団の二足の草鞋で頑張っていたそうだ。

 だが、親の介護のため離職をし、劇団も辞めざるを得なくなった。

 両親を看取った後、何とか職を探したが、高齢のため安定して就労することができず、この状態が長く続いていると聞いている。

「この話をすると、一恵ちゃんはいつもそんな顔をするね」

 越子の言葉に、大場は慌てて弁解をした。

「ごめん。余計なお世話だと思うけど、あなたの身体が心配で……」

 越子は、施しを嫌う。

 路上生活者は働いていない印象が強いが、大抵は、廃品回収などで生計を立てている。ただし、十時間働いても平均千円に満たないことが多い。想像以上に過酷な労働だ。

「私なんかのために、心を痛めてくれてありがとう」

「私なんかって言わないで」

 越子とはじめて出会った日を思い出した。

 凍えそうな冬の日に、青い唇を震わせながら、余っている日本酒のミニボトルを売ってくれないか、と声をかけられた。

 防寒の為、飲酒をして身体を温めないと眠れないのだ。

 同情心が湧き金は受け取らずミニボトルだけを渡したら、越子はそれを固辞した。

 屋外での押し問答を見かねた愛子が、皿洗いを手伝ってくれ、と越子を厨房に招き入れた。あの日から、皿洗いを理由に内海に顔を出すようになった。

 決して口には出さないが、今では大切な友人の一人だと思っている。

「猫を置いて、私だけ生活の保護は受けるっていうのに抵抗があってね……」

 生活保護法に動物に関する規定は存在しないが、近隣家庭への配慮や経済的に日々の生活の圧迫が懸念され、手放すよう勧めるケースが大半だ。

 ペットの里親探しをすると何度か提案はしたのだが、答えはいつも同じだった。

敬之のりゆきさんが可愛がっていた子たちだから」

 敬之のりゆきというのは同じ橋の下の住人だ。七年前、寒空の下で亡くなった。

 二人はまるで夫婦のように助け合いながら暮らしていたらしい。

 越子にとって、猫は家族であり忘れ形見なのだ。

 店内にまた静寂が訪れる。

 越子は困ったように微笑むと、首から下げていたペンダントを大場に見せた。

 ペンダントには三毛猫のチャームがついている。

「これ、あなたがくれた通報装置とチャーム。私を心配してくれているのは、十分伝わっているわ」

 大場は顔を上げた。

「心配しないで。ミケをきちんと看取ったら、私も今後の身の振りを考えるから」

 越子はそう言うと小さく味噌汁をすすった。

 彼女の残りの時間は、せめて穏やかで温かな場所で過ごしてもらいたい。

 エゴの押し付けだとしても、大場はそう思わずにいられなかった。

「一恵ちゃんは、お父さんのお墓参り、毎月行っているんですってね……」

 話題を変えるように越子がぽつりと聞いた。

「……うん」

「偉いわねぇ……」

 越子の言葉に、大場は自嘲的気味な笑みを浮かべた。

「もう出来ることが、それくらいしかないから」

 越子は静かに大場の顔を見つめた。

 その視線を居心地悪く感じた大場は、ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ、暖簾を片付けるね」

「ええ」

 引き戸を開ける。寝不足の身体に朝日が沁みた。

 奥からぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえ、愛子が戻ってきたのが分かった。

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