#1 - 第4話

 住宅街を灯す光はまばらで、津村つむら弘子ひろこは薄暗い路地で息を飲んだ。

 あの日以来、夜のゴミ集積場を見ると酷い動悸と粘いた唾液が出てくる。夜道は大の苦手になった。

 弘子は薬指に光る左の指輪に手を触れると、右掌で包みこむように左手を胸に寄せた幼なじみの由紀彦ゆきひこからもらった婚約指輪だ。こうすると不思議と気分が落ち着いた。ここを抜ければ明るい大通りまであと少しだ。

 ―― 大丈夫、もう昔の私じゃない。

 自身にそう言い聞かせ、弘子は勢いよく駆けだした。3月とはいえ、夜はまだ冷える。冷たい風が頬を刺し、吐く息は白くなった。駆けながら、ぎゅっと目を瞑る。こうでもしないと、また過去に引き戻されてしまいそうだった。急いで暗がりを駆け抜けると、人通りが戻ってきた。街灯に照らされた三分咲きの桜並木がようやく見えて、ようやく弘子は胸を撫で下ろした。



 自宅マンションに着いた。

 セキュリティパネル上の白線で縁取られた手形に、弘子は右手を押し当てる。両開きの自動ドアが開き屋内へと招き入れてくれた。

 この土地を離れることも検討したが、東京圏外は過疎の進みが早い。結局、犯罪被害者給付金を利用しセキュリティが厳重な現マンションへと落ち着いた。

 一階のエントランスホールを通り抜け、エレベーターの呼びボタンを押下した。

 8……7……6……エレベーター位置表示灯の数字が一つずつ下がっていく。

 一階に到着し扉が開く。中に栗色の髪の女が立っているのが見える。

 弘子は、女が降りやすいように扉の端に寄った。

「何階ですか?」

 女は、カゴ内操作盤の前に立ったまま弘子へ声をかけた。

 弘子は、女が降りないことに気付くと慌てた様子で奥に乗り込んだ 。

「すみません……14階をお願いします」

 エレベーターの扉が閉まり、上昇していく。

 位置表示灯の数字が2に切り替わった時、正面を見据えたまま女は弘子へ話しかけた。

「今日はいつもより帰りが遅いんですね」

 女性にしては、低い声だった。

「え?あ…はぁ…」

 突然のことに、面食らった弘子は歯切れの悪い返事を返した。20階建てのマンションだ。住人すべてを把握しているわけではない。自分は認識していなくとも、他者に認識されているというのは往々にして良くあることだ。

 今の返答は失礼だっただろうかと弘子は内省した。左の指輪に触れたまま、しばらく思案を巡らせ、すぐに笑顔を作る。

「彼と結婚式の打ち合わせをしていたら、遅くなっちゃって」

 夕食後、心配だからと家まで送ると由紀彦からの申し出があったが、タイミング悪く緊急の仕事の呼び出しが入り、今夜は弘子一人で帰宅することになった。

 少しの沈黙のあと、また女が口を開いた。

「私のことを覚えていますか?」

 位置表示灯の数字が4になった。

「え……えっと……」

 弘子は内心を見透かされたようで口籠ったが、観念したように声を絞り出した。

「す、すみません…覚えていません」

 そう答えると、栗色の髪の女は力なく首を前に垂れ肩を小刻みにぶるぶると震わせた。

 その様子を見た弘子は、瞬時に全身が粟立つのを感じた。

 喉から粘ついた唾液が込み上げてくる。

 深夜のゴミ集積場。銀色に光る鋭利なナイフ、男が目の前の女と同じように肩を小刻みに震わせている姿。

 女がゆっくりと振り返る。

 あの夜と同じ男の顔が首の上にあった。楽しくて、楽しくて楽しくて仕方がないのに無理矢理嗤いを噛み殺している異様な表情。

 弘子が声を上げたのも束の間、女性用の衣服に身を包んだ毎田は弘子の口を大きな手で押さえつけた。

「お前の通報のせいで…こっちは8年間も退屈な無菌室生活だ。それなのに、お前は男と結婚するだと?ふざけやがって……」

 毎田は吐き捨てるようにそう呟くと、持っていた大きな黒の合皮のトートバッグからサバイバルナイフを取り出した。

 弘子の身体が自分の意志と関係なくガタガタと震える。

 ―― 嫌だ、死にたくない! 嫌だ!

 自分の口を覆う掌に弘子は渾身の力で噛み付いた。

 短い悲鳴の後、弘子の腹部に蹴りが入る。ひゅっと呼吸音が漏れ、エレベーターの奥の壁に背中を強く撃ちつけた。

 腹を押さえて咳き込むと、つま先に何かがぶつかる。

 それは、女の右手首だった。

 乱暴に切られた切断面は血液が酸化し赤黒くなっている。

 弘子は悲鳴を上げ、震える手で這うようにカゴ内操作盤の前まで行くと手当たり次第にボタンを連打した。

 9……10……11……

「早く! 早く早く早く!」

 思わぬ反撃を受けた毎田は体制を整えると、弘子の背中めがけて右腕を振り下ろした。

 間一髪でかわしたと同時にエレベーターが12階に到着する。

 弘子は籠の外へ勢いよく飛び出した。

「誰かー! 誰か助けて!助けてください!」

 廊下を走りながら必死で助けを求めるが、12階の住人は扉を開く気配が無い。

 誰も関わりたくないのだ。

 後ろを振り返ると毎田が気味の悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと弘子の後をついてくる。間近に迫る死の恐怖に押しつぶされそうだった。

 弘子は膝から硬い床へ倒れるように転んだ。慌てて上体を半分起こすと、後ろから髪を強引に掴まれ、そのまま引っ張られた。

 急な力に横倒しに倒れた弘子に毎田は馬乗りになる。左頬の鈍い痛みの後に、ひどい耳鳴りが襲ってきた。目の焦点が合わない。どうやら殴られたようだ。

「……は……を……ない」

 男が何か喋っているようだが、弘子にはうまく聞き取れない。

 ぼやけた視界の端で、男が右腕を掲げる。手の中に鈍い銀色の光が見えた。

 もうだめか、弘子がそう思った時、ゴムを叩きつけるような軽快な音が聞こえた。 

 弘子の身体がふいに軽くなる。毎田が腰を浮かせ膝立ちの状態になっていた。

 身体には黒い縄が巻き付き、その一端を毎田の背後に立つ男が握っている。

「よう、クズ。探したぜ」

 黄色の反射材をあしらったジャケットの肩に『警察庁』の文字が見える。

 眼鏡で小太りの男は、掴んだ黒縄を引っ張ると男を弘子から引きはがした。

「刑事局、捜査一課です。遅くなってすみません!」

 弘子の安否を確認するように大きな声で叫ぶ。

「くそっ」

 引きずられた毎田は、黒縄から逃れようと身をよじる。

「おっと」

 警察官の男は、慣れた様子で黒縄の端のグリップを指で弾いた。バチィッと何かが弾けたような音と共に青い光が縄の上を走る。

 毎田は身体を痙攣させると、その後はピンッと張った板のように硬直した。

 警察官の男はグリップを握ったまま、右手の甲で左の時計型デバイスの液晶画面に触れる。

「あーこちら田所、12階で対象を発見しました。今から確保……」

 そう言い終わらぬうちに田所と名乗る男は焦ったように空いた左手でジャケットをまさぐり始めた。

 次の瞬間、弘子の視界の端に銀色のボール状のものが飛び込んできた。

「あっ」

 田所の短い声の後に、マンションの廊下を走るヒールの音が近づいてくる。ボールは空中分解し、硬直した毎田の両足をロックした。

「装備品管理が甘いんですよ。先輩」

 女の声が響く。

「普段は、先輩なんて絶対に呼ばねぇくせして……」

 田所は小さく肩を落とすと、手にした黒縄を緩めた。硬直している毎田の右手を開き、凶器のナイフを取り上げると脚でそれを遠くに追いやった。そのまま後ろに両手を組ませると、顎で女に合図する。

 銀のボール二球目が飛び、今度は両腕をロックした。

『田所くん? どうした?! 確保できたのか?』

 同じチームと思われる電子機器を通した男の声が響く。

「……大場が捕まえました……」

 自分の手柄が取られたという意味もあるのだろう。やや不満そうな声で田所は通話先の男に応対していた。

 黒のセットアップのパンツスーツに身を包んだ女が、弘子の横に膝をついた。肩を軽く叩かれる。

「大丈夫ですか? 意識はありますか?」

 田所と同じ警察庁のジャケットを羽織っている。どうやら彼女が大場と言うらしい。

「……はい」

 大場は安堵のため息をついた。ウェーブがかった茶色の髪が小さく揺れる。

「頬を殴られていますね。患部をクーリングパッチで冷やしましょう」

 大場は、手すり壁を背もたれにするように弘子を優しく支えた。

 壁に背をつけると、汗ばんだ身体にひんやりとした感触が伝わり、ようやく弘子は冷静さを取り戻してきた。

 クーリングパッチをジャケット内ポケットから取り出した大場は弘子の顏を見ると手を止め、代わりにハンカチを差し出した。

 緊張が緩んだのだろう。弘子の目から自然と涙が零れていた。

「あ、すみ……すみません……」

「いえ」

 大場は表情を変えず短く答えた。差し出されたハンカチはその淡泊な声からは結び付かないような可愛らしいりんご柄。それが少し意外に思えた。

 借りたハンカチで目頭を押さえると、リノリウム材の階段を大急ぎで駆け上がる音が耳に入ってくる。

「大丈夫ですか!?」

 慌てた様子の長身の男が、弘子の元へ一目散に駆けてきた。

 びくりと弘子は肩を震わせる。

「小野塚さん」

 大場は静かだが、やや非難めいた声で男を静止した。

 小野塚と呼ばれた男は、はっとした表情を浮かべると敵意がないように両手を上げ、少し距離を取った場所へしゃがみ込んだ。

「失礼します」

 大場は、そう前置きすると、弘子の左頬にクーリングパッチを貼った。

 小野塚は心底申訳なさそうな表情を浮かべると、弘子へと頭を下げた。

「怖い思いをさせてしまい申し訳ありません…それに怪我まで…」

「いえ、いいえ……」

 優しい声だった。

 少し由紀彦に似ているかもしれない。弘子は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 遠くから階段を駆け上がる音がもう一つ。前髪を切り揃えた長身の男が廊下に現れた。

「防護車両をマンション下に待機させています」

「ありがとう、保立くん」

 小野塚は、笑顔で男に礼を言った。

 保立と呼ばれた男は、弘子の姿を遠目で確認すると小さく会釈をする。

「車両に救護係が待機しています。一度怪我の様子を見てもらいましょう」

 そういって小野塚は弘子へ微笑んだ。

「立てますか?」

 大場は、弘子の身体を支えると肩を差し出した。

 大場に支えてもらいながら、弘子はゆっくり歩を進めていく。

 声を落した田所と保立の会話が聞こえる。

「手首は回収しているか?」

「はい。緊急冷却しましたが、切断創の状態があまり良くないかもしれません」

「再接着できるといいが……入れてくれ」

 保立は肩にかけていたショルダー付の冷却ボックスの蓋を開いた。

 どっと冷や汗が出た。あと少し遅ければ弘子も同じようになっていたかもしれない。

「見ない方がいいですよ」

 大場の声だ。

「あ、あの……でも」

「命に別条はありません」

 大場は、簡素に情報開示した。弘子がエレベーター内で女の右手首を見たのに気付いていたようだった。

「でも、腕が……」

 警察官たちは言及しないが、毎田はマンション住人の女の手首を切り落とし、彼女の衣類を奪いセキュリティパネルを通過したということだろう。弘子が悪いわけでは無いが責任の一端は感じた。

 大場は一寸迷った表情を浮かべると、背後の小野塚をちらりと見た。

 小野塚は人好きのする笑みを浮かべた

「大丈夫、今の再生医療はすごいですから」

 穏やかだが力強い声。やはり。どこか由紀彦に似ているように思う。

「津村さんは先に防護車へ、……大場、彼には麻酔銃は使ったのかな?」

「いえ、電気ショックによる筋肉麻痺で喋れない状況なだけです」

「分かった」

 小野塚は大場と簡単なやり取りをすると、毎田の容体確認に向かった。

 弘子は、ちらりと両手足を拘束されたまま床に転がる毎田を見る。

「意識はありますか?」

 小野塚が、毎田の背を軽く叩いているのが見える。ぎり、と弘子は奥歯を噛み締めた。

「行きましょう」

 大場は弘子の変化に気付き、急ぐよう促した。

 弘子は頷くとエレベーターに乗り込むため、毎田に背を向けた。

「俺の子供を産んだんだってな」

 聞きたくもない下卑た言葉。弘子は足のつま先から全身が冷えるのを感じた。

「……ずいぶんと大人しいと思ったら」

 側の小野塚は警棒を取り出すと、倒れたままの毎田の眼前でグリップのスイッチを指で弾く。

「そのあたりで止めておかないと、また痛い思いをすることになるぞ」

 青い光がシャフトにまとわりつくようにパチパチと音を立てて放電する。

「やってみろよ。こっちは両手足拘束された状態だ。過剰防衛だってセンターに戻ったら訴えてやる」

「悪知恵が働くな」

 小野塚は呆れたような声を出した。

 非致死性武器とはいえ武器は武器だ。最近は警察官の過剰防衛だと非難されるような件が頻発し、マスコミに叩かれたおかげで捕縛時の行動について警察は神経過敏になっている傾向にある。

「早く行きましょう」

 大場の声に頷き、弘子は目を瞑り耳を塞いだ。

 毎田はうつ伏せの状態で、あの気味の悪い笑みを浮かべた。

「社会復帰したら、またお前を刺しに行く」

 弘子の心臓が、どくりと跳ねた。

 大場が、やや強い力で弘子の肩を引き耳元で囁いた。

「聞かないで。相手をするだけ無駄です」

「この国は俺を死刑にできない。俺が死ぬまでその繰り返しだ」

 弘子は大場を振り払うと、床に落ちていたままのサバイバルナイフを手に取った。

―― 一体この男は、どこまで人を踏み躙れば気が済むのか。

 毎田は、弘子を試すような意地の悪い笑みを浮かべている。

「落ち着いてください」

 小野塚が、弘子へ制すように片手を上げた。

 息が荒い。

 両手で握ったナイフの切っ先が、カタカタと震えている。

―― この男が死なない限り、私に一生安息はない。

 緊迫した空気の中、弘子の首に刺さるような小さな痛みがあった。

 振り返ると、銃を構えた大場の姿。

 ぷつりと、弘子の意識はそこから途切れた。

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