第11話 樹海からの出立
雨上がりの朝、少し遅く目を覚ましたマリアベルは、屋敷の中が妙に騒がしいことに気づいた。
何事かと思いながら階下に降りていくと、食堂の入り口で、レーナが使用人たちに指示を出して、大忙しで何やら準備している。
「馬の準備は大丈夫? 荷物は小さめにね。ああ、アリエッタ、小銭入れはどう? 見つかった?」
「これは一体…」
「あ、お姫様。お目覚めね。」
マリアベルが姿を現したのを見て、レーナがすぐさま近づいてくる。
「申し訳なかったわ、お姫様。うちの息子がとんだことをしでかしてしまって」
「とんだこと…?」
「訓練だと言って、精霊術で修行用の剣を折ってしまったんでしょう?」
一瞬、ぽかんとしていたマリアベルは、それが言い訳のための誤魔化しだと気づいて、慌てて頷いた。
「昨夜――ちょっと。でも、あれは、わたしのほうが悪いんです。余計なことをしたから」
「ユーリは手加減が下手くそなの。制御用の腕輪も、それで付けさせているのだけれど。…この償いは、しっかりとさせますから。」
「え、ええっと?」
「剣の打ち直しは、ローグレスまで行けば出来ると聞いた」
剣の振り返ると、馬具を抱えたユーリが、戸口に立っている。
「そこまで付き合わせてもらう。そう従者と話をつけた――構わないか?」
「勿論、それは。とても有り難いわ…でも…」
「お姫様たちの馬も合わせて支度させているわ。それまで、朝食をとってごゆっくりなさっててくださいな」
自分が寝ている間に、そこまで話が進んでいたのだ。
食堂には朝食が準備され、給仕のイングリットが待っている。
首を傾げながらマリアベルが席につくと、少女は、全て判っているというように意味深な笑みを返し、湯気のたつ熱いお茶を器に注いでくれる。
「うちのニコは?」
「他の竜が近くにいないか、探りにお出かけです。すぐ戻られると言ってました」
「そう」
眺めていると、ユーリは、出かける準備をしているふりをしながら、そこかしこで屋敷の使用人たちを呼び止め、何かこそこそと言い含めている。
自分が不在の間に竜が襲ってきた時の対処や、誤魔化し方を教えているのだろうか。
マリアベルの視線に気づいたイングリットが、小声でささやく。
「ユーリさまは、王女さまたちがご出発されたら、森の入口にはいつもより強力な幻影の術をかけておく、と仰ってましたの。わたくしたちも、しばらくは森の出口に近づくな、と言われてます。もし何かあったら、地震が起きたことにして地下蔵に隠れるよう、ご指示も受けてます。ですので、ご心配要りませんよ」
「……。」
昨日とは打って変わった親しげな口調からは、客人というより、仲間意識のようなものを感じた。
イングリットも、ここに住む他の人たちも、ユーリの正体が竜だと知っているのだ。今やマリアベルたちは、その秘密を共有する、ある意味では”仲間”に違いない。
ゆっくりと朝食を終え、食後の散歩に庭に出たマリアベルは、薔薇の茂みの側でディアンを見つけた。
今日の手入れ係は屋敷の主人なのだ。
マリアベルが声をかける前に、ディアンは、気配を感じ取って振り返り、微笑みとともに優雅に手を胸に当てながら軽く頭を提げた。
「ああ、おはようございます。姫君」
「ディアンさんも、庭いじりをされるんですね」
「ユーリがしばらく留守にするというもので、代わりに。」
言いながら、彼は昨夜の雨粒を花弁の上に残したままの花々を見回した。
「よく咲いているでしょう? この土地はマナが豊富で、調和も取れている。この庭は小さいですが、花の美しさは王宮の庭園にも負けないと思っています」
「そうね、確かに。ここの花で薔薇冠を作ったら、きっととても素晴らしいものが出来る」
「姫君が即位される時には、お持ちしましょうか?」
「え? ――あ…でも…。」
ディアンは、微かに表情を曇らせて俯くマリアベルを、微笑みながら見つめている。
「わたしはまだ、何も成せていない。奪われたままの王都を取り戻すことも…竜の脅威を取り除くことも」
「これからですよ。少なくともユーリは、あなたのお陰で前に進む気になれたのだから」
諭すような、静かな声。
「あなたは、いつかファーディアの女王になられるお方だ。周囲を勇気づけ、困難の中にあって道を切り開く。薔薇冠を頂くに相応しい」
「……。」
「ユーリも、そう思ったからあなたを信頼し、全て話したのだと思う。ただ、彼は…少し、優しすぎるところがある。そのせいで、最後の一歩をなかなか踏み出せない」
露に濡れた花の一つに優しく触れながら、ディアンは、どこか遠い目をしている。
「この森の奥で、初めて出会った時から何も変わっていないのです。他のちっぽけな命のことを思うあまり臆病で、森の奥に引きこもって息を潜めているような、――そんな竜でした。」
それは、ユーリがまだ、彼らの息子として「転生」してくる前の話だ。
「白竜とは、どうやって出会ったんですか?」
「領主殿の狩りに同行し、途中で私だけがはぐれて、森で迷っていたのを助けて貰ったのですよ。出会ったのは、湖のほとりでした。当時の彼は人間の言葉を知らなかったが、こちらの言うことの意味は理解していたようでした。町に戻りたい、と身振り手振りで伝えると、森の入口まで運んでくれた。それから、狩りをしに森に入るたび、時おり姿を見かけるようになったんですよ。まさか、あれが言い伝えにある”古代樹の森”の
話しながら、男は微かに微笑んでいた。
「その竜が、自分たちの子供として生まれてきたと知ったのは、いつなんですか…?」
「ようやく言葉が喋れるようになった頃…二歳か、三歳か。自分で言ったんです。レーナは、子供の妄想だと思って受け付けなかったのですが、私は、ユーリに連れられてあの湖まで行った時、本当なのだと確信したのです。ユーリが語ったのは、彼と、私しか知らないはずの思い出でしたからね。」
「驚かなかったんですか?」
「もちろん、驚きましたよ。でも、同時に嬉しかった」
「”嬉しかった”…?」
「ええ。彼が、まだ生きてくれたのだと分かったからです。本人から聞いたかもしれませんが、…彼は、戦いの後、傷ついた体でできる限りの人間を救おうとしてくれた。自分の命をかけて…。その、最後の一人が妻のレーナだったのです。妻のために彼が死んでしまったのだと、ずっと思い悩んでいました。もしそうだとしたら、どんなに償っても償いきれない、と。」
その言葉には、強い響きが宿っていた。本心からの言葉なのだと、疑いを挟む僅かな隙さえ無いほどに。
「自分たちの息子が、竜でも構わないんですね」
「勿論です。ユーリは、母の体から生まれ落ちて、最初は言葉を知らず、歩き方さえ分からずに、一から人間として育ってきた。屋敷の者たちも、それはよく知っている。おむつを取り替えて、食事を与えて、熱を出して寝込めばみんなで看病した。彼はこの森の守護者であると同時に、今でも、私たちの大切な子供なのです」
「……。」
いつしか日差しは高く昇り、朝日の中で、薔薇の花弁に載った露は消えかけている。
ちょうど、玄関のほうからニコラが小走りにやってくるところだ。
「姫様、ここにいらしたんですか。そろそろ準備が整いそうです」
「分かったわ、すぐに行く」
マリアベルは、ディアンのほうに向きなかって、軽く膝を折った。
「お世話になりました、ディアンさん。それでは、いずれ」
「いつでもまたお越しください。出来る限りのお持て成しは致します」
玄関前には、マリアベルたちの乗ってきた馬が二頭、それに、屋敷で飼われていた馬がもう一頭追加され、馬具をつけられて待っている。
「本当にいいの? ローグレスまで一緒に来る、って」
ユーリに近づいて、尋ねる。
「ああ。少し、外の状況も見ておきたい。」
彼は、見送りに集まっている屋敷の人々を見回し、レーナに視線を留めた。
「それじゃ、母さん。行ってくる」
「気をつけてね。お姫様にご迷惑をおかけしないように、いいわね」
「分かってるよ」
ごく普通の、旅立つ息子と母親の会話だ。レーナは息子の肩を抱き寄せ、頬に軽く口付けをする。ユーリも、それを当たり前のように受け取っている。
「王女さま」
使用人たちの列から、イングリットが飛び出して、マリアベルに駆け寄ってくる。
「王女さま、お耳をお借りしても?」
「いいわよ、なあに」
「あの…」
少女は、そっと顔を寄せて囁く。
「ユーリさまのこと、あまり苛めないでくださいましね?」
「え?」
驚くとともに、マリアベルは思わず苦笑する。
「苛めたりしないわ。大丈夫」
「でも、あの…ユーリさまは、口下手で…。」
周囲の視線を気にしながら、もじもじと口ごもったあと、思い切ったように言う。
「本当は、弱くなんて無いんです。戦いたくない、っていつも口癖みたいに仰るのは、そういう意味じゃないんです。だから、どうか…分かって差し上げてくださいませね」
「? …ええ、分かったわ。」
イングリットは軽くスカートの裾をつまんで一礼すると、元いた場所へと駆け戻ってゆく。
ちょうど、ユーリが両親との別れを終えてこちらにやって来るところだ。
出立の時間が来た。
ニコラが轡を押さえてマリアベルが馬に乗るのを助ける。
「いってらっしゃいませ、ユーリ様!」
「王女様、またいらしてくださいね」
「ありがとう、お世話になりました」
マリアベルの乗る馬を先頭に、三頭の馬はゆっくりと樹海の外へ出る。
明るい、朝の陽射し。
森の入口には、昨夜の戦闘の痕跡が、まだはっきりと残されている。熱風で押し倒された木々と、溶けたようになった廃虚の壁。それに、抉られたような地面。
改めて日差しの中で見ると、異常なほどだ。他の竜たちとの戦闘では、ここまで大きな痕跡が残ったことはない。
「昨夜、考えていたんだが、あいつは以前とは少しやり方を変えてきていると思う」
ゆっくりと馬を走らせながら、ユーリが言う。
「あいつ…黒竜?」
「ああ。二十二年前は、もっと直接的に、おれが寝てるところにいきなり攻撃を仕掛けてくるようなやり方だった。他の竜をけしかけて誘い出すような、こんな面倒な真似をするやつじゃなかった」
「けしかけて…ってことは、やっぱりそうなの?」
「…正確には、あいつが生み出した竜が悪さをしている、というところか」
低く押し殺した声には、微かな苛立ちが感じ取れる。
「元々、この大陸にはほとんど竜はいなかった。竜は、マナが濃く溜まった場所にしか発生しない。マナをうまく分散させておけば、ほとんど生まれることもない。ずっと、そうしてきた…滞ることなくマナを循環させておいた。それが乱れたのは、あいつが来てからだ」
「そういえば、各大陸にいる古竜の役目はマナを安定させることだって前に言っていたわね。だけど、意図的に竜を生み出す、なんてことも出来るの?」
「それが出来る――マナの循環を変えられるのが、古竜という存在だ。”天”や”地”が直接生み出した古竜と、それ以降に新しく生まれた竜とは別ものだと思ったほうがいい。…とにかく、あいつが何を考えてるのかが分からないんだ。何をしたいのかも」
そこまで言って、彼は言葉を切った。何か、考え込んでいる様子にも見えた。
マリアベルは、隣で無言のまま馬を走らせ続けているユーリの横顔を、ちらりと見やった。
(うーん。やっぱり、普通の男の人にしか見えないわね…)
”肉体的には人間でも、中身は、はるか古えの時代から生きていた古竜そのもの”
――そう聞かされ、実際に竜としての姿を目の当たりにした今でも、最初の出会った時の印象から何も変わっていない。
どこか不思議で、得体の知れない力を感じさせながらも、人間などよりよっぽどお人好しで、どこか頼りなくさえ思える時さえある。それも演技などではなく、”素”の状態でそれなのだ。
(本当に、この人に頼って大丈夫なのかしら…。)
マリアベルは、すぐ後ろにいるニコラのほうにも、ちらと視線をやった。
ニコラはどう思っているのだろう。彼のほうは、最初からそれなりにユーリの力量を評価していた。
確かに、「精霊術師」としてはそれなりに腕のたつ部類なのだろうが、肝心の「竜」としての強はどうなのだろう。
本人の言ってることが正しいとしたら、果たして、二度目はあの黒竜に通用するのかどうか。
(でも、当初の目的は果たせたんだし、…少し、様子を見てみましょう)
行く手には、ローグレスまであと何日ぶんかの道程が残されている。
不安を抱えながらも、この道を先へ進むしか無いのだった。
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