第8話 雨天の闇の中で
ずぶ濡れのまま帰り着くと、ディアンの屋敷では、乾いた布を用意したレーナが、玄関で待っていてくれた。
「まあまあ、ずいぶんと濡れてしまって…。風邪をひくといけないわ、体を拭いてすぐに着替えて」
「すいません、ありがとうございます。」
「温かい飲み物も用意しますからね。ユーリ、台所に伝えてきて頂戴な」
「…ああ」
雨具を玄関の脇にかけると、青年は、台所のほうに消えてゆく。
「あっ、あの、わたくしもお手伝い致します~!」
布をかぶったまま、イングリットが慌てて後を追おうとする。
「着替えてからでもいいのよ、イングリット! …あ、王女様も、お部屋で着替えられたほうが」
「そうね、そうさせていただくわ。それじゃニコ、あとでね」
「はい。」
ニコラはびしょ濡れになった荷物を床に下ろし、マリアベルが脱いでいった雨具を、ユーリがそうしたのと同じように玄関脇の杭にひっかける。
その様子を、レーナは微笑みをたたえたまま、興味深そうに眺めている。
「ニコラさんは、お姫様の従者になられて、お長いの?」
「ええ、姫様が七つの時からですから、もう十年になりますね」
「そう。――それじゃあ、酸いも甘いも知り尽くした仲、ってことね」
彼女は意味深に、そっと囁く。
「もしかして、お二人は恋人同士なの?」
「は?! 冗談じゃな…いえ、違います」
反射的に、ほぼ拒絶するように否定するニコラを見て、レーナは少し意外そうに目をしばたかせた。
「あら、そうなの? ずっと二人きりで親しく旅をしているのなら、てっきり…。」
「あー、その。周囲からはそう見られることも少なくはないですが。ただ、私にとって姫様は、あくまで主人です。尊敬すべきところも多いお方だと思っています。」
「あなたのほうが年上なのに?」
「ええ。こう見えて私も、若い頃には色々とありまして…。あの方は、私を救って下さった、いわば恩人でもあるのです。」
真顔で言ってしまってから、彼はふと、冗談めかして付け加えた。
「まあ、それはそれとして、あの方の従者なんて務まるのは私くらいですので。腐れ縁に近いですよ、まったく」
真顔で溜息をつくニコラを見て、レーナは思わず吹き出した。
「うふふ、随分とお転婆なお姫様なのね」
「ええ、そりゃあもう。これでも、年頃になられて少しはお淑やかになられたほうなんですよ? とはいえ、型にはまらないところが、うちの姫様の良いところでもありますからね。私は、どこまでもお供するつもりです」
「お二人が信頼しあった仲なのは見ていて良くわかるわ。主従だとすれば、とても良い関係ね。――さあ、ニコラさんも着替えていらっしゃいな。濡れた荷物は、こちらで片付けておくから」
「すいません。すぐに戻ります」
ぺこりと一つ頭を下げ、ニコラは、足早に客間のほうに去って行く。
その後姿を、レーナは、暖かな微笑みとともに見送っていた。
日が暮れてからも、雨は降り続いている。
ランプの明かりは雨に滲んだようにぼやけ、屋根を叩く音がひっきりなしに聞こえている。
夕食が済んだあと、マリアベルは、それとなくユーリの後を追った。彼は真っ直ぐに自分の部屋に戻らずに、裏口から渡り廊下へ出て、暗がりに沈む庭を眺めていた。
「何をしているの?」
尋ねると、彼は面倒そうな顔をしつつも、返事だけはしてくれる。
「…庭の様子を見ていただけだ。」
「薔薇が心配? この雨だものね。」
「……。」
雨の音のせいで、会話の声が届いているのかどうかも不安になる。
「今日はありがとう。イングリットを道案内に寄越してくれて。それと、迎えに来てくれたこと。助かったわ」
「……。」
「湖まで行ってきたの。すごく気持ちのいい場所だったわ。竜には会えなかったけどね。君は、あそこで竜に会ってるの?」
「……。」
「ねえ。わたしが白竜に頼もうとしていることは、身勝手かしら。人間のために、命をかけて戦ってくれ、…だなんて」
「…いいや。」
どうせ沈黙しか返ってこない、と思っていたのに、意外にも、ユーリはそこで口を開いた。
視線は庭の方に向けたまま。
暗がりを見つめる眼差しが、微かに憂いを帯びていた。
「あんたたちのために戦うわけじゃない。あいつは、――”
「えっ?」
「…巻き込まれたのは、人間たちのほうなんだ。だから…だから、戦う理由は、”
それは、あまりに意外な、マリアベルの予想していなかった返答だった。
「天地の精霊によって創造され、最後に生き残って世界のマナを安定させる役目を担った古竜は、五体いた。
西大陸の竜、”
北大陸の竜、”
東大陸の竜、”
南大陸の竜、”
…中央大陸の竜、”
ユーリは、歌うように五体の竜の名を呼び上げた。
「本来は、それぞれの持ち場でマナを安定させる役目にあるはずだった。それなのに数百年前、西大陸の竜が北大陸の竜に挑んだ。――長い戦いの末に勝者は西大陸の竜と決まった。それから東大陸へ。…それからここへ。おそらく奴は、全ての大陸のマナを支配下に置くまでは止まらない」
「どうして、そんなことを知って…あ、竜本人に聞いたのね?!」
「……。」
それまで庭のほうを見つめていた青年が、振り返る。
視線が、正面から合った。
薄茶色の瞳は、一瞬、何か別の色を帯びて見えた。
「分かってるんだ」
「え?」
「どこへも逃げられない。逃げても意味がないのなら戦うしかない。そんなこと、最初から分かってる」
「どういうこと」
「それでも、戦いたくない…」
雨の音に紛れて、言葉ははっきりと聞き取れなかったが、確かにそう言ったように聞こえた。
ふいに彼は逃げるように背を向けた。そして、マリアベルが口を開くより早く、渡り廊下の先へ向かって足早に去ってゆく。
「あ、待って! ねえ、今のは…」
「あら、姫様。」
振り返ると、レーナが立っている。
「何か話してた? お邪魔しちゃったかしら」
「あ――いえ…。」
ユーリが慌てて逃げ出したのは、レーナがやってくるのを見て、竜の話をしていたのを誤魔化すのが面倒だったからなのか。
だがレーナのほうは、幸いにして、二人で深刻な顔をして何を話し合っていたのかは、興味がないらしかった。
「あの子と、ずいぶん仲良くしてくれているのね。どうかしら。この辺りには、あまり近い年頃の子がいないのだけれど、何か失礼なことをしていない?」
「いえ、むしろ、わたしのほうが色々聞いてしまって。」
「聞く? 何を?」
「あ――えっと、精霊術のこととか…その、彼、かなりの使い手、ですよね?」
苦し紛れの嘘だったのに、レーナは、ぱっと明るい表情になった。
「ああ! あれはね。私が教えたのよ。私も昔、精霊術師だったの。ディアンが剣士だからね。二人で一緒に戦って…あら? 戦って…? 何と、だったかしら…」
「あ、あー。すいません、わたし、ニコと明日の予定の話をしなくちゃいけないんでした。すいません、レーナさん。それじゃあまた明日」
「え? ええ。それじゃあ、どうぞごゆっくり」
レーナは、不思議そうな顔をして首を傾げている。
(危なかった…。)
大急ぎで渡り廊下から屋敷の本館に戻って、マリアベルは、胸をなでおろした。
彼女が思い出しかけていたのは、忘れたままにしておきたい昔の話だ。
イングリットの言っていた、上位竜同士の激闘の時。仮死状態になる以前のこと。
当時はまだ”竜殺し”の数はそう多くなく、精霊術師と組んで戦うやり方も、今ほどは確立されていなかった。それでも、辛うじてとはいえ生き残れたのだから、ディアンも、レーナも、人並みならぬ腕前の剣士と精霊術師だったはず。
(思い出させないほうが良いことなんだ、きっと。レーナさんだけじゃなく、ディアンさんや、ここに住む人たちにとっても。…だからユーリも、戦うのを嫌って…)
風に乗って、ふわりと薔薇の香りが漂う。
(あれ? 戦いたくないのは、白竜なの? それとも、ユーリ? あの時、言おうとしていたのは…)
二階の客間へ向かうため階段を上がろうとしたマリアベルの足が、ふと止まった。
何故か胸がざわめいている。
何か、――何か、とても大切なことを見落としている気がする…。
びりびりと、空を揺るがすような咆哮が耳に届いたのは、ちょうどその時だった。
「?!」
二階のほうで、扉が開かれる音がした。
「ニコ? 今のは…」
「異常な精霊の気配。いえ、これは、竜です!」
「!」
再び、遠く頭上のほうから咆哮が響き渡る。雨の音に混じって、まるで風が唸っているかのような音だ。
「森の入口のほうね。そう遠くない。もしかしたら――あ、ユーリ?!」
「……。」
どこから戻ってきたのか、青年は階段の下を足早に通り過ぎ、玄関の脇にかけてあった雨具を取り上げる。
迎撃に向かうつもりなのだ。
「待って! 精霊術師だけじゃトドメは刺せないわ。わたしたちも行くから!」
「…好きにしろ」
それだけ言って、ふいと玄関から出ていってしまう。
「ニコ、急いで。追いかけるわ」
「はい!」
屋敷の中は妙に静まり返り、使用人たちが慌てている雰囲気はない。
今までにも、こんなことは何度もあったのかもしれない。何が起きているのか分かった上で、レーナを誤魔化すために何かしているのかもしれない。
暗がりの中、ユーリは一人、森の外へ向かって走っている。
雨はさっきより小ぶりになっているものの、足元はまだぬかるんで、辺りには靄のような気配が漂っている。
「多分、水竜ですね。この天気で火竜が夜の散歩なんてするはずもない」
後を追って走りながら、ニコラが言う。
「ニコ、あなた火の精霊術って苦手じゃなかった?」
「ええ、残念ながら。――といいますか、精霊術師は大抵、相性の良い精霊に関する一種類の系統を極めて、残りの属性の術はオマケ程度にしか使えないものなんですよ。全属性を極められるなんて、普通はありえません」
彼は、先をゆく青年の背をちらりと見やった。
「もっとも、目の前にその”あり得ない”存在らしき人物がいるので、何とも言えませんが」
「やっぱり、彼、普通じゃないの?」
「ええ、私から見ればそうですね。これでも私は、姫様の護衛が務まるくらいにはデキる精霊術師なんですよ。その私以上の腕前、となると、そう何人もいませんよ」
ニコラは冗談めかした笑みを浮かべるが、それもすぐに真顔に戻る。
「前回、火竜と戦って生き延びたからには、水系統の精霊術は使えるでしょう。”縮地”は土の精霊術。今日使っていた”傘”は、私の得意な風属性の上級術ですね。私でも、流石にここまで別系統の上級の精霊術を連発するのは無理です。もし彼が水竜に対抗できるだけ火の精霊術も極めているのなら、四属性の全てに適性を持っていることになりますよ。」
「……。」
その意味するところは、今はまだ分からない。
ただ、マリアベルには、何か予感のようなものがあった。
ディアンたちが樹海に呑まれた屋敷に今も留まっているのには、もう一つ、まだ見えていない、隠された理由があるのかもしれない、と。
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