第7話 琥珀の湖

 心地よい寝床での快適な眠りの後、木々の合間から差し込む陽の光ですっきりと目覚めた。

 イングリットの給仕で朝食をとり、屋敷の外に出てみると、太陽の日差しの中に艶やかな色の果実がなっているのが見えた。ディアンの言っていたとおり、屋敷の裏手には果樹園と小さな畑が広がっているようだった。

 家畜小屋に、家畜に与える牧草を刈るための広場。それに、水を汲み上げるために掘られた小さな井戸。生活に必要な一通りのものが揃っている。

 


 屋敷の周囲には、ディアンの言った通り、使用人たちの姿があった。大半が年配だが、まだ若い者も数人いる。ここで生まれたか、子供の頃からここにいて、家族とともに留まることを選んだ使用人たちだろう。とはいえ、おそらくイングリットが最年少なのは間違いないのだが。

 マリアベルたちの姿を見ても特に驚かず、軽く会釈してくるところからして、昨夜のうちに、来客があったことは知らされていたようだ。

 「うーん、怪しいところは何もないわね。皆、普通の人間みたい」

 「そうですねえ。少なくとも、屋敷の周囲では幻影の類は使われていないようです」

長閑で、穏やかな小さな村の光景、といった雰囲気だ。近くに竜の巣があることも、森の外に頻繁に暴竜が襲来していることすら感じさせない。それがかえって、奇妙に思える。

 「どうなっているのかしら。ここの人たちは、もしかして樹海の外に出ることが無いの? 近くに竜がいても気にしないってこと…? それにしても、敢えてこの不便そうな場所に留まり続ける理由が分からないわ」

 「屋敷の主のご子息の徴兵逃れのため、というには、少しばかり大掛かりすぎますね。もしかしたら、他にも何か理由があるのかもしれません」

とはいえ、昨日ここへやって来たばかりの客人である自分たちが聞いたところで、住人たちが洗いざらい話してくれるとも思えない。

 それに今は、ウィンフィールド一家のことより、白竜の探索のほうが優先だ。

 「さて、それじゃ、わたしは、ユーリと話して来るわ。望み薄だけど、何か情報をくれるかもしれないし」

マリアベルが言うと、とたんに、ニコラの表情が不安げになった。

 「姫様ぁ、本当に我々だけで樹海の奥に入るつもりですか?」

 「それしかないでしょ。まさか、ここまで来て何の情報も得られずに引き返すなんて、あり得ないんだから。昼食と、念のため夜食の準備くらいはしておいて。」

 「…かしこまりました。…はぁ」

言い出したら反対意見を聞かないのはいつもどおり。それに、ここまで来て引き下がるわけにいかないのも事実だ。

 ニコラはひとつ溜息をついて、言われたとおりの準備をするため、屋敷のほうに引き返していった。


 一方のマリアベルは、ユーリを探しに出かけた。

 と言っても、探すべき範囲はそれほど広くはない。

 ほどなく彼女は、意外な場所、庭の隅の薔薇園の中に目指す青年の姿を見つけた。どうやら、花の手入れをしているらしい。

 「意外ね、園芸が趣味なの?」

声をかけると、ユーリは汗を拭いながら立ち上がり、わざわざ視線を逸らしながらこちらを振り返った。

 「母さんが好きな花なんだ。咲かせるのに、マナの調整が難しい…。それで、おれが面倒を見てる」

 「マナの? ああ、肥料代わりにマナを与えてるのね。確かに、薔薇って栄養過多だと花が咲かないし、足りなくても咲かないし、面倒よね」

言いながら、マリアベルは手前に咲いている、見事な大輪の花弁にそっと手をやった。艶のある白い花弁の上に、赤い縁取りが載っている。

 「これ、ファーディアの紋章…薔薇冠クラウンロッサの薔薇ね」

 「そうだったな」

無感情な、或いは、そう装っている口調。

 「好きなら適当に眺めていけばいい。邪魔をしなければ何でもいい」

 「そういう言い方、…」

ぶっきらぼうな態度に少しむっとしながらも、マリアベルは、言葉を飲み込んだ。

 彼のこの態度は、悪意があるからというより、何か別の理由から来るものだ。その理由のほうが知りたい。

 「わたしたち、これから森のほうに竜を探しに行ってくるわ」

 「……。」

ユーリは無言のまま、剪定鋏を手に、薔薇の茂みの前にしゃがみこむ。

 「どっちに向かったら会えると思う?」

 「……。」

予想どおり、返事はない。

 下手に誤魔化すよりは、無視を決め込んで、答えないのが得策と決めたようだった。確かに、黙っていれば、ぼろは出ない。

 「そう。それじゃ、適当に探すわ。言っておくけど、今日が駄目なら何日だって通うから。行ってくるわね」

 「………っ。」

何か言いたげな、というより言葉にならない声が小さく漏れた。だが、マリアベルは敢えてそれを無視して歩き出す。

 (よし、これで彼にわたしたちの意図は伝わったわね。)

もしも夜になって戻らなかったとしても、ユーリだけは行方を知っている。何の利害もしがらみも無いはずの初対面の時でさえ、危険を冒して助けに出てきてくれたくらいなのだ。彼が何もしないとは思えない。

 少し心は傷んだが、――手がかりは、これしかないのだ。




 玄関先に戻ると、ちょうどニコラが、荷物を背負って出てきたところだった。

 「準備は整いましたよ。姫様のほうは?」

 「こちらも大丈夫。彼に、竜を探しに行くって言っておいたから、わたしたちが戻ってこなかったら探しに来てくれるんじゃない?」

 「はあ。姫様ときたら、本当に…人が悪い」

 「元はといえば、知ってることを教えてくれない向こうが悪いのよ。こっちだって切羽詰まってるんだから」

腰に提げた竜殺しの剣を確かめ、マリアベルは、森の奥、屋敷から続く小道のほうへ向かって歩き出す。

 「本当に、この方角でいいんでしょうか」

 「人が踏み分けた跡があるし、合っていると思うわ。ユーリの態度からして、竜と知り合いみたいな雰囲気だったでしょう? だとしたら、時々会いに行っているのかも」

 「ああ、…なるほど。だとしたら、人間の踏み跡を辿ってみれば行き当たるかもしれませんね」

マリアベルが先を歩き、荷物を背負ったニコラが後からついてくる。踏み跡は次第に薄れ、落ち葉に埋もれてほとんど消えかけていく。けれど、その頃にはもう、森の随分と奥深くまで入り込んでいた。


 やがて、小さな広場のような場所に出ていた。

 「ここは…? 道が消えてますね」

 「うーん、どっちへ行けばいいのかしら」

静かな日差しが木々の間から差し込んで、辺りには鳥の声だけが響いている。

 歩いている時は気づかなかったが、この森の木々は、他の場所で見かける植物とはかなり違っている。見たこともない、奇妙に古風な草木ばかりだ。よく見ると落ち葉の形も、謎めいた花びらのような形をしている。

 「あれ…これ、確かもう絶滅したはずの、古代樹…あ! そういえば、ここの本来の名は『古代樹の森』でした」

ニコラは、はっとしたような顔になり、夢中であたりを見回し始めた。

 「うわ、よく見たらこの足元のシダも…この苔も…! 化石でしか残っていないはずの大昔の植物ですよ! 凄い!」

 「そんなに貴重なものなの? こんなに沢山あるのに?」

 「そうですよ、ええ。きっと今まで誰も気がついていないんですよ。竜の巣があるから…? 何かマナの動きが安定しているとか、害する獣がいないとかのお陰なのかもしれません。うん、間違いない。雰囲気からして、この辺りは竜同士の戦いのあとで伸張した部分ではなく、元々あった森のようですね」

 「それじゃあ、竜の住処のかなり近くまで来てる、ってことよね?」

 「はい、その可能性が高いですね。もっとも、そのお陰で道らしきものも消えてしまいましたが…。」

辺りは鬱蒼とした緑に覆われ、屋敷の周囲よりずっと深い森になっている。ここから先の道はおろか、今まで辿ってきた道もあやふやだ。樹海、と呼ばれる所以を、二人は今更のように思い出していた。

 「やれるだけ、やってみましょ」

マリアベルは、辺りを見回して一方を指さした。

 「勘でいくわ! 多分、あっち」

 「そんなのでいいんですか、姫様…。」

 「迷ってる時間が惜しいもの。間違ってたらここに戻ってくればいいわ。さ、行くわよ」

歩き出そうとした、その時だ。

 落ち葉を踏み分ける足音が、背後の方から聞こえてきた。小さな息遣いが迫ってくる。

 「ん? 誰か追いかけて来ますね」

 「あれは…」

マリアベルたちの来た方角から、少女が勢いよく駆け出して来る。

 「あ! いらっしゃいました!」

スカートをたくし上げながら走り寄ってきたのは、イングリットだった。

 ほっとした様子で足を止め、大きく呼吸して息を整えながら、二人を見上げる。

 「良かった、追いつけました。森に向かったと伺って、追って参りましたの。お二人の、ご案内を仰せつかりました!」

 「…伺った? 誰に?」

 「もちろん、ユーリ様です!」

 「……。」

マリアベルとニコラは、顔を見合わせた。

 この展開は想定外だった。まさか、ユーリ本人が追って来るのではなく、幼いイングリットに同行を頼むとは。これでは、無茶が出来ない。

 「えーっと、わたしたち、竜を探しに来てるのよ」

 「はい、存じ上げております。なので、竜が住んでいた湖までご案内するようにとの仰せです」

 「…そう。」

と、いうことは、そこに言っても竜には会えないのだろう。

 そう思ったが、せっかくの案内なのだ。それに、かつて竜が住んでいたという場所には、少し興味がある。

 「ありがとう、助かるわ。」

 「こちらですの!」

イングリットは元気に、さっきマリアベルの歩き出そうとしていた方角へ向かって歩き出す。どうやら本当に、方角だけは合っていたらしい。

 「道案内、ってことは…あなた、この辺りはよく来るの?」

 「はいなのです。薬草を摘みに来たり、木の実を拾いに来たり…。ユーリ様に教えていただいて、この森のことには随分、詳しくなったのです!」

 「危なくないの? 迷ったりは?」

 「この森は安全なのですよ、人を襲うような獣は住んでいません! それに、何かあったらすぐ、ユーリ様が助けに来てくださるのです。」

 「信頼してるのね、彼のこと」

 「はい。とてもお優しい方なのです! お屋敷の人たちはみんな、ユーリ様のことは大好きです」

少女の言葉に迷いはなく、心からの言葉だと分かる。

 幼さゆえの無邪気さ、――というわけでもないのだろう。

 実際、ユーリは控えめに言ってもお人好しの部類だ。それに、屋敷が樹海に呑まれてからも使用人たちの多くが留まったということは、主人夫妻であるディアンやレーナが彼らの信頼を得ていた証しでもある。

 「ねえ、聞いてもいいかしら」

歩きながら、マリアベルはイングリットに話しかける。

 この少女が一人でつけられたことの意味、それに、彼女がどこまで事情を知っているのかも知りたかった。

 「ユーリに、レーナさんの前では竜の話をするな、って言われたの。あなたたちも、そうなの? レーナさんはどうして、外の世界で起きてることを知らないの?」

 「…それは」

少女の表情が、僅かに曇った。

 「その…、奥様は、竜との戦いのことを覚えていらっしゃらないのです。ユーリ様を身ごもっていらした時に戦いに巻き込まれて、それで、仮死状態にまでなられたそうで…。奇跡的に息を吹き返した時には、直前の記憶が曖昧になっていらしたそうなのです」

 「それじゃやっぱり、レーナさんはディアンさんと一緒に戦場にいたのね? 精霊術師として?」

 「はい…。ヴィエンナ領の領主様やお仲間の騎士さまたちとご一緒に、町を守ろうとされていたとのことです。ですが竜たちの戦いはあまりに激しく、旦那様はご主君の領主さまを守り切ることが出来ず大怪我を負い、レーナ様も…。」

イングリットは目を伏せる。

 「なので…旦那様は、その辛い記憶を敢えて思い出させることもない、と仰っていました。幸い、この樹海の中にはめったに人が来ませんから、レーナ様に外で起きていることが知られる心配もありません。それで、ディアン様は騎士を引退されたことにして、ユーリ様が精霊術で屋敷を隠して、わたくしたち使用人は話を合わせるようにしておりますの」

 「なるほど…。」

だから彼らは、森の外に出て暮らすことが出来なかったのだ。

 「やっぱり、単純な徴兵逃れではなかったようですね」

 「そうね。でも、いつまでも誤魔化しているのは…このまま、一生隠し続けるなんて出来るのかしら」

 「それは…、旦那様もずっと心配されていることなのです。わたくしたちには、何とも言えません。ですが、できる限り奥様に心安く過ごしていただくよう、わたくしたちは望んでおります」

古代樹の鬱蒼と茂る中、ほとんど目視も出来ない小道を見分けて進んでいる間、頭上では、微かな鳥の声が聞こえている。

 人の立ち入ることのない深い森の中には目印は何もなく、既にどっちから来たかもわからない。ここでイングリットとはぐれたら、二人だけでは永遠に屋敷まで戻れないような気がしていた。




 何度かの休憩をはさみ、それから、どれほど歩いただろう。

 足がくたくたになりはじめる頃、ようやく、木立の向こうに黒々とした水面らしきものが見えはじめた。

 「あ、ほら! 見えてきましたよ」

ふいに、イングリットの声が明るくなった。

 僅かに落ち葉が踏まれているだけの薄い小道を辿ってゆくと、その先で視界が大きく開けた。

 見たことのない種類の木々に囲まれた、透明な水をたたえた静かな湖。そのほとりには、湖の上に張り出すようにして影を落とす大きな岩がある。

 「ここです。ここが、竜の巣なのです!」

 「うわあ、綺麗な湖ね。」

水辺に近づいて、マリアベルは、透き通るような湖底を見下ろした。小さな魚らしきものが驚いて逃げ惑う。生き物がいるからには、毒の水などではなさそうだ。

 ニコラのほうは、辺りを見回しながら、さっそく”探知”の精霊術を使って周囲を探っている。

 「残念ながら、周囲に竜の気配は無いようです…が、かなりマナの濃い場所ですね。ここで精霊術を使うなら、威力に注意したほうがよさそうです」

 「ねえ、イングリット。昔ここに住んでいた竜は、今でもここにいるんじゃないの?」

 「そうかもしれません。とても綺麗なお姿だと、旦那様は仰っていました」

直球で尋ねれば何か教えてくれるのではないかと思ったが、イングリットは、はぐらかすように笑っているだけだ。

 「あ、そうだ! 竜はよく、あの岩の上で寝ていたそうなのです」

と、イングリットは、湖の上に張り出している岩のほうを指さした。

 「それって、誰がそう言っていたの?」

 「旦那さまです。領主さまの狩りのお供で森に入った時に道に迷って、偶然ここに入り込んだことがある、と仰っていましたの」

 「ああ、それで――。」

確かにユーリも、竜に言葉が通じるのかと質問した時に、「父さんたちとも昔、話をしたことがある」と言っていた。

 「それじゃあ、ここが竜の巣だと知っていたのは、ディアンさんなのね。」

 「はい。昔話なら聞かせていただけると思います。」

 「ありがとう。戻ったら聞いてみるわ。レーナさんの居ないところで」

湖のほとりをぐるりと回り、岩の上まで登ってみたが、そこには何もない。

 ただ、岩の上からは湖の対岸まで広く見渡せた。周囲に広がる深い森と、広々とした空。風が吹き抜けてゆく。とても心地よい場所だ。

 「こんなところでお昼寝したら、気持ちよさそうね」

 「はい。ユーリ様は時々、ここに来てお昼寝を…あっ」

イングリットが慌てて口元に手をやるのに気づいて、マリアベルは思わず微笑んだ。

 「分かってるわよ、余計なことは言うなって言われてるんでしょ。あなたを困らせるようなことは聞かないから」

 「……。あのう、王女さま」

少女は、ふいに不安げな顔になっていた。

 「王女さまは、本当に、この森の竜を戦いに連れていくつもりなんですの…?」

 「そんなことまで聞いたの?」

 「申し訳ございません。聞いてしまいました」

 「謝ることないわ。正直に言うと、何としてでも説得したいと思ってる。わたしたちだけでは、王都を取り戻すことも、暴れまわる竜たちを全て倒しきることも出来ない。白竜が手を貸してくれなかったら、わたしたちは皆、いずれあの黒竜にこの大陸を追い出されるかもしれない」

 「……。」

 「あなたも、ユーリと同じ顔をするのね。どうしても戦わせたくない、っていう顔。」

 「だって、…」

少女は、両手でぎゅっとスカートを握りしめる。

 (そうか…そういうことね)

マリアベルもようやく、イングリットが寄越された理由を理解した。

 ユーリと同じように、彼女は知っているのだ。かつてここに住んでいた白竜が今も生きていることを。


 マリアベルはしゃがんで、イングリットの泣き出しそうな頬にそっと触れた。

 「他に方法がないの。わたしだって、自分の力の持てる限りは戦うわ。それでも全然足りない」

 「……。」

 「せめて話だけでもしたいのよ。このまま諦めるのも、ただ滅びを待つのも嫌。こうしている間にも、どこかで暴竜の犠牲になっている人がいるかもしれないんだから――。」

言いながら、マリアベルは、自分でも虚しい言葉だと思っていた。

 (これじゃあ結局は他力本願ね。自分たちに出来ないから代わりに戦ってくれって頼むなんて…)

 「姫様」

振り返ると、いつの間にかニコラが荷物を解いて、岩の上に敷物を広げていた。

 「そろそろ昼食にしませんか? ちょうどここは、良い見晴らしですし」

 「あ、そういえば。もう、そんな時間ね」

太陽は天頂をわずかに過ぎている。気がつけば、お腹がぺこぺこだ。

 「お屋敷で食べ物を分けていただいたんですよ。果物もあります」

 「わあ、美味しそう。」

 「あ、それは、わたくしの母が焼いたパンですの!」

さっきまで表情を曇らせていたイングリットも、少し笑顔を取り戻している。

 「お昼をいただいて、少しゆっくりしたら戻りましょう。――お散歩になっちゃったけど、ここに来られて良かった」

湖のほうを振り返って、マリアベルは目を細めた。

 そう、目的の竜には会えなかったが、少なくとも、美しい風景を見ることは出来た。

 「ここの木々は、秋になると琥珀色に紅葉するんです」

イングリットは、いつしか元の明るい口調に戻っていた。

 「だからお屋敷のみんなは、ここのこと、”琥珀の湖アンバー・レイク”って呼びます。すごく…すごく綺麗なんです。他の何処よりも」

 「そうなんだ。是非それを見てみたいわね。」

 「はい! その時になったらまた、いらしてください。」

 「……。」

チーズを挟んだパンを口に運びながら、マリアベルは、これからどうすべきかを考えていた。

 自分たちがここに来ていることを、この森のどこかに隠れている竜は、すでに知っているのだろうか。

 だとしたら、こっそりもう一度この場所へ来れば会えるだろうか? それとも、隠れているのはもっと目立たない、別の場所なのだろうか。

 (ここじゃあ、空からは丸見えだものね。もっと目立たない場所…? だけど、手がかりも無しに歩き回るのは現実的じゃないわね)

湖のほとりの岩の上からは、周囲に広がる広大な緑が見渡せる。この広々とした森をくまなく探索するには、それこそ、何ヶ月もかかるかもしれない。

 精霊術で気配を探ろうにも、森の奥はマナの気配が濃すぎて、竜の気配が読み取れない。

 現時点では手詰まりだった。もう一度ディアンやユーリに話を聞くか、ローグレスまで戻ってアーサーに相談してみるか。




 それまで晴れ渡っていた空が曇り始めたのは、昼食のあと、荷物を片づけて帰路に差し掛かった頃のことだった。

 日差しが消えると、ほどなくして、ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。

 「うわ、降ってきましたよ。雨具も持ってきてないのに」

ニコラは大慌てで、昼食の時に使っていた敷物を取り出して広げる。

 「姫様、これを。」

 「ええ。イングリットも端を持って。」

 「は、はい」

二人で敷物を傘のようにして、少しでも雨を避けようとする。

 だが、降り注ぐ雨は見る間に大粒になり、あっという間に、辺りの風景が見えないほどの土砂降りへと変わる。足元の落ち葉は水たまりの中に沈み、靴の中まで泥水が流れ込んでくる。

 「ニコ、大丈夫?」

 「うう…。滝の中にいる気分です」

彼は力なくぼやいたた。上着を被ってはいるものの、その上着も既に水に浸けたようになり、ほとんど用を成していない。しかも、まだ日も暮れていないというのに、辺りは雨のせいで真っ暗だ。

 このまま歩き続けるか、どこか雨宿りできそうな場所を見つけて少し雨が収まるのを待つべきか。

 マリアベルが決断を迷っていた時、行く手の木々の合い間から、炎のようなものがちらつきながらこちらに向かってくるのが見えた。

 「あ! あれは…」

ぱあっ、と、イングリットの表情が明るくなる。

 姿を現したのは、やはり、ユーリだった。手元に、精霊術で灯したらしい明かりを浮かべている。

 「急な雨で、まだ戻っていなかったからな」

ほっとした様子で、彼は、抱えていた三人ぶんの雨具をそれぞれに配った。

 「”傘”の術で少しの間、雨を押さえておく。早く着ろ」

空中に、見えない空気の膜のようなものが浮かび、体に叩きつけていた雨の勢いが弱まる。

 「へえー、そんな術も使えるんですか。その術は私も使えますが、なかなか調整が難しいはず」

 「ちょっとニコ、感心してないで、早くそれ着て。」

 「おっと、失礼しました。そうですね」

三人は急いで濡れた服の上から、防水処理をされた革でできた雨具を着込む。

 準備ができたのを見て、ユーリは”傘”の精霊術を解き、明かりを手に、先に立って無言に歩き出す。

 「ね。お優しい方でしょう」

イングリットが、そっとマリアベルに囁いて微笑んだ。

 「…ええ。そうね」

先をゆく背中を見やりながら、彼女は、複雑な思いを抱いていた。

 ユーリが邪魔している限り、竜に会うことも、説得することも出来そうにない。

 けれど、彼に助けられていることは事実だ。

 (どうすればいいんだろう。…どうすれば)

分かっていることは、ユーリを説得出来なければどうにも出来ない、ということ。

 ディアンのあの様子からしても、息子が納得しない状態で何か情報を漏らすことは無いだろう。

 そのためには、どうすればいい?


 雨具の上に落ちる雨音が、少しずつ遠ざかってゆく。

 行く手には、雨に滲む屋敷の明かりが見えはじめていた。

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