20
テアくんと出会ったのは、半年ほど前のことでした。
隊舎の外にある水道で、顔を洗っていたときのことでした。暑い夏の季節で、日差しがじんじんと照り付けて、肌が焼けてひりひりしていたのを覚えています。
「ねえ」
声を掛けられたと気付いて、顔を上げました。視界の先には、背の高い紅髪の少年がいました。ボクは訝しげに、彼のことを見つめていました。
「シフィア=ゼレフィールって、お前で合ってる?」
「はい。ボクが、シフィア=ゼレフィールですけど」
「……何で一人称、『僕』なの?」
少年は首を傾げました。その指摘に、ボクは少しだけむっとなります。
戦場で女だと思われることにはデメリットしかない。その事実に深く関わり続けた結果、私という一人称を使うことが面倒になった――
そんな『正しい』説明を、ボクは心の中で一通り述べました。
少年に向けて、にこっと笑います。
「その方が、かっこいいからですよ?」
他者に心を開くのは、随分時間が掛かる方だから。
そういうボクの内面に深く関わる質問は、適当な嘘で誤魔化す。
……それが、ボクの信条でした。
少年は納得がいったようで、こくりと頷きました。ボクは近くに置いてあったタオルで、顔に付いた水滴を拭きました。
「……あ、オレは、グレーテア=ネイティネル。よろしく」
「ふーん、グレーテアくん……は長いですね、じゃあ、テアくんって呼びますね」
「何でもいいよ。シフィアって呼んでもいい?」
「別にいいですよ? それでテアくんは、ボクに何の用ですか?」
ボクの質問に、少年――テアくんは軽く頬を掻いてから、口を開きました。
「感情から物をつくれる、って噂聞いた。ほんとなの?」
「あー、また噂になってるんですか、面倒ですね……。ほんとですよ」
「まじ? 見たい」
テアくんは目をきらきらさせながら、そう言いました。
面倒くさいなあと思いつつ、別に減るもんでもないしいいか、と考えます。
右の手の平を開いて、そっと呟きます。
「――猫の死」
思い浮かべます。かつて愛していた野良猫。その猫があるとき車に轢かれ、無残な姿で横たわっていたのを、目にしたときのこと。
その暗い哀情を、深い絶望を、鮮明に思い出します。
悲しみが胸の中に溢れて、そうして氷が生まれていきます。自分が思った通りの形になるので、今回は球形にしてみます。
すぐに、冷たい氷のボールが生まれました。ボクはそれを、テアくんに渡します。
「はい、どーぞです」
「うわあ……すご、ありがと」
テアくんはボールを受け取ると、「冷たっ」と言って目を細めました。その反応が何だかわかりやすくて、ボクは少しだけ微笑んでしまいました。
「奇跡みたいだね」
奇跡、とボクは心の中で反芻しました。
ボクは奇跡で、沢山の人を殺しているんだなあ、と思いました。
「……え、ごめん、なんかマズいこと言った?」
テアくんはどこかおろおろとしながら、そう尋ねました。
そうしてようやく、自分がひどく暗い目をしていたのだということに、気付きました。
すぐに、微笑みを顔に貼り付けました。
「ううん、何でもないですよ?」
テアくんは不思議そうな顔をしながら、そっと頷いてくれました。
*
新たな戦場に向かうために、ボクたちは歩いていました。
「この戦争は、いつになったら終わるのかな」
テアくんの言葉に、ボクは「さあ」と返しました。
多分、こちらが優勢。
この戦争についてわかっていることはそれくらいで、ボクは別に興味もありませんでした。正直、どうでもよかったんです。
この国の戦争が終わったところで、ボクはまた軍人として別の戦争に駆り出されるでしょう。友好国の味方をして、生きていくでしょう。
テアくんはまた、口を開きました。
「戦争終わったらやりたいこととかないの」
「ないですよ? 逆に、テアくんはあるんですか?」
「そんなの、色々あるに決まってるでしょ。友達とまた遊びに行きたいし、家族と飯行きたいし、美術館巡りもしたいし、勉強もしたい。それと、」
そこまで言って、テアくんは口をつぐみました。ボクは首を傾げて、テアくんの身体をつつきました。
「どうして急に黙るんですか。それと、何です?」
「……何でもない」
「嘘がバレバレですよ? 嘘をつくなら、もっとボクみたいに上手くやりなさいよ」
「あー、うるさいうるさい。何でもいいでしょ」
「そこで止められると気になるんですよ。というか本当に言いたくないんだったら、こういう風に匂わせないでしょう? さっさと吐いて楽になったらどうですか?」
「あー、わかったわかった、言えばいいんでしょ!」
テアくんは面倒くさそうに告げて、それからぼそっと、言いました。
「……好きな奴に、告白したい」
ボクはそんな彼の返答に、目を丸くしました。
ああ、この人は『普通』なんだなあ、とそうやって思いました。
正直に言うと、羨ましかったです。
誰かを愛すことを厭わないその正常さは、ボクにはないものでしたから。
だから、にかっと笑ってみせました。
「いいじゃあないですか! テアくんならきっと、上手くいくと思いますよ? 好きな人とお幸せにー!」
ボクの言葉に、テアくんは微かに寂しそうな顔をしました。
その寂寥の意味はわからないまま、ボクはにこにこと笑い続けました。
「お前は本当に、やりたいこととかないの?」
テアくんはそうやって、ボクに尋ねました。
ないですよ、と思いました。でも彼の目がどこか悲しそうで、『ない』と返答してしまえばきっともっと悲しむだろうと、何となくわかりました。
テアくんのことは、大切だから。
だから、無闇矢鱈と傷付けたくはなかったんです。
頑張って考えてみて、あ、そうだ、と思い付きました。
「可愛いワンピース! 最近流行らしいですよね、ボクも着てみたいんですよね、あれ……」
でも多分、叶うことのない望みでした。
戦場では、女と見られたくないから。髪も短く切っているし、軍服に身を包んでいる。
永遠に戦場で生きていくボクは、ワンピースを着ることもないんでしょう。
それだけが、確かでした。
「いいじゃん」
テアくんはそう言って、笑いました。
ボクは何となく、彼の紺色の瞳と目を合わせました。
彼もきっと、ボクの蜜柑色の瞳を見ていました。
テアくんは少しして、口を開きました。
「お前って、不思議な目をしてるよな」
「不思議な目? 何ですか、それ」
「冷たいようで、奥の方は温かい。無関心なようで、奥の方は優しい。表面の部分ともっと深い部分で、違った印象を受けるんだよ」
「……へえ」
この人はよくわかっているな、と思いました。
嘘つきなボクにぴったりの目。
そう、感じました。
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