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 シフィアさんは顔を上げて、目を輝かせる。


「すごい、すごいですよラビトくん! すごく絵が上手いじゃないですか! 感動しちゃいますよー、ねえ、ヨカちゃん?」


「……うん。正直めっちゃ悔しいけど、認めざるを得ないわ。ラビト、本当に絵が上手いのね」


 そんな二人の言葉が、嬉しくて堪らない。絵を描いてきたことを、絵をこれからも描きたいと思っていることを、しっかりと肯定されているようで。


 その判断を他人準拠にしてしまうのは、誤っているのかもしれない。でも多分、自分はずっと不安だったんだろう。そうやって、今更気付いた。


「……ありがとうございます、二人とも」


 絵から顔を上げた二人に、笑いかける。


「俺、実は……美術系の高等教育機関、全落ちしてるんすよ、受けたとこ。だから正直、自信なくしてました。だから、嬉しいっす」


「え、そうなの? やばいわね、美術系の高等教育機関……わたしだったら多分、門前払いだろうなあ……」

「あれ、自分の画力のなさを認めるんすか?」


「う、うるさいわね! 流石にわかるわよ、わたしが絵がちょっぴり下手なことくらい!」

「ちょっぴり……?」

「うがー! やっぱり腹立つわね、あんた!」


 かっかと怒るヨカさんに「ごめんなさい、つい」と頭を下げる。俺たちのやり取りをにこにこしながら聞いていたシフィアさんが、人差し指を立てた。


「確かに芸術には、技術的な巧拙はあるかもしれませんね? でもボクは思いますよ、それよりももっと大事なものがあるって」

「……もっと大事なもの、っすか?」


 尋ねた俺に、シフィアさんは「はい」と頷いた。


「それはね、『思い』です。ボク、結構美術館とかに行くんですが、そういうところの絵はやっぱり上手いです。すげーってなります。でもボクはそれと同じくらい、ラビトくんの描いた絵を素敵だと思う」


 シフィアさんは視線を落として、俺の絵を隅々まで見る。そうしながら、口を開く。


「勿論、上手ですよ? でもそれに加えて、キミの絵はどこか……優しいんです。色使いとか、描き込みとか、そういうところに、何だか優しいものを感じるんです。

 ああ、この人はこの絵を通して、大事なことを伝えたいんだろうなって、思わされるんです。そうだなあ、言うなれば――」


 シフィアさんは柔らかく微笑んで、俺を真っ直ぐに見つめる。



「――心が、動かされるんです」



 それは、俺があのときからずっと、目指してきたもので。


 ああ、もう駄目だった。


 年甲斐もなく、涙が溢れてくる。そのまま雫となって、ぽろぽろと零れてゆく。木でできた床に、ぽつりぽつりと染みが生まれていく。


「ど、どうしたのよ、大丈夫?」


 ヨカさんはそう言って、ハンカチを渡してくれた。彼女の髪のような、雪の色をしたハンカチ。ありがとうございますと震えた声で言って、涙を拭う。石鹸の香りがする布に、悲しみが包み込まれていくようだった。


「俺……絵を描きたい……」


 心から漏れた言葉は、もう止まりそうにない。


「絵を仕事にはできないって、思ってた。だって俺は不合格だって、言われたから。だから諦めなきゃって、思ってて、」

「うん」


 シフィアさんは相槌を打ちながら、俺の手を握ってくれた。その温度が優しくて、だから俺は泣き続けてしまう、吐き続けてしまう。


「でも……諦められない。嫌だ。絵を描けない仕事なんか、したくない。描きたい。描いて、描いて、描いて……誰かの心を、動かしたいよ……」


「動かされましたよ」


 ぐしゃぐしゃの顔で、シフィアさんを見る。


「少なくともボクは、動かされました。本当に」


 ああ、どうしてそんなにも、優しい言葉をくれるんだ。


「……俺、絵を描いて、生きていたい……」


 ヨカさんが腕を組んで、どこか呆れたように口を開く。


「そんなの、他人が決めることじゃないわ。あんたが決めればいいじゃない。それに、このお店は色々描く仕事もあげられると思うし……まあ、雑務はあると思うけどさ。休みは二日もあるんだから、ゆっくり描きたいものも描けるわよ。

 それでいつか、独立してみたら? 上手くいったら、たまに顔見せに来てよ。上手くいかなかったら、また戻ってくればいいし。そういうのはどう?」


「……いいっすね、それ」


 俺は泣きながら、笑ってみせた。

 ようやく心が落ち着いて、シフィアさんの手を離す。


「ごめんなさい、ハンカチありがとうございます。洗って返します」

「ああ、別にいいのに……まあそしたら、お言葉に甘えようかしら」

「はい」


 ヨカさんはにっと笑ってくれた。その表情を自分に向けてくれることが、とてもありがたかった。


「見てください、ラビトくん」


 シフィアさんに言われて、俺は彼女の手の平を見る。


 そこには幾つもの――小さな時計が、生まれていた。


「ごめんなさいね、勝手にやってしまって。でも、キミのその感情は素敵だったから……形にして残しておきたいなあって、思ったんです」


 そうだ、シフィアさんは。


 人間の感情から物をつくり出すことができる――


 ――そんな、生まれながらにしての、創作者だった。


「これ一つ、腕時計にしてあげますよ。あと、ラビトくんがもしよかったらですけど、これも雑貨にしませんか? そうして誰かの元に届いたら、何だかキミの夢も叶うような気がするんです」


「……はい、ぜひお願いしたいっす。よろしくお願いします!」

「おっけいおっけいです」


 シフィアさんは微笑んで、時計たちをポケットに滑り込ませる。それらが俺の感情から生まれたというのは、何とも非現実的でいて――でもそれでいて、すんなりと受け入れることができた。


 時間は沢山、かかるかもしれないけれど。


 俺は最高の絵描きになって、そうして――数多の人の心を、動かそう。


 そう、強く思うのだった。


 *


 俺はカウンターの前に立っている。


 かららん、と扉が開く音がして、家族連れらしきお客さんが入ってくる。


「いらっしゃいませ!」


 笑顔で、彼等のことを出迎える。



 壁に掛けられた四枚の絵画が、入り込んだ陽光によって、微かに煌めいた――

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