09
翌日、俺は『感情雑貨店グレーテア』の元に訪れた。
正直、迷いはあった。衝動的に働きたいと言ってしまったが、この場所での仕事に自分は満足できるんだろうか。本当に、絵を描かせてもらえるんだろうか。そんな不安が、胸の中を蠢いている。
右肩に掛けられた鞄には、昔描いた絵が幾つも入っている。と言うのも、シフィアさんが「ラビトくんがどんな絵を描くのか、超気になりますー!」と目を輝かせていたからだ。
持ってくるのに躊躇いはあったが、見せれば大体の雰囲気は掴んでくれるはずだ。
小窓の付いた扉をノックすると、少しして鍵が開いた音がして、ゆっくりと扉が開く。
「おはよ」
そこには、ヨカさんが立っていた。昨日は下ろしていた白い髪を、今日はポニーテールに纏めているようだった。快活そうな髪型と物憂げな雰囲気が合わさって、以前とはまた異なった魅力がある。
「何ジロジロ見てんのよ、気持ち悪い」
……まあ、中身はやっぱりこんな感じなんだけれど。
俺はため息をついてから、「おはようございます、髪型が違うなあと思っただけっすよ」と説明する。それから、店の中に足を踏み入れる。
そこには、とても美しい空間ができあがっていた。チョコレート色の店内と、雑貨たちの丁寧なレイアウト。視界に飛び込んでくる情景はどこか、絵画的だった。
店の真ん中には、シフィアさんが立っている。小花柄の桜色のワンピースに身を包んだ彼女は、何やら歌を口ずさんでいた。それは穏やかなメロディーのはずなのに、聴いているとどこか悲しくなるような、哀切の滲んだ音楽だった。
彼女はちらりと、俺たちの方を見る。それから、へらっと笑った。
「……ん、ラビトくんですか。おはよーございます」
「おはようございます。歌、上手ですね」
「ああ、そうですかね? 昔、教えてもらったんです」
シフィアさんはそう言って、少しだけ耳の辺りを掻いた。真っ赤な宝石の付いたイヤリングが、微かに揺れ動いている。
それから彼女はにっと笑って、口を開いた。
「はい、という訳で、今日からボクたちの店に心強い仲間が加わりましたよー! 拍手ー!」
シフィアさんは、ぱちぱちと拍手する。
「おっとヨカちゃん、それは拍手ではなく合掌では?」
「このお店が繁栄していくのを祈ってるのよ」
「なるほどー、それならよしとしましょう!」
シフィアさんはぐっと親指を立てた。俺は半笑いで、二人のことを見ていた。
「それでは早速、ラビトくんにお仕事をあげます! 雑貨がそれぞれどこにあるのかとか、どのくらい減ったら補充するのかとか、ラッピングのやり方とか、まあそういうことは地道に覚えていくとして。それと並行して、やってもらいたいことがあるんですよー!」
「が、頑張ります!」
「うーん、いい心意気です。はい、これ」
シフィアさんはてくてくと俺に歩み寄って、真っ白な紙を一枚くれた。
「……ええと、これは?」
「チラシ用の紙です。驚くことに現在この店には、『終末世界チラシ』しか用意がありません。このままだと皆怯えて来てくれなくなっちゃうので、そこでラビトくんの出番です」
「え、ちょ、ちょっとシフィア! わたしが折角つくったチラシの山はどうするの!?」
「安心してください、ヨカちゃん! 折角ヨカちゃんが頑張ってくれた努力の結晶を、無駄にする訳ないじゃあないですか!」
「シ……シフィア! そうよね、ごめんね、わたし疑心暗鬼になってたみたい。自分で自分が恥ずかしいわ……」
「ちゃんと――裏紙として、活用しますから!」
「シーフィーアー!」
ヨカさんが憤怒の表情で、シフィアさんの頬をむんずと掴んで引き伸ばす。「いひゃいれす、いひゃいれすよー」とシフィアさんは困ったように笑っている。
ヨカさんは暫くシフィアさんの頬を弄んだあとで、「まあいいけどね、別に……」と言って手を離した。ようやく解放されたシフィアさんは、自身の頬を大事そうに撫でている。
「まあそんな訳で、ラビトくん。よかったらチラシをつくってくれませんか?」
シフィアさんの問いに、俺は少しだけ安心しながら、微笑みを返す。
「勿論っす。あ、持ってきましたよ、昔描いた絵」
「おおっ、本当ですか! 見せてくださいー」
俺は頷いて、持っていた鞄を開ける。そうして絵を取り出そうとして――微かな不安に、胸を刺される。
かつて突き付けられた、『不合格』という文字。それを見たときの言い表しようのない悔しさと、無力感。そんな気持ちを思い出して、俺は手を止めてしまう。
「……? どうしたのよ、ラビト」
ヨカさんの声が、横から聞こえる。俺は自嘲するように、少しだけ笑う。駄目だ、と思った。自分で自分を信じることができなくてどうするんだ。でもやっぱり……怖いな。
「ラビトくん」
声のした方を、見る。
シフィアさんが、俺のことを正面から見据えている。蜜柑色の瞳。それを見ていると何故だか――安心して、しまうのだった。
心を満たしていた不安は、徐々に薄くなっていく。シフィアさんの口角がほのかに上がった。勇気をくれるような、微笑みだった。
「……すみません。これっす」
俺はがっと、持ってきた絵を取り出した。湖畔、夕暮れの町、桜並木――そんな風景画たちと、炎から氷を生み出す男の絵。四枚の絵を、シフィアさんに渡す。
ああ、やっぱり言葉をもらうのは怖い。自分のつくり出したものが誰かの目に触れて、そうして評価されることに、俺は間違いなく怯えを抱いている。ぎゅっと、自身の手の平に爪を食い込ませた。
シフィアさんはゆっくりと、絵を見てくれた。ヨカさんもシフィアさんの後ろに回り込んで、真剣な目で眺めている。
やがてシフィアさんは、淡い桃色の唇をそっと、開いた。
「……綺麗」
そう、言ってくれた。
その一言だけで、泣き出しそうになってしまう。かつて妹が俺にくれた、心から零したようなそんな大切な言葉を、目の前にいる彼女もまた、伝えてくれたのだった。
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