二章 Rabito, 将来の事

06

 秋だなあ、と思った。


 数多のコスモスが咲き乱れている花畑。小さな鳥が、花々の隙間から時折見え隠れする。

 俺はそんな場所に設けられたベンチに座って、ぼうっと空を見ていた。真っ青な空は、どこまでも続いている。


 俺は両手の親指と人差し指を九十度開いて、四角形のフレームをつくってみる。空とコスモス畑の面積が、ちょうど一対一になるような場所にフレームを置く。


 絵を描きたい、と思った。でも道具は全て家に置いてきてしまったから、その術はない。俺は目を閉じて、真っ白なキャンバスを思い浮かべる。


 その純白に、少しずつ色を垂らしてゆく。コスモスの薄桃、濃い桃、真紅、暗い赤。空の深い青、その美しい濃淡。生命の美と、静寂の美。その全てを、描き出したい――


 目を開いた。視界の先で、コスモス畑は風に揺られている。さらさら、踊るように揺られている。その景色を見ているだけで、心は微かに動かされる。


 そう、心を動かしたい。


 自分の描いた絵で誰かの心を動かすような、そんな仕事がしたいんだ……


「……でも、」


 俺はぽつりと、声を漏らした。額に手を当てて、はああと溜め息をつく。


「現実的に金を稼げる仕事、探さなきゃなんだよなあ……」


 追いかけたい理想と、迫り来る現実。

 その狭間の中で、俺は今日も疲れ切っていた。


 *


 そもそも何で無職をやっているかといえば、間違いなくあの、一年半ほど前に終わった戦争が関係している。


 十七歳で中等教育機関を卒業したあとの進路について、俺はとある美術系の高等教育機関に進学したいと思っていた。昔からその場所で絵画の勉強をするのが夢で、それを夢見てずっと絵を描いていた。


 戦争が起こったとき、従軍の義務がある市民は十八歳以上かつ六十歳以下の男性だった。もう何年か早く生まれていれば、戦争に行かなくてはならなかったことに慄きながら、俺は中等教育機関に通い続けた。幸い俺の住んでいる町はかなり内地だったので、一応のところ安全だった。


 しかし――『とある美術系の高等教育機関』は、そうではなかった。


 焼けた。


 普通に焼けて、なくなった。


 俺はその事実を知ったとき、愕然として床に倒れた。妹に「ど、どうしたんだ、兄!」と揺さぶられながら、俺はちょっとだけ泣いた。昔から夢だったんだ。幼い頃に祖父が連れて行ってくれたあの場所に通うのが、夢だったんだ……


 俺の絶望はともかく、戦争は俺が最終学年になる頃に終わった。父さんも無事帰ってきて、心底安心した。一時は壊れかけた国は、段々と活気を取り戻していった。


 でも俺は、これからどう生きていけばいいのか、わからなくなってしまった。


 夢を追うために、絵を描き続けていたから。その夢が跡形もなく消されてしまって、そうして俺はもう一度、絵を描く理由を探すことにした。


 その理由を再び見つけるまで、絵を描くことはやめようと思った。迷いがある中で描き出された絵は、やっぱりどこか空虚に見えてしまって。


 他の人から見ればそんなことはないのかもしれなかったけれど、俺には痛いほどわかった。自分の絵を一番見続けているのは、やっぱり自分自身だから。


 時間が過ぎてゆく。同級生たちが、自らの未来を掴み取るために各々の勉学に励む中、俺は色々な場所に行った。かつて自らが描いたことのある風景を、幾つも眺めた。


 それでも理由が見つからないまま、時間ばかりが過ぎてゆく。


 冬になって、俺はとある海辺に向かった。

 幼い頃、ここに家族で旅行に来たことがあった。俺は泳ぐこともせずにただ、海の絵を描いていた。


 同じ場所に立って、俺はかつての自分を想った。そこでふと、一つの言葉を思い出した。


 ――きれい。


 そうやって、妹に言われたのだった。まだ余り言葉を知らない妹が、俺の描いた拙い海の絵を見て、そう言って微笑った。俺はそのとき、どうしようもなく嬉しかった。妹の紅茶色の髪を撫でながら、俺も微笑み返した。


 ああ、そうだ、と俺は思う。こうやって、自分の描いた絵を見て、誰かの心を動かせたら。少しだけでもいい、幸せになってくれたら。そうしたら俺は、幸福なんだ――


 冬の海は寒くて、でも思い出だけは温かかった。俺は暫くの間、自分がようやく導くことのできた結論に浸っていた。


 再び鉛筆を、絵筆を握る日々が始まる。でも、俺は追い付けなかった。他の美術系の高等教育機関を目指して、一心不乱に絵を描いていた奴等には、もう敵わなかった。


 受験の結果は惨敗だった。最後の砦も砕け散って、悔しさに歯を噛み締めて家に帰る。


 そこまで裕福でない家で、もう一年頑張るという選択肢を選ぶことをしようとは思わなかった。あの頃逃げてしまった自分に、大きな責任があるのだから。


 二つ仕事をしてみたが、どちらも余り長くは続かなかった。一つは過酷な労働時間に音を上げ、もう一つは人間関係のいざこざで面倒になった。


 それに加えて、どちらも全く絵に関係のない仕事だった。そのことに耐えられない自分が、確かに存在していた。


 そうして、今に至る。前の仕事を辞めて二週間、そろそろ新しい仕事をしなければならない。


 いつまでも落ち込んでいたら、生きていくことすら難しくなってしまうのだから――

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