○私が何者か、ですって……?

 真っ暗になる視界。自分と、他人との境界線が曖昧あいまいになる。


 ――これが、死……?


 不思議なことに、意識がある。少し呼吸がし辛いのは、どうしてかしら。私を包み込むのは、柔らかな感触。ほんの少しだけ甘いような、花のような匂いもする。その奥にあるのは血と……汗の匂い? でも、不思議と不快なにおいでは無くて、今日も一生懸命に頑張ったのだと分かる匂いね。

 いつだったか、私の汗の臭いが嫌いじゃないと言ったサクラ。彼女の気持ちが知りたくて、私も洗濯ものとして出されていたサクラの体操服を嗅いだことがあったっけ。


 ――たいそうふく……? サクラ……?


 ふと湧いた疑問も、私を包み込む安心する香りと柔らかさに溶けていく。なじみ深い体温に包まれて、リズポンへの恐怖にマヒした私の脳が覚醒を始める。


「――ちゃん!」


 元に戻った聴覚が、懐かしい声を拾う。何度も、何度も私のことを呼んでくれた、大好きな姉の声だ。


「ひぃちゃん!」


 ひぃちゃん? ひぃちゃん……。……そうだ、私はスカーレット。目が緋色ひいろに輝くから、ひぃちゃん。私をそう呼ぶのは、世界でたった1人だけ。


 ――けれど、彼女は気を失っていたはずじゃ……?


 そんなはずないと否定する理性。きっと、私の願望が生み出してしまった幻聴なのだと思う。でも、本当であって欲しいと願う自分自身の弱さも自覚していて。

 私は、最後に、身を離したことで見えるようになった視界で、彼女の姿を確認した。


「さく、ら……?」


 もう二度と会えないと思っていた姉がそこに居る。


 ――夢でも見ているのかしら?


 さっきから、私が私じゃないみたい。どれが私の記憶で、どれが“彼女”の記憶なのか。


 ――彼女? 彼女って、誰……?


 ふわふわ、ふわふわ。地に足のつかない感覚が、私と、私の中に居る誰かの境界線を曖昧にする。そうして、マヌケな顔をしている私の顔が可笑しかったのでしょう。クスッと笑ったサクラが、


「お待たせ、ひぃちゃん!」


 改めて私の名前を呼んで、強く、強く抱きしめてくれる。夢見心地だった私を現実へと引き戻してくれた彼女のおかげで、私はようやく自分がまだ生きていることに思い至るのだった。


「サクラお姉ちゃん、ただいま参上! なんてね!」


 片手にヒズワレアを。もう片方の腕で私を抱いて、お茶目に笑う、サクラさん。ほんの少しだけ、彼女が大好きな“魔法少女”を意識しているのかしら。


「……ふふっ、何よ、それ――うぐっ」

『クルールッル!』


 サクラさんの言動に笑っていると、ポトトが頬ずりをしてくる。


 ――なるほど、そういうことだったのね……。


 ポトトが、サクラさんを運んで来てくれた。震えて何もできなかった私を温めてくれる、大切な人を、ね。


「ポトト……。あなたってば、本当に……っ」

『クルゥッ!』


 ドヤァッ、と誇らしげに胸を張るポトト。“運び屋”らしく、いつだって、私をいろんな場所に運んでくれて。それと同じくらい、希望を運んで来てくれる。


「ポトト。サクラさん。2人とも、ありがとう!」


 私の言葉に、ポトトとサクラさんが大きく頷いてくれた。そうして、きちんと感謝を伝えて落ち着いたところで。


「はっ! リアさん! リアさんは?!」


 ようやく私は、自分とリアさんが窮地に居たことを思い出す。確か何かに襲われて、でも、私がヘマをしてしまったせいでリアさんも危機に巻き込んでしまったはず。


 ――リアさんはどこ?!


 サクラさんの腕に抱かれながらも必死で探していると、


「んぅ……」


 すぐ足元。サクラさんの背後に、血まみれのリアさんが居た。


「リアさん?!」


 思わず自分ののどから絶叫とも呼べる声が出る。


「サクラさん! リアさんが……! そう! シュクルカさん、シュクルカさんを呼んで――」

「だ、大丈夫! 大丈夫だから落ち着いて、ひぃちゃん!」


 ヒズワレアを腰のさやに納めたサクラさんが、暴れる私をがっしりと両腕で抱き締めて、拘束してくる。


「だけどリアさんが! 私のせいで……っ」

「だから落ち着いてって! それ、リアさんの血じゃないから!」


 リアさんの、血じゃない……? じゃあ誰の? 少し冷静になると、私も、自分が全身ずぶぬれだということに気付く。しかも、少しだけ生温かい。立ち込める金属の香りの正体を確かめてみると、


「えっ?!」


 私自身も血まみれだった。慌ててステータスを確認してみるけれど、外傷は特にない。ということは私の血じゃない。リアさんの血でもないとなると、


「まさかサクラさんの――」

「ていっ」

「きゃんっ?!」


 サクラさんが、私の額に優しく手刀を入れて来た。


「だから、落ち着いて、ひぃちゃん。それは、リズポンの血。わたしがひぃちゃんを助ける時にリズポンの舌を切ったから、こうなったの」

「りずぽん? ……リズポン!」


 そうだ。私たちは今、リズポンと戦っていたんだった。でも、周囲のどこを見回しても、あの大きなガルルの姿は見当たらない。殺しても死体は残るはずだから、近くで殺されたということもないはず。


「えっと、それじゃあリズポンはどこ?」


 私の問いかけに、頬を掻いて気まずそうに笑ったサクラさん。それでもコホンと咳払いをすると、


「う~ん……、逃げちゃった!」


 あっけらかんと笑う。


「に、逃げた?」

「あっ、迷宮の外じゃなくって、あそこに」


 サクラさんが指さしたのは、川の向こうにある霧の中。


「わたしがリズポンの動きを邪魔してたヒズワレアを抜いちゃったから、逃げちゃった」


 リアさんにけんを切られて、なおかつヒズワレアが刺さっていたから満足には動けなかったらしいリズポン。そんな中、ヒズワレアが抜けて、敵の援軍――サクラさん――が来たから状況不利と見て、最後の力を振り絞って逃げたということみたい。……なるほど。ヒズワレアの能力を知らないリズポンにとっては「サクラさん」という存在自体が脅威に映るのね。


「多分、時間をかけて体力とか回復しようとしてるのかな? んで、その場合だと、回復の算段があるってことになる。ってことは、どこかに魔石とかを集めてるのかも?」


 なんて言いながら、サクラさんが思考にふけっている。彼女は自分のせいでリズポンが逃げたと語ったけれど、サクラさんのせいじゃないのは明白よね。冷静になった今なら、分かるもの。


 ――私を食べようとしたリズポンに〈即死〉を使うだけで良かった。


 なのに、リズポンに怯えて。ひとりぼっちに恐怖して。過ちを後悔して。思考を停止させてしまったから、最大の好機を逃した。みんなの努力を、無駄にした。


「……ぐすっ」

「あ、また泣く。手のかかる子だなぁ、ほんとに」

「だって……。だって……っ」

「だって、じゃない。ひぃちゃんが今考えないとなのは、どうやって失敗を挽回するかでしょ?」


 正直、ここまで来たら私が何かをするよりも、サクラさんやメイドさんが動いてくれた方が確実だと思う。結局私は何もできない。足手まといのだから。


「ごめん、なさい」

「出たよ、意味の分からない適当な『ごめんね』。……はい、ひぃちゃん、こっち見る!」


 サクラさんが、私のかをむんずと掴んで無理やり目を合わせる。


「ほら、わたしが居るよ?」

「……? ぐずっ、ええ、そうね」


 頷いた私の首をひねって、今度はポトトの方を向かせるサクラさん。ちょっとだけ首が痛い。


「ポトトちゃんも居る」

「……ええ」

「はい、次。あそこには、動けないっぽいけどメイドさんも居て。向こうじゃシュクルカさんが必死でティティエさんを治療してる」

「……うん」

「はい、それから下。リアさんも、ちゃんと生きてる。確かにひぃちゃんがやらしてこうなってるけど、それでも生きてる」


 順々に示されて、そう言えば、リズポンを相手に全員が奇跡的に生きているということに思い至る。


「分かる? ひぃちゃんは、1人じゃない。みんな生きてるし、まだやり直すチャンスがあるの」


 サクラさんが、その茶色い大きな目でをまっすぐに見て、訥々とつとつと語る。


 顔を逸らそうにも、両頬をがっしりと捕まえられてしまっているから、逃げられない。


「ねぇ、ひぃちゃん。ひぃちゃんは、何?」

「私が、なに? ……どういうこと?」

「そのままの意味。ひぃちゃんは、何者?」


 私が、何者か……?


「えっと、スカーレットよ」

「うん、そうだね。じゃあスカーレットちゃんの使命は何? 職業ジョブは?」


 いつかのようにおでこを合わせて、至近距離で尋ねてくるサクラさん。


「わ、私は、“死滅神”。フォルテンシアの敵を、殺すことが、使命……」

「そう。……そうなんだよ、ひぃちゃん。ひぃちゃんの使命は、泣く事じゃない。くじけることじゃない。守られることでも、甘えることでも無い。そうじゃなかったっけ?」


 そう言われて、ようやく私はいま、サクラさんに怒られているのだと気付いた。


「……そうね」

「そうだよ。で、リズポンはひぃちゃんにとって何?」


 リズポンが、私にとってどんな存在であるのか。そんなもの、決まっている。


 ――フォルテンシアの敵。


 それは、職業衝動が教えてくれたこと。だけど、それだけじゃないはずよ。みんなを痛めつけて、私から大切なものを奪おうとする存在。そう言えば、透明な壁があった時は、私たちを挑発するような姿すら見せていたっけ。

 リズポンは、“死滅神”である私が殺すべきフォルテンシアの敵であると同時に……。


「私の、敵よ」


 言った瞬間、ずっと心の奥にくすぶっていた「殺したい」という衝動が目を覚ました。

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