○じゃないと、承知しないからっ

 異食いの穴の第2層にあたる花園。“あちら側”と“こちら側”を隔てる見えない壁の、そのそばで。体勢を崩したサクラさんの半身が見えない壁の向こう側に行った瞬間、漆黒の狩人リズポンが急襲を仕掛けて来た。

 すんでのところでメイドさんがサクラさんの腕を引いたことで、事なきを得たものの。リズポンの姿が霧の向こうに消えるまで、私たちは誰一人として、呼吸することさえままならなかった。


 川に向かって傾斜する土手。もつれるようにして倒れた私、メイドさん、サクラさんの3人。尻餅をついたまま呆然と、リズポンが消えた方向を見る私の横では。


「間に合って、良かった……」


 メイドさんが、心からの声を漏らしている。土手に座り込んでサクラさんを抱きしめる彼女からは、指一本たりともサクラさんに境界線をまたがせないという意志を感じさせた。


「い、今……。何も見えなかったし、感じなかったわ……」


 あまりの恐怖と、サクラさんが無事だった安心感に足腰に力が入らない私。排せつ機能があったら、間違いなく失禁していた。それくらいの衝撃だった。


わたくしも、ただの勘でしかありませんでした。本当に、間に合って良かった……っ」


 サクラさんをぎゅっと抱いて、改めて無事を確かめるメイドさん。一方のサクラさんはというと、


「……そっか。わたし、アレと戦うのか」


 ぼんやりと呟きながら、リズポンが消えた霧の中を見ている。無意識かしら。助けてくれたメイドさんの服を掴むその小さな手は、震えていた。

 キリゲバと戦った時とは比べ物にならない重圧。何をしたのか、目で追うことも、気配を感じることもできないほどのステータスの差。


 ――絶対に、かないっこない!


 生物としての本能が、声高に叫ぶ。恐怖は、生き抜くために何よりも大切な感情だ。その感情に負けて逃げ出すことは、弱さじゃない。生き残るための本能であり、強さであるはずよ。

 今もなお、息をしようと意識しないと呼吸が出来ないほどの緊張感が残っている。職業衝動にも負けないくらい、全身の血が沸騰している。耳元に、心臓があるみたい。


 ――もう、やめましょう! 帰りましょう!


 呼吸をするたびに出そうになる言葉を、必死で飲み込む。私がここでそれを言ったら、ダメな気がする。無理、無茶はサクラさんだって百も承知のはず。だけど、決して無謀な挑戦じゃないと、そう判断して私たちはここに来た。

 だから、今、私がサクラさんにかけるべき言葉はきっと、彼女の意思を確認する言葉。


「どうする、サクラさん? ……引き返す?」


 挑発のようにならないように、慎重に。表情と声色を制御して、メイドさんに抱かれているサクラさんを見る。

 しばらく感情の消えた顔で虚空を眺めていたサクラさん。だけど、やがて静かに目を閉じて、メイドさんの頭を撫で始めた。


「サクラ、様?」

「えへへ。メイドさんの頭、初めて撫でちゃった」


 優しい手つきで、メイドさんの頭を撫でるサクラさん。メイドさんも戸惑っている様子で、どうすればいいのか分からない様子。ただひたすらに、サクラさんの行為を受け入れている。

 果たして、どれくらい時間が経ったかしら。


「し、死滅神様~。だ、大丈夫ですか~……」


 今になってようやく、ユリュさんが私たちの様子を確認しに来た。彼女もリズポンの圧にやられたのでしょう。這うようにして、土手を覗き込んでいる。その隣には、四つん這いで同じように私たちを見下ろすリアさん、シュクルカさんの姿があった。

 彼女たちに全員無事であることを仕草で示して、私もゆっくりと立ち上がる。と、その時。


「ごめんね、ひぃちゃん」


 サクラさんが謝罪の言葉を口にした。


「わたし、痛いのは嫌だし、怖いし、死にたくない。すっごく弱虫なんだ」


 メイドさんの頭を抱いたまま、弱音を言った。だけど、誰だって、あんなのに襲われかけたら怖気づいてしまうでしょう。


「……そうね。じゃあ約束通り、あなたの面倒は私が一生――」

「だから、行くよ」

「……ぅえ?」


 どういう話の流れなのか。全く予想外の話の展開に、変な声が出てしまった。目を大きくしているだろう私を、メイドさんに抱かれて膝立ちの状態のサクラさんが見上げる。

 キッと表情を引き締めた彼女は、いま一度、決意を言葉にした。


「わたし、戦う!」


 言ったサクラさんの身体はもう、震えていない。己を抱きしめていたメイドさんの腕をやんわりと振りほどくと、力の入った手足を使って、両の足で立って見せた。

 メイドさんに手を貸して立ち上がらせながら、サクラさんが口を開く。


「向こう側に行った時、ちょっとだけ見えたんだ」

「……えっと、何が、と聞いた方が良いのよね?」


 私の問いを笑顔で首肯する。


「そう。で、わたしはこう答えるの。病院で寝てるわたしに声をかけてる、お母さんたちの姿って」

「サクラさんの、ご両親……? 病院?」

「ひぃちゃんの言う通りだ。わたし、まだちゃんと親孝行とかしてないし。あと、ひぃちゃん……じゃない。雫を殺した人たちがどうなったのか、知らないもんね」

「え、えっと……?」


 ヒズワレアと身体の調子を確認しながら話すサクラさん。でも、私には彼女が何を言っているのかピンと来ていない。ただ、


「そこらへんをちゃんとするためにも、うん。やっぱりわたしは一回、地球に帰らなきゃ。……ううん、帰りたい」


 この言葉の意味は分かった。サクラさんが今、チキュウに帰りたいということ。そして、リズポンに挑む意志が揺らいでいないってことよね。


「よしっ! それじゃあ、いっちょ犬退治と行きますか! ……狼だっけ? ま、いっか!」


 一歩、また一歩と、川に向かって歩いていく。そんなサクラさんを、私は抱き着いた勢いで押し倒した。


「待って! 待ちなさい、サクラさん!」

「もう、ひぃちゃんってば。そう言うの、押し倒す前に言ってよ」


 頭打つところだったよ? 私の下敷きになって笑うサクラさんを、私はぎゅっと抱きしめる。


「無理をしてもいい。負けてもいいの。怪我も……我慢するわ。だから、絶対に……。絶対に生きて帰って来て! じゃないと、承知しないからっ」

「承知しないって……。あはは、これまた王道の台詞だなぁ……」


 私と目を合わせて、微笑んで、頭を撫でてくれるサクラさん。


「大丈夫。言ったじゃん、死ぬつもりは無いって」

「……そうね」

「こうも言ったはずだよ? ずっと一緒って」

「ええ、そうよ。そうなの……。だから、何が何でもその約束を、守って! これは、お願いじゃなくて命令だからっ」

「ほんと、相変わらずこの子は上からだなぁ、もう……。でも許しちゃおって思わせるあたり、ほんとに、そっくり……」


 一瞬だけサクラさんの目端に光るものがあったような気がするけれど、残念ながら確認できない。だって、サクラさんが私の頭を抱きしめたから。密着した胸から、サクラさんの心臓の音が聞こえる。


「ふふん! 全部、お姉ちゃんに任せて? ひぃちゃんはそこで私が勝つって信じて待ってて。それだけで、元気百倍だから!」


 頭上で聞こえるサクラさんの声。彼女が今、どんな表情をしているのか。私には、分からない。でも、こんな時にもお姉ちゃんマウントを取ってお茶らけるなんて。サクラさんも相変わらずだわ。……相変わらず、自然体で、気負った様子もない。


 ――これなら、大丈夫。


 サクラさんが私の頭を解放してくれた時にはもう、彼女の目から光るものは無くなっていた。私とサクラさん。お互いに身を起こして、見つめ合う。


「ええ、ちゃんと待っていてあげる。だから……行ってらっしゃい」


 再会を約束する言葉で私はサクラさんを見送る。私だけじゃない。


「行ってらっしゃいませ、サクラ様」


 メイドさんが。


「行ってらっしゃいです、サクラ様」


 リアさんが。


「サクラ様に、死滅神様の加護有らんことを」


 シュクルカさんが。


「あぅ……。が、頑張ってください」


 ユリュさんが、それぞれの言葉で見送る。そして、最後に。


『クックルーーー!!!』


 サクラさんの無二の相棒であるポトトが、大きく羽を広げて戦友を送り出す。そんな私たちを眩しそうに見上げて。


「うん! じゃあ、行ってきます!」


 ヒズワレアを抜いたサクラさんが一思ひとおもいに境界線を飛び越えて、川の向こう岸に立つ。今回は奇襲が通じないと悟ったのかしら。リズポンも、ゆっくりと霧の中から姿を現した。

 にらみ合う両者。サクラさんがヒズワレアを輝かせ、リズポンと同じステータスを得る。どちらが先に動いたのかは分からない。ただ、両者の姿が一瞬にして消える。


 私たちの未来を決める一戦が、幕を開けた。

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