○がぼぼ、がぼぼぼぼ……

 私を丸飲みしようと大口を開けている蛇のような巨大魚シャーレイ。


 ――ふっ。でも残念ね、シャーレイ。丸飲みだったら、あなたなんて〈即死〉で一発なんだから。


 私の〈即死〉は、発声も、目視も必要ない。対象が私の体表10㎝以内に居れば、殺すことが出来る。後は冷静さを保っていればいいだけ。


「がぼぼぼぼ、がぼぼぼがぼぼぼぼ、がぼぼぼぼがぼぼがぼぼ!(死滅神に牙をむいたこと、後悔させてあげる!)」


 さぁ来なさい! そう意気込んで待っていた私の目前で、シャーレイが動きを止めた。そして器用に後ろに少し泳いで後退してみせると、つぶらな瞳で私をじっと見ている。……どうかしたのかしら。早く私を食べてくれないと、息が続かない――。


「――がばっ?!(はっ?!)」


 このシャーレイ。もしかして私がおぼれるのを待っているの?! そう言えばシャーレイのもとになっている魚――ヌメラはかなり知能が高い魚だと聞く。相手に意識がある状態で飲み込めばお腹の中で反撃されてしまうことを、多分、シャーレイは知っているんだわ。だから、より安全に、確実に私を食べるために溺れるのを待っているのね?!

 そうなると、早急に水面に上がって息継ぎをする必要が出て来た。でも、悲しいかな。水を吸った私の服は重く、足元もブーツだから全然水をかけない。必死でもがけばほんの少しだけ上には行けるのだけど、息が持つ間ではとても水面を目指せない。

〈ステータス〉の使用には発声が必要だし、〈瞬歩〉は移動場所の目視が必要……というより、そもそも水中で使うことはできない。それについてはメイドさんがおしゃべりな鳥のように学説を語っていた気がするけれど、難しくて覚えていない。


 ――とにかく、まずいわ!


 一生懸命泳いでいると、こちらを見つめるシャーレイと目が合った。動物らしい、感情の見えない無機質な目。その目が、私が溺れるのを今か今かと待っている。

 懸命に、あがいて、あがいて。手足をじたばたさせていた私の息が限界に近づいて来たまさにその時。私の身体に強烈な横方向の動きが加わった。それこそ、水中を素早く泳ぐ魚にくわえられたような勢い。でも、私を抱えているのは魚ではなくて、細くて頼りない腕だ。共通語の「く」の字に折れた私の視界に映る、美しい鱗。しなやかな尾ひれの動き。

 ぐんぐんと速度を上げて水面を目指し、私を抱えたまま宙へと舞い上がったのは――


「ぷはぁっ! ユリュさんっ?!」

「はい! スカーレットお姉ちゃんの従者兼つがい候補のユリュですっ!」


 肩に担がれたような状態になっている私を肩越しにチラリと見遣って、元気に言ったユリュさん。その紺色の瞳は、活性化したマナによって淡く輝いている。職業衝動の状態にある証拠だ。水を蹴って飛び跳ねた

 ユリュさんと私は、水面から5m近い位置まで跳んでいたのだった。


つがい候補では無いわ……って、きゃぁ!」


 発言の訂正を求めた私を、ユリュさんが空中で手放す。わ、私の発言が気に障ったから? だから手を離したの? まさか、メイドさんにもしていた仕返しを私に……なんて、思ってしまった自分を殴ってやりたい。

 私が落ちた先にはさっきまで乗っていた手漕てこぶねがあったらしい。


「【フュール】」


 メイドさんが魔法で引き起こした優しい風を起こして、私の落下の勢いを殺してくれる。さらに、小さなふねを覆い尽くさんばかりのあの白い羽毛は、ポトトね!


「ポトト! お嬢様が来ます!」

『クルッ!』


 メイドさんの鋭い声が飛んだ瞬間、私はポトトの背中に――


 ――もふ。


 その柔らかな羽毛に包まれるように、着地した。しかも、さすがうちのククルね。私がきちんと背中の上に落ちたことを確認するや否や、小さくなって着地する空間を開けてくれた。

 でも、若干横方向にも勢いがあったから、ポトトの羽毛の上を跳ねた私の身体は再び舟の外へと投げ出されそうになる。


 ――でも、今なら!


 言葉が発せて、視界も良好で、みんなに助けてもらった今なら。


「〈瞬歩〉!」


 最後の最後だけ自分の力を使って、私はどうにか揺れる舟の上へと着地したのだった。

 色々あって何が何だかわらかないけれど、とりあえずは助かった。ビチョビチョに濡れた服のまま、舟の上でへたり込む。


「ふぅ……。ありがとう、みんな――」


 ようやく落ち着ける。そう思っていたのは、私だけだったみたい。ぺたんと腰を下ろしていた私に、メイドさんが覆いかぶさって来た。押し倒されて舟の上で仰向けに寝転ぶような形になった私の腰を、メイドさんは太ももでがっちりと挟む。そして、手袋がはめられたその両手もまた、舟のへりをがっちりと掴んでいる。


「め、メイドさん……?」

「お嬢様、失礼します! ポトトはお嬢様の服の裾を噛みなさい!」

『ルック!』


 ポトトが鳴いて、私の服をくちばしでくわえる。


「ユリュ!」

「はい、行きますっ!」


 メイドさんの声に、ユリュさんが答えた瞬間だった。ものすごい速度で、舟が動き出す。この速さは多分、ユリュさんが全力で泳いでくれているのでしょう。つまり、1時間で60㎞は泳げてしまう速さだということ。

 しかもその速さのまま、障害物を避けるために右へ左へと舟が揺れる。メイドさんが太ももで私の身体を固定してくれているから、舟の壁に身体を打ちつけるようなことにはなっていないけれど。


「わっ……、きゃぁっ……!」

「くっ……」

『ルッ、ルッ、クル……ッ!』


 私、メイドさん、ポトト。三者三様に揺れに耐えることしか出来ない。でも、一番余裕があるのはメイドさんに固定してもらっている私だ。だったら私が、何が起きているのかを確認しないと。

 目の前にあるメイドさんの身体から少しだけ顔を出して、舟の後方を伺う。仰向けに寝転んでいる状態だから舟の船尾の壁とそれより上のことしか分からない。だけど身体を上下に動かして泳ぐシャーレイの顔がチラチラと見える。その巨体で舟を沈めて、今度こそ私たちを食べるつもりね。


「シャーレイが居るわ。距離は……50mもないくらい。でも少しずつ、遠ざかってる」

「状況報告感謝です、お嬢様。言うだけあって、水中におけるユリュの移動速度は相当なようですね」

「ええ。とは言え、シャーレイは知能が高くて、執念深い性格と聞くわ。ホムンクルスの私たちを見逃してくれるかどうか……」


 揺れる舟の上、メイドさんと至近距離で見つめ合いながら話す。翡翠色の瞳を見ているだけで精神的に落ち着いてしまう自分自身が情けない。早く彼女の助けが必要ないくらいにならないと。そう思いながら、私は一生懸命に服の裾をくわえて揺れに耐えていたポトトを捕まえて、胸に抱く。いずれポトト体力が尽きたら、揺れる勢いでどこかに飛んで行ってしまうものね。


『ルゥ……』

「怖かったわよね。ふふっ、助けてくれてありがとう、ポトト。また、あなたに助けられたわね?」


 私の腕の中。安心したように息を吐いたポトトには、本当に助けられてばかり。日頃の毛づくろいだったり、良い品質の食べ物だったりでお返しが出来ていれば良いのだけど。


「ひとまずもうしばらくは、ユリュに頑張ってもらいましょう」

「そうね。彼女が居なければ、それこそシャーレイを殺す以外の方法が無かったもの。後できちんとお礼を言わなくちゃ」


 ヌルヌルてかてかした身体をくねらせ、今なお追ってくるシャーレイ。巨大な魔物からの私たちの逃避行は、もうしばらく続きそうね。……でも。不謹慎かもしれないけれど、ちょっとだけ楽しい。

 揺れる舟。追いかけてくる敵。逃げる私たち。大迷宮第2層を、これほど堪能できる機会はそうそうないと思う。そして、水で満たされたこの階層を楽しむことが出来ているのは、ひとえに。


「あはは! もっと速度上げちゃいますよーっ!」


 楽しそうな声と共に舟を全速力で引っ張ってくれているユリュさんのおかげだ。まだ受卵してあげることはできないけれど、今の私にできるお礼が何かないか。私は一層激しく揺れるようになった舟の上で、考えを巡らせていた。

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