○コウイを受け入れる意味
第1層で取った宿は『フィアウル』。共通語で『美しい海』を表す言葉ね。その名の通り、水辺に生きる種族――主に魚族の人々――に人気の宿らしい。もちろんユリュさんのことを
「お邪魔するわ」
与えられた部屋は、5階建ての建物の4階。部屋の右側に2人用のベッドが2つあって、木製の机と椅子が4人分ある。建物自体は頑丈な石材で出来ているのだけど……。
「なるほど、これが魚族用の宿と言われる
言いながらしゃがみこんだメイドさんが見ているもの。それは、部屋の窓側に備え付けられている水たまりだ。床の一部をくりぬいて、そこに水が溜まっている。深さは大体30㎝くらい。近くの川から汲んだ海水を循環させて、この水たまりを作っているらしい。
「はい! ここで
早速、と言うように、ワンピースを脱ぎ捨てて下着姿になったユリュさんが水たまりに飛び込む。当然、水しぶきが跳ねて、水たまりのそばに居たメイドさんを襲った。
「……」
「見てください、死滅神様! 川から汲んだだけあって、ちゃんと海水です!」
「え、ええ、良かったわね。でもユリュさん、塩分は見ただけでは分からないわ? それに……」
「どうかしましたか……ひぅっ?!」
私に対して嬉しそうに話していたユリュさんの表情が一転して、恐怖に染まる。その理由は、ゆらゆらと立ち上がったメイドさんの表情にあるのでしょう。私の方からは、メイドさんの背中しか見えない。だからどんな顔をしているのかは分からないけれど、あの雰囲気は、あれね。勉強に疲れた私がこっそりお菓子を盗み食いしてしまった時とか。剣の素振りと矢の射かけをしていたサクラさんが、メイドさんが育てていた花壇を壊してしまった時とか。ポトトがうっかり、室内で
まぁ、とにかく。ありていに言って、メイドさんは怒っていた。
「……ユリュ?」
「あ、ぅ、あわわわわ……」
ようやく自分がやらかしたことに気付いたらしいユリュさん。顔を真っ青にして、水たまりからメイドさんを見上げている。きっと彼女の脳内では、砂浜に埋められた時の記憶が蘇っているんじゃないかしら。
「噂によれば、ヒレ族の尾ひれを食すと寿命が10年ほど長くなるそうですね?」
「だ、ダメですよ?
「『試してみないと分からない』でしたか?」
その言葉は、階段を下りている最中、私に
「お嬢様。ヒレ族の尾ひれ肉は、筋肉質でありながらしっかりと脂がのっていて。それでいて、全く臭みのない、甘みの強いお肉だと聞いています」
メイドさんがそんな耳より情報を教えてくれる。
「そうは言うけれど、さすがに知り合いの人のお肉は――」
「甘辛いタレが沁み込んだ尾ヒレ肉。噛めば噛むほど染み出すタレと、香草たちの香り。程よい弾力を持ちながら、しかし、舌で噛み切れるお肉。口一杯に溢れる脂の甘み……。最高の状態でお嬢様に提供してみせましょう」
ヒレ族の尾ヒレ肉の最適な調理方法を、メイドさんが語る。「で、でも……」と食い下がる私に、なおもメイドさんはたたみかけてくる。
「それに、先っちょだけです。ポーションを飲んでしばらくすれば、傷も治るというもの。最悪、シュクルカに頼めば、欠損した部位ですら完治します」
「……ゴクリ」
「死滅神様が陥落しました?! よ、よだれが……。だ、ダメです!
涙目で自分の尾ひれを抱いて、必死に抵抗するユリュさん。彼女には悪いけれど、もうそのしなやかに動く尾ひれが、美味しそうなお肉にしか見えない――。
「――って、そんなわけないわね。メイドさん、これくらいで許してあげて?」
さすがに知り合いの人のお肉を食べられるほど、私は狂っていない。なんなら、未だにポトト料理だって食べられないんだもの。ククルがいる手前、どうしても抵抗があった。
砂に埋められていた時みたいに震えて泣いているユリュさん。彼女へのお仕置きはこれくらいにして欲しいと言った私に。
「……残念ですが、かしこまりました」
本当に残念そうに言ったメイドさんが、引き下がってくれる。そして私に一言断りを入れた後、濡れた髪と服を乾かすために洗面所に行ってしまった。
「し、死滅神様ぁ……」
半身を水に浸したまま、床に手をついて私を見上げてくるユリュさん。この光景、どこか既視感があるわね。
「その……ね、私が言うのもなんだけれど。もう少し落ち着いた方が、格好良い大人への近道になるんじゃないかしら?」
「う、うぅ……」
どうせこの後、部屋着に着替えるだろう私は、濡れるのに構わずユリュさんを抱きしめてあげる。
「私も世間一般から見ればただの小娘。焦らなくても大丈夫よ。あなたはあなたのままで。ゆっくりと、大人になって行きましょう?」
「……死滅神様も、
「ええ、そうね。『同じ
「えへへ。
げんち? 現地? ……言質!
「なっ?! ユリュさん、
「え、死滅神様。
腕の中。誤解だと言った私を、またしても瞳孔が開いた真っ黒な瞳で見て笑うユリュさん。
「こ、これは嘘では無くて誤解で……」
「でも、
「わ、私が、ずるい……の?」
「はい! ずるいです! だから、死滅神様らしく、自分の発言に責任を持ってください。
勘違いをさせたのだから、素直に
別に、受卵したからと言って私の何かが減るわけではない。それに、ホムンクルスとヒレ族の間で子を成せるのかどうかという知的な好奇心がないこともない。
――ユリュさんのことが嫌いなわけではないし、卵を受け入れるくらい良いんじゃないかしら?
それで、ユリュさんが満足してくれるのなら。こんな私でも、ユリュさんを幸せにできるのなら、それで良い気もする。
「分かっ――痛いっ?!」
「せいっ」
肯定の言葉を帰そうとした私の脳天に、鋭い衝撃が走る。何度か覚えのあるそれは、メイドさんによる加減された愛の手刀だった。
「嫌な予感がして戻って来てみれば。何を詐欺師まがいの方法に流されそうになっているのですか、この阿呆お嬢様は」
「な、阿呆ですって?!」
「阿呆です。馬鹿です。どうしてこう、いつもいつも。あなたは自分というものを大切にしないのですか。と言っても聞かないのでしたね……」
呆れを通り越して諦めの口調で言ったメイドさん。でも、私よりも他人の幸せの方が重要だし、それ以上に“死滅神”としての使命の方が重要だもの。私なんて、所詮、代々続く死滅神の1人でしかない。
それに今回はただ、私に備わっている女性的身体機能を使って実験をするだけ。それの何がいけないのか。むくれる私に、嘆息したメイドさん。
「いいですか? もし子供が生まれたとして、誰が育てるのです?」
「それは
「でしょうね。ですが、お嬢様の方はどうですか? 森で拾ってきたサクラ様の面倒すら見れず、あまつさえ面倒を見られることの方が多いというのに。そのうえ子供? 笑わせないで下さい。間違いなく、子供が不幸になります」
サクラさんを愛玩動物のように扱っていることについては後で訂正するとして。ひどく、論理的なメイドさんの説明だった。そして私も、そうだと納得する。実験がもし上手く行ってしまったら、この世に新しい命が誕生することになる。私が親である以上、その子供を幸せにすることは義務だ。
でも、今の私には、子供を幸せにできるだけの余力がない。
――命を、大切にできない……。
どうやら私は、目先の好奇心だけで迂闊な行動をしようとしていたらしい。危うく、命をないがしろにするところだった。
「それと。誤解が出来る発言を誘導したのは、ユリュです。また、あえて誤解をしているのも、ユリュです。絶対に、お嬢様は謝らないで下さい」
「だ、だけど……」
「『でも』も『だけど』もありません。良いですか、
油断も隙もありません。そう言って、メイドさんは私の腕の中に納まっているユリュさんを見下ろす。
「まったく。どこまでが計算で、どこまでが素なのか……」
「えへへ。死滅神様、大好きです!」
無垢な笑顔を浮かべて私の胸に頬ずりするユリュさんの読めない言動に、わたしもメイドさんも
――絶対に、ユリュさんの
そのことだけは、胸に刻みつけた。
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