●タントヘ大陸にて
○ナイフを持った襲撃者……?
その日もリアさんと一緒に朝食を済ませて、さてこれから何をしようかという時。鍵を開けっ放しにしてある邸宅の玄関のドアが開く、微かな音と振動があった。
基本的に、死滅神の邸宅に近づくような勇気のある人物はいない。お手伝いさん達は専用の勝手口から出入りするから玄関を使うこともない。ということは……。
――メイドさんとサクラさんが予定を繰り上げて帰って来たんだわ!
駆け足になりそうな足取りを慎重に、優雅に進めながら居間から玄関へと向かう。淑女たるもの、いついかなる時もおしとやかに、よね。……今更って言ったのは誰? 大切なのはこれまでじゃなくて、これから。そうでしょう?
「ふっふふん、ふっふふん、ふんふんふん♪」
5日ぶりに見る2人の顔を楽しみにしながら玄関へと続く廊下に向かうと、ちょうど閉まり始めた扉の前に小さな人影あった。逆光のおかげで、詳細な姿は分からない。だけど、私よりも低い身長だから、メイドさん達ではない。
――迷子かしら?
「えぇっと、おはよう。どなたか分からないけれど、ここは死滅神とその関係者しか入れない場所で……」
家主として、ひとまず事情を聞こう。そう思って近づいた私の視界にふと、きらりと光る物が映った。来訪してきた子供の左手で光るそれは、
「ナイフ……?!」
「死滅神様!」
気付いた瞬間、子供がナイフを手に飛びかかって来る。……ああ、なるほど。ついに“その時”が来たのね。メイドさんとサクラさんがおらず、食後のポトトがちょうどお昼寝をしている時。まさに、私が最も無防備になる瞬間を狙った襲撃だった。
もちろん、私に抵抗の意思はない。よく、見ただけで人を殺せると言われる死滅神の前に立ったわ。その最大限の勇気と、そこまでして私を殺しに来たその恨みを
「来なさい、私が死滅神スカーレット――」
「きゃぅ?!」
可愛らしい声とバチンという痛そうな音を上げながら、女の子は前のめりにすっ転んだ。その拍子に、左手に持っていたナイフが私の足元まで転がって来る。それだけでは無くて、黒く艶やかな手のひら大の球体も転がって来て、私の足にコテンと当たったのだった。
と、廊下の魔石灯に照らされた子供の姿がようやく私にも見える。短く切られた紺色の髪からのぞく耳から生えた青いヒレ。白いワンピースからのぞく、ヒレと同じ色合いの尾びれ。
「えぇっと……。何をしているの、ユリュさん?」
「はっ?! し、死滅神様! お見苦しい所を……」
ヒレをしなやかに湾曲させながらその場に座り直してワンピースの裾を整えた彼女は、メイドさん、カーファさんに次ぐ3人目の“死滅神の従者”ユリュさんだった。
ひとまず地上では動き辛そうな彼女を抱きかかえて、居間の隣にある食卓へと運んであげる。道中、「あぅあぅ」言いながら顔を真っ赤にして耳と一体化しているヒレをパタパタさせていたユリュさんを微笑ましく思いつつ、椅子に座らせる。そしてお手伝いさん達にお願いして、私たちの分の紅茶とお茶菓子を準備してもらうことにしたのだった。
「久しぶりね、ユリュさん。今日はどうしたの?」
優雅にお茶を待つ余裕を持つべきなのかも知れないけれど、緊急の用件の可能性もある。そんな判断のもと、食卓に戻った私は早速、ユリュさんとのお喋りを始めることにした。
「お、お久しぶりです、死滅神様。
椅子に座ってもじもじと肩を揺らしているユリュさん。同期するように揺れるのは、短い紺色の髪だ。同じ色合いをした瞳で上目遣いに私を見ながら、嬉しそうにはにかんでいる。時折、机の下からぺちぺちと聞こえてくるのは、彼女が鮮やかな青色をした尾びれで床を叩いているからでしょうね。耳の先端にある耳ヒレ(?)と同じで、ユリュさん自身の感情とある程度同期しているようだった。
「もちろんよ。これでも私、人の顔と名前を覚えることだけは、得意なの」
これまである程度言葉を交わして名前を交換し合った相手なら、恐らく全員分の顔と名前を一致させられる自信がある。あと、私がこの手で殺した人々の名前と人相、悪行もね。
「ところで『
「あっ、えと、
「あ」に「わ」。変わった一人称は、ニホン語由来のものなのか、フォルテンシア語にニホン語が混ざったのか、どっちなのかしら。それはそれとして、前回別れたときは打ち解けたと思ったのだけど、またかしこまった態度をされてしまっているのも気になるわね。
「っと、ごめんなさい、話が逸れてしまったわね。今日はどんな用件で来たの?」
「は、はいっ。実は……あれ、どこに……?」
緊張したように返事をした後、何かを探すような素振りを見せ始めたユリュさん。
「もしかして、これ?」
そう言って私が示して見せたのは、さっき玄関で転んだユリュさんが落とした2つの物――謎の黒い球体と、
「で、ですです! どちらも、
磨き上げた、という言葉でようやく、私はこの黒い球体の正体こそが
――きっと、ヒレ族にとって大切な物なのでしょう。
私がユリュさんに帰そうとすると、彼女は紺色の髪を大きく揺らして受け取りを拒否する。そして、皮膜の付いた両手を私の方に突き出すと、
「ど、どうぞ、お納めくださいっ!」
今日一番に勇気を振り絞った声で言ってくるのだった。……いまいち話が見えてこないけれど、とりあえず従者から
「……? わざわざこれを渡すために、タントヘ大陸から来てくれたの?」
「は、はい。その……両親に『待ってばかりだとヒレと
下を向いて腕を突き出した姿勢のまま、ここに来た理由を一生懸命話してくれる。他の人に取られるということは、ナイフはともかく、貝玉はかなり貴重な物なのでしょう。
まぁいずれにしても。主人として、従者からの贈り物は例えどんなものであっても、受け取る度量は見せないとね。それが、上に立つ者としての使命であるはずよ。
「ふふっ、ありがとう! 大切にするわね?」
私が受け取りの証として、ナイフと貝玉をそれぞれ持った両手を引っ込めてみせると、ユリュさんもようやく顔を上げてくれる。その顔には、驚愕と感動と歓喜と……とにかく、はち切れんばかりの感情が満ちていた。
「改めて、これからよろしくお願いします、死滅神様!」
「ええ、よろしくね、ユリュさん!」
私とユリュさんの挨拶の間にあった決定的な認識のずれに気付いたのは、この日の夜のことになる。
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