○side:??? ジィエルにて

 クシに買われた、あの日。生まれて初めてシュンのみせから出たは、初めて空を見ました。手足を拘束され、他の荷物と同じように荷馬車に放り込まれて夜道を進むクシの馬車。大きく跳ねてシロの身体が馬車からこぼれ落ちると、クシはシロを面倒くさそうに拾い上げます。かなりの速度が出ていた馬車から受け身も取れずに転がったので、体のあちこちを骨折しました。


「手枷を外してあげます。次からは落ちないように、荷台に掴まっていてください」

「……はい」


 特段、手当てをするわけでもなく、クシは再び馬車を走らせ続けます。どこに向かうのか。クシが誰なのか。シロは知らないし、知る必要もありません。彼がシロを求める限り、シロは彼に答え続けるのです。


「……っ」


 馬車が揺れるたびに、折れてしまっている腕や胸が痛みます。呼吸も苦しくなってきました。それでもクシが痛がることを求めない限り、シロは我慢を続けます。なんて不便な身体でしょうか。心と同じで、痛みも無くなってしまえばいいのに。なかなかうまく奉仕できない自分自身を、シロは情けなく思いました。

 少しずつ、少しずつ、意識が遠のいていって。


「ごふっ……」


 口から血を吹き出してしまった頃。ようやく異変に気が付いたらしいクシが、シュンから買ったポーションを飲ませてくれます。すると、瞬く間に痛みと息苦しさがなくなりました。


「くそっ。あと、9本か……。っと、つい言葉遣いが。奴隷? 死ぬ直前にはきちんと『死ぬ』と言ってくださいね。せめてこのポーションがなくなるまでは、あなたで楽しまなければならないので」

「はい」


 悔しそうに言っているクシには、シロは申し訳ない気持ちで一杯です。手間をかけさせて、ごめんなさい。


 ――でもこれで、またご奉仕できます。


 そう思って馬車の荷台から改めて見上げた朝焼けに染まる空は、驚くほどにきれいで。これからクシの下で新しく始まるシロ……ドレイの生活をお祝いしてくれているようでした。




 ドレイの持ち主が、チョチョに変わってしばらく経った頃。今日もドレイに散歩をするように、チョチョは言いました。男性は、ドレイの身体で遊ぶことがほとんどです。散歩をしている時も、よく知らない男性が家や宿に迎えてくれては、ドレイの身体で遊んでいきます。

 ですがチョチョは、ドレイの身体を求めてきません。彼にはどうやらつがい……奥様が居るらしく、奥様の世話で手一杯のようでした。ドレイはきちんと、ご奉仕できているのでしょうか? そう思って夜伽よとぎをしに行っても、


「そういうのは風俗で良い。これからお前を殺そうとしている俺がお前に手を出すのは、申し訳ないからな」


 と、断られてしまいました。


「誰でもいいならドレイを使ってください」


 そう言っても、チョチョはかたくなに、ドレイの身体で遊ぶことはありませんでした。……もやもやです。

 そんな日々が続いたある日。その日もドレイは言われた通り散歩をしていました。すると、ドレイが密かに気に入っている花屋さんの前に、ぐったりした黒キャルさんを見つけました。

 動物さんたちは、基本的にドレイに優しくしてくれます。ドレイも、動物さんたちには優しく接することにしていました。何か手伝えるごほうしすることがないか。早速、声をかけます。


「こんにちは、黒キャルさん。どうしましたか?」

『ナ゛ァォ……(あっちへ行け……)』

「……?」


 突き放すような言い方が、妙に引っかかりました。どうしたのでしょうか? 怪我をしているようには見えません。となると、弱っている原因は病気だということになります。


「何かの病気ですか?」


 ドレイが改めて聞いてみると、黒キャルさんは細かった瞳孔を丸くしてドレイを見た後、どこか諦めたように話し始めました。


『少し前からか。『体力』の減りが止まらなくなったんだ』


 ドレイには、分かります。きっとこの黒キャルさんは、ドレイを必要としていると。チョチョの代わりでは無いですが、ドレイが黒キャルさんにご奉仕してみせます。

 話を聞けば、この黒キャルさんは12歳のおじいさんでした。餌をくれる飼い主のもと、自由気ままに生きて来たようです。家に閉じ込められるキャルさんも多い中、黒キャルさんの飼い主は自由に散歩もさせてくれたそうです。すると、この町の人たちはキャルに優しいので、おやつをくれることもよくあったそうでした。


『おかげで、こうして生きて来られたんだが……』


 そこで黒キャルさんは、声の調子を落とします。


『1年前あたりか。弱った鳥が居たから、久しぶりに狩りをしてみたんだ。老体とは言え、俺はキャルだ。狩人だ。まだいける。そう思って鳥を狩ってみれば、運悪く病気をもらってしまった……』


 その病気が厄介で、黒キャルさんの『体力』? というものがゆっくりと減り始めたようです。


『しかも、そこらの老いぼれキャルと同じで、短気になってしまってな……。よく俺におやつをくれたお嬢さんがある日、俺の苦手な野菜入りのお菓子を渡してきたことがあったんだ。今思えば俺の身体を気遣ってくれたんだろうが……』


 おやつをくれたその女性を引っ搔いてしまったみたいです。以降、その女性が黒キャルさんの前に現れることは無かったそうです。女性は、黒キャルさんが小さい頃からよく面倒を見てくれていたそうでした。後悔しているのだと、黒キャルさんは言います。


『何度もこうしてここに来てしまうのも、あのお嬢さんに一言詫びたいからかも知れないな』


 黒キャルさんは、この花屋の近くで女性から餌を貰っていたようです。黒キャルさんは、その女性の家が近くにあると考えたみたいでした。


『最近は、ますます短気になってしまっている。見かけるもの全てにイライラしてな。だから、ついこの間か。大好きな飼い主に迷惑をかけないよう、逃げて来たってわけだな』


 身体を動かすのも億劫だと言わんばかりに、黒キャルさんは大きなあくびをしました。


「……? ですが黒キャルさんはドレイを引っ掻いてはいません。短気ではありません」

『そう言えば、そうだな。俺も不思議だ。お前さんといると、心が安らぐ。こんなに話したのも、いつ以来か……』


 そう言ってどこか遠くを見る黒キャルさんの顔は、あの日。シュンが見せた寂しそうな顔と同じです。


『病気のせいで、9本あった自慢の尻尾ももうこの1本だけだ。俺ももうすぐ、死滅神のお迎えが来るんだろうな』


 死滅神、というのは聞いたことがあります。シュンのみせに居た時、フォルテンシアで生まれた人たちが怖がるように、何度も口にしていました。「死滅神が来る」と。

 死滅神が表すものが、死であることは知っています。そして死は、生き物がもう二度と動かなくなることであることも知っています。……黒キャルさんは、このまま飼い主と離れ離れでも良いのでしょうか?


「おうちに、帰らないのですか?」

『……そうだな。せめて最期くらいは、お礼を言うべきなのかもしれない。だが、帰りたくても帰り道が分からない』

「なるほど。迷子になってしまったのですね?」

『情けない……』


 出来るなら、黒キャルさんが家に帰るお手伝いをしてあげたい。ですが、ドレイはあまりこの町のことを知りません。よく男性と遊ぶ宿屋と、チョチョの家の周りくらいなら知っていますが……。

 ドレイが、どうやって黒キャルさんにご奉仕できるかを考えていた時でした。


「捕まえた!」

『なんだ?!』

「今度こそ逃がさない……って、きゃぁ!」

「……っ?!」


 1人の女の子が、弱っている黒キャルさんを無理やり捕まえた姿勢のままドレイに向かって倒れこんできました。

 すぐに謝って、自己紹介をした女の子。


「立てる? あなた、名前は? 私はスカーレット」


 そう言ってドレイに小さな手を差し伸べてきた女の子の瞳は、あの日。ドレイが見た朝焼けとよく似た、輝きに満ちた赤色をしていました。

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