第6話 師範学校を経て教員へ

石川県に戻ってきた武は、一中(現・泉丘高校)に通うことになった。そして翌年の二月に卒業となった。中にはもう一年通い翌年卒業を迎える者もいたが、『師範学校でも行けや。』と言う旧友の一言もあり、もぬけの殻状態だった武は、石川青年師範学校へ素直に入学を決めた。

戦前からある師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないだけでなく、生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割も果たしていた。貧乏な次男坊として育っていた武は、家庭事情も考慮し、師範学校への進路を選択したのだった。

兵隊に男がほとんど出征していた時代なので、教員が足りず二年間で教壇に立つことになった。そのため武は教頭、校長にはなれなかった。師範学校は今で言うと、短期大学卒業という扱いを受けたからだ。

石川青年師範学校を卒業後、新採用は大根布小学校で、その後は医王山小中学校に異動となった。大根布の年配の人達は今でも、武のことを覚えているという。時折、軍人時代の服装をしていたことも印象に残る要因にもなっただろうが、放課後よく運動場を走っていたことや、子ども達を残し、裁縫室でソロバンや習字を親身に教えていたことも大きいだろう。

武が宿直の時には、教え子や村の青年達がいつも学校に集まってきた。夢や希望を持つ事の大切さを山奥の貧しい寒村の子ども達にいつも語っていた武は、子ども達から尊敬され、憧れられていた。

しかし校長や教育委員会からは敬遠され、福畠・内川小学校など当時の僻地校を盥回しにされた。理想主義的な武の考え方が嫌がられる原因だったと話す教え子も多いが、保守的な土地柄において、上司に従順ではなく、主体的に行動する姿や、弁論大会に出場し、批判をものともせず、自身の主張を展開する姿なども目に付いたと思われる。

終戦記念日になると、特攻攻撃で出撃していった仲間達と会うために、欠かさず靖国神社へお参りしていた。

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